古田謙二「落葉」について


古田謙二と北斗の関わりは古田が『違星北斗遺稿集』に載せた「落葉」が最も詳しい。この文章は伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」、金田一京助の「違星青年」とならんで、生前の「素」の違星の印象を第三者の視点から描いた数少ない資料の一つでもある。

 落葉の頃になると、いつも逝くなった余市のアイヌ青年違星北斗の事を憶い出す。彼はよく私の所に遊びに来た。小学校も尋常科きりの学歴だったが、読書が好きで、いろいろな知識をもっており、殊にみずからがアイヌであるとの自覚は、彼を一種の憤慨居士にしていた。

 北斗の死後二十五年以上経ってからの追憶である以上、感傷的でもあり、書き手である古田によって脚色もされており、これが北斗の生の言葉であるとはいえないが、古田が記憶再生して見せる若き北斗の印象は、それゆえに濃縮されており、なまなましい。

 
彼はよく「和人の優越感」という言葉を口の端にのせては憤慨した。「何だ、和人の奴等は! 四海同胞なんか言い乍ら、我々同族をいつも蔑視しているじゃないか。小学校に於ける差別待遇はどうだ。漁場に於ける我々の酷使振りはどうだ。第一、我々を見る眸の中にあるさげすんだ表情は何としても許されない。憎むべきは和人の優越感である」

 古田の聞いた北斗の和人攻撃の言葉は、容赦がなかった。それは、「反逆期」の北斗の思想を端的に、(いささか極端に)あらわしている。
 もちろん、古田は和人である。和人であるが、北斗には信頼されていた。おそらく、反逆期の北斗の中にも、「信じられる和人」はいたのだ。小学校の先生であった奈良や古田は、「
シャモと云うものは惨忍な野蕃人である」(「淋しい元気」)というところの「野蕃人」には入っていなかったのだろう。北斗には尊敬できる者は尊敬する純粋さ、愛してくれる者は愛してしまう素直さがあった。 北斗はひとたび信用して心を開いてしまえば、かなり辛辣なことでも言えたのかもしれない。

「そんなに怒らなくてもよいじゃないか」というと「先生は和人だから気がつかないのだ。アイヌである自分にはシャクに障って/\」と若い頬を紅く染めては憤慨を続けるのだった。

 だが、若い理想に燃える北斗には、その和人に対しての憎悪と、現実の尊敬できる和人の存在とが繋がらないでいたのである。頭でっかちな理想の世界と、自分が立脚している世界との矛盾。その矛盾を一気に解きほぐした一言が、「思想上の一大転機」島田氏の「
アイヌと云った方がよいかそれとも土人と云った方が君達にやさしくひゞくか」という言葉であったのだ。
 その「一大転機」の後の北斗の姿も、「落葉」の中に描かれている。
古田はある秋の日曜の午後、俳句の題材を拾うために学校の裏山に行く。玄関を出たところで遊びに来た北斗も一緒に行くという。彼はいつになく静かで、且つ沈鬱だった。彼の口から必ず出る和人攻撃の言葉は、どこまで行っても出てこなかった。
 北斗は落葉松の林の中に入ると、何を思ったか、幹を揺さぶりはじめた。黄葉がバラバラと散り始め、一本の木の葉を散らし尽くすと、次の木を揺らしはじめた。そうやって、次から次へと落葉松の葉を落としていった。古田が声をかけるまで、北斗はそれをやめなかった。

先生、私の考えが浅かったのです」突然彼はこう言い出した。「アイヌが無自覚なんです。我々民族」のどこにも立ち上る意気がないのです。和人が悪いのじゃない、我々の意気地なしが悪いんだ……」こういう彼の声は泣いているかの如くふるえていた。「私はアイヌに生まれたことが悲しかった。然しもう悲しまない。私はアイヌなんかいう殻に閉じこもっていちゃいけないんだ。アイヌを超越するんだ。私は大自然の子なんだ。私は自分のゆがめられた根生ッ骨をたたき直さねばならないんだ

 古田はこの「落葉」の出来事の翌年、北斗が結核で倒れたと言っている。これが正しいとすれば、昭和二年の秋のことになる。たしかに、二十五歳の北斗はこの秋、平取を退いて余市にいた。だが、そのころの北斗は、すでに同族のために起つことを心に決め、活動への準備を整えつつあった。
短歌が本格的に『小樽新聞』『新短歌時代』に載り始めたのもこの頃である。東京で多くの和人と出会い、大いに知識を吸収し、民族復興の熱意に燃えて北海道に戻ってきているのだ。すでに北斗の思想は十分に固まっていた時期である。夏には北斗の思想の神髄ともいうべき、不朽の名文「アイヌの姿」を著している。そんな時期にこのようなことを言っていては遅すぎる。

 実際、この時の経験を北斗は「淋しい元気」(『新短歌時代』版)には、このときの模様を「思想上の一大転機」を自ら書いており、「その後(大正十四年二月)東京府市場協会に事務員として雇はれ」とある。また上京中に金田一京助や伊波普猷に話され、それぞれが「目覚めつつあるアイヌ種族」、「慰めなき悲み」に書いているのである。とくに、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」は大正14年5月の日付がある。

 したがって、この「落葉」の出来事も、大正十三年の秋、もしくはそれ以前の秋の出来事であると考えるほうが自然である。この時期に関する記述は古田の勘違いであろう。