『アイヌ聞取書』河野常吉編


 アイヌの秘密数件

 余市町、違星
 昭和三年一月

一、余市の違星家には左の様な話がある。

 何代か前の主人が海上に漁業に出でしに、船中にて恍惚として霊域に入り、江戸も樺太も何処でも見得た。是れは神通自在の「ヌプル」に成りかけたのであつた。家に帰つて此事を話すと、神が怒つて左様に軽卒に秘密を話すは不都合だとて、「ウエキンテ」悪霊を残して立ち去つた。是れより違星の家に満足の人が生まれないと言われてゐる。
一、余市アイヌもシヤモ化したとは云へ、病気の時など今でも「ヌプル」を頼む。
一、山などの淋しい処へ行きて、同行者の見えぬ時、直接其者の名を呼ぶときは悪魔が代つて答をする事ある故、別名を以て呼ぶ。そして「来い」といふ、悪魔が来ることある故、「来い」と云ふことを反対に「行け」と云ふ。夜分なども右に同じ。
一、ポンク日高 ラウンク余市、内懐の中の帯の義?
太古レシマツが伝へたる貞節の小帯にして、処女期を脱する頃母が理由を説き聞かせて腰に締めさする紐なり。一重なりと云ふ。
貞節を守る為の小帯にて、此帯を締めて男に肌を許せば必ず其男に貞節を立つべきものとす。又身護りとなり、「魔除け」となるものとす。此「ポンク」を締めつつ姦通すれば神より厳罰を受く。「ポンク」を締めて居らざるときは、他の男に通ずるも貞操を破ることとならず。されど「ポンク」を着けざるときは又、不時の災厄を蒙むる故、「ポンク」は必ず締め居らざるべからず。
大正十四年沙流平取の隣村に一珍事あり。某アイヌの子死亡せり。通夜に往きし弟が帰りに崖より滑り落ちて死亡せり。其葬式に兄が来り、葬儀終りし後兄は突然気絶卒倒せり。重ね重ねの変事にアイヌは是は必ず弟の妻に隠れたる罪悪ありて「カムイイルシカ」神怒に触れしならんとて、妻に向い何か隠したる悪事あるならん、速に白状して神に謝すべしと厳しく詰問したれば、妻は姦通したる事ありしこと、其他悪しきと思ひたる事を一々陳述せり。因て神に謝したれば気絶せし兄は蘇生したり。斯かる迷信は余程薄らざたるに、此事ありし後又復活してアイヌ一同之を信ずるに至りしと云ふ。
「ポンク」に関する秘伝は、母より娘に伝ふるのみにして、決して他に洩さず。それ故部落によるは勿論、家々により幾分流儀を異にするに至りしと云ふ。

一、アイヌは秘密多き人種なり。家々人々に秘密に伝ふるのみにて、他に知らしめざるやうする事甚だ多し。結局自分の為にするのみにて他の為にせず。是亦人智の進まざる一の原因なるべし。


※河野常吉「アイヌ聞取書」『アイヌ史資料集(第二期第七巻・河野常吉資料(一)ノ一)』より

※大正十四年平取地区での話は、北斗が平取で聞いたものだと思われるため、聞き取りの対象が北斗ある可能性は高い。