我が家名
私の三代ばかり前には違星家には苗字がなかった。私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より五十五六年前にモシノシキへ行ったのである。今こそ東京と云ふが、アイヌはモシノシキといってゐた(モシリは国、ノシキは真ン中)。まだ其の頃の事であるから教育も行き渡ってゐない。アイヌの最初の留学生十八名の一人であった。今だったら文化教育とか何々講習生といふものでせう。芝の増上寺清光院とかに居た。
祖父は開拓使局の雇員ででもあったらしい。ほろよひ機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。
その頃に至ってからやっとシャモ並に苗字も必要となって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の構矢となったのである。
戸籍を作った当初はアイヌ独特の名附け方法で姓名を決めたものも少くない。万次郎はイソツクイカシヘ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜の祖先伝来のエカシシロシが※であった。これをチガイに星、「違星」と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。
私はこの急にこしらへた姓名が、我が祖先伝来の記号からその源を発してゐたことは誠に面白く又敬すべきであると心ひそかにほゝ笑むのである。
※テキストは95年版『コタン』より
※初掲載は小樽新聞の「疑ふべきフゴツペの遺跡」連載二回目(昭和二年十二月二十五日)に「閑話休題」として掲載されたもの。「我が家名」のタイトルは希望社版『コタン』への掲載にともない付けられたものである。
※「先祖伝来のエカシシロシ」として「※」の表記があるが、これはもともと小樽新聞では「」となっていた。希望社版の編集の際に、「※」にされ、その間違いがそのままその後の版に受け継がれてしまったことになる。