目覚めつつあるアイヌ種族      伊波普猷


 又吉〔康和〕君!

 御無沙汰してゐます。『おもろさうし』の校正に忙殺されて、この頃はどなたにも失礼してゐます。どうか貴誌〔『沖縄教育』〕をとほして、私が健在であることを皆さんにお伝へ下さい。私の近状を知らうとする人々の為に、私はこの一篇を書くことにしました。

 今回金田一京助氏の「アイヌ研究」が出版されましたのを機会に久しぶりで本会を開催し金田一氏をお祝ひすると同時に本会の経過をお話致したいと存じます。御出席をお待ちします」といふアイヌ学会からの通知を受取つて、三月十九日の晩、永楽クラブにいつて見ますと、アイヌ研究に熱心な二十名近くの会員が集つてゐました。

 晩餐は済んで、いよ/\講演が始まりました。博文館の中山太郎氏の挨拶があつて、金田一君の「アイヌの現状」についての講演がありましたが、ほんとに花も実もある講演でした。同君は単にアイヌの言語や土俗の研究者であるばかりでなく、その内的生活・文化学的方面の研究に指を染めて居らるゝ篤学者で、こゝ一二代のうちに全く地上に其影を収めて了はうとしてゐるアイヌに対して多大な同情を有つてゐる人です。今その話をかいつまんで見るとかうです。

 北海道のアイヌは虐げられた種族である為に、気が弱く、気を兼ねたり、気を廻したりする所から、危懼を懐いたり、疑心を生じたり、勢ひ猜疑心が離れず、外に対して疑深いと共に内に対して兎角反目嫉視をする、従って大同団結をしかねる。少し秀でた者でも出て統一でもするやうな形勢が見えると、近隣から猜んで邪魔をし、双方共倒れになるといふやうな事で、遂に本統の大統一がなかつたから、国家生活を知らなかつた。その結果でもあらうし、又その原因ともなつたであらうが、家族的愛の濃かなのには似ずに公衆の愛といふやうな現はれは認めがたく、慈母孝子の感情があつても、公正の感惰、公明な感情といふやうな方面が遅れてゐるやうである。偶々祖先崇拝の一面が同党異伐の風を助成し、祖先を異にする部落々々の間の断える間のない毎代の侵掠・攻伐に、恩讐愈々深く結んで解けがたく、交る/\ Topattumiと称して夜忍び込んで寝首を掻き、財貨は掠め取つて家へは火をかけて一村を焚き払ふのであったから、殆ど生命財産の安固がなかつたのである。之が為愈々今日主義の低い生活程度に止まつて、専業といふ事なしに誰も/\同じ生活を繰返すから、個性の発達がなく文化の進歩が遅かつたものと見える。かういふ世界へ、五百年来不断に侵入した生活の競争者は、内地を食ひつめたあぶれ者、為さゞる所なく忍びざる所なき、慾に目のない我利我利が、家財を売って路銀とし、一かばちかの運だめしに生き馬の目を抜き兼ねまじき勢でやつて来る、無責任な狡猶な、商人と其手先の無頼者だちであつたのである。漁利のある磯浜は段々蚕食され、否あらゆる浜は大抵の取られて山手へ退鼠し、俄に漁利を失つて日常の生活に苦むやうになり、悪疾が浜の人達から入つて来ては、医者が無いことであるから、若し流行病でもあつた場合には、暮に豪族が跡を絶し、旦に大きな村が空つぽになるといふやうな惨劇に襲はれたのである。其も、昔の本州に居た蝦夷族のやうに、政府の懐柔策の下に優待されて、位を貰ったり、官職を得たり、そして優良の文化に浴させられつゝのことなら、前九後三の当時の蝦夷のやうに、強くもなりえらくもなられたであらうが、津軽の荒潮を隔てた蝦夷が島の蝦夷は、幸か不幸か、それが無かつた。室町時代には松前氏が渡島の南端に拠つて全蝦夷地を支配するに至つても、松前氏が僅かな城下の侍で数百倍ある全道のアイヌを制禦することの困難だつたが為に、寧ろ之を愚にして置いて治め易からしめんとする政策を採つたから、誘導啓発する代りに、文字や邦語を伝へることを厳禁し、笠や穿き物をも禁制するなど、その向上を抑止する上に酒や煙草の嗜好品で、その生活を靡乱さしたやうなものである。故にこの四五百年のアイヌは、文化の高い和人に接して文明の光に沽ふ代りに、文明の害毒に傷けられ、年中自分の煙草や酒に追ひ使はれるやうな自縄自縛に陥つて、あがき苦みながら見る見る衰滅して行つたのである。ところが明治になつてから、彼等の間に中里徳太郎といふ偉大な一人のアイヌが生れた。彼の出現はアイヌ種族に取つては、実に空谷の跫音であつた。彼は率先して新時代の教育を受けアイヌの頽勢を挽回すべく奮闘した。其後アイヌの中から中等教育を受ける者が輩出し、今日では師範学校を卒業して、教鞭を執つてゐる者が数名に及んでゐる。けれども和人(シャモ)の児童の父兄達の中に自分達の子弟をアイヌに教育させ事を快しとしないものがある為に、これらの青年教育家は、大方山間にあるアイヌの分教場などに追ひやられて、いつしか酒色の為に身をもちくづして了つた。外にアイヌの恩人と呼ぱれるバツチエラー師の感化を受けたクリスチヤン・アイヌの一団があつて、『ウタリ・クス」といふ機関雑誌を発行してアイヌの為に気焔を吐いてゐるが、これにはいくらかアンテイジヤパニーズの思想がほの見えてゐる。それから近頃中里氏の落部の余市(よいち)のアイヌの中から自覚した青年アイヌの一団が産声を挙げた。彼等はアイヌを恥とせず、アイヌから出発してよい日本人にならうとする連中で、『茶話誌』といふ機関雑誌を発行して、熱烈にアイヌ道を絶呼してゐる。このグルーブの一人が先日突然自分を訪問して来た。二十五歳の青年で、違星滝次郎といつて、『アイヌ神謡集』の著者知里幸恵女史を男にしたやうな自覚した青年である。今晩実は違星君に何か話して貰はうと思つて、御同道を願つたのである。

 
この時、一同の視線は、この青年アイヌを物色しようとして、盛に交叉されました。やがて金田一君の招きに応じて、自席を立つたアイヌは、晩餐の時、私の向ひに座つて、上品にホークとナイフとを動かしてゐた眉根が高く隆起し、眼が深く落ち込んでゐて、私に奄美大島の人ではないかと思はせた青年でした。彼れは流暢な日本語で、しかも論理的な言表し方で一時間ばかりウタリ・クス――吾等の同胞――について語り、少からぬ感動を一同に与へました。

 彼の演説の一半は「ウタリ・グスの先覚者中里徳太郎を偲びて」の題で彼自身の筆で発表させることにしましたから、ここには、たゞその要領だけを紹介することにしませう。

 「私は違星といふアイヌです。私が生れた所は札幌に近い余市(よいち)といふアイヌの村落ですが、この村落は早く和人に接触したのと、そこから中里徳太郎といふ、アイヌきつての豪傑を出したのとで、アイヌの村落中で一番能く日本化した所です。小民族が大民族に接触する場合にはどこでもさうでせうが、そこには幾多の悲惨な物語が伝へられてゐます。私の母は若い時分に和人(シャモ)の家で下女奉公をしてゐましたので、日本語が非常に、上手でした。母は夙に学間の必要を感じて、家が貧乏であつたにも拘らず、私を和人(シャモ)の小学校に入れました。この時全校の児童中にアイヌの子供は三四名しか居ませんでしたので、アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました。学校にいかないうちは、餓鬼大将であつて、和人の子供などをいぢめて得意になつてゐた私は、学校へいつてから急にいくぢなしになつて了ひました。この迫害に堪へ兼ねて、幾度か学校を止めようとしましたが、母の奨励によつて、六ケ年間の苦しい学校生活に堪へることが出来ました。もう高等科へ入る勇気などはとてもありませんでした。私は地引網と鰊(にしん)とを米(こめ)櫃(びつ)としてゐた父の手伝へをして、母がいつも教訓してゐた、正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。けれどもいゝ漁場は大方和人のものになつてゐたので、生活の安定はとても得られませんでした。一方同族の状態を顧みますと、汗水を流してやつと開拓して得たと思ふ頃に、折角の野山は、もう和人に払下げられて、路頭に迷つてゐるアイヌも大勢ゐました。そこで私は北海道はもと/\アイヌの故郷であるのに、この状態は何だ、といつて、和人(シャモ)を怨み、遂に日本の国家を呪ふやうになりました。私はこれをどうにかしなければならないと思って、兎に角もつと学問をして偉くならなければならないと決心しました。それから私は漁猟のひま/\に、雑誌や書籍を読んで、自修することにしました。或時私は医学博士永井潜氏の論文の中に……一民族と他民族とが接触する時、恐ろしいのは鎗や刀や弾丸ではない、実に恐るべきは微生物の贈物である。一八〇三年に英人が始めてタスマニヤ島に殖民した当時、土人は六千人ばかりゐたが、二十五年経過すると、二三百人となり四十四年目に四十人となり、七十三年即ち一八七六年には最後の純タスマニヤ人が地球から一人残らず死滅して了った。これ全く結核菌とアルコールの為である。和人と接触したアイヌが亡びつゝあるのも、これが為である、云々、といふことがあるのを見て、今更のやうに驚きました。そして私は残つてゐる一万五千のウタリ・クスの為に、一生を捧げる決心をしました。爾来私は言語風俗習慣の点に於て、和人と寸分も違はないやうになるのが気がきいてゐると考えて、事毎に模倣をこれ事としました。内地から来る観光団が余市にやつて来て、その日本化してゐるのを見て、何だ、ちつとも違はないぢゃないか、と失望して帰るのを見て、幾度腹を立てたか知れません。かういふ調子で、私はアイヌといはれるのを嫌ひ、アイヌ語をあやつるのを恥ぢたので、かんじんな母語を大方忘れて了ひました。或晩札幌の夜学校の終業式に列席してゐますと、或る先生が演説を始める前に、私の名を呼んで、違星君! 私の演説中に和人に対して便宜上あなた方をアイヌといふ名称で呼ばなければならない場合があるが、アイヌといつた方がいゝか土人といつた方がいゝか、どちらがいゝ気持がするかと、きかれたので、実はどちらも面白くないとは思ひましたが、えゝどちらでも差支ありませんと答へましたものゝ、心中ひそかに自分がいくぢのないのを恥ぢて、家に帰つた後でさめ/\゛と泣きました。アイヌにはもと人間とかいゝ人間とか紳士とかいふ意味があるのに、何故自分はさういはれるのを嫌ふだらう、五百年間にアイヌの本義が忘れられて、侮蔑の意味に使はれてゐるとしたら、故更にアイヌといふ名称を避けずに、そのまゝ使ひながら、自分が偉くなり、ウタリ・クスの位地を高めて、アイヌの本来の意味を取り返すやうに努力したがいいではないかと考へました。私は此頃天下の耳目を聳動させてゐる水平運動を尊敬してゐますが、私にはこの人達がヱタといふ名称を嫌ふ心理がよくわかります。けれどもこの人達がヱタといふ名称をそのまゝ使用されたら、もつと勇しいことであると思ひます。私は最初アイヌとして自覚した時、アイヌの恩人のバツチエラー先生の所に走らうかと思ひましたが、外国人にたよるのは日本人として面自くないやうな気がして、なるべくなら、ウタリ・クスに同情を寄せて下さる和人の所にいつて教を受けたいものと思つて、ひかへることにしました。さういふところへ、金田一先生が、アイヌの内的生活の研究者で、アイヌに多大な同情を有つて居られるといふことを聞いて、着京早々先生を訪問したが縁となり、今晩こゝで皆様に御目にかゝることが出来て、嬉しく存じてゐる次第です。実は北海道にゐた時分、日本人の中にはアイヌに同情を寄せる人があるということを聞きましたので、土着心のない北海道移住民が日本人の代表者でないといふことに気がついて、私の過激思想は全くなくなり、今ではよい日本人となつて、アイヌのため日本のために、何かやつて見たいといふ気になつてゐるのです。」

 一同は少からず感動しました。アイヌは五以上の数は数へることが出来ないなどと聞かされてゐた私たちの知識は、見事に粉砕されました。これからこの青年アイヌを取囲んで座談が始まり、彼等の機関雑誌が机上に陳列されました。私は違星君に握手をして、私は君の郷里と反対の方向の琉球から来た伊波といふものだが、君の気持は誰よりも私には能くわかる、といつたら、非常に喜びました。中山氏が伊波君を除くの外こゝに居られる人々の血管の申には、違星君と同じ血液が流れてゐる、といはれたので、否私の血管の中にはかへつて余計に流れてゐるかも知れない、私の『古琉球』を見て御覧なさい、〔エルウイン・フオン・〕ベルツ博士や〔ルドウイヒ・〕デーデルライン博士やその他二三の学者は、奄美群島や沖縄諸島の人民の血管の中に、アイヌの血液が流れてゐるといつてゐる、といつたら、一同はくす/\笑ひました。そして違星君は満足さうに笑つてゐました。あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。適当な文句だと感心した人もありました。後で違星君が私の前にやつて来て、其意味をきゝましたので、それは支那の国子監で琉球の学生の為に設けてあつた特別教室の入口の両側に掲けてあった聯で、人種が異なり、言語が異なり、風俗習慣が異つてゐても、人情や道理が異なる筈はない、それさへ同じければ、何処の人間でも同じ様に教へることが出来る、といふことだと、説明してやりましたら、これは我々アイヌの為に特にいつて呉れたやうな文句だ、といって喜びました。先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。

 会は十一時頃済みました。私はこの青年アイヌと話しながら帰りましたが、いゝ知己を得たといつて喜んでゐました。彼はその後二度私を訪問して、自分等の同族についてくはしく話してくれました。そしてその機関雑誌の『茶話誌』や『ウタリ・クス』を全部揃へて来て、見せて呉れました。この二誌に現はれてゐる青年アイヌの思想を調べて見ますと、時代が時代だからでもありませうが、「沖縄青年雑誌」に現はれてゐる明治二十三年頃の東京沖縄青年の思想よりは遙に進んでゐるやうです。『茶話誌』創刊号に載って居る違星君の宣言「アィヌとして」は実に堂々たる大文字です。尋常小学の教育しか受けない者が、あんな文章を書くとはたゞ驚くの外ありません。それから『ウタリ・クス』の第三号に出て〔ゐる〕向井山雄といふアイヌの「彼と我と」といふ論説は、最も進んだアイヌの叫び声で、何処に出しても恥かしくない新しい思想だと思ひます。違星君の話によると、向井氏は基督教の神学校を出たアイヌであるとのことです。それから婦人の間にも中々偉い人が出てゐます。どこかのアイヌの酋長の娘で、バツチエラー博士の養女になつてゐる八重子といふ人がありますが、この人はかつて米国にも渡つたことがあるので、英語が達者で、日本語はそれ以上に達者だといふことです。この人は美術を解し、文芸を語り、中々趣味の多い人ださうですが、近頃同族の為に中等学校設立の必要を感じて、資金調達の運動に取りかゝつてゐるとのことです。彼女の「ウタリー姉妹の方々に」といふ檄文は、実に条理のたつた立派な文章です。それから『ウタリ・クス』の姉妹雑誌に『小さき群』といふ文芸雑誌のあることも見逃してはなりません。かういふやうな雑誌は探り〔し〕たら、方々にあるかも知れない、と違星君はいつてゐます。その他アイヌの中には著書をした者が二三あるやうです。先年私は北海道の師範学校を卒業した武隈徳三郎といふアイヌから、その著書『アイヌ物語』を贈つて貰つたことがあります。二年前郷土研究杜から炉辺叢書の一として『アイヌ神謡集』が出たことは御承知でせう。この本の著者は、知里幸恵といふアイヌのメノコで、旭川の女子職業学校を優等で卒業した才媛でしたが、大正十一年の九月に二十一歳を一期として空しく白玉楼中の人となりました。先達違星君にあつた時、此の人のことを話しますと、実は東京に出て来るまで、アイヌの女性にこんな偉い人があつたといふことを知りませんでした、実に借しいことをしました、といつて涙ぐんでゐました。そして違星君は此の人の墓が雑司ケ谷にあると聞いて、二三日中に墓参にいかなければならないといつてゐました。今日の青年アイヌは男女共実に維新当時の志士のやうなものです。互に連絡を取りつゝ、亡び行く同族の頽勢を挽回すべく誓つてゐるやうです。違星君はこないだ始めてバツチエラー八重子女吏に手紙を出して、自分のことやアイヌ学会のことや、アイヌに対する同情者のことなどを書いて知らせたら、どうかウタリ・クスの為に自重して呉れ、との熱烈な返事を貰つたといつて、感激してゐました。私は彼に、雑誌を出して思想を宣伝するのもいゝ、著書をして、アイヌを紹介するのもいゝ、中等程度の学校を設立する運動をするのもいゝ、けれども君等の同族に取つての目下の急務は、同胞の間に這入り込んで、通俗講演をやることである、かういふ啓蒙運動は、いはゞ鍬をもつて士地を耕すやうなもので、かうして一種の気分が出来た暁でなけれぱ、君等が蒔く思想の種子は芽を出すものではないといひましたら、さういふことは始めて聞くが、是非さうしなければならないと思つてゐる。けれども自分はアイヌ語を全く忘れてゐるので、さういふ肝腎な場合には、とても間に合はない、どうしたらいゝか、といつて、ひどく悲しみました。私は彼に『古琉球』を一部やりました。そして我々の同胞も、アイヌと同じく、虐げられたものだが、日支両国の間に介在したお蔭で、両文化を消化して、自家の個性を発揮させることが出来、その上幾多のよい示導者が輩出した為めに、漸く日本国民の仲問入りをして参政権まで獲得したが三百年間の奴隷的生活に馴致された彼等は、その為に甚しくその性情を傷けられてヒステリツクとなり、アイヌと同しやうに、外に対しては疑深いと共に、内に対しては兎角反目嫉視して、党争に日もこれ足らずたうとう共倒れの状態となり、今やその経済生活も行詰つて、国家の手で救済されなければならない羽目に陥つてゐる、兎に角あの広土地にゐながら、一万五千のアイヌが減少する傾向があるに対して、六十万の琉球人があの狭い土地でいやが上に繁殖していくのは、いゝ対照である、と話したら、彼は目を丸くして驚いてゐました。

 又吉君!

 話が少々長くなりました。けれども君に取つては、アイヌの現状は恐らく初耳でせう。奇体な風習の蛮人と思はれたアイヌの中に、かういふ青年運動が始まつてゐると聞いて、奇蹟と思ふ人があるかも知れませんが、天孫人種をなやましたり、前九後三の役にあばれたりした彼等の祖先の活動を調べたら思ひ半ばに過ぐるものがありませう。彼等の祖先は、私達の祖先がオモロをのこしたやうに、ユーカリといふ美しい詩をのこしてゐます。そして今日のアイヌの村落も美はしい民謡が盛んにうたはれてゐるとのことです。面白いことには、今日のアイヌが私たちと同じやうに和歌を作つてゐることです。バツチエラー八重子女史も和歌を詠じています。これまで人種学上に於けるアイヌの位地は判然きまりませんでしたが、先年「有史以前の日本」で、鳥居〔龍蔵〕博士がアイヌは大魯(グレート)西亜人(ロシヤン)と蒙古人(モンゴリヤン)との混血児(あいのこ)であると発表されて以来、アイヌの中には自分らの血管の中にはアリアン人種の血液が流れてゐると信ずるものが出て参りました。現に違星君の如き、私と話してゐる間に、一二度さういふことを言ってゐましたした。なるほどさう思つてアイヌの爺さんたちの写真を見ますと、トルストイやクロパトキンそつくりの人が多いやうです。

 又吉君!

 私は青年アイヌの運動に多大な同情を有するものです。けれど世界の民族運動がその終焉に近いた頃に彼等がおくればせに雄ゝしくも最初から出発しようとするのを見て、一滴の涙なきを得ません。北斗君は『北海タィムス』が、アイヌの天国は酒に酔つてくたばる所にある、といつたといふので、怒つてゐましたが、私は一日も早く北海道が彼等の為に住み心地のいゝ楽土になつて、彼等がその個性を十二分に発輝することが出来ることを祈つてやみません。立派な環境さへ与へたら、彼等の中から、詩人も学者も政治家も踵を接して出て来るだらうと思ひます。

 又吉君!

 もう一二言のべて、私はこの稿を終りませう。私は違星君以外のアイヌにあつたことはないので、アイヌに関して十分なことはいへませんが、違星君が代表するアイヌは、陰気で沈痛で率直で芝居気が一つもないやうです。これは彼等が私たち南国人と選を異にする点です。御参考までに、『茶話誌』や『ウタリ・クス』を三四部おくりますから、これらを通じて青年アイヌの思想を見て下さい。後で学務課の方々や図書館の連中にも見せて下さい。私たちはこれまでアイヌを甚しく誤解してゐました。大方の人は彼等をその価値以下に見てゐるだらうと思ひます。どうか貴誌を介して、アイヌの真相を県下の教育家諸君に知らして下さい。これひとりアイヌの幸福ばかりではないと思ひます。

(大正十四年五月一日メーデーの夜、東京小石川の寓居にて


※『伊波普猷全集』十一巻より