違星北斗遺稿集



昭和29.8.10 印刷
昭和29.8.15 発行

  発行所

違 星 北 斗 の 会

札幌市北一条西十丁目

門 間 清 四 郎 方


 

  北斗を憶う

 彗星の如く現われ

 彗星の如く消え去つた

 違星北斗

 アイヌの石川啄木といわれた

 違星北斗は

 その青春多感の日を

 自己民族の研究と復興のために

 魂も 血も 肉も捧げつくした。

 北斗逝いて二十五年

 その悲しいまでの志は

 永久に地下のものであつて

 よいであろうか。

 彼の中途に於て挫折した志は

 我々今日、日本人の当面する

 民族的課題でもある。

 平等を希い、平和を求むる心

 それは自主と独立よりないことを

 北斗は喝破している。

 北海道の大自然に育まれた

 明治の先覚者内村鑑三も

 我々に自主と独立との

 道を示した。

 平和は何処よりくるか。

 「吾れアイヌ也」と叫んだ

 違星北斗の

 血みどろの生涯は

 我々世代に

 その全身全霊とを以て

 強くよびかける。

 自主と独立とをこそ。

獰猛な

  つら魂を

    よそにして

 弱い

  淋しい

    アイヌの心

      違星北斗


違星北斗年譜

明治三十四年余市に生まる。祖父万次郎は
 
アイヌ最初の留学生として東京芝の増上
 寺清光院に留学し、後に北海道開拓使の
 雇員となつた。
 姓の違星は、明治六年祖父に苗字を許さ
 れ、アイヌにとつて家紋ともいうべきエ
 カシシロシが
であつたので、これをチ
 ガイに星「違星」と宛字をしたものとい
 う。
 
北斗は号で、本名は滝次郎である。一歳。

明治四十一年 尋常小学校に入学。担任の
 奈良直彌先生に愛せられ、終生その精神
 的指導と影響を受く。         八歳。

大正三年 同上卒業         十四歳。

大正六年 夕張線登川附近に木材人夫とし
 て出稼ぎ               十七歳。

大正七年 網走船大誉地に出稼ぎしたが、
 病を得る。               十八歳。

大正八年 石狩鰊場に漁夫として出稼ぎを
 したり、登村に柴刈に働きに出かける。 
                      
十九歳。

大正九年 畑を借りて茄子作りする。途中
 で病気再発。             二十歳。

大正十一年 徴兵検査に甲種合格 
                     
二十二歳。

大正十二年 朝里等にて落葉松伐採に従
 事。病気をする。
 
七月 旭川輜重隊に輜重輸卒として入隊
 八月 除隊す。上京を計画するところあ
 つたが、関東震災のため中止。 二十三歳。

大正十三年 沿海州に出稼ぎす。 二十四歳。

大正十四年 西川光次郎氏及び高見沢氏を
 頼つて上京。その世話で東京市場協会事務
 員に就職。
 
金田一京助氏、後藤静香氏、松宮春一郎
 氏等の知遇を受く。        二十五歳。

大正十五年 アイヌとしての自己の地位に
 深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、
 十一月飄然として北海道に帰る。 
                    二十六歳。

昭和二年 平取村に英人バチェラー氏の創
 立せる幼稚園を手伝い乍ら、日傭等の労
 働によつて生活の資を得、アイヌ研究に
 従事す。
余市の同族青年中里篤治と共に
 アイヌ青年の修養会たる「茶話笑楽会」
 を作り、その機関誌として「コタン」創
 刊号を出す
。           二十七歳。

昭和三年 売薬行商に従事。四月発病のた
 
め余市の実兄の許に身を寄せ、遂に病床
 
の人となる。郷土研究家である医師山岸
 
礼三氏の好意ある治療を最後まで受け
 
る。
 
七月 小樽新聞紙上にて、フゴッペの洞
 窟中に発見された奇形文字をめぐり、小
 
樽高商教授西田彰三氏とその所見を戦わ
 
す。                 二十八歳。

昭和四年 一月二十六日永眠。 二十九歳。

昭和五年 五月、余市小学校訓導古田謙二
 氏により蒐集整理された資料に基づき、
 希望社より遺稿集「コタン」出版さる。

  ※管理人注:青字は誤り

違星青年 金田一京助

落葉 古田謙二

北斗の歌声 小田邦雄

自撰歌集 北斗帖

註 彼の臨終の際、枕頭のボストンバツグの中から出て来た墨書による自撰歌集で、表紙に北斗帖と題されている

コタン吟

註 札幌市雫詩社発行の文芸誌「しづく」第三巻第二号(昭和三年四月三日発行となつている)に、違星北斗歌集として掲載されたもの。編集後記には北海道の彗星的歌人として紹介されていることが注目をひく。

コタン吟補遺

註 昭和二年北斗の手になる雑誌「コタン」のコタン吟にあつて「しづく」のコタン吟にもれているものである。

心の日記から

註 彼の臨終の際枕頭におかれてあつた昭和二、三、四年にわたる三冊の「心の日記」の中に記されたもの

俳句 北斗

淋しい元気 違星北斗

疑ふべきフゴッペ遺跡(抜粋) 違星北斗
 読まない文字
  Ekashi shiroshi
  Ekashi shiroshiの系統
  Paroat
 (昭和三年七月小樽新聞に投稿)

アイヌの姿 違星北斗

 真の創造的革新は破壊に対する単なる反動から来るものではない―それが現象に現れるや否や、かようなものとして作用するにしても―根源的な体験から来るのである。
 「最も遠いところからのみ革新は来る」―自力を以て疾患に対抗し、或は疾患に転化する、大いなる健康から来るのだ。 ―グンドルフ―

違星北斗歌碑建設趣意書

 違星北斗が逝くなって二十五年になります。ウタリーの最後の光芒のように、彼の短い生の中に鬱勃として湧き上つた感慨と、その悲しいまでの民族の志を口語型のゴツゴツした短歌の中に歌いこめ、歌い上げ、民族の再生と快癒の道をさし示しました。

 彼は英雄でもなければ偉人でもありません。只おのれの生の体験をその内奥からの叫びを真率に歌に託し、歌に支えられて、短い生涯をとぢてしまつた一ウタリーとしての青年であります。

 彼の民俗学的な研究には非常に興味の多い領域を示しているようでありますが、その完成には生活も生命も許しませんでした。もちろん彼の生涯は、ひたすら爆発的な生の燃焼として終始してしまつたのであります。

 今ここに北斗を慕い、北斗を憶う有志の発願によつて、彼の歌碑を、ウタリーの故地日高国平取村二風谷に建設することになりました。どうかこの「遺稿集」を手にせられ、北斗の生涯と志について、いささかでも思知るところある方々のご協力によつて、歌碑建設を実現いたしたく存じますので、よろしくご賛同とご支援をお願いいたす次第でございます。

   昭和二十九年八月十五日

         違星北斗歌碑建設の会

発起人   石附 忠平   小田 邦雄

       加藤 善徳   鎌塚  扶

       木呂子敏彦   河野 広道

       後藤 静香   更科 源蔵

       田上 義也   古田 謙二

                 (五十音順)

   歌碑建設募金計画

1 歌碑設計  田上建築制作事務所 田上 義也

2 工事費予算  七万五千円

3 募  金  一口 二百円 一口以上

4 送金方法

   現金は、札幌市北一西十、門間清四郎方

              違星北斗の会

   振り替えは 北海道僻地教育委員会振替口座小樽四一九〇番宛に願い、通信欄に「北斗歌碑建設基金」と必ず明記して下さい。

制作者の言葉 田上義也
 

後記 木呂子敏彦