金田一京助「あいぬの話」
いま一人、もし親しくその人に会ったら、これこそ本当に知謀本邦の人にも劣らずとだれでもいわずにおれない人に、余市の中里徳太郎君があります。
年少のころから、村の老酋長を助けて、その知恵袋とも、懐刀ともなって余市のアイヌ部落をして今日あらしめた有力者であります。
余市のアイヌ部落のために、土地払い下げを願い出たり、余市部落の互助組合を組織したり、そのためには役場へお百度をふんで、町役場ではだめと見切りをつけて、札幌に出て道庁に願い出てみたり、そのためには幾年の努力、身銭をきって奔走し(中略)千辛万苦、ついにみな目的を達して、巨万にのぼる、村の共同財産というものができ、今でも部落の人の仕事をする時に資金の融通ができたり、和人の町屋と軒をならべていて、少しの遜色もないほどに、余市部落の生活を向上させた功労者、しかも身を奉ずること薄く、町の名誉職をしながら自分自身、家計はいつも苦しく、苦しみ通して村の捨て石になって死んでいきました。
この中里君には、涙なしに聞くことのできない一場の物語があります。中里徳太郎君の先代は、徳蔵といって、これが、これがまた余市のアイヌの傑物だった。明治の初年、租税を収めるのに、当時のアイヌの人たちは、もっぱら漁をしていたので、その漁した魚で収めるものだった。その秤をとる人は、役場にも信望があり、アイヌにも信望がある人でなければならなかった。それまでは、和人がその役をしていたが、徳蔵翁の時になって、徳蔵翁自身がその任にあてられたほど、両方から信望をあつめていた人だった。
ある年、大雨で余市の大川へ、木材がどん/\流れてくるから、大川口のアイヌ部落の人々が鳶口をもって流失する木材を止めては陸に積んでおいた。木材屋がそれを受け取りに来て滞りなく渡し、いつもの例で木材屋のほうから一同へ酒を祝ってその労を感謝した。木材屋の手下の男だちと、アイヌ部落の人たちと、主客歓を尽くして、ぼつ/\散会する時だったそう。徳蔵翁も座をたってそして帰りかけて、入口でまご/\していた。それをだれかが見とがめて、
「何をしてるんだ」
「いや下駄がないんだ」
「はいて来たのかい。はだしできたんじゃないか」
「はいて来たんだ」
「何いってる、アイヌははだしなもんだ。下駄なんかはいてくるもんか」
「いやほんとうにはいて来たんだ」
「うそだ」
「ほんとうだ」
「生意気だ」
というようなことから、何だかんだと喧嘩になり、穏和な徳蔵翁も憤慨をして、理も非もわきまえない三人、五人の酔っぱらいにかゝられて相手をすると強い。手もなく投げ飛ばして帰ろうとしたからたまらない。生意気だとばかり数十人が手に手に鳶口をもって取り囲んでめったうちにしたから、多勢に無勢、徳蔵翁、命から/゛\、荒物屋をひらいていた役場の小遣いの家へ駆け込んでやっと助かった。
その時、一子徳太郎は九つの遊びざかりの少年だった。遊びに夢中になっているところへ迎えが来て、驚いて荒物屋へ来てみると、父は血まみれの虫の息、「おゝ徳太郎か」とばかり、身を起こして、しっかりと、その膝の上へわが子を抱いた。
徳太郎少年抱かれながらこわ/゛\に仰ぐと、父の頭から髪の毛を伝って真っ黒な血がぽた/\と自分へあふれたそう。そして父はひしと一人息子を抱きしめて、いうのに、
「男の子は九つにもなれば一人前の魂はあるものだ。お前も九つにもなるんだから父さんの遺言をよっくきけ。父さんは残念なんだ。徳太郎、お前、早く大きくなって父さんのあだを討て! いいか忘れるな。あだを討つのだぞ。が、勘違いをしてはいけない。刃物三昧のあだ討ちならたやすいが、父さんのいうあだ討ちはそれじゃないんだぞ。いいか。理不尽に、父ちゃんたちが、こんな目にあわされるのはなあ、父ちゃんたちが読み書きがないところから、無学文盲なところから、ばかにされてこうなんだ。くやしい。お前はなあ、明日からでも、すぐ学校にいって、うんと読み書きを習うんだ。そしてなあ、早く和人並みになって和人を見返してやれ、それが父さんのあだ討ちだぞ、忘れるなよ」
それからです。徳太郎少年は、毎日毎日役場にいって、
「どうか学校へ入れて下さい、入れて下さい」
と、お百度をふみました。
当時、学校はあったが、和人の子のための学校で、アイヌの子の入学はだれも考えてさえいなかった。したがっていくら頼んでみても、アイヌの子だからと捨てて顧みなかった。少年は追い返されても懲りず、毎日いっては、
「学校へ入れてくれ、入れてくれ」
と、役場がひけるまで帰ろうともしなかった。ついにそのうちに、
「なに、感心なことではないか、悪いことでもないし、それほど望むなら入れてみたらどうかね」
という役人が出て来て結局「よろしい」と許された。少年の喜びは想像にあまりある。文字通り一心不乱に勉強をはじめた。が、やっぱり、
「アイヌの子のくせに生意気だ」
「こゝはお前のくるところではない」
「帰れ、帰れ」
でなければ、二言目には
「やいアイヌ、こらアイヌ」
と、はやされ、のゝしられ、きらわれ、侮辱され、涙をぽろ/\落としながら帰宅しい/\した。ある時はあまり腹がたって、
「もう、こんなところへ、二度とくるもんか」
と思って帰るものの、一晩寝て考えると、親父のことばがあり/\とよみがえって来て、朝になると、「なにくそ」と元気になってまた出かけたものだったそうです。
しかし、一心というものは恐ろしいもの、それに周囲の迫害がいっそう少年の涙と血をわき立たせて奮闘の力へ拍車をかけたから、一年から二年へは泣いて暮らしたそうですが、二年から三年とたつうちに、ぐんぐん同僚を抜いて首席でおし通し、四年の時には先生の代りに同僚を教えたり、手本を書いてやったりなどするようになったから、もう今度は、誰も「アイヌ、アイヌ!」といわず、その代りに「中里、中里」と呼んで親しまれもし、尊敬もされてついにずる/\とそのまゝところてん押しに世間におし出されてみると、いつか余市町の牛耳をとる人々も昔なじみの同窓だったり、仲間だったり、後輩だったりするものだから、知らぬ間にそれらの人々と余市町の名誉職などを勤めるようになっていた。
大正七年の夏会って、私は本人の口から逐一その昔話を聞いたのである。余市の青年の崇拝の的で、その家が青年道場ともなり、自身で老青年団長として、身をもって青年を教え導いていたのでした。
こういう人々は、もちろん国の歴史のページには載らない人々です。その地方地方の、尊い捨て石になっていく人、自分自身ちっとももうけずに村を富まして無言で死んでゆく人、こういう人こそ、しかし本当に国家の必要とする人々ではないでしょうか。
(中略)
さていま一つの余市の方はというと、中里徳太郎君の息のかゝった余市の青年に違星竹次郎君がありました。中里徳太郎君の感化をうけて、力強くアイヌに目ざめ、勤労のかたわら、みずから雑誌を作って同村内の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語(モットー)として、よき日本人にという題字を掲げてまっすぐに同化の一路を進む方針であったものでした。しかし違星竹次郎青年のそうなるまでには、それはなか/\、たいへんな苦悩を体験した結果でありました。
生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育ったのだそうです。八つで小学校にあがって、他の子供から「やいアイヌ、アイヌのくせになんだい」といわれて、泣いて家へ帰って、両親へわけをたずねて、はじめて自分たちがそういうものだということを知ったそうです。それまで、何の曇りもなく無邪気に育ったものが、こゝに至って急に穴の中へさかさに突き落とされたよう、「どうしてアイヌなんどに生まれたんだろう」と、魂を削られるように悩みつゞけて成長しました。
自分が通るのをみると路傍の子供などまで、「アイヌ、アイヌ」というものですから生意気ざかりの年ごろには、「アイヌがどうした」と立ちもどって、なぐりとばして通ったこともあったそうです。子供が意外な顔をして、打たれてびっくりして泣いた様子が、あとまで目について、打たれたよりも苦痛だったと申します。腹立たしく町を通ると、自分を目送りして「アイヌ、アイヌ」とさゝやいたのが、こっそりさゝやくのも、早鐘のように耳をうち、口をとじていわないものでも、眼がそういって見送ったように思え、行きも、返りも、昨日も、今日も、毎日毎日のことですから目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、ついには病身になり、血をはきなどして、世をのろい人をのろい、手あたり次第に物をたゝき割って暴れ死にたくなったそうです。
村の人の話では、当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、まっくらな嵐の晩に磯の岩の上にすわって、一晩尺八を吹いていたこともあったそうです。
しかるに、竹次郎青年、ある日ふと隣村の青年会へ演説してくれと呼ばれました。病気だからと一度は断ったが、むしゃくしゃ、込みあげている、日ごろの鬱憤を爆発さして、毒づいてやろうと、二度目に承知していったそうです。たま/\村の学校が会場で、教員室に入って控えていると、学校の先生が、「ちょっと君に聞きたいことがある」といって次の室へ呼んでいうのには、
「いつかだれかに一ぺん聞こう/\と思って、つい聞きそぐれていることなんだが、我々は、いうまいと思うけれど、必要以上いわなきゃならないことがあるものだ。もしいわなければならなくっていう時には『アイヌ』といった方が君たちに聞きよいか、『土人』といった方が聞きよいか、君たちに、どっちの方が聞きよいのだろうか」
ということだったそうです。
それを聞いた違星青年は茫然として、はいといったまゝ、しばらく面を伏せて、
「ありがとうございます。さようですか、そういうお心持ちでおっしゃってくださるなら、アイヌでも、土人でも、どちらをおっしゃってくだすっても、少しも痛くはありません、どちらでも結構です」
といってほろりと落涙しました。
こゝです、わずかばかりの心づかいですが、人間一人を救ったやさしい心づかい、この青年がこれをきっかけに心機一転するのです。
やがてベルが鳴って時間になって、演壇に立った違星青年は、
「諸君、我々はまちがっていた、ひがんでおりました。和人の中にもアイヌという一語を口にするのに、このくらい心づかいをしていてくださる方が、少なくともこゝにお一人あったのです。私は今の今まで、こういうことのあるとは思いもよりませんでした。石だから石、木だから木、アイヌだからアイヌというのに、何の不当があろう。一々それを侮辱されるものに思ったのは、我々がアイヌでありながら、アイヌであることを恥じていたからだ。自分の影法師に自分でおびえていたのだ。一人の心は万人の心だ。世間が広いから。我々の経験が狭いから。してみれば、我々の久しい悩みは、我々自身の暗愚なひがみが、これをかもしていたのじゃなかったか! 私はあやまる!」
声涙ならび下り、感動と悔悟に嗚咽して、涙にぬれたこぶしをふるって、たゞ怒号したそうであります。
好感、憤りは物みな焼かずんばやまざらんとした熱血男子、悔悟する時に滂沱として衆目の前に号泣したものだったそうです。
この青年を囲繞(いにょう)する現実は、昨日も今日も塵一つ増減したものがなかったのですが、しかも、青年の目に、それ以来、世の中が一変したそうです。
その心をいだいて会ってみると、昨日まで無情に見えた和人も、存外柔らかに温かい手ざわりを覚え、我から進んでにっこり握手することができたそうです。
そして驚いたことには、血まで吐いた病気もぐんぐんなおって、大いに村のために茶話会を斡旋して開いたり、茶話会の機関誌を、謄写版でてずから造って若い人々を啓発するに努めたそうです。
たま/\東京に出て来て私などにはじめて会い、アイヌというものは、おそく生まれた弟のようなもので、這い/\していても恥じることがないどころか、人間生活の太古の姿を偲ぶ貴重な生活事実であって、我々が真剣にそれを研究しているのだ。そればかりではない、アイヌはひょっとして白人種かもしれないのだよ。そういうことになったらアメリカで、日本人の人種問題がなくなってしまうではないか、などいうような話を聞かされて、アイヌであることをのろう今までの気持ちからぷっつりと蝉脱して、天真爛漫、だれにも愛されて、愉快な東京生活をつゞけておられたのでした。
しかるに、まっ正直な違星青年は、東京には私ほどのものは箒で掃くくらい、箕で簸(あお)るくらい、沢山ある。いや沢山ありすぎて、就職難を告げているのに、私なんどが、アイヌのくせに、和人ぶりをして、その席をふさいでいるのは申しわけのないことだ。
私がアイヌでなかったら、だれがこんな高い月給で使ってくださるか。アイヌなものだから、かわいそうにと同情して、何もできもせぬものにこんな高給をくださるのだ。おめ/\頂戴しているのは申しわけのないことだ。それでなくってさえ、アイヌ部落にいるのをきらって、少し目がみえてくると、みんな部落を飛び出して、よその飯を食うので、いよ/\部落はつまらないものだけが残る。アイヌを見に部落に来てくださる人はアイヌといってつまらない人間だと見て帰られるわけだ。祖先に申しわけのないことだ。
これは、帰って同族の世話をもみ、また同族のことを詳しく知って、東京のご好意の先生がたにご探索の労の一助とでもなるべきだ。
そういって北海道に帰ったのでしたが、からだを虐使し、若い時にやったことのある肺結核を再発させ、
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
の詠を残して世を去りました。
(中略)
違星竹次郎君の無二の親友が、中里徳太郎の一子、徳治でした。父の太っ腹だったのに比して、これは、俊敏細緻、よく父の偉業を受け継いでほとんど一人で互助組合のことにあたって、過労のあまり、病に倒れて、惜しいことをしましたが、この人々の涙ぐましい努力のあとは、決してそのまゝにやんでしまいません。子供たちにも利口な子らがありますし、余市だけはアイヌ部落も和人町に伍して遜色なく健全に日本化しております。
金田一京助随筆選集2『思い出の人々』より。