日記


(昭和二年)※大正十五年が正しい。

七月十一日 日曜日 晴天  平取にて

 今日は日曜日だから此の教会に生徒が集まる。メノコが七人来る。此の人達はアイヌ語で讃美歌を歌ふ。其の清聴な声音は魂の奥底までも浸み込む様な気がして、一種の深い感慨に打たれた。
 バチラー博士五十年の伝道は今此の無学なメノコの清い信仰で窺はれる。
 今更の様に妙音に聞き入って救はれた人達の仕合せを痛切に感じる。ヤヱ・バチラー氏のアイヌ語交りの伝道ぶり、その講話の様子は神の様に尊かった。信仰の違ふ私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた。アイヌ語の讃美歌……あの時の声音は今も尚耳に残って居る。
 知里幸恵様の御両親とお宅とを始めて知った。花のお家、樹のお家、池のお家として印象深いものだった。幸恵さんのお母様はローマ字も書けば英語も出来ると云ふ感心なお方。お父様は日露の役に出征された中々の偉いお方。此の人達の子供さんだから賢いのも当たり前だと思った。景色のよい所に住んで居られる此のお家の人達は羨しい。ウタリーに此の人達のある事は心強いと思ふ。

七月十四日 水曜日

 教会の壁を張替する。下張りしたりするのにかなり手間取る。全く今日の仕事は捗らなかった。欄間と正面の扉の立派な所だけ張る。それで手許が暗くなったので一先休止。晩飯を食ってから応接室の天井と壁の古い紙を剥いで五分の二位下張りをやる。残りは明日やる事にした。今日は岡村先生と色々お話をしながら仕事をした。此の村の青年の事、一般の思想に就いて、ヤヱ姉様の目下の運動に対する意見の交換、此の村で欲しいもの――浴場と図書館の事、施薬の事も考へて見た。浴場は一寸お金がかゝるらしい。維持費も要る問題だ。けれども欲しいものである。なんとかならないものだらうか。岡村先生自転車を欲しいとある。どうもそれは一寸難しい。一個人の便利の為に私は心配する気がない。せめて浴場ならばと考へて見る。

  五十年伝道されし此のコタン
  見るべきものの無きを悲しむ

  平取に浴場一つ欲しいもの
  金があったら建てたいものを

七月十五日 木曜日 晴天

 向井山雄氏当地に来る。バチラー博士も来られるとの事で、大至急張り替へをやる。岡村さんのお宅の応接室もどん/\やって了ってから博士が来られた。今日はお祈りをすると云って使を出されたので、七時半から教会に人が集ったが少数であった。
 鐘はかん/\と鳴る。それが此の小さなコタンの澄み切った夜半の空に響く。沙流川の流を挿んだ沢の様な土地に教会の鐘の音の鳴り渡った時、西の山の端には月が浮んで蛙は声清らかに此の聖なる響きに和して歌ふ。
 お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た。

七月十八日 日曜日 雨天

 中山先生のお手紙にあった歌

    ホロベツの花の匂へるヱサシ浜
    メノコの声音聞けば楽しも

    輝けよ北斗となりて輝けよ
    君はアイヌの違星なりけり

 富谷先生より

    神よりの使命と叫びけなげにも
    君わけ入るや人の道にと

    道の為踏み出し君に幸あれと
    祈る心は今も変らず

    文机の一輪挿しの花うばら
    君の心にたとへてしがな

 今又読み返して嬉し涙をこぼした。

八月二日 月曜 晴天

 随分疲れた。こんなに今から疲れる様では自炊も出来まい。それなら一体俺はどうする、まさか余市にも帰れまい。自分の弱さが痛切に淋しい。
 レヌプル氏が当地では一番先に林檎を植ゑたさうだ。どうかして林檎をうんと植ゑて此の村を益したいものである。

    熟々と自己の弱さに泣かされて
    又読んで見る「力の泉」

八月四日 水曜日 晴天

 後藤静香先生からお手紙来る。

    先生の深きお情身に沁みて
    疲れも癒えぬ今日のお手紙

八月十一日 水曜日

有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事
村医橋本氏に会ふ。曰く
一、二十年間沙流川沿岸に居る。
二、年寄は仕方もないが若い者は自覚する事が第一である。
 後藤先生よりお手紙を頂く。幼稚園に就いての問合せであるが困った事だ。先生としては成程御尤であるが、何分にもバチラー先生の直営なのだから……。

八月十三日 金曜日  

 今夜教会に行って岡村さんが札幌に行かれたと聞く。聞けば幼稚園の事ださうだ。それなら前にお話してあるから同じ事だ。それとも後藤先生が他から何か聞いて、それを此方に訊きたくて呼ばれたのか知ら? 何にしても此の幼稚園は此の村に無くてはならぬものの一つであるから、どうぞ岡村先生がよいお便りを齎して下さる様に祈って止まない。

八月十四日 土曜日  

 岡村先生お帰り。幼稚園の問題だったと。
 後藤先生が万一送金を止められてもバチラー先生は園を永く続けるとの事。又此の家(家賃二十円)の問題もあり教会の方を提供して、色々の設備もするとの事であった。

八月十六日 月曜日 晴れ、夜雨  

 土方の出面に行く。岡村先生と例の話をする。嬉しい。若しも此の村に此の先生が居られなかったらどんなに淋しい事だらう。今日は栄吉さんの皮肉な話を聞いて、一層淋しく、此の様な村はいやになると思うたが、岡村先生に慰められて又さうでもないと思ひ直す。
 勉強も出来ず研究もしないで居る自分は苦しい。まあ気永にやるの他はない。それにしても余市に行って林檎も研究せねばならぬ。その方面のアイヌ事情も知りたいと思ふ。
 後藤先生に手紙を書く。

 一、一箇年五十円の薬価――施薬
 二、正月と中元に三十円父に送金
 
三、二風谷に希望園を作る 林檎三百本
 
四、コタンに浴場を建てたい
 
五、札幌に勤労中学校
 
六、土人学校所在地に幼稚園設置
 
七、アイヌ青年聯盟雑誌出版

八月廿六日 木曜日  

 札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札

八月廿七日 金曜日 雨天

 午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。金をどうするかと訊かれる。よう御座いますと答へる。蒲団は送る様に話して来たと仰しゃった。お急ぎの様子なので碌にお話ししない。

八月廿八日 土曜日 雨、時々晴

 小樽で後藤先生の御講演を聴く。「帰結」の五箇条。駅で先生より二十円也を頂く。やれ有り難や。やっとハイカラ饅頭十個お土産に買ふ。余市に着いたのは夕方。

    叔父さんが帰って来たと喜べる
    子供等の中にて土産解くわれ

八月卅一日 火曜日

 午後十一時卅二分上り急行で後藤先生通過になる筈。中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。併し先生は居られなかった。林檎は送るより他に仕方がなくなった。

九月一日 水曜日 晴れ、未明大雨

 今朝日程表で見ると後藤先生は卅日夜に通過されたのであった。

九月十九日 日曜日  

 後藤先生から絵葉書が来た。「あせってはいけない……」と。本当に感謝に堪へない。コクワを先生に送って上げたいものだが。

(昭和二年)

十二月廿六日    

 希望社から金十円也と「心の日記」に「カレンダー」を送って貰うた。全く有り難いかな。かうして頂く上からは自分には責任があるんだ。何となく腑甲斐ない自分が淋しい。兎に角金のない時だけに嬉しさは一層だ。半分だけは今日感冒で寝ている兄に寄附してやらう。

(昭和三年)一月廿四日 火曜日

 千歳ではもう暗くなって了った。附近で聞くとKといふ人が物の解った人と云ふので訪ねて行く。病人があると云って体よくはねつけられた。兎に角飯だけは御馳走になった。
 其の隣へ行って頼んで見たが泊めて貰へない。もう一軒Nを訪ねたが駄目。Hも同様。
 夜も十時過だ。又もや夜道を二里。千歳村に引き返せば十二時を過ぎるであらう。仕方がないから戻る。最初コタンの様子を聞いた人の家に来て起して、三時間許り休ませて下さる様に頼む。其処の親切な人は同情して泊めて下すった。やれ/\助ける神もあるものだ。まあよかった。雪でも降って居たらそれこそ大変だったらうに。

二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年

四月廿五日 月曜日

 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。   

    咯血のその鮮紅色を見つめては
    気を取り直す「死んぢゃならない」

    キトビロを食へば肺病直ると云う
    アイヌの薬草 今試食する   

    見舞客来れば気になるキトビロの
    此の悪臭よ消えて無くなれ   

    これだけの米ある内に此の病気
    癒さなければ食ふに困るが

五月八日 火曜日 風

 兄は熊の肉を沢山貰って帰ってきた。フイベも少し貰って来て呉れた。   

    熊の肉俺の血となれ肉になれ
    赤いフイベに塩つけて食ふ   

    熊の肉は本当にうまいよ内地人
    土産話に食はせたいなあ   

    あばら家に風吹き入りてごみほこり
    立つ其の中に病みて寝るなり   

    希望もて微笑みし去年も夢に似て
    若さの誇り我を去り行く

五月十七日 木曜日   

    酒飲みが酒飲む様に楽しくに
    こんな薬を飲めないものか   

    薬など必要でない健康な
    身体にならう利け此の薬

六月九日

    死ね死ねと云はるるまで生きる人あるに
    生きよと云はれる俺は悲しい

    東京を退いたのは何の為
    薬飲みつゝ理想をみかへる

七月十八日

    続けては咳する事の苦しさに
    坐って居れば縄の寄り来る

    血を吐いた後の眩暈に今度こそ
    死ぬぢゃないかと胸の轟き

    何よりも早く月日が立つ様に
    願ふ日もあり夏床に臥し

八月八日 火曜日  

 中里の裏に盆踊りがあって十一時頃まで太鼓の音が聞えて来た。今日は一度も咯血しない。
 西岡(西田の誤り)氏の論文も今日で(了)だ。氏はよくもあんなに馬鹿々々しいまでに反駁したものだ。あの文中只一つ石器時代の事だけは、近頃自分も考へて居たし、又小保内さんにも語って居た事であった。只それだけだ。
 私は反駁に力を入れては醜いと云ふ事を発見した。今度は西田氏を度外視して只所信だけを述べよう。反駁の為の反駁は読む人をして悪感(ママ)を起こさしめる。

九月三日 月曜日  

 昨日午後四時頃からめまひがして困る。どうも原因は肩の凝りらしい。右の耳がヒーンとして眼がチラチラする。何となく淋しい。やっぱり生に執着がある。ある、大いにある。全く此の儘に死んだらと思ふと、全身の血が沸き立つ様だ。夕方やっと落ち着く。
 山野鴉八(鴉人が正しい)氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。
 頭痛がする。今日は少し暑かった。今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ。

十月三日 水曜日 雨天

 病気してからとても気が小さくなった。一寸歯から血が出てもびっくりする。どうしてこんなに気が弱くなったのか知ら?

    永いこと病んで臥たので意気失せて
    心小さな私となった

    頑強な身体でなくば願望も
    只水泡だ病床に泣く

    アイヌとして使命のまゝに立つ事を
    胸に描いて病気を忘れる

十月五日 金曜日

 山岸先生お出で下さる。私の考では一ヶ月前よりも悪いのではないかと思ふと云へば「問題ではない。今日は余程よくなって居るよ」と先生は云はれる。ルゴール液は少し位飲んでも何でもないものだと。

十月八日 月曜日

 どうも具合が悪い。午後二時頃咯血した。ほんの少しであったが血を見てうんざりした。

十月九日 火曜日

 山岸先生お出下さって注射一本、薬が変わった。「氷で冷やすやうに」との事。先生には色々お世話になってなってなり過ぎて居る。何とも有難いやら、勿体ないやらだ。少しでも悪くなると先生に本当に済まないと思ふ。早くよくなりたいものだ。

十月廿六日 金曜日

 山岸先生看病大事と妹に諭し「国家の為にお役に立てねばならぬ」と云はれた。生きたい。

    此の病気俺にあるから宿望も
    果たせないのだ気が焦るなあ

    何をそのくよくよするなそれよりか
    心静かに全快を待て

十一月三日 土曜日

 埋立の橋が完成した。此の日松谷の定吉と宇之吉が川尻で難船したのを常太郎が泳いで行ってロップで救うた。

十二月十日 月曜日

 夕方古田先生がお出になって一時間半ばかり居て下すったので、金田一先生への代筆もして頂く。浦川君へ『アイヌ・ラックルの伝説』をも送って下さった。

    健康な身体となってもう一度
    燃える希望で打って出たや

十二月廿八日 金曜日

 此の頃左の肋が痛む。咳も出る。疲れて動かれなくなった。先生にお願ひしても今日も来て下さらぬ。何べん診ても同じ事だと先生はお思召しなのかも知れない。
 東京の高見沢清氏よりお見舞の書留。
 東京の希望社後藤先生よりお見舞の電報為替。
 福岡県嘉穂郡二瀬伊岐順村三六四 八尋直一様より慰問袋「心の日記」とチョコレート。

    此の病気で若しか死ぬんぢゃなからうか
    ひそかに俺は遺言を書く

    何か知ら嬉しいたより来る様だ
    我が家めざして配達が来る

(昭和四年)一月五日 土曜日

 山岸先生来て下さる。二十瓦の注射一本。これから続けるとの事。よいものであったら何でもやりたい。勇太郎君から八ツ目を貰ふ。

一月六日 日曜日    (絶筆)

 勇太郎君から今日も八ツ目を貰う。

    青春の希望に燃ゆる此の我に
    あゝ誰か此の悩みを与へし

    いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
    キリストの如安きに居らむ

    世の中は何が何やら知らねども
    死ぬ事だけは確かなりけり


      

※95年版『コタン』より

※昭和二年のものとされる日記のほとんどは、実際は大正十五年に書かれたものであると考えられる。詳しくは→日記(昭和二年)について