違星北斗年譜  ver.7.3.0 (「日記昭和2年問題」対応/全短歌俳句掲載版/病気情報/分割)  Last up date:2012/11/4 (C)違星北斗研究会

凡例 《》 95年版『コタン』年譜より
赤字 雑誌掲載・書籍発行
青字 関連する出来事
緑字 作成・発表された北斗の短歌・俳句 「●」初出  「※」再録・改変 「○」制作日時が推定できるもの
_  昭和2年の日記とされるが、他の資料との前後関係や曜日などから、大正15年の出来事ではないかと思われる記述
_
闘病期間
_ 信憑性が低い情報・根拠に乏しいと思われる情報

 

1 幼少年期 (誕生から小学校卒業まで)

→北斗誕生以前 幼少年期 青年期 東京時代 幌別・平取時代 余市時代 行商期 闘病期 北斗没後

西暦(和暦) 年齢
(数え)
月日 時期 場所 出来事 備考・掲載通信関連する出来事
1901
(M34)
0
(1)
年末?
幼年期

余市 違星滝次郎(竹次郎、北斗)生まれる。

※84年版『コタン』以降は、1902(明治35)年1月1日が誕生日になっているが、1930版『コタン』によれば、1901(明治34)年を誕生年としている。1902年1月1日は戸籍上の誕生日で、実際には前年に生まれていた可能性が高い。→年表について

※北斗をよく知るトキという親戚の女性によると「十二月の暮れも明けた頃」であったという。(「違星北斗の歌と生涯」 早川勝美)

1902
(M35)
0
(2)
1/1
(火)
《一月一日、北斗(本名瀧次郎)、父甚作(文久二年一二月一五日生)と母ハル(明治四年九月生)の間の三男として、余市郡余市町大字大川町に生まれる。父は漁業を営んでいた。兄二人、姉一人、妹一人、弟三人が生まれたが、長兄を除き北斗を含め七人が夭逝している。祖父万次郎はアイヌ最初の留学生として東京芝増上寺に留学し、のちに北海道開拓使雇員となった。》(95年版『コタン』年譜)
1/9
(水)
1月1日生まれとして、役場に出生を届け出る。(『放浪の歌人・違星北斗』武井静夫)

※北斗の本名は本来「竹次郎」であるが、戸籍を届ける際に、代書人に口頭で「タケジロウ」と言ったところ、訛りによって「タキジロウ」と聞き取られてしまい、「滝次郎」となってしまったという。(『アイヌの歌人』について」古田謙二)

2/23 森竹竹市、白老に生まれる。

この頃 - - 四男竹蔵(九日で死亡)、三女ツ子(ネ)、五男松雄(四カ月で死亡)、六男竹雄が生まれる。

1903年10/25 中里篤治、余市に生まれる。
※中里篤治の父徳太郎は北斗の父甚作の弟。篤治と北斗は、いとこにあたる。

1903年6月8日 知里幸恵、幌別(登別)に生まれる。

1908
(M41)
6
(8)
4/1
(水)
少年期

《尋常小学校に入学。担任の奈良直彌先生に愛され、終生指導と影響を受ける。》(95年版『コタン』年譜)

※入学したのは「大川尋常小学校」

小学校1年生。 

「生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育った」「八つで小学校にあがって、他の子供から」いじめられるようになり、自らがアイヌであるということを意識するようになった。(「あいぬの話」金田一京助)

「母は夙に学間の必要を感じて、家が貧乏であつたにも拘らず、私を和人(シャモ)の小学校に入れました。この時全校の児童中にアイヌの子供は三四名しか居ませんでした」「学校にいかないうちは、餓鬼大将であつて、和人の子供などをいぢめて得意になつてゐた私は、学校へいつてから急にいくぢなしになつて了ひました。」(伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)

「私の学校時代は泣かない非が無いと云ふ様な惨めな逆境にあつた」「学校は余り嫌いな方ではなかつたから多くの倭人の中に混りて勉強しましたが鉛筆一本も石筆一本も皆外の学生の様に楽々と求められない家庭なのでした。読本などはたいてい古いので間に合せました」(「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)

2/24 知里真志保、幌別(登別)に生まれる。

この頃 父・甚作、桜井弥助とともに若者に教えるために熊取りを行う。この際、熊と素手で格闘し、負傷する。(「熊の話」)

1909
(M42)
7
(9)
3/23
(火)
1年生 修了  ※修身「甲」、国語「甲」、算術「乙」、唱歌「甲」、体操「甲」、操行「乙」、欠席2(事故)、身長111.0cm、体重18,8kg。
4 小学校2年生に進級  ※母ハルが亡くなった年を、北斗は「僕が二年生の時にあの世の人となつたのでした」と「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」に書いているが、5年生の時とする資料もある。
このころ このころ大病を得る。(「放浪の歌人・違星北斗」武井静夫) -
1910
(M43)
8
(10)
3/23
(水)
2年生 修了  ※修身「甲」、国語「甲」、算術「乙」、図画「甲」、唱歌「甲」、体操「乙」、操行「甲」、欠席58日(57日(病気)、1日(事故))、身長115.5cm、体重20.7kg
4 小学校3年生に進級 -
1911
(M44)
9
(11)
3/24
(金)
3年生 修了 ※修身「乙」、国語「甲」、算術「甲」、図画「乙」、唱歌「乙」、体操「乙」、手工「乙」、操行「乙」、欠席6日(事故)、身長121.0cm、体重22.5kg
4 小学校4年生に進級  -
1912
(T1)
10
(12)
3/23
(土)
4年生 修了  ※修身「乙」、国語「乙」、算術「甲」、図画「乙」、唱歌「乙」、体操「甲」、手工「乙」、操行「乙」、欠席17日(事故)、身長124.0cm、体重24.9kg
4 小学校5年生に進級  11/11母ハル、41歳で死亡。(「放浪の歌人・違星北斗」早川勝美)
1913
(T2)
11
(13)
3/24
(月)
5年生 修了  ※修身「乙」、国語「乙」、算術「乙」、日本歴史「乙」、地理「乙」、理科「乙」、図画「乙」、唱歌「乙」、体操「乙」、手工「乙」、操行「乙」、欠席41日(事故)、身長4.18尺、体重7.600貫
4 小学校6年生に進級 -
1914
(T3)
12
(14)
3/24
(火)
6年生修了  ※修身「乙」、国語「乙」、算術「甲」、日本歴史「乙」、地理「乙」、理科「乙」、図画「乙」、唱歌「乙」、体操「乙」、手工「乙」、操行「乙」、欠席23日(事故)、身長4.48尺、体重7.550貫
4/10 西川光次郎、修養雑誌『自働道話』を創刊。
《尋常小学校を卒業。》(95年版『コタン』年譜)

※「迫害に堪へ兼ねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によつて、六ケ年間の苦しい学校生活に堪へることが出来ました。」(伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)

2 青年期 (小学校卒業後、上京まで)

西暦(和暦) 年齢
(数え)
月日 時期 場所 出来事 備考・掲載通信関連する出来事
1916
(T5)
14
(16)
この頃 青年期 余市

小学校卒業後は、家業の漁業を手伝ったと思われる。

「もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。地引網と鰊とを米櫃としてゐた父の手伝へをして」(伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)

「尋常高等科の方にはとても入校する勇気は無かつたのです。そして父と共に地引あみと鰊を米びつとする漁夫になつたのであります」(「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)

※「余市復命書」に違星滝次郎 職業・漁業とある。
1917
(T6)
15
(17)
この頃 登川 《夕張線登川付近に木材人夫として出稼ぎ。》(95年版『コタン』年譜) ※現在の夕張市登川
1918
(T7)
16
(18)
この頃 大誉地 《網走線大誉地に出稼ぎ、病気になる。》(95年版『コタン』年譜) ※現在の足寄町大誉地。

余市

「重病をして思想方面に興味を持つ様になる」(「淋しい元気」)

北海タイムスに載った二首を見て、和人に対しての反逆心を燃やす。(「淋しい元気」)

「どうも日本て云ふ国家は無理だ。我々の生活の安定をうばいをいてそしてアイヌアイヌと馬鹿にする。正直者でも神様はみて下さらない『日本は偉い大和魂いの国民』と信してゐたのは虚偽である。人類愛の欠けた野蛮なのはシヤモの正体ではなからうか(中略) 新聞や雑誌はアイヌの事を知りもせで知つたふり記事を書きならべイヤが上にもアイヌを精神的に収縮さしてしまつた。これではいかぬ大いに覚醒してこの恥辱を雪がねばならぬ。にくむ可きシヤモ今に見てゐれ!と日夜考いに更けてゐた」(「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」)

この頃、後藤静香「希望社」を創設し、修養雑誌『希望』を発行。

夏、金田一京助、近文で知里幸恵と出会う。

この父・甚作、「ナヨシ村の熊征伐」に参加。(「熊の話」)

1919
(T8)
17
(19)

この頃 石狩 《石狩の鰊漁場》出稼ぎ。(95年版『コタン』年譜) -
登村 《登村の芝刈りに出稼ぎ。》(95年版『コタン』年譜) ※現在の余市町登町
- - ジョン・バチラー、アイヌ伝道団創立。機関誌『ウタリグス』を発行。
1920
(T9)
18
(20)
この頃 余市 《畑を借りて茄子等を作るが、病気再発する。(95年版『コタン』年譜) 9/19 知里幸恵、東京の金田一のもとで死亡。

秋 山岸礼三医師が余市に移住し、以後北斗は山岸宅をよく訪れ親交を結ぶ。

余市 余市川に投網していて、西瓜大の土器がかかる。
(のちにそれを山岸礼三医師に贈り、山岸のコレクションの第一号となる)。
1921
(T10)
19
(21)
この頃 轟鉱山 《轟鉱山に出稼ぎ。》(95年版『コタン』年譜)

※轟鉱山は余市の鉱山。

※北斗は21歳(数え年)、満19歳の頃、轟鉱山に潜伏中の一青年に社会主義の手ほどきを受けたと、湯本喜作は『留年の記』でいう。真偽は不明。
1922
(T11)
20
(22)
この頃 余市 《徴兵検査で甲種合格する。》(95年版『コタン』年譜)

※会合で小学校の校長島田氏より言われた思いやりの言葉によって、それまでに持っていた和人への憎悪が消え失せ、一転して、北斗はアイヌの地位向上を志すようになる。
 この模様は「目覚めつつあるアイヌ種族」(伊波普猷)、「慰めなき悲み」(金田一京助)などに描かれ、自らも「淋しい元気」(『新短歌時代』昭和3年1月号)で書いた。また「落葉」(古田謙二)にも、その直後の北斗の姿が描かれている。

この頃までに、思想上の「転換期」を迎える。(正確な時期は不明)。
この頃までに、地元の余市大川青年団に参加。修養運動に興味を持つ。
1923
(T12)
21
(23)
この頃 朝里 《朝里等に落葉松伐採に従事、病気になる。》(95年版『コタン』年譜) ※朝里は現・小樽市朝里
余市 急性肺炎にかかり、重患であったものの、山岸病院に入院、山岸礼三の治療を受け、平癒する。
※元気になった北斗は、治療の謝礼として大正9年に余市川に投網して得た西瓜大の土器を山岸に贈る。喜んだ山岸は祝宴を催す。(『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』山岸玄津(礼三))

※山岸礼三は、アイヌからはお金をとらなかったという。

7 旭川 《七月、旭川輜重輸卒として入隊》(95年版『コタン』年譜)
※輜重兵とは、輸送などの後方支援を任務とする兵士。
8 《八月除隊》(95年版『コタン』年譜)

※病気除隊と思われる。(「あけゆく後志羊蹄」年譜)

8月、知里幸恵著『アイヌ神謡集』出版される。
この頃 余市 《上京する予定が、関東大震災のため中止。》(95年版『コタン』年譜) -
1924
(T13)
22
(24)
この頃 沿海州  《沿海州に出稼ぎ。》(95年版『コタン』年譜) 

※沿海州とは、ロシアの日本海側の地域で、日本は日露戦争の勝利で南樺太の領有権とともに、沿海州の漁業権を得た。父・甚作が毎年、沿海州・樺太に熊取りに行っていたため、余市コタンの人々と樺太アイヌの人々との人的・経済的な交流があったようで、出稼ぎにも行っていたようである。

1 余市 余市小学校の裁縫室を会場として、「青年合同宿泊講習会」が道庁主催で開かれる。最終日の3日目、感想発表会にて北斗が発表し、アイヌの現状について演説し満場の拍手を受ける。それまで、古田は北斗をしらなかったが、この発表を機会に、古田は北斗に注目し始めることになる。(「『アイヌの歌人』について」古田謙二) ※「涙血」(阿部忍)では、1月の中旬、同じく裁縫室にて、小樽新聞社主催の「一夜講習会」となっており、道庁の社会教育部長宮城仲助があたっており、修養団の幹部が講師になる習わしであった、とある。
この頃

《余市の同族中里篤治とともにアイヌ青年の修養会たる「茶話笑学会」をつく》る。(95年版『コタン』年譜)

※95年版『コタン』年表には、「昭和2年」に「茶話笑学会」結成となっているが、自働道話T14年2月号に「茶話誌」という記事があり、会のことが記されている他、伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」にも上京時に北斗が「茶話誌」を持参し、東京アイヌ学会で伊波普猷に見せたという記述があるので、『コタン』年表の「茶話笑学会」の昭和2年結成は間違い。 

※『コタン』では茶話笑「学」会という記述になっているが、茶話笑「楽」会となっているものも多く、顧問だった古田謙二も「笑い楽しみながら話をする会」という意味で、「楽」だといっている。笑楽会は中里篤治の家で行われた。

※「茶話笑楽会」の創立は、NHKラジオドラマ台本『光りを掲げた人・違星北斗』では大正13年1月26日に、『泣血』でも、「一夜講習会」があった月の26日、摂政宮(皇太子・後の昭和天皇)の成婚日と同じ日となっている。どちらもフィクションであるのが、一致しているところから、事実を反映している可能性がある。

この頃 『茶話誌』創刊号に「アイヌとして 青年諸君に告ぐ」を発表。

※「茶話誌」は奈良先生が西川光次郎に宛てた手紙(大正13年12月)によれば、大正13年末までに第2号を出しており、北斗は大正14年1月に第3号を出したいと希望を持っていたという。

この頃 奈良直弥(号・如翁)、小保内桂泉らの属している余市の俳句グループに属する。

※小保内の経営する旅館で句会が開かれ、北斗はこれに参加することによって、「にひはり」に他のメンバーの作品とともに、北斗の俳句が掲載されることとなった。

2月 掲載『にひはり』大正13年2月号 俳句

●塞翁が馬にもあはで年暮れぬ

3月 掲載『にひはり』大正13年3月号 俳句

●電燈が消えても春の夜なりけり

4月 掲載にひはり』大正13年4月号 俳句

●日永さや背削り鰊の風かはき

5月 掲載『自働道話』大正13年5月号 「手紙の中から」

2月頃?

奈良直弥にすすめられ、修養雑誌『自働道話』の購読を始める。

この頃 祖父万次郎死亡。

(『我が家名』「私の祖父万次郎は四年前に死亡したが」より逆算)

この頃? 北斗をよく知るというトキさんというおばあさんによると、北斗は出稼ぎに来ていた樺太出身の女性と一緒に暮らし、女児(トモヨ)を設けた。籍は入れていないという。女性は子供を産んで20日ほどで余市を去ったという。(「早川通信」早川勝美)

※具体的な時期は不明だが、大正14年以降はあり得ないだろう。

8/19
(火)
西川光次郎巡講。朝、北斗宅を訪ねる。北斗は「宝物」を西川に見せている。夕方、北斗は奈良とともに西川を停車場まで送っている。(『自働道話』大正13年10月「樺太、北海道巡講記」)

9月 掲載『にひはり』大正13年9月号 俳句

●夜長さや電燈下る蜘の糸
●コスモスヤ恋ありし人の歌思ふ

9/21
(日)
「にひはり」の主筆、勝峰晋風を迎えての句会が、余市の小保内桂泉氏の経営する旅館で行われ、北斗も奈良如翁(直弥)とともに、参加する。18時より始まり、夜中の2時まで続く。

○落林檎石の音して転けり
(凍林檎石の音してころげけり)

※この時の模様は、『にひはり』11月号および小樽新聞9月27日の勝峰晋風の「余市より」という記事に掲載された。

11月 掲載『にひはり』大正13年11月号 俳句

●かさこそと落葉淋しく吹かれ鳧(けり)
●乾鮭や残留の漁夫の思はれつ

※95年版『コタン』に掲載されているこの二句は、『にひはり』大正13年11月号では確認できなかった。

この頃 余市にひはり句会に出席。

○いとし子の成長足袋に見ゆる哉 
○ぬかる道足袋うらめしう見て過ぎぬ 

※「いとし子」の句は、子供の成長を喜ぶ俳句ともとれる。娘のことを読んだのではないだろうか。
12

「真面目な青年はいないか」という東京府市場協会の高見沢清の相談を受け、西川光次郎は大阪の額田真一とともに北斗を推薦し、北斗の上京が叶うこととなる。

※『自働道話』(大正14年2月号)掲載の奈良直弥の西川光次郎への手紙によると、西川からの東京への就職の話は、奈良宅を訪れた北斗が、奈良を通じて聞いたようだ。

11月 掲載『にひはり』大正13年11月号 俳句

●落林檎石の音して転けり
※凍林檎石の音してころげけり

11月 掲載『自働道話』大正13年11月号「手紙の中から」

●外つ国の花に酔ふ人多きこそ/菊や桜に申しわけなき

1925
(T14)
23
(25) 
1 余市 余市にひはり句会に出席。

○畑打やキャベツの根から出し若葉

1月 掲載『にひはり』大正14年1月号 俳句

●いとし子の成長足袋に見ゆる哉 
●ぬかる道足袋うらめしう見て過ぎぬ 

3 東京時代 

西暦(和暦) 年齢
(数え)
月日 時期 場所 出来事 備考・掲載通信関連する出来事
23
(25) 
1925
(T14)
2 東京時代 東京

《西川光次郎、高見沢清両氏を頼って上京、その世話で東京府市場協会事務員に就職。金田一京助、後藤静香、伊波普猷各氏の知遇を受ける》。

※東京府市場協会は東京市四谷区三光町、今の新宿5丁目の新宿ゴールデン街や花園神社の界隈。

北斗が上京当時、東京で居住したのは、淀橋区角筈(現・新宿区西新宿)の高見沢清宅である(T14/3/12付金田一宛ハガキ)。東京時代を通じてここに住んだかどうかは分からない。フィクションである阿部忍「泣血」には、市場協会の事務所の二階に住んでいるような描写があるが、これも確証はない。

2/15
(日)
東京 北斗が上京をしたのは2/15であるという。(S3/6/20金田一京助宛手紙) -
2/18頃 阿佐ヶ谷 同時に採用された大阪の額田真一とともに『自働道話』の編集を手伝う。(『自働道話』大正14年3月「校正を終へて」 西川文子)

※北斗は、上京に際して北海道の余市から東京の阿佐ヶ谷まで、牛乳一合を買ったのみで、弁当を一度も買わずに来たという。

2月 掲載『にひはり』大正14年2月号 俳句

●魚洗ふ手真赤なり冬の水
2月末か3月初め頃 成宗 杉並町成宗(現・杉並区成田)の金田一京助宅を訪問し、夜中まで熱心に会談する。

※北斗は金田一から著書『アイヌ研究』をもらい、感激する。

※北斗は東京には知り合いもいなかったが、金田一京助に会うということを、一つの目的としていたという。成宗の多くの家々をめぐり、田んぼに落ちてどろどろになったりしながら、夜になってようやく見つけたという。(金田一京助「違星青年」他)

※その後、頻繁に金田一を訪ねた。(T3/6/20金田一京助宛手紙)

※「それ以来、私は、労働服の違星青年の姿を、学会に、講演会に、ありとある所に見受けるようになった」(金田一京助「違星青年」)

※北斗は金田一京助によく石川啄木の事を聞いた。常軌を逸した啄木の行動に耐え、暖かく遇した金田一の人間性を敬い、また「啄木の短歌は率直で好きだ」と言っていたという。(古田謙二「アイヌの歌人について」)

3/15
(日)
成宗 金田一宅へ二度目の訪問を行ったと思われる。(T14/3/12付金田一宛ハガキ) T14/3/12(木) 北斗→金田一京助宛ハガキ(初めて訪問した時のお礼と次回の訪問のお願い)
この頃 - 《金田一京助から『アイヌ神謡集』を遺して逝った知里幸恵のことを聴いた》 ※おそらく、初対面の時に聞いたのではないだろうか。
3/19
(木)
永楽町 《第二回東京アイヌ学会で講話する。》

※場所は永楽町(現・大手町)永楽倶楽部。この時の内容は「ウタリ・グスの先覚者中里徳太郎を偲びて」と言うタイトルで北斗自身の手によって文字化され、『沖縄教育』誌に掲載されたという。

※このアイヌ学会で、伊波普猷や、当時博文館にいた中山太郎(民俗学)、岡村千秋(「アイヌ神謡集」を発行した郷土研究社の経営者)らと知り合う。松宮春一郎(世界文庫刊行会主宰)ともここで会ったか?

3/21
(土・祭)
新宿、高尾山 自働道話社遠足会高尾登山。(『自働道話』大正14年5月号「自働道話社遠足会」)
※北斗は集合に遅れて、新宿駅のホームを走り、ギリギリで列車に乗り込んでいる。
この頃 - バチラー八重子に《初めて手紙を書き、返事を受け取る。》

※金田一京助から、バチラー八重子の事を聞き、手紙を出す。「自分のことやアイヌ学会のことや、アイヌに対する同情者のことなどを書いて知らせたら、どうかウタリ・グスの為に自重して呉れとの熱烈な返事を貰ったといって感激して」いたという。(「目覚めつつあるアイヌ種族」伊波普猷)

※その後、八重子とは何度か手紙のやりとりがあったようだ。
4月頃? 小石川 伊波普猷を二度訪ね、「茶話誌」「ウタリグス」見せる。伊波に「古琉球」をもらう。伊波普猷はその体験をもとに5/1に「目覚めつつあるアイヌ種族」を書く。

※北斗が伊波普猷に会った時、すでに短歌や川柳を作っていたという記述があるので、北斗がバチラー八重子の影響を受けて短歌を作るようになったというのは誤りである。

4月 掲載『にひはり』(大正14年4月号)俳句
●畑打やキャベツの根から出し若葉

※95年版『コタン』によると、上の句は『にひはり』昭和2年の4月号掲載となっているが、これは大正14年の4月号の間違いであり、大正14年1月に開かれた「余市にひはり句会一月例会」で詠まれたものである。
この頃 牛込区中里? にいはり句会に出席。 ※「東京アイヌ学会」で知名の士から「よき書を」してもらった記念の「まくり」を持参する。3/19に書いてもらったものだろうか。
6/8
(月)
牛込区中里? にひはり句会で「熊の話」をする ※上の「まくり」を持参した時と、「熊の話」をした時は、同じタイミングかどうかはわからない。
6/14
(日)
筑波山 自働道話社 筑波登山に参加。 ※北斗は男体山の頂上を究め、さらに女体山に登る。
7/6
(日)
- 『緑光土』 「大空」を書く。 ※『緑光土』は永井叔発行。「大空」は北斗に珍しい散文詩篇である。
8月? 東京 このころ「道話8月号」に載った「師表に立ツ人バ博士」を読み感銘を受ける(『自動道話』『子供の道話』8月号には該当する記事なし)。 7月 掲載 『にひはり』大正14年7月号「熊の話」俳句
●シャボン箱置いて団扇に親しめり
●寒月やとんがった氷柱きっらきら

8月 掲載『にひはり』(大正14年8月号)俳句

●夏の野となりてコタンの静かゝな
●熊の胆の煤けからびて榾あかり

8/16 掲載 永井叔『緑光土』に北斗の「大空」が掲載される。

9月 掲載 『にひはり』(大正14年9月号)俳句

●大熊に毒矢(ぶし)を向けて忍びけり
●新酒のオテナの神話(ゆうかり)きく夜かな

8月?
12月?
三保 静岡県三保の国柱会の「最勝閣」において、講習会に参加する。(夏か冬かは不明)。
※8月の場合、8月3日〜12日(十日間)
12月の場合は、12月27日〜翌年1月5日(十日間)
1926
(T15)
24
(26)
- - 大正14年の秋から大正15年の早春にかけての北斗の記録はみつかっていない。

※短歌によると東京時代の北斗は、「支那そば」「三好野」(甘味処)などの店を利用していたようだ。

3/5 釧路 釧路新聞3月5日号に「札幌より」欄にて、北斗が紹介される。

※幼少より和人を憎んでいたが、青年団活動によって人間愛に接することができた、現在は西川光次郎のもとで社会事業に従事している、といった内容で、記者が道庁の役人より北斗の歌の書かれたノートを送ってもらったという。詳しい経緯は不明。

5/27(水) 東京 金田一京助に連れられ柳田國男の「北方文明研究会」に出る。(「柳田先生の思い出」沢田四郎作) ※出席者は柳田、沢田、金田一の他、台湾帝大総長幣原坦、フィンランド大使ラムステッド博士、中道等、樋畑雪湖、松本信広、今和次郎、三淵忠彦、有賀喜左衛門、岡村千秋、谷川磐雄。
この頃 - 《アイヌとしての自己の地位に深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、北海道に帰る》決意をする。 

※95年版『コタン』の年表に北斗が北海道に戻ったのは「11月」とあるのは7月の間違いである。

6/30
(水)
四谷 北斗の辞職にともなって、四谷の三河屋で西川光次郎らと会食。(『自働道話』大正15年8月) ※四谷見附の三河屋は牛鍋の老舗店。
自宅 アイヌの一青年から」の手紙を書く。 ※この手紙は西川らと会食したのと同じ日に書いている。この「アイヌの一青年から」というのは、編集者が付けたタイトルであり、北斗が手紙につけたものではない。
この頃 本郷区新花町? 『医文学』関係者が、「アイヌ学会の人士やその他の人々」とともに送別会を開く。送別会には「琉球の某文学士」(伊波普猷)も出席。(「医文学T15年9月号) -
7/5
(月)
上野駅 北海道に向けて出発する。

「大正15年7月5日でした。上野駅より出発しましたのは」(『自働道話』昭和2年8月)
北斗は東京(上野駅)をあとにする際、列車に遅れそうになる。出立に際し、高見沢とその夫人、額田らが見送る。

※北斗は幌別に向かう途中で、青森をぶらついたり、室蘭を見たりしている。(T14/7/8金田一宛手紙)

4 幌別・平取時代 (幌別→平取→一時帰郷→平取→日高各地)

西暦(和暦) 年齢
(数え)
月日 時期 場所 出来事 備考・掲載通信関連する出来事
24
(26)
1926
(T15)
7/7
(水)

幌別
(登別)
幌別に到着する。

「7月の7日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした」(『自働道話』昭和2年8月)

※北斗は帰道後、すぐに平取に行ったのではなく、幌別のバチラー八重子の家(大日本聖公会教会)に向かい、しばらくはそこを拠点した。(『子供の道話』「第1信」大正15年9月号)

※北斗は、八重子に平取での寄宿先を紹介してくれるように頼んだ。北斗は、寄宿先には、アイヌの信仰を持っている家を希望している。(T15/7/8金田一宛手紙)

この頃 豊年健治(幌別のウタリだと思われる)らと会い、寄せ書きする。(「一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った」「日記」昭和3年2月29日)。

※T14/7/8付金田一への手紙で、すでに真志保と豊年と会ったと書いてあるので、7日か8日のことだろう。

この頃 知里真志保と会う。
この頃 知里幸恵の家を訪ねる。 ※知里家に行ったのと、真志保に会ったのは同時かどうかわからない。
7/8
(水)
金田一京助宛と、子供の道話(西川光次郎・文子)宛に手紙を書く。 T15/7/8付 北斗→金田一京助宛手紙 (東京でのお礼と、バチラー八重子に会った印象、真志保や豊年健治に会ったこと、自分の信念と信仰について、幌別教会の様子等。)

※「子供の道話」T15年9月号に掲載「第1信」。「昨日バチラー八重子様の家に着きました」とあり。

この頃?

北斗は幌別で知里真志保とバチラー八重子と3人で同宿し、短歌を詠んだ。

※「新聞でアイヌの記事を読む毎に/切に苦しき我が思かな」「深々と更け行く夜半は我はしも/ウタリー思ひてないてありけり」「ほろ/\と鳴く虫の音はウタリーを/思ひて泣ける我にしあらぬか」の3首(「北斗帖」収録)の短歌を詠んだ。これらの作品については、バチラー八重子が自分の作品であると主張している。
7/10
(土)
白老 白老で土人学校を訪ね、山本儀三郎校長と話す。北斗は「子供に何か話して下さい」と言われて困惑する。(『子供の道話』大正15年9月号)  ※白老土人学校は北斗の恩師奈良直弥先生が初代校長であった。

※この際、「コタンのシュバイツァー」と呼ばれた高橋房次医師の病院も尋ねていると思われる。

7/11
(日)
晴天
幌別 教会でバチラー八重子のアイヌ語の講話を聞き感銘を受ける。(『日記』)

※同日、日記と同じ内容を書いた「子供の道話」宛の手紙を書いている。T15年9月号に掲載。

※この教会での光景は、『子供の道話』掲載の北斗の手紙おおよび、金田一京助宛の手紙により、昭和2年平取教会ではなく大正15年幌別教会でのことであるとわかる。

※「子供の道話」T15年9月号に掲載「第2信」に「今居るところヤヱ、バチラー様のお家は大日本聖公会教会です、本日日曜でしたので子供が少数参りました」とあり。

7月 平取時代 平取 《日高平取村にイギリス人宣教師バチェラー氏の創立した平取幼稚園を手伝う。》

《日雇いをしながら土器発掘等のアイヌ研究に従事する。》(95年版『コタン』年譜) 

※日記や金田一『違星青年』によれば、土木工事や、伐採などの日雇いをしたようだ。

※北斗の平取教会滞在は『コタン』掲載の日記では昭和二年となっているが、曜日や前後の他の資料から、大正15年の出来事であると思われる。この時、平取教会には岡村国夫神父が、幼稚園には岡村千代子夫人(八重子の妹)がおり、バチラー八重子は幌別にいた。(バチラー八重子が平取に赴任した昭和2年にも、北斗は平取に来ている)。

7/14
(水)
教会の壁の張り替え。

○五十年伝道されし此のコタン/見るべきものの無きを悲しむ
○平取に浴場一つ欲しいもの/金があったら建てたいものを
(『日記』)

※この7月、北斗はコタンの子供たちのために「子供の道話」(おそらく7月号)を配布している。(白老土人学校に15、長知内学校に3冊、荷負小学校に1、平村秀雄氏1冊、同キノ子氏1冊)。8月号の配本予定は白老、長知内、荷負、上貫別、二風谷の各学校と、平取アイヌ幼稚園。(「子供の道話」大正15年9月号)

※この時期、平取の長知内の学校で校長・奈良農夫也と会う。北斗は奈良農夫也をアイヌ文化への知識は金田一に次ぐと言っており、奈良農夫也に「子供の道話」に原稿を書くことをすすめている。(これは昭和2年2月に「魂藻物語」(沙流山人)として掲載されている)。

7/15
(木)
晴天
向井山雄(八重子の弟)とジョン・バチラーが来る。
「お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た」
(『日記』)

7/18
(日)
晴天
中山先生、富谷先生の手紙に感涙する。(『日記』) 

※中山先生は東京アイヌ学会で出会った、博文館の中山太郎か。

7/25
(水)
「今宵この沙流川辺に立って女神の自叙の神曲を想ひクンネチュップ(月)に無量の感慨が涌く」

○オキクルミ。TURESHIトレシマ悲し沙流川の昔をかたれクンネチュップよ(『志づく』)

8/2
(月)
晴天
「随分疲れた」「まさか余市にも帰れまい。自分の弱さが痛切に淋しい」「林檎をうんと植ゑて此の村を益したいものである」

○熟々と自己の弱さに泣かされて/又読んで見る「力の泉」(『日記』)

8月 掲載『ウタリグス』(大正15年8月号)「春の若草」

8月 掲載自働道話』(大正15年8月号)「手紙の中から」

※この頃、北斗はジョン・バチラーと、バチラー幼稚園スポンサーであった希望社の後藤静香との間で板挟みになっていた。後藤静香はバチラーへの送金をやめると言い始めたため、後藤静香に傾倒し、また自身も幾ばくかの援助を受けていた北斗としては、バチラー側に一人取り残されたことになり、立つ瀬がなく、随分と心を痛めたと思われる。

8/4
(水)
晴天
「後藤静香先生からお手紙来る」

○先生の深きお情身に沁みて/疲れも癒えぬ今日のお手紙(『日記』)

8/11
(水)
有馬氏や村医橋本氏とアイヌの現状について話す。
「後藤先生よりお手紙を頂く。幼稚園に就いての問合せであるが困った事だ。先生としては成程御尤であるが、何分にもバチラー先生の直営なのだから……。」(『日記』)
8/13
(金)
岡村さんが幼稚園の件で札幌に行ったと聞く。(『日記』)
8/14
(土)
岡村先生お帰り。幼稚園の問題だったと。」(『日記』)
8/16
(月)
晴、夜雨
土方の出面に行く。岡村先生と話す。

「若しも此の村に此の先生が居られなかったらどんなに淋しい事だらう」「此の様な村はいやになると思うたが、岡村先生に慰められて又さうでもないと思ひ直す」
後藤先生に手紙を書く。
一、一箇年五十円の薬価――施薬/二、正月と中元に三十円父に送金/
三、二風谷に希望園を作る 林檎三百本/四、コタンに浴場を建てたい/
五、札幌に勤労中学校/六、土人学校所在地に幼稚園設置/
七、アイヌ青年聯盟雑誌出版(『日記』)

この頃 一時帰郷 余市  家事の都合により余市へ。ついでに研究もする。9月10日まで余市にいる。それから平取に帰る。(『自働道話』大正15年10月号)

9月 掲載医文学』(大正15年9月号)「アイヌの一青年から」短歌

●沙流川のせゝらぎつゝむあつ霰夏なほ寒し平取コタン。
●今朝などは涼しどころか寒いなり自炊の味噌汁あつくして吸ふ
●お手紙を出さねばならぬと気にしつゝ豆の畑で草取してゐる。
●たち悪くなれとの事が今の世に生きよと云ふ事に似てゐる
●卑屈にもならされてゐると哀なるあきらめに似た楽を持つ人々
●東京から手紙が来るとあの頃が思出すなりなつかしさよ。
●酒故か無智故かはしらねども見せ物のアイヌ連れて行かるゝ。
●利用されるアイヌもあり利用するシャモもあるなり哀れ世の中

9月 掲載子供の道話』(大正15年9月号)「北海道から」

●ホロベツのはまのはまなし咲き匂ひ/イサンの山(向に突出してゐる岬の)の遠くかすめる
●アイヌ小屋あちこちに並びゐて/屋根草青く海の風吹く
●白老の土人学校訪ぬれば/かあい子供がニコ/\してる
●奈良先生が土人学校ひらきてより/二十三年の今もなほある
●コタンに来てアイヌの事をきゝたれば/はにかみながらメノコ答へり、

8/26
(木)
札幌 「札幌バチラー先生宅にて一泊、後藤先生来札」(『日記』)
8/27
(金)
雨天
「午後、後藤先生バチラー先生方に御来宅。金をどうするかと訊かれる。よう御座いますと答へる。蒲団は送る様に話して来たと仰しゃった」(『日記』)
8/28
(土)
雨時々晴
小樽
→余市
「小樽で後藤先生の御講演を聴く」「駅で先生より20円を頂く」「余市に着いたのは夕方」

○叔父さんが帰って来たと喜べる/子供等の中にて土産解くわれ(『日記』)

8/31
(火)
余市 「午後11時32分上り急行で後藤先生通過になる筈。中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。併し先生は居られなかった」(『日記』)
9/1
(水)
晴、未明大雨
「今朝日程表で見ると後藤先生は30日夜に通過されたのであった」(『日記』)
この頃? 小樽? 大正の終わり頃、小樽で港湾労働者として働いていた辺泥和郎と出会う?(湯本喜作『アイヌの歌人』)
※帰道後で年号が大正ならば、北斗が小樽で働けるとすればこの頃しかないが……?
この頃? 余市

北斗は奈良先生を訪ねた折り古田先生と出会う。北斗は古田の部屋に泊まり、一晩語り明かした。クリスチャンである古田と、西田幾太郎著『善の研究』の話をし、神の概念について、意見が一致しなかった、という。

※古田はこの秋から春にかけて、奈良先生の家の二階に下宿していた。(古田謙二「アイヌの歌人について」)
9/10頃? 余市
→平取
この頃、平取に戻る。(『自働道話』大正15年10月号) -
9/19
(日)
平取? 後藤先生から絵はがき「あせってはいけない」「コクワを先生に送って上げたいものだが」(『日記』) ※平取・余市、どちらでハガキを受け取ったかは不明。
二風谷

日高各地

二風谷 この秋?二風谷の二谷国松さんを訪ね語り明かす。(湯本喜作『アイヌの歌人』)
※古田謙二によると、この二風谷滞在時に、村長の娘が北斗に恋をし、北斗はそれを受け容れずに二風谷を去ったという話が、どこかに書かれていたというが、古田はそれを否定的に見ている。(「『アイヌの歌人』について」古田謙二)
この頃? 二風谷 川止めになり、コタンに永居する。

(『医文学』(大正15年10月号)「書中俳句」)

10月 掲載『医文学』(大正15年10月号)「書中俳句」 

●川止めになってコタン(村)に永居かな
●またしても熊の話しやキビ果入る

10月 掲載子供の道話』(大正15年10月号「アイヌのお噺・半分白く半分黒いおばけ

12月 掲載 『自働道話』(大正15年12月号)「手紙の中から」 短歌

●幽谷に風嘯いて黄もみじが、/苔ふんでゆく我に降りくる
●むしろ戸にもみじ散りくる風ありて/杣家一っぱい煙まわりけり
●秋雨の静な沢を炭釜の/白いけむりがふんわり昇る
●干瓢を贈ってくれた東京の/友に文かく雨のつれゞゝ

11月頃 二風谷? 「来月から新冠の方面に参りたい」「労働はとても疲労します」「郵便局が4里も遠くなので、切手を求むるのが骨です」
12/27
(月)
二風谷? 

新冠?

山中の村で二日遅れの大正天皇崩御を聞く。

崩御の報二日も経ってやっと聞く 此の山中のコタンの驚き
諒闇の正月なれば喪旗を吹く風も力のなき如く見ゆ
勅題も今は悲しき極みなれ昭和二年の淋しき正月
(「北斗帖」)

1927
(S2)
25
(27)
1月?
上旬
日高 日高のアイヌコタンを巡る旅に出る。(『自働道話』(昭和2年3月号)「手紙の中から」) 1月 掲載子供の道話』(昭和2年1月)「アイヌのお噺 世界の創造とねづみ

●雪よ飛べ風よ刺せナニ北海の/健児の胆(きも)を練るはこの秋。
人間の誇はいかで枯(か)るべき/今ぞアイヌのこの声をきけ。
アイヌとして生きて死なんとコタン吟/アイヌ■(ゑ)をかくうれしき淋しさ。
歓楽も悲哀もなくて只単に/生きんが為にうよめける群れ
●悪いもの降(くだ)りましたネーと挨拶する/北海道の雪の朝がた。

1月?
14日

(金)
日高三石 旅行して10日になる。日高のアイヌ部落はたいてい廻ることが出来て嬉しい。18日頃に平取に戻る。日高三石に泊まる。(『自働道話』(昭和2年3月号)「手紙の中から」)

※このころ日高各地を回っていたと思われる。『自働道話』3月号には14日という日付だけあり、何月かは書いていないが、掲載時期からすると1月だと思われる。

この頃? 日高

※日高のアイヌコタンをたいてい回ったのであれば、静内、浦川などにも行ったと思われる。浦川太郎吉に出会ったのはこの頃か。

1月?
18日
頃?
平取 平取に戻る? (『自働道話』(昭和2年3月号)「手紙の中から」)

5 余市時代 (同人誌『コタン』、短歌、研究)

西暦(和暦)) 年齢
(数え)
月日 時期 場所 出来事 備考・掲載通信関連する出来事
1927
(S2)
25
(27)
2月ごろ 余市時代 余市 兄の子が病死したため、平取を出て、余市へ。(『自働道話』昭和2年5月号)

※結果的には、北斗は、これ以降平取に戻ることはなかったと思われる。

3/13
(水)
ウタグスの漁場に雪堀に行く。(『自働道話』昭和2年5月号) -
3/14
(木)
鯡漁をしてから日高へ帰る。家は貧しいので春の3ヶ月間はちょっとでも手伝おうと思っている。五月中頃日高へ帰る予定。大漁でもしてお金ができたら天塩方面も視察したい。(『自働道話』昭和2年5月号) 3月 掲載『自働道話』(昭和2年3月号)「手紙の中から」

4月下旬頃 目下ウタグスという断崖の下にバラックを建て、ニシン漁にいそしんでいる。「奈良ノブヤ先生」(奈良農夫也)が訪ねてきて、一夜を明かす。奈良は西川からのお土産を渡す。今年のニシンは不漁のため、再度の上京も見合わせる。(『自働道話』昭和2年6月号) 

※ウタグスは余市から見たシリパ岬の裏手にある。ここに違星家は「違星漁場」という漁場を持っていた。

4月下旬? このころ、北斗は病を得て病床につく。(『自働道話』昭和2年7月号より逆算) ※この時の病名を北斗は「腐敗性キカン」と書いている。腐敗性気管支炎だろうか。(S3/6/20金田一宛手紙)
4/28
(木)
「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」を書く。(『子供の道話』昭和2年6月号) S2/4/26 金田一→北斗宛(ウタグス違星漁場宛)ハガキ (向井山雄が上京し東京アイヌ学会に参加した事等) 
5月下旬頃 病臥一ヶ月であったが、快方に向かっている。奈良先生からの連日の見舞状。(『自働道話』昭和2年7月号) 5月 掲載『自働道話』昭和2年5月号「手紙の中から」
この頃 同人誌『コタン』を作り始める。

※同人誌『コタン』「はまなし涼し」の記述「二ヶ月以上かかって」より逆算。

6/13
(月)
夜、西川光二郎余市へ。北斗は奈良先生、菅原氏とともに出迎える。西川は奈良先生宅へ。(『自働道話』昭和2年8月号「北海道巡講記」)

※西川の記述によれば「違星君は意外にも早く全快して、元のまゝの違星君で、うれしかった。」とあり、快癒したようだ。

6/14
(火)
西川光次郎、大川小学校、余市実科女学校で講話。北斗は夕方、奈良先生とともに西川を見送る。(『自働道話』昭和2年8月号「北海道巡講記」)

6月 掲載『自働道話』昭和2年6月号「手紙の中から

6月 掲載子供の道話』昭和2年6月号「違星北斗様より」

○伝説のベンケイナツボの磯のへに/かもめないてた なつかしい かな

「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」

6/21
(火)

島泊

島泊を訪ねる。「島泊村のアイヌは影もない。どこへ行ったか?」

○アヌタリ(同族)の墓地であったと云ふ山もとむらふ人ない熊笹のやぶ 
○その土地のアイヌは皆死に絶えてアイヌのことをシャモにきくのか
(『志づく』)

6/22
(水)
古平 古平を訪れる。「古平町にはもう同族はゐない―――」

○ウタリーの絶えて久しくふるびらのコタンの遺蹟(あと)に心ひかれる(『志づく』)

 古平村にて
○ウタリーの消滅(たえ)てひさしく古平(ふるびら)のコタンの遺跡(あと)に心ひかるゝ
○アヌタリー(同族)の墓地でありしと云ふ山も とむらふ人なき熊笹の藪
○海や山そのどっかに何かありて知らぬ昔が恋しいコタン
(同人誌『コタン』「コタン吟」)

※「アヌタリの墓地」の短歌は、『志づく』では島泊、『コタン吟』では古平で詠んだとなっている。

6/26
(日)
余市? 「北海道の熊と熊とりの話」を書く。(『子供の道話』昭和2年8月号)

7月 掲載『自働道話』昭和2年7月号「手紙の中から」

7月 掲載子供の道話』昭和2年7月号「烏と翁」

8月 掲載『自働道話』昭和2年8月号「手紙の中から」

8月 掲載子供の道話』昭和2年8月号「北海道の熊と熊とりの話」

7/2
(土)
余市 アイヌの姿」を書く。(同人誌『コタン』)
7/3
(日)
余市のチャシの調査のため、余市第一の古老ヌプルラン・イカシを訪ねる。(『疑ふべきフゴツペの遺跡』)
7/6
(水)
西川への手紙を書く。東京を発って明日で一年である。東京の生活が極楽だったこと。親不孝であること。バチラーの態度に胸打たれたこと、お菓子を送って貰ったお礼など。(『自働道話』昭和2年8月号)

8/10
(水)

《ガリ版同人誌『コタン』創刊号を発刊する。》
 フルビラ村にて
●ウタリーの消滅(たえ)てひさしく古平(ふるびら)のコタンの遺跡(あと)に心ひかるゝ
●アヌタリー(同族)の墓地でありしと云ふ山も とむらふ人なき熊笹の藪
●海や山そのどっかに何かありて知らぬ昔が恋しいコタン
 余市の海辺
●伝説のベンケイ・ナツボの磯のへに かもめないてた なつかしいかな
●シリパ山のもすそにからむ波のみは昔をいまにひるがへすかな
●ゴメ/\と声高らかに唱ふ子もうたはれる鴎も春のほこりよ
 同化への過渡期
●悲しむべし今のアイヌはアイヌをば卑下しながらにシャモ化してゆく
●罪もなく憾もなくてたゞ単にシャモになること…………悲痛なるかな
 
●アイヌの中に隔生遺伝のシャモの子が生れたことを喜ぶ時代
●不義の子でもシャモでありたいその人の心の奥に泣かされるなり

  侮蔑?!
●「ナニッ!! 糞でも喰へ」と剛放にどなったあとの寂し―――い静
●やたらにシャモの偉さをふりまはしてる低級なシャモの小面にくし
●日本に自惚れてゐるシャモどもの優越感をへし折ってやれ
 反省して
●淋しいか? 俺は俺の願ふことを願のまゝに歩いてるくせに
●俺はたゞアイヌであると自覚して正しき道を踏めばよいのだ
●アイヌは単なる日本人になるなかれ神ながらなる道にならへよ
●まけ惜しみも腹いせも今はなし唯日本に幸あれと祈る
(同人誌『コタン』)
この頃 この時期の記録がない。再び平取を訪れたか? ※北斗自身の手による年譜では、昭和2年に平取村幼稚園とある。また、吉田ハナによると、平取で八重子と北斗がともにいたというが、大正15年にはバチラー八重子はまだ平取にはいないため、昭和2年にも平取に来たと見たほうが自然である。
11/3
(木)
余市短歌会詠草(於・余市の妹尾よね子氏宅)に出席。並木凡平、稲畑笑治らと知り会う。

痛快に「俺はアイヌだ」と宣言し正義の前に立った確信
(『新短歌時代』昭和2年12月号「河畔雑記」)

※北斗は稲畑笑治と余市名産の林檎をかじりながら語り合ったという。

10/3 掲載『小樽新聞』に短歌
●アイヌッ! とただ一言が何よりの侮辱となって燃える憤怒だ
●獰猛な面魂をよそにして弱く淋しいアイヌのこゝろ
※ホロベツの浜のはまなす咲き匂ひエサンの山は遠くかすんで
※伝説のベンケイナッポの磯の上にかもめないてた秋晴れの朝

10月8日 この頃、この頃、蘭島駅の保線工夫が「フゴッペ壁画」(旧)を発見する。(これは現在の「フゴッペ洞窟」ではない)。→旧フゴッペ壁画について

10/25 掲載『小樽新聞』に短歌

※シリバ山もすそにからむ波だけは昔も今にかはりはしない
●暦なくとも鮭くる時を秋としたコタンの昔慕はしくなる
●握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声
●シャモといふ小さなカラで化石した優越感でアイヌ見にくる
●シャモといふ優越感でアイヌをば感傷的に歌をよむ、やから
※人間の誇は何も怖れない今ぞアイヌのこの声を聞け
※俺はただ「アイヌである」と自覚して正しき道をふめばいゝのだ

10/28 掲載『小樽新聞』に短歌

※「何ッ! 糞でも喰へ!」と剛放にどなった後の無気味な沈黙
●いとせめて酒に親しむ同族にこの上ともに酒のませたい
●単純な民族性を深刻にマキリで刻むアイヌの細工
※たち悪くなれとのことが今の世に生きよといへることに似てゐる
●開拓の功労者てふ名のかげに脅威のアイヌおのゝいてゐる
※同族の絶えて久しく古平のコタンのあとに心ひかれる
※アヌタリの墓地であったといふ山もとむらふものない熊笹の藪

11/29 ハガキ 橋本暁尚→北斗

11月 掲載『新短歌時代』(予告号)に短歌

※暦なくとも鮭来る時を秋としたコタンの昔 思ひ出される
※幽谷に風うそぶいて黄もみぢが―――苔踏んでゆく肩にふりくる
※ニギリメシ腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声
●桂の葉のない梢 天を突き日高の山に冬がせまった

11/7 掲載『小樽新聞』に短歌

●痛快に「俺はアイヌだ」と宣言し正義の前に立った確信

11/14 『小樽新聞』にフゴッペ発見記事が掲載され、西田彰三が解説する。

11/15 『小樽新聞』に西田彰三の「フゴッペの古代文字並にマスクについて」掲載される(〜11/20、全7回)

11/21 掲載『小樽新聞』に短歌

●余市川その源は清いものをこゝろにもなく濁る川下
●岸は埋立川には橋がかゝるのにアイヌの家がまた消えてゆく
●ひら/\と散ったひと葉に冷やかな秋が生きてたアコロコタン
秋(この頃?) 稲畑笑治らが、余市の北斗宅を訪ねる。(『小樽新聞』北斗追悼記事)

6 行商期 (売薬行商、『新短歌時代』、『志づく』、「フゴッペ」)

西暦(和暦) 年齢
(数え)
月日 時期 場所 出来事 備考・掲載通信関連する出来事
1927
(S2)
25
(27)
12月頃 売薬行商 余市 12月末には売薬の短歌が発表されているので、この頃から、売薬行商を始めていると思われる。

※ある老人は、北斗の売薬行商について、「箕笠をかぶり、大きな行李を背負い、秋の雷電峠を歩いていた」と話ている。(「違星北斗の歌と生涯」早川勝美)

※このころ、簑笠をかぶり、行商に向かう北斗が鍛冶照三を訪ね、暫くの別れにと尺八で「別れの曲」を吹いたという。(「違星北斗を偲ぶ」鍛冶照三)

12月 掲載『北海道人』に短歌
※アイヌ!と ただ一言がなによりの/侮蔑となって燃える憤怒だ
※「ナニッ! 糞でも喰へ」と 豪放に/どなった後の寂しい沈黙
●限りなきその寂寥をせめてもの/悲惨な酒にまぎらさうとする
※獰猛な面魂をよそにして/弱い淋しいアイヌの心
※単純な民族性を深刻に/マキリで刻むアイヌの細工
※たち悪るくなれとのことが今の世に/生きよといへることに似てゐる

12月 掲載『新短歌時代』(創刊号)に短歌

●しかたなくあきらめるといふこゝろあはれアイヌを亡したこゝろ
●アイヌ相手に金もうけする店だけが大きくなってコタンさびれた
●強いもの! それはアイヌの名であった昔しに恥よさめよ同族
●熊の胆で助かったのでその子に熊雄と名づけた人もあります
●正直なアイヌをだましたシャモをこそ憫なものとゆるすこの頃
●勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今どこにゐる

12/2(金) 『小樽新聞』に西田彰三の「フゴッペ再び・古代文字と石偶に就て」掲載される(〜12/7、全5回)

12/4(日) 掲載『小樽新聞』に短歌写真入りで紹介記事が掲載される

12/19(月) 掲載『小樽新聞』「疑ふべきフゴッペの遺跡」第1回連載開始(〜1/10、全6回)
※この新聞連載を読み、森竹竹市は北斗のことを知る。

12/25(日) 掲載 『小樽新聞』「疑ふべきフゴッペの遺跡」第2回(「閑話休題」と題されて、「我が家名」が掲載されている)。

12/30(金) 掲載『小樽新聞』「疑ふべきフゴッペの遺跡」第3回、短歌

●売薬の行商人に化けてゐる俺の姿をしげ/゛\とみる
●売薬はいかがでございと人のゐない峠で大きな声出してみる
●田舎者の好奇心にうまく売ってゆく呼吸も少し覚えた薬屋
●ガッチャキの行商薬屋のホヤ/\だ吠えてくれるなクロは良い犬

《口語歌雑誌『新短歌時代』(十二月一日に創刊号発刊)に準会員として参加。》(95年版『コタン』年譜) 

※実際には予告号から参加している。

12/2 小樽 「凡平庵」で村上如月とはじめて会う。
12月下旬 美国
古平
余市湯内

「切角上京しやうと思っても出来なかったものだからこんどはアイヌ研究に一心になり、目下コタン巡視察を目的に行商して歩いてゐます。薬を売って歩いてゐます。その薬も小樽の人のお世話で、大能膏と云ふ膏薬一方であります。」

美国、古平、余市の郡部をまわって、湯内というところにいる。正月には石狩をまわりたい。

「ナニシロ今度こそは本当に自由の身になったものですから大いに年来の希望に向つて突進出来ます」

今日は一週間ぶりに帰宅する。(『自働道話』大正3年2月号)

12/26
(月)
余市 余市 希望社から10円と「心の日記」に「カレンダー」を送って貰う(『日記』)
12/31
(土)

除夜の鐘をつく。

俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく
新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ
(『自働道話』大正3年2月号)

1928
(S3)

26
(28)
この頃 行商 - 《売薬行商に従事して各地をめぐる。》 (95年版『コタン』年譜) 

※実際は昭和2年の11〜12月ごろから行商を始めている。

1月上旬

小樽

十日ごろ出発の予定。二十日頃には石狩小札内の能登酉雄氏を訪ねる予定。石狩から手塩、北見、三月末頃余市、四月末樺太方面へゆく予定。小樽市に来ている。三、四日遊んでから余市へ帰る。写真機を手に入れ旅費を稼ぎたい。(『自働道話』大正3年2月号)

※ここにある「石狩から天塩、北見」というのは、『自働道話』昭和3年4月によれば中止になったようだ。

この頃 小樽 北斗は、『新短歌時代』に参加していた歌人、高根一路(小樽?)を尋ねているが、会えず。

(『新短歌時代』2月号「遠いのに薬売りながら尋ねきたけなげなアイヌにまた逢へなんだ」高根一路)

この頃 小樽 『新短歌時代』の同人で、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にする。(『新短歌時代』6月号「さらば小樽、小樽の人々よ」福田義正)

1月 河野常吉が余市町違星家を訪ね、聞き取り調査をする。(『アイヌ聞取書』「アイヌの秘密数件」) 
※この際、息子の河野広道もいたようだ。(「河野広道博士没後二十年記念論文集」年表)

1月 掲載『新短歌時代』昭和3年1月号「淋しい元気」

●はしたないアイヌだけれど日の本に生れ合した仕合せを知る

1月 掲載『北海道人』(昭和3年1月号)「熊と熊取の話」

1/4 封書、バチラー八重子→北斗(年賀の挨拶、中里の息子の病状を教えて欲しい云々)
1/5(木) 掲載『小樽新聞』「疑ふべきフゴッペの遺跡」第4回
1/8(日) 掲載『小樽新聞』「疑ふべきフゴッペの遺跡」第5回
1/10(火) 掲載『小樽新聞』「疑ふ
べきフゴッペの遺跡」第6回(最終回)

この頃 小樽 「フゴッペ」の記事掲載後、小樽の西田彰三の家を訪ねているが、居留守を使われ、会ってもらえなかったという。(「『アイヌの歌人』について」古田謙二」)
1/10頃 余市 このころ余市を出発か? (『自働道話』大正3年2月号)
1/14
(金)
千歳 千歳で泊めてもらえず難儀する。(『日記』)
1/20頃 石狩? 石狩国浜益郡小札内の能登酉雄を訪ねた?(『自働道話』大正3年2月号) 

『自働道話』昭和3年4月号に石狩視察は中止とあるので、行っていない可能性が高い。

※能登酉雄は茨戸アイヌで、その父親は、北斗の祖父万次郎とともに東京留学した人物である。

2月末 白老 3年ぶりに来てみると、友が死んでいたこと(豊年健治のことか?)、もう一人の友人は追分駅で不在(鉄道員だった森竹竹市と思われる)。土人学校が新校舎になっていたことは嬉しい。山本(儀三郎)先生、高橋(房次)土人病院長も留守。明後日ホロベツ方面へ。石狩国視察は中止、日高胆振方面へ。(『自働道話』昭和3年4月号)

※北斗はすでに森竹竹市とは知己であるようだ。森竹の北斗と初対面の時の短歌、「フゴッペの古代の文字に疑問持ち所信の反論新聞で読む」「違星北斗初めて知った君の名を偉いウタリと偲ぶ面影」「北斗です出した名刺に「滝次郎」逢いたかったと堅く手握る」
があるが、フゴッペ記事のあとだから、初対面は昭和2年末から3年の初めのことだろう。この時点では北斗と森竹の関係は文通のみかもしれない。

2月 掲載『新短歌時代』昭和3年2月号「除夜の鐘」

●俺がつくこの鐘の音に新春が生れてくるか精一ぱいにつく
●新生の願ひ叶へとこんしんの力を除夜の鐘にうちこむ
●高利貸の冷い言葉が耳そこに残ってるのでねむられない夜まr
●詮じつめればつかみどこないことだのに淋しい心が一ぱいだ冬

2月 掲載『自働道話』昭和3年2月号 「手紙の中から」

※塞翁の馬にもあはで年暮れの馬にもあはで年暮れ
※俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく
※新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ

2/7 『小樽新聞』に石狩の齋藤輝子の「旅に出てアイヌ北斗の歌思ふこゝがコタンかしみ/゛\と見る」の短歌が掲載される。 
※この頃、並木凡平が余市をおとずれたようだが、北斗自身には会っていないようだ。行商中で会えなかったのかもしれない。

2/27(月) 掲載『小樽新聞』に「アイヌの童話・烏と翁」、短歌

●夕陽がまばゆくそめた石狩の雪の平野をひた走る汽車
●行商がやたらにいやな一ん日よ金のないのが気になってゝも
●ひるめしも食はずに夜の旅もするうれない薬に声を絞って
●金ためたただそれだけの先生を感心してるコタンの人だち
●酔ひどれのアイヌを見れば俺ながら義憤も消えて憎しみのわく

2/29(水)付 北斗→吉田はな子宛ハガキ  

この頃 掲載 『志づく』第3巻1号に短歌

※悪いもの降りましたネイと/挨拶する/北海道の雪の朝方
※シリバ山 もしそにからむ/波のみが/昔を今に ひるかへすかな
※正直なアイヌだました/シャモをこそ/憫れなものと ゆるす此頃
●久々で熊がとれたで熊の肉/何年ぶりで食ふたうまさよ
●コタンからコタンを巡るも/嬉しけれ/絵の旅 詩の旅 伝説の旅

3/23 ハガキ 金田一京助→北斗(今野正治という青年について)

幌別 一昨日から幌別にいる。知里真志保と同宿している。明日出発の予定。八雲方面までいきたい。(「吉田はな子宛葉書」2月29日消印)

※2月29日消印であるが、北斗は、何日も出しそびれたということが上のハガキには書いてある。

『知里真志保の生涯』藤本英夫では、この際、北斗が、岩倉から聞いた真志保の印象を、真志保自身に伝えたというが、タイミング的には難しい。

2/29
(水)
幌別? 豊年健治君のお墓に参る。

一昨年の夏(大正15年)に北斗と会っており、そのときに寄書をしている。

○永劫の象に君は帰りしか/アシニを撫でて偲ぶ一昨年
(『日記』)。

※豊年君は幌別のウタリで、同じく幌別育ちの知里真志保と関係があったかもしれない。

この頃?

室蘭

室蘭中学に「民族学研究家」として迎えられる。

※知里真志保の恩師である岩倉友八と話し、知里真志保について「学者になるのに適した頭脳を持っている」と岩倉が話すのを聞く。のちにそれを北斗が真志保に伝え、真志保が学者を目指すきっかけになった(『知里真志保の生涯』藤本英夫)

※時期は不明。
3月頃 日高 村上如月によれば、『自働道話』昭和3年4月号の記述通り、胆振に引き続き、日高を行商したようだ。平取、鵡川、浦川など?。
3/13 高原 日高胆振の旅の帰りに、雪にまみれた姿で、村上如月の家を訪ねる ※「同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したい」と語っている。また、体調不良を「疲れ」と言ったようだ。
4/3
(火)
*

4/3 《歌誌『志づく』(札幌・零詩社)第三巻二号、「違星北斗歌集」の特集号とする。》

※獰猛なつら魂をよそにして弱い淋しいアイヌの心
※しかたなく「諦める」と云ふ心哀れアイヌを亡したこゝろ
※たち悪るくなれ? とのことか今の代に生きよと云ふことに似てゐる
※卑屈にも慣らされてゐると哀れにもあきらめに似た楽しみもある
●限りないその寂寥をせめてもに悲惨な酒にまぎらはしものを
※いとせめて酒に親しむ同族にこの上とても酒呑ませたい
●現実の苦と引き替へに魂を削るたからに似ても酒は悪魔だ!
※ホロベツの浜のはまなす咲き匂ひイサンの山の遠くかすめる
●沙流川はきのふの雨でにごってゝコタンの昔をさゝやく流れ
●コタンの夜半人がゐるのかゐないのかきみ悪るい程静けさに包まる
●オキクルミ。TURESHIトレシマ悲し沙流川の昔をかたれクンネチュップよ
●やさしげにまた悲しげに唱はれるヤイサマネイナに耳傾ける
●面影は秋の夜寒に啼く虫の声にも似てるヤイサマネイナ
※暦なくとも鮭来るときを秋としたコタンの昔したはしいなあ
●正直で良い父上を世間では馬鹿正直だとわらってやがる
※アイヌ相手に金もうけする店だけが大きくなってコタンさびゆく
●アイヌを食いものにした野蕃人あはれ内地で食いつめたシャモ
●ネクタイを結ぶに伸べたその顔を鏡は俺をアイヌと云ふた
※岸は埋め川には橋がかゝるともアイヌの家が朽るが痛ましい
●アイヌがなぜほろびたらうと空想の夢からさめて泣いた一夜さ
※アヌタリの墓地であったと云ふ山もとむらふ人ない熊笹のやぶ
●その土地のアイヌは皆死に絶えてアイヌのことをシャモにきくのか
※ウタリーの絶えて久しくふるびらのコタンの遺蹟に心ひかれる 
●朝寝坊の床にも聴かれるコタンでは安々きかれるホトゝギスの声
●無茶苦茶に茶目気を出してはしゃいだあとしんみりと淋しさにをそはる
●熊の胆で助かったのでその子に熊雄と名附けし人もあります
※酒故か無智故かはしらないが見世物のアイヌ連れて行かれた
※ 利用されるアイヌもあり利用するシャモもあるんだ共に憫れむ

●つくづくと俺の弱さになかされてコタンの夜半を風に吹かれた
●ともすれば下手かたまりにかたまりてひとりよがりの俺の愚かさ
●逃げ出した豚を追っかけて笑ったゝそがれときのコタンにぎやか
●そばの花ゆきかとまがう白サ持て太平無事に咲てゐたコタン
●静かアなコタンであるがお盆だでぼん踊りあり太鼓よくなる
●汽車は今コザハトンネルくぐったふとこの山の昔しを偲ぶ
●我乍ら毛むくじゃらなるつらをなで鏡を伏せて苦わらひする
●いつしかに夏の別れよボン踊りの太鼓の音もうら寒いコタン
●ひと雨は淋しさをばひと雨は寒さを呼ぶか蝦夷地の九月
※桂木の葉のない梢天を突き日高の山に冬が迫った
※幽谷に風嘯ぶいて黄もみぢが苔踏んで行く俺にかぶさる
●鉄道がシモケホまで通ったので汽車を始めて見る人もある
●のむ? ことが何よりのたのしみで北海道がよいと云ふシャモ

●ウッカリとアイヌの悪口云った奴きまり悪るげに云ひなほしする
●借りたもの一回毎に返済(かえし)たら内地と同ンなじだべと平気だ
●これがシャモだいはんやアイヌに於てをやだまされ慣れるに於てをやだ
※歓楽も悲哀もなくて只だ単に生きんが為にうよめける群
※アイヌとして生きて死にたい願もてアイヌ画をかく淋しいよろこび
●今時のアイヌは純でなくなった憧憬のコタンにくゆる此の頃
●希望! あゝ希望に鞭うって泣いてゐないで飛出して行け
●シャモになる前にひとまづ堂々とアイヌであれと鉄腕を振る
※人間の誇は如何で枯るべき今こそアイヌの此の声をきけ
※正直なアイヌだましたシャモをこそ憫れなものとゆるすこの頃
※アイヌ! と只一言が何よりの侮蔑となって憤怒に燃る
※ナニッー糞でも喰らへと剛放にどなったあとの淋し―――い静
※淋しいか? 俺は俺の願ふことを願のまゝに歩んだくせに 
※開拓の功労者の名のかげに脅威のアイヌをのゝいてゐる
●不景気は木のない山を追って行く追れるやうに原始林伐られる
※単純な民族性を深刻にマキリで彫るアイヌの細工
※強きもの! それはアイヌの名であった昔に耻よ醒めよ同族
※勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今どこにゐる
※俺はただアイヌであると自覚して正しい道を踏めばよいのだ
※悲しむべし今のアイヌは己れをば卑下しながらにシャモ化して行く
※罪もなく憾もなくて只たんにシャモになること悲痛なことよ
※アイヌの中に隔世遺伝のシャモの子が生れたことをよろこぶ時代
※不義の子でもシャモでありたい○○子の心のそこに泣かされるなり
●正直が一番ン偉いと教へた母がなくなって十五年になる
※伝説のベンケイナツボの磯のへにごめがないてたなつかしい哉
※シリバ山もしそにからむ波だけが昔しを今にひるがへしてる
●シャモの名でなんと云ふのか知らないがケマフレ(足赤)テ鳥は罪がなさそだ 
●人様の浮世は知らず。今日もまた沖でかもめの声にたはむる
※不器容とは俺でございと云ふやうな音やかましい発動機舟
●増毛山海の雪頂いて海のあなたシベリア颪に突立ってゐる
※ひら/\と散った一葉に冷めたァい秋が生きてたコタンの秋だ
●凸凹のコタンの道の砂利原を言葉そのまゝのがた馬車通る
※シャモと云ふ小さな殻で化石した優越感でアイヌ見に来る
※シャモと云ふ優越感でアイヌをば感傷的に歌よむやから
※日本に自惚れてゐるシャモ共の優越感をへし折ってやれ
※アイヌは単なる日本人になるじゃない神ながらの道に出て立て
※まけ惜みも腹いせも今はない只だ日本に幸あれと祈る
※はしたないアイヌだけれど日の本に生れたことの仕合せを知る
※堂々と「俺はアイヌ」とさけぶのも正義の前に立ったよろこび
※雪よ飛べ風よ刺せナニクソ北海の男児の胆を錬磨するんだ!

※はっきりとした時期は不明だが、古田謙二によると、『志づく』の一女性投稿者が、北斗に熱烈なファンレターをよこしたという。北斗がどう対処したかは不明。

4月頃 * 余市

この昭和3年も、北斗は鰊漁を手伝っていたのではないかと思う。

亦今年不漁だったら大へんだ/余市のアイヌ居られなくなる
今年こそ乗るかそるかの瀬戸際だ/鰊の漁を待ち構へてる
或時はガッチャキ薬の行商人/今鰊場の漁夫で働く
今年こそ鰊の漁もあれかしと/見渡す沖に白鴎飛ぶ
(「北斗帖」)

※この4首は詠まれた時期は不明だが、「亦今年不漁だったら」とか「今年こそ」という言葉があるのは、前年の不漁を受けているように思うので、昭和3年の春の鰊漁で詠まれたのではないかと思う。そして、「或時はガッチャキ薬の行商人」という言葉があるが、昭和2年にはまだガッチャキの行商をしていないので、やはり、北斗は昭和3年の春も鰊漁をしているものと見ていいと思う。

4月 金田一京助が「慰めなき悲み」を発表する。名前は出てこないが、北斗と思しきアイヌの青年が金田一の友人として登場する。

4/8(日) 掲載『小樽新聞』に短歌

●豊漁を告げるにゴメはやってきた人の心もやっとおちつく
●久しぶりで荒い仕事する俺の手のひら一ぱいに痛いまめでた
●一升めし食へる男になったよと漁場のたよりを友に知らせる
●ボッチ舟に鰊殺しの神さまがしらみとってゐた春の天気だ

4/11(水) 掲載『小樽新聞』に短歌

●水けってお尻ふり/\とんでゆくケマフレにわいた春のほゝえみ
●建網の手あみのアバさ泊まってて呑気なケマフレ風に吹かれる
●とん/\と不純な音で悠久な海を汚して発動機船ゆく
●不器用とは俺でございといふやうな音たててゆく発動機船

7 闘病期

西暦(和暦) 年齢
(数え)
月日 時期 場所 出来事 備考・掲載通信関連する出来事
26
(28)

1928
(S3)

この頃 闘病期 余市 発病のため余市の実兄の許に身を寄せる。》(95年版『コタン』年譜)  ※「発病のため」に「実兄の許に身を寄せる」とあるが、北斗が倒れたのはニシンの時期なので、もともと余市にいて、漁を手伝っていたと考える方が自然だろう。
4/25
(水)
「何だか咳が出る。鼻汁も出る。」「明るみへ出て見ると血だ。喀血だ」

大暴風雨の中、山岸病院に行き、診察を受ける。

○咯血のその鮮紅色を見つめては/気を取り直す「死んぢゃならない」
○キトビロを食へば肺病直ると云う/アイヌの薬草 今試食する   
○見舞客来れば気になるキトビロの/此の悪臭よ消えて無くなれ   
○これだけの米ある内に此の病気/癒さなければ食ふに困るが
(『日記』)

※病名は肺結核。北斗が金田一に書き送った手紙(S3/6/20)には「右の肺炎」と書いてある。

5/2(水) 掲載『小樽新聞』に短歌

※シャモの名は何といふかは知らないがケマフレ鳥は罪がなさそだ
●ケマフレはどこからくるかいつもの季節にまたやってきた可愛水鳥
※人さまの浮世は知らぬけさもまた沖でケマフレたわむれてゐた(鴎からケマフレになっている)
●人間の仲間をやめてあのやうなケマフレと一しょに飛んでゆきたい

5/12(土) 掲載『小樽新聞』に短歌

●喀血のその鮮紅色をみつめては気をとりなほし死んぢゃならない
●キトビロを食へば肺病もなほるといふアイヌの薬草いま試食する
●これだけの米のあるうちこの病気全快せねばならないんだが

6月 掲載『新短歌時代』(昭和3年6月号)

●民族を背負って立つのは青年だ 先覚者よ起てアヌウタリクス!
●あばら家に風吹きこめばごみほこりたつその中に病んで寝てゐる
●永いこと病床にゐて元気なくこころ小さな俺になってゐる

6/5(火) 掲載『小樽新聞』に短歌

●赤いものの魁だとばっかりにアカベの花が真赤に咲いた
●雪どけた土が出た出た花咲いたシリバの春だ山のアカベだ
●熊の肉、俺の血になれ肉になれ赤いフイベに塩つけて食ふ
●岩崎のおどは今年も熊とった金毛でしかも大きい熊だ
●熊とった痛快談に夜はふける熊の肉食って昔をしのぶ

6/5 余市の指導者・中里徳太郎が死亡。

6/19(火) 掲載『小樽新聞』に短歌

●芸術の誇りもたたず宗教の厳粛もないアイヌの見世物
●白老のアイヌはまたも見世物に博覧会に行った咄! 咄!

5/5
(土)
村上如月が余市大川町の北斗を訪ねる。
5/8
(火)
「兄が熊の肉を沢山貰って帰ってきた。フイベも少し貰って来て呉れた。」

○熊の肉俺の血となれ肉になれ/赤いフイベに塩つけて食ふ   
○熊の肉は本当にうまいよ内地人/土産話に食はせたいなあ   
○あばら家に風吹き入りてごみほこり/立つ其の中に病みて寝るなり   
○希望もて微笑みし去年も夢に似て/若さの誇り我を去り行く
(『日記』)

5/17
(木)

闘病の短歌

○酒飲みが酒飲む様に楽しくに/こんな薬を飲めないものか   
○薬など必要でない健康な/身体にならう利け此の薬
(『日記』)

6/9
(土)

闘病の短歌

○死ね死ねと云はるるまで生きる人あるに/生きよと云はれる俺は悲しい
○東京を退いたのは何の為/薬飲みつゝ理想をみかへる
(『日記』)

6/18頃? 松宮春一郎から手紙。すぐに返事を返す。(6/20付金田一宛手紙) 6/20付 北斗→金田一京助宛手紙 (東京時代の思い出、金田一への感謝、北斗が上京を世話したウタリの2女性について、中里徳太郎の死について等)
6/20
(水)
金田一京助へ手紙を出す。
7/18
(月)

闘病の短歌

○続けては咳する事の苦しさに/坐って居れば縄の寄り来る
○血を吐いた後の眩暈に今度こそ/死ぬぢゃないかと胸の轟き
○何よりも早く月日が立つ様に/願ふ日もあり夏床に臥し
(『日記』)

7月 掲載『新短歌時代』(7月号)「一人一評」
「アイヌの乞食」
●子供等にからかはれては泣いてゐるアイヌの乞食に顔をそむける
●酒のめばシャモもアイヌも同じだテ愛奴のメノコ嗤ってゐます

7/17 手紙 金田一京助→北斗(見舞、励まし。北斗や篤治のような若者が、中里徳太郎という傑物について語り次がねばならない、云々)

7/25 『小樽新聞』に西田彰三の「畚部古代文字と砦址並に環状石籬」が掲載される。(〜8/7、全10回)

8/8
(水)
中里(凸天)宅の裏で盆踊り、一日喀血しない。『小樽新聞』の北斗の論文に対しての西田氏の反論が終了(『日記』)

8/29(水) 掲載『小樽新聞』に短歌

●カッコウとまねればそれをやめさせた亡き母恋しい閑古鳥なく

9/3
(月)
「めまひがして困る」「やっぱり生に執着がある。ある、大いにある。全く此の儘に死んだらと思ふと、全身の血が沸き立つ様だ。夕方やっと落ち着く」

山野鴉八氏より葉書「仙台放送局でシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念」

「今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ」(『日記』) 

※「山野鴉八」は間違いで、「山野鴉人」がただしい。

※トモヨは北斗の「娘」であるようだ。(早川勝美「早川文書」)

一七日は「初七日」であり、トモヨは8月の終わりに死んだと見られる。

9/7
(金)
仙台放送局(ラジオ)で午後7時10分より「趣味講座・短歌行脚漫談」(山野鴉人)が放送される。この中で北斗のことが紹介された? ※闘病中の北斗の姿を読んだ山上草人の短歌(時期不明)。

夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗
この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!
忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ 

10/3
(水)
闘病の短歌  

○永いこと病んで臥たので意気失せて/心小さな私となった
○頑強な身体でなくば願望も/只水泡だ病床に泣く
※アイヌとして使命のまゝに立つ事を/胸に描いて病気を忘れる
(『日記』)

10/5
(金)
山岸先生来る。「一ヶ月前よりも悪いのではないかと思ふと云へば『問題ではない。今日は余程よくなって居るよ』と先生は云はれる」

(『日記』)

-
10/8
(月)
「午後二時頃喀血した。ほんの少しであったが血を見てうんざりした。」(『日記』) -
10/9
(火)
「山岸先生お出下さって注射一本、薬が変わった」「少しでも悪くなると先生には本当に済まないと思ふ」(『日記』) -
10/26
(金)
「山岸先生看病大事と妹に諭し『国家の為にお役に立てねばならぬ』と云はれた。生きたい」 

○此の病気俺にあるから宿望も/果たせないのだ気が焦るなあ
○何をそのくよくよするなそれよりか/心静かに全快を待て
(『日記』)

※北斗の看病をしていたのは妹「ハルヨ」と「梅津トキ」という親戚の女性だったという。(『早川通信』)
11/3
(土)
「埋立の橋が完成した」「定吉と宇之吉が川尻で難船したのを常太郎が泳いで行ってロップで救うた」(『日記』) ※北斗はこのころ、病床で後藤静香の「一言集」という小冊子を読んでいたという。(古田謙二「アイヌの歌人について」)
12/10
(月)
夕方古田先生が来る。金田一先生への代筆をしてもらう。浦川(太郎吉?)君へ『アイヌ・ラックルの伝説』も送ってもらう。

○健康な身体となってもう一度/燃える希望で打って出たや(『日記』)

S3/12/19 絵ハガキ 後藤静香→北斗(見舞い)

この頃まで

このころまでに病床で 「北斗帖」という墨書の自選の歌集をまとめる。(発表は昭和5年版「コタン」)

※はしたないアイヌだけれど日の本に/生れ合せた幸福を知る
●滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ/違星北斗の瞳輝く  
※我はたゞアイヌであると自覚して/正しき道を踏めばよいのだ
新聞でアイヌの記事を読む毎に/切に苦しき我が思かな 
※今時のアイヌは純でなくなった/憧憬のコタンに悔ゆる此の頃
※アイヌとして生きて死にたい願いもて/アイヌ絵を描く淋しい心
●天地に伸びよ 栄えよ 誠もて/アイヌの為めに 気を挙げんかな
●深々と更け行く夜半は我はしも/ウタリー思ひてないてありけり
●ほろ/\と鳴く虫の音はウタリーを/思ひて泣ける我にしあらぬか
●ガッチャキの薬を売ったその金で/十一州を視察する俺
※昼飯を食はずに夜も尚歩く/売れない薬で旅する辛さ
●世の中に薬は多くあるものを/などガッチャキの薬売るらん
●ガッチャキの薬をつける術なりと/北斗の指は右に左に
●売る俺も買ふ人も亦ガッチャキの/薬の色の赤き顔かな
※売薬の行商人と化けて居る/俺の人相つくづくと見る
※「ガッチャキの薬如何」と人の居ない/峠で大きな声だしてみる
※ガッチャキの薬屋さんのホヤホヤだ/吠えて呉れるな黒はよい犬
●「ガッチャキの薬如何」と門に立てば/せゝら笑って断られたり
※田舎者の好奇心に売って行く/呼吸もやっと慣れた此の頃
●よく云へば世渡り上手になって来た/悪くは云へぬ俺の悲しさ
●此の次は樺太視察に行くんだよ/さう思っては海を見わたす
●世の中にガッチャキ病はあるものを/などガッチャキの薬売れない
●空腹を抱へて雪の峠越す/違星北斗を哀れと思ふ
●「今頃は北斗は何処に居るだらう」/噂して居る人もあらうに
●灰色の空に隠れた北斗星/北は何れと人は迷はん
※行商がやたらにいやな今日の俺/金ない事が気にはなっても
●無自覚と祖先罵ったそのことを/済まなかったと今にして思ふ
※仕方なくあきらめるんだと云ふ心/哀れアイヌを亡ぼした心
※「強いもの!」それはアイヌの名であった/昔に恥ぢよ 覚めよ ウタリー
※勇敢を好み悲哀を愛してた/アイヌよアイヌ今何処に居る
※アイヌ相手に金儲けする店だけが/大きくなってコタンさびれた
※握り飯腰にぶらさげ出る朝の/コタンの空に鳴く鳶の声
※岸は埋め川には橋がかかるとも/アイヌの家の朽ちるがいたまし
●あゝアイヌはやっぱり恥しい民族だ/酒にうつつをぬかす其の態
※泥酔のアイヌを見れば我ながら/義憤も消えて憎しみの湧く
●背広服生れて始めて着て見たり/カラーとやらは窮屈に覚ゆ
※ネクタイを結ぶと覗くその顔を/鏡はやはりアイヌと云へり
※我ながら山男なる面を撫で/鏡を伏せて苦笑するなり
●洋服の姿になるも悲しけれ/あの世の母に見せられもせで
※獰猛な面魂をよそにして/弱い淋しいアイヌの心
●力ある兄の言葉に励まされ/涙に脆い父と別るる
※コタンからコタンを巡るも楽しけれ/絵の旅 詩の旅 伝説の旅
※暦無くとも鰊来るのを春とした/コタンの昔したはしきかな
※久々で熊がとれたが其の肉を/何年ぶりで食うたうまさよ
※雨降りて静かな沢を炭竈の/白い烟が立ちのぼる見ゆ
※戸むしろに紅葉散り来る風ありて/小屋いっぱいに烟まはれり
※幽谷に風嘯いて黄紅葉が/苔踏んで行く我に降り来る
※ひらひらと散った一葉に冷めたい/秋が生きてたコタンの夕
※桂木の葉のない梢天を衝き/日高の山に冬は迫れる
●楽んで家に帰れば淋しさが/漲って居る貧乏な為だ
●めっきりと寒くなってもシャツはない/薄着の俺は又も風邪ひく
●炭もなく石油さへなく米もなく/なって了ったが仕事とてない
●食ふ物も金もないのにくよくよするな/俺の心はのん気なものだ
●鰊場の雇になれば百円だ/金が欲しさに心も動く
●感情と理性といつも喧嘩して/可笑しい様な俺の心だ
●俺でなきゃ金にもならず名誉にも/ならぬ仕事を誰がやらうか
●「アイヌ研究したら金になるか」と聞く人に/「金になるよ」とよく云ってやった
●金儲けでなくては何もしないものと/きめてる人は俺を咎める
●よっぽどの馬鹿でもなけりゃ歌なんか/詠まない様な心持不図する
●何事か大きな仕事ありゃいゝな/淋しい事を忘れる様な
※金ためたたゞそれだけの人間を/感心しているコタンの人々
●馬鹿話の中にもいつか思ふこと/ちょいちょい出して口噤ぐかな
●情ない事のみ多い人の世よ/泣いてよいのか笑ってよいのか
●砂糖湯を呑んで不図思ふ東京の/美好野のあの汁粉と栗餅
●甘党の私は今はたまに食ふ/お菓子につけて思ふ東京
●支那蕎麦の立食をした東京の/去年の今頃楽しかったね
●上京しようと一生懸命コクワ取る/売ったお金がどうも溜まらぬ
●生産的仕事が俺にあって欲しい/徒食するのは恥しいから
●葉書きさへ買ふ金なくて本意ならず/ご無沙汰をする俺の貧しさ
●無くなったインクの瓶に水入れて/使って居るよ少し淡いが
※大漁を告げようとゴメはやって来た/人の心もやっと落ち着く
●亦今年不漁だったら大へんだ/余市のアイヌ居られなくなる

●今年こそ乗るかそるかの瀬戸際だ/鰊の漁を待ち構へてる
●或時はガッチャキ薬の行商人/今鰊場の漁夫で働く
●今年こそ鰊の漁もあれかしと/見渡す沖に白鴎飛ぶ
●東京の話で今日も暮れにけり/春浅くして鰊待つ間を
●求めたる環境に活きて淋しさも/そのまゝ楽し涙も嬉し
●人間の仲間をやめてあの様に/ゴメと一緒に飛んで行きたや
※ゴメゴメと声高らかに歌ふ子も/歌はるるゴメも共に可愛や
●カッコウと鳴く真似すればカッコウ鳥/カアカアコウととどまついて鳴く
●迷児をカッコウカッコウと呼びながら/メノコの一念鳥になったと
●「親おもふ心にまさる親心」と/カッコウ聞いて母は云ってた
●バッケイやアカンベの花咲きました/シリパの山の雪は解けます
※赤いものの魁だ! とばっかりに/アカンベの花真っ赤に咲いた
●名の知れぬ花も咲いてた月見草も/雨の真昼に咲いていたコタン
●賑かさに飢ゑて居た様な此の町は/旅芸人の三味に浮き立つ
※酒故か無知な為かは知らねども/見せ物として出されるアイヌ
※白老のアイヌはまたも見せ物に/博覧会へ行った 咄! 咄!!
●白老は土人学校が名物で/アイヌの記事の種の出どころ
※芸術の誇りも持たず宗教の/厳粛もないアイヌの見せ物
見せ物に出る様なアイヌ彼らこそ/亡びるものの名によりて死ね
●聴けウタリー アイヌの中からアイヌをば/毒する者が出てもよいのか
●山中のどんな淋しいコタンにも/酒の空瓶たんと見出した
●淪落の姿に今は泣いて居る/アイヌ乞食にからかう子供
※子供等にからかはれて泣いて居る/アイヌ乞食に顔をそむける
●アイヌから偉人の出ない事よりも/一人の乞食出したが恥だ
●アイヌには乞食ないのが特徴だ/それを出す様な世にはなったか
●滅亡に瀕するアイヌ民族に/せめては生きよ俺の此の歌
※ウタリーは何故滅び行く/空想の夢より覚めて泣いた一宵
※単純な民族性を深刻に/マキリもて彫るアイヌの細工
●アイヌには熊と角力を取る様な/者もあるだろ数の中には
●悪辣で栄えるよりは正直で/亡びるアイヌ勝利者なるか
●俺の前でアイヌの悪口言ひかねて/どぎまぎしている態の可笑しさ
●うっかりとアイヌ嘲り俺の前/きまり悪げに言ひ直しする
●アイヌと云ふ新しくよい概念を/内地の人に与へたく思ふ
●誰一人知って呉れぬと思ったに/慰めくれる友の嬉しさ
●夜もすがら久しかぶりに語らひて/友の思想の進みしを見る
●淋しさを慰め合って湯の中に/浸れる友の赤い顔見る
●カムチャツカの話しながら林檎一つを/二つに割りて仲よく食うた
●母と子と言ひ争うて居る友は/病む事久し荒んだ心
●それにまた遣瀬なからう 淋しからう/可哀さうだよ肺を病む友
●おとなしい惣次郎君銅鑼声で/「カムチャツカでなあ」と語り続ける
※久々に荒い仕事する俺の/てのひら一ぱい痛いまめ出た
●働いて空腹に食ふ飯の味/ほんとにうまい三平汁吸ふ
●骨折れる仕事も慣れて一升飯/けろりと食べる俺にたまげた
※一升飯食へる男になったよと/漁場の便り友に知らせる
●此の頃の私の元気見てお呉れ/手首つかめば少し肥えたよ
●仕事から仕事追ひ行く北海の/荒くれ男俺もその一人
※雪よ飛べ風よ刺せ何 北海の/男児の胆を錬るは此の時
※ホロベツの浜のハマナシ咲き匂ひ/イサンの山の遠くかすめる
※沙流川は昨日の雨が水濁り/コタンの昔囁きつ行く
●平取はアイヌの旧都懐しみ/義経神社で尺八を吹く
●尺八で追分節を吹き流し/平取橋の長きを渡る
●崩御の報二日も経ってやっと聞く/此の山中のコタンの驚き
●諒闇の正月なれば喪旗を吹く/風も力のなき如く見ゆ
●勅題も今は悲しき極みなれ/昭和二年の淋しき正月
●秋の夜の雨もる音に目をさまし/寝床片寄せ樽を置きけり
●貧乏を芝居の様に思ったり/病気を歌に詠んで忘れる
※一雨は淋しさを呼び一雨は/寒さ招くか蝦夷の九月は
●尺八を吹けばコタンの子供達/珍しさうに聞いて居るなり
●病よし悲しみ苦しみそれもよし/いっそ死んだがよしとも思ふ
●若しも今病気で死んで了ったら/私はいゝが父に気の毒
●恩師から慰められて涙ぐみ/そのまゝ拝む今日のお便り
《俳句》

●浮氷鴎が乗って流れけり ●春めいて何やら嬉し山の里
●大漁の旗そのまゝに春の夜 ●春浅き鰊の浦や雪五尺
●鰊舟の囲ほぐしや春浅し ●尺八で追分吹くや夏の月
●夏の月野風呂の中で砕けけり ●蛙鳴くコタンは暮れて雨しきり
●伝説の沼に淋しき蛙かな ●偉いなと子供歌ふや夏の月
●新聞の広告も読む夜長かな ●夜長さや二伸も書いて又一句
●外国に雁見て思ふ故郷かな ●雁落ちてあそこの森は暮れにけり
●十一州はや訪れぬ初あられ ●まづ今日の日記に書かん初霰
●雪除けや外で受け取る新聞紙 ●流れ水流れながらに凍りけり
※塞翁が馬で今年も暮れにけり ●雪空に星一つあり枯木立
12/28
(金)
「此の頃左の肋が痛む。咳も出る」東京の高見沢清氏よりお見舞の書留、東京の希望者後藤先生よりお見舞いの電報為替。福岡県の八尋直一様より慰問袋「心の日記」とチョコレート。

○此の病気で若しか死ぬんぢゃなからうか/ひそかに俺は遺言を書く
○何か知ら嬉しいたより来る様だ/我が家めざして配達が来る
(『日記』)

S3/12/19 絵ハガキ 後藤静香→北斗(見舞い)

S3/12/25 封書 松宮春一郎→北斗(古田宛)(見舞い)

S3/12/28 封書 後藤静香→北斗(古田宛)(見舞い)

12/30(日) 掲載『小樽新聞』に短歌
※あばら家に風吹き込めばごみほこり立つその中に病んで寝てゐる
※永いこと病床にゐて元気なく心小さなおれになってゐる

北斗、危篤。1月5日まで続く。(『アイヌの歌人』)
1929
(S4)
27
(29)
1/5
(土)
危篤から回復。(『アイヌの歌人』) -

山岸先生来る。勇太郎君から八ツ目を貰う。(『日記』)

1/6
(日)
明け方に大喀血。(『アイヌの歌人』)
(絶筆)勇太郎君から今日も八ツ目を貰う。辞世の歌3首。

○青春の希望に燃ゆる此の我に/あゝ誰か此の悩みを与へし
○いかにして「我世に勝てり」と叫びたる/キリストの如安きに居らむ
○世の中は何が何やら知らねども/死ぬ事だけは確かなりけり
(『日記』)

危篤に陥る。(「アイヌの歌人」)
1/26
(土)
午前9時死去。(死亡時刻は『自働道話』昭和4年3月号「発行人より」)
8 北斗没後
西暦
(和暦)
生誕
(没後)
月日 時期 場所 出来事
1929
(S4)
27
(0)
1/28 没後 余市 北斗の死後二日後、古田謙二は消毒液の匂いのプンプンする寝室に入り、枕元においてあったボストンバッグから遺稿を取り出す。その中には日記が2冊あったという。(「『アイヌの歌人』について」古田謙二)

また、余市の歌人・山上草人も北斗の部屋に入り、日記を読んでいる。

1/29 * 『小樽新聞』に死亡記事掲載
1/30 * 余市の歌人、山上草人(古田謙二と思われる)が闘病中の北斗を詠んだ短歌が『小樽新聞』に掲載される。

夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗
この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!
忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ 

2/17 * 札幌の上元芳男による、北斗追悼の短歌が『小樽新聞』に掲載される。

風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ
アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ 

2/18 * 『小樽新聞』に稲畑笑治による追悼文が載る
3 平取 バチラー幼稚園が閉園する
3/2 * 余市の歌人、山上草人による北斗への追悼の短歌が『小樽新聞』に掲載される。

遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭
クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる
「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない
金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ 

また、幌武意の加藤未涯による北斗への追悼の短歌が『小樽新聞』に掲載される。

眼をとぢてコタンの歌を口にせば 命ほろびたひとの尊とさ

3/2 小樽 『新短歌時代』第3巻3号に村上如月「違星北斗君を悼む」が掲載される。同誌に友人吉田・伊勢両氏により、遺稿をまとめ、小樽新聞か新短歌時代に採録予定とある。

マキャブといふひと言ゆゑに火と燃えた北斗星の血潮はヒカチの血潮だ
雪よ降れ降つて夜となれあゝ一人こゝにも死ねぬ男のまなざし
エカシらがコタンに泣く日セカチらが神に祈る日北斗が死んだ日

3/4 * 『小樽新聞』の「文芸消息」欄に北斗の友人余市小学校「古田謙一」(謙二の間違い)が、遺稿集を出すべく準備中という記事が載る。 
3/8 * 余市の歌人、山上草人による北斗への追悼の短歌が『小樽新聞』に掲載される。

「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる
凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ
シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある
ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

3/21 * 江部乙の本吉心星による北斗への追悼の短歌が『小樽新聞』に掲載される。

何気なく古新聞を手に取れば死んだアイヌの歌が眼をひく

4/10 東京 金田一京助「違星青年」(東京日日新聞)掲載
4/25 * 幾春別の木芽伸一による北斗への追悼の短歌が『小樽新聞』に掲載される。

亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか
泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

6/9 余市 北斗の親友、中里篤治(凸天)が結核で死亡。
余市 バチラー八重子が、余市の北斗と中里徳太郎、篤治の墓に参り、追悼の短歌を詠む。

墓に来て 友になにをか 語りなむ/言の葉もなき 秋の夕暮れ
――逝きし違星北斗氏

※昭和5年の秋に詠まれた可能性もあるが、「若きウタリに」の金田一京助の序文が昭和5年の8月に書かれているので、おそらくこの年だろう。

1930
(S5)
28
(1)
5 東京

《余市小学校訓導古田謙二氏より遺稿が整理され、東京の希望社(発行者・後藤静香)から遺稿集『コタン』出版される。》

8 * 希望社の雑誌『大道』に後藤静香の追悼記事「コタンに泣く」が掲載される。

※この中で、遺稿集『コタン』の売り上げを「北斗農園」(リンゴ園)の設立・運営に用いることなどが述べられている。

8/5,6 東京 国柱会の新聞(『天業民報』に「違星青年を惜む」(田中蓮代)が掲載される。

※この中で、北斗が国柱会の三保の講習会に出入りしていたことが述べられている。

8/29 札幌 北海タイムズに北斗の追悼記事「同族のための熱の歌」が掲載される。
9/27 * 『小樽新聞』に稲畑笑治の「違星北斗遺稿 コタンを読む」が掲載される。

※この中に、北斗が生前、「同族と共に広くギリヤーク、オロッチョン俗の解放運動へ奮起すべき念願を蔵していた」という記述がある。

29
(2)
1931
(S6)
3/1 * 掲載『はまなすの花』第6輯(はまなす会)

●土方した肩のいたみをさすりつゝまた寝なほした今朝の雨ふり
※名のしれぬ花も咲いてゐた月見草も雨の真昼に咲いてゐたコタン

4/19 * バチラー八重子の歌集「若きウタリに」が刊行される。

※北斗への追悼の短歌「墓に来て 友になにをか 語りなむ/言の葉もなき 秋の夕暮れ」が入っている。また、北斗の遺稿集に掲載されている短歌が2首入っており、八重子は自分の作だと金田一京助に言っている。

7 * 北海道アイヌ協会設立(戦後設立された「社団法人北海道アイヌ協会」とは別組織)
12 * 掲載『北海道 樺太新季題句集』

●崖道をすぎてこゝにも干鰊
●石づたひ岩づたひなる山女釣り
※落林檎石の音して転びけり

1933
(S8)
31
(4)
1/20 * 掲載『ウタリの友』「春の若草」

 コタン吟(一)
※利用されるアイヌもあり 利用する/シャモもあるなり 共に憐れむ
●実を結ぶ為めに 散り行く 花ならば/なにを惜しまん なにか悼まん
※卑屈にも慣らされて居ると 哀れなる/あきらめに似た楽を持つ人々
 コタン吟(二)
※酒故か無智故かは 知らねども/見世物のアイヌ 連れて行かるゝ
※たち悪くなれとの事が 今の世に/活きよと云ふ事に似て居る
※仕方なく諦めると云ふ心/これがアイヌを亡ぼした心
※正直なアイヌだましたシャモをこそ/憫な者と 思ひしるなり

9 * 『ウタリの友』9月号の「ホロベツ便り」(タンネ・へカチ)に北斗の思い出が描かれている。
1940
(S15)
38
(11)
11/1 東京 山中峯太郎著『民族』発行。北斗をモデルにしたヰボシという青年が登場する。すぐに発行禁止になる。
1947
(S22)
45
(18)
1/30 東京 山中峯太郎著『コタンの娘』発行。『民族』を大幅に改稿したもの。
1951
(S26)
49
(22)
6/18 東京 阿部忍著『涙血』が発表される。違星北斗を主人公にした小説。
第1部 第1回「駒澤文壇」第2号(6/28)、第2回 同第3号(7/20)、同 第4号(9/10)
第2部 第1回「波」第2号(12/1)、第2回 「波」第3号(S27,1/1)、第3回 「波」第4号(2/1)、第4回 「波」第5号(4/1)
1954
(S29)
52
(25)
8 札幌

《「違星北斗の会」(代表・木呂子敏彦)により「違星北斗遺稿集」(12頁)が刊行される。同誌にて「違星北斗歌碑」建設を呼びかける。》

1955
(S30)
53
(26)
3/6 札幌 NHK札幌放送局でラジオ番組『光を掲げた人々』で「違星北斗」のラジオドラマが放送される。
※実現に際しては、「違星北斗の会」の木呂子敏彦の働きかけがあった。
1963
(S38)
61
(34)
9/4 東京 湯本喜作『アイヌの歌人』出版、北斗が紹介される。
※実際の調査には谷口正氏が当たったという。
1967
(S42)
65
(38)
2 * 向井豊昭が短編小説「うた詠み」を「文学界」2月号に掲載。その中で北斗のことが語られる。
10 * 「山音」48号に早川勝美の「違星北斗の歌と生涯」が掲載される。
1968
(S43)
66
(39)
11 二風谷

《日高の平取町二風谷小学校校庭に「違星北斗の歌碑」が除幕される。表に

 沙流川ハ 昨日の雨で水濁り コタンの昔 囁きつゝ行く 平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてたいものを

の二首が金田一京助博士の書で刻まれ、制作は田上義也が担当する。》

※本来、二風谷小学校の改築工事とともに建立されるはずであったが、諸般の事情により昭和43年まで遅れたという。実現には、萱野茂氏の協力があったという。

1972
(S47)
70
(43)
6/15 * 新人物往来社「近代民衆の記録5アイヌ」に『コタン』が収録される。
1973
(S48)
71
(44)
5/30 * 『殺人者はオーロラを見た』(西村京太郎)に違星北斗をモデルにした「異星一郎」が登場。北斗のことも作中で紹介される。
1974
(S49)
72
(45)
2 * 評伝「放浪の歌人・違星北斗」(武井静夫)が「北方ジャーナル」 1976年2月号(〜6月号)に掲載される。
1977
(S52)
75
(48)
11/1 余市 違星北斗の句碑がモイレ山頂に建立される。『春浅き鰊の浦や雪五尺』の句が刻まれている。余市町の沢口教育長が寄贈、揮毫もした。建立作業は町教委職員が勤労奉仕、地元町民も協力した。
1980
(S55)
78
(51)
11/10 * 北海道文学全集11巻に『コタン』が収録される。
1984
(S59)
82
(55)
1/1 * 草風館より、『違星北斗遺稿 コタン』刊行される。
1995
(H7 )
93
(65)
3/15 * 草風館より、『違星北斗遺稿 コタン』増補版刊行される。
2002
(H14)
100
(71)
* * 日本書籍の教科書「中学校社会・歴史的分野」に違星北斗の名が載る。
2004
(H16)
102
(73)
10 * 違星北斗研究会が「違星北斗.com」開設。
2006
(H18)
104
(76)
7/23 * 青空文庫で違星北斗の「北斗帖」が公開される。
2007
(H19)
105
(78)
6/5 * wikipedia日本語版に違星北斗の項目が出来る。
2008
(H20)
106
(79)
10/15 * NHK「その時歴史が動いた」知里幸恵の回で、違星北斗の名前と顔写真が紹介される。
11/12 * 小学館「SAPIO」誌掲載の「ゴーマニズム宣言」の中に違星北斗が登場する。
2010
(H22)
108
(81)
3/11 * 講談社「現代アイヌ文学作品選」(講談社文芸文庫)に違星北斗の短歌・俳句が掲載される。
2011
(H23)
109
(82)
2 * 北斗研究会が、ツイッターで「違星北斗Bot」(kotan_bot)を開始。
2012
(H24)
110
(83)
2 平取 アイヌ民族党が結党され、その結党の理念に北斗の「アイヌと云う新しくよい概念を内地の人に与えたく思ふ」が引用される。
3/6 札幌 北斗が発見した「土偶」が、北海道開拓記念館(札幌市厚別)の「北の土偶」展(2012年3月6日〜5月13日)に展示される。
11/10 小樽 小樽文学館にて『企画展「違星北斗と口語短歌」』開催。

 各バージョンの『コタン』の年譜について

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