自然のまゝに生活してゐたアイヌは、貯蓄の必要もなかった程、野にも山にも、川にも海にも日用品が満々とありました。食ふことだけは、心配のない時代、それは北海道の遠い昔のことであります。
いつも/\こんな調子で海の幸山の幸に恵まれるものと安心してゐました。
ある年のこと、お魚は何んにもとれない、鹿も獲れない。それから木の果も草の根も、限って不作といふ未曾有の大饑饉が、この不用意な原始杜会にめぐりあひました。それだけ人々は、びっくりしました。
ひもじい思いに死ぬ人も日毎に殖へて来ます。
ある日のこと、おぢいさんがただ一人で海辺をぶらり/\あるいてゐました。
遥か向ふのなぎさに「ピカリ」光ってるものが見へました。
「何だらう?」
いそ/\と近寄って見ますと、波に打あげられた
今にもひろはんとしました時、はっと気が附きました。その鮭の傍には、一羽の
逃げる元気もないらしいのです。お爺さんはぢっとみつめてゐましたが、可愛想で/\なりません。
「鮭を拾ひましてもこの烏に気の毒ぢゃのう。鮭を発見たのは俺より烏の方が先だった。つまり烏のものだ。そうだ烏のものだ。……でも全部はとうてい食べられまい。そうだ」とひとりいひ独りうなづき
「からすさん/\どうぞこの鮭を半分私に下さいませんか。あなたひとりで残らず食べられないでせう。だからどうぞ私に半分下さいませ。お願でございます」
鄭重に挨拶して、腰から
おぢいさんの家はこの
今、おぢいさんが大したおみやげを持って帰ったので、おばあさんの喜びはひとかたではありません。その夜は感謝の祈りを捧げて休息しました。
ひっそりかんとした淋しいコタンも、白々と明け渡りました。
老夫婦は、さて夜があけた、どれ起きやうか……としてゐるうち誰れやらの声
「おぢいさん/\」
おや誰かが来たやうぢゃ……
「おぢいさん/\」
「はい……誰ですか」
「おぢいさん/\私は、きのふの烏でございます。きのふは本当に有難うございました。あなたの、御親切は忘れられません。御恩返しに私は何でも
お爺様は大喜びで村中ふれまはりました。一同は歓喜の声をあげ、おぢいさんをほめたゝへました。大きな鯨が沖の方から風と汐とに寄せられてくるんです。
これは/\神様のお恵みであると喜びました。それから
「カアカアカア」
外の人には只これだけより分りませんでしたが、不思議にも一人お爺様にのみからすの言葉がはっきり分りました。よいことも、不幸なことも前もって烏が伝へてくれるので、おぢいさんは仕合せでした。それから後は、村の人はおぢいさんを誠に尊敬しました。そしてイカシ(翁)イカシと称ぶやうになり老後を楽しく暮したといふことであります。(完)
※95年版『コタン』より