日記」昭和2年問題について


 違星北斗は「日記」によると、昭和2年の8月、北海道に訪れた後藤静香に会っています。

 ところが、『後藤静香選集』第十巻の年表によれば、後藤静香が昭和2年の8月に北海道を訪れたという記述はありません。

 かわりに、前年の大正15年の8月に、後藤静香の東北・北海道巡講を行ったとあります。

 当初、これらは別々のことを記述したものかと考えましたが、この二つの記録を比べてみると、一年の時を隔てて、日付と場所がほとんど一致することに気付きました。

 もしかしたら、これは、同じ年のことであり、どちらかが年号を間違えているのではないか、と考え始めました。

 以下に両書の記述を比較してみることにします。

日付 後藤静香の年表(大正15年) 違星北斗の日記(昭和2年)
8月26日 (記述なし) 札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札
27日 札幌 午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。金をどうするかと訊かれる。
28日 小樽 雨、時々晴 小樽で後藤先生の御講演を聴く。
29日 小樽 (記述なし)
30日 夕張 (記述なし、ただし9/1に「後藤先生は卅日夜に通過されたのであった」とある)
31日 「アイヌ部落」 午後十一時卅二分上り急行で後藤先生通過になる筈。中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。併し先生は居られなかった。
9月1日 (記述なし) 今朝日程表で見ると後藤先生は卅日夜に通過されたのであった。
2日 八戸、森岡 (記述なし)
3日 花巻 (記述なし)
4日 仙台 (記述なし)
5日 福島、同夜東京 (記述なし)

 このように、旅程はだいたい一致するように思えます。27日札幌、28日小樽は完全に一致します。

 後藤静香年表の31日「アイヌ部落」、北斗の9月1日の記述「後藤先生は卅日夜に通過されたのであった」については、どのようなコースをたどったのかがよくわからないので、すっきりしない部分はあります。

 しかし、ここまで一致するとなると、やはりどちらかの年号が間違っていて、同じ年のことを書いているのではないか、と思えてきました。

 では、後藤静香の年表と、違星北斗の日記のどちらの年号が間違っているのか。単純に考えれば、希望社という組織の指導者であった後藤静香の年表の方が、信憑性がある気がします。

 もし北斗の方が間違っているのであればショックですが、いずれにせよ、ここはやはりもう一度、北斗の日記の日付の信頼性から考え直さなければならない。

 それは、これまでの大前提が崩れるようでぞっとしたのですが、反面、何か頭の中でいくつかの歯車が動きだし、かみ合ったような気もしました。

 これは、ひょっとすれば、ひょっとするかもしれない。

 私自身、現在の違星北斗の年表にスッキリしないものを感じていたのも事実です。

 どうも、大正15年から昭和2年にかけての北斗の動きが不自然です。日記に描かれているバチラー幼稚園にいた昭和2年の夏の日記が、どうも腑に落ちないというか、他の記録と違和感があるというか、温度差があるのです。

 もし・・・。

 日記の昭和2年が、実は大正15年の日記だったとしたら? 「コタン」編集の段階で間違ったという可能性は考えられないでしょうか。

 大正15年の8月といえば、まだ東京から戻ってきてさほど時間がたっていません。しかし西川への手紙で、大正7月7日に幌別についたという記述と、日記の始まりが「昭和2年」7月11日であるという記述は妙に胸騒ぎを覚えます。

 そういえば、北斗の筆致が妙に初々しく、感動に満ちている気がする。バチラー八重子の姿に感動し、知里幸恵の家を初めて知った、という。この感激は、どこかで見た気がする。北斗は、帰道後、幌別についてから大正15年7月25日に確かに沙流川の河畔で短歌を詠んでいるのですが、この感激具合が、ちょうどそれっぽい気がします。

 そう考え出すと止まりません。もし、日記の昭和二年の夏が、本当は大正15年の夏の日記だったら?

 そしたら、自分の中にあった違和感はすべてクリアになるような気がします。

 たとえば、あの不朽の名文といわれる「アイヌの姿」を書いたのは昭和2年7月2日。同人誌「コタン」の発行は昭和2年8月10日。発行は余市の中里凸天とであり、平取にいて幼稚園の手伝いをしていて出来る仕事ではないでしょう。とても重要な、すごみのある仕事をしている。昭和2年の夏には、すでに北斗の思想は固まっている。各地の同志と連絡を取り合い、活動をしていると見るべきでしょう。

 やはり、バチラー幼稚園云々は、帰道直後の日記ではないか、という気がします。 

 そして、極めつけですが、違星北斗の日記にはこうあります。

「(昭和二年)七月十一日 日曜日 晴天  平取にて

 今日は日曜日だから此の教会に生徒が集まる」

 この「昭和2年7月11日」曜日計算ソフトで調べてみると、「月曜日」と出ます。一方、大正15年の7月11日を調べると、「日曜日」と出ます。やっぱり、という感じです。念のため複数のソフトで調べましたが、同じ結果です。

 この後の曜日も調べてみました。

「コタン」の記述(昭和2年) 実際の昭和2年 実際の大正15年
7月11日 曜日
7月14日 水曜日
7月15日 木曜日
7月18日 曜日
8月 2日 月曜日
8月 4日 水曜日
8月11日 水曜日
8月13日 金曜日
8月14日 土曜日
8月16日 月曜日
8月26日 木曜日
8月27日 金曜日
8月28日 土曜日
8月31日 火曜日
9月 1日 水曜日
9月19日 曜日
12月26日 (曜日なし)

 曜日は大正15年の方に一致します。

 『コタン』所収の「日記」の、昭和2年の日記(の少なくとも一部)は、大正15年の日記である可能性が高い、と言えるんじゃないでしょうか。

 この仮定が本当だとしたら、いろんな不自然さが氷解すると思います。

 北斗は大正15年7月7日に北海道に帰り、その後すぐ、11日に平取でバチラー八重子の姿に感動し、そこでバチラー幼稚園と後藤静香のお金の問題に巻き込まれる。秋に余市に一時的に帰るが、その後平取に戻り、大正天皇の崩御を平取で聞く。その後昭和2年3月に兄の子の死とともに余市に帰り、そこからは余市を活動の中心としはじめます。研究、春から病を得ますが、夏には何とか治り、思想が完成して同人誌「コタン」や「アイヌの姿」ができるのが夏。バチラー八重子の影響を受けた短歌が、雑誌に載り始めるのが昭和2年の秋です。そして行商の旅と喀血と闘病。

 帰道後の北斗の動きは、こういう流れでしょう。これでだいぶスッキリしました。

 ただし、「昭和2年」12月26日(曜日は書いていない)は、昭和2年で正しい気がします。兄が感冒で寝ている、との記述があるので、北斗は余市にいるということです。もし、大正15年なら、前日12月25日に大正天皇の崩御があったわけですから、大変です。しかし、日記には何も書いてない。

   崩御の報二日も経ってやっと聞く 此の山中のコタンの驚き(「北斗帖」)

 この短歌に見るように、北斗は山の中の平取コタンで2日遅れの崩御の報を聞いたのです。12月27日には平取にいたということです。やはり、この12月26日は昭和2年の年末だとすべきではないでしょうか。

 北斗の思想はまず大正15年の7月7日幌別に腰を下ろし、そのまま平取に落ち着いたのでしょう。7月11日にはバチラー八重子の神々しさに感動し、7月25日には「オキクルミ」の歌を詠む。大正15年の夏、沙流川の河畔で得たポエジーは、バチラー八重子の影響を受けた短歌として、やがて奔流のように北斗の思想を世の中に示し、後のアイヌの活動に影響をあたえることになります。 

 大正15年夏から昭和2年の春まで北斗は平取にいます。ここでバチラー八重子とともにあり、知里幸恵の理想を実現すべく、思想を育み、活動の準備をしたのだと思います。ここで得た人脈はバチラー伝導団の人脈です。八重子、辺泥和郎、そして金成/知里家。あこがれの幸恵の弟、真志保と知己を得るのも自然な流れでしょう。アイヌ人口の多い平取で育った屈託のないアイヌたちや、和人の教師やキリスト教指導者、医師といった人格者の温かい視線たちに囲まれて、次第に思想が固まっていったのでしょう。(しかし、この温かい視線は、のちにコタン巡察での同族から冷たい視線にうってかわり、その落差が北斗を苦しめるのですが)。

「アイヌの姿」、同人誌『コタン』など、余市に帰った昭和2年の夏の北斗の仕事は、自信に満ちあふれ、北斗は「打って出る」体勢にあったといえるでしょう。短歌を発表し始めるのもこの余市に帰ってからのことです。

 まとめてみますと、

 ・これまで昭和2年の日記とされていたのは、大正15年の日記である。

 ・ただし、昭和2年の12月26日は昭和2年で正しい。

 これまで、平取余市間を何往復もしていて、北斗の動きがあわただしすぎて、「短歌」の制作年代が割り出しづらい状況があったのですが、今回、北斗の動きがシンプルになったので、今後の研究がやりやすくなると思います。