淋しい元気 (新短歌時代版)

新短歌時代 昭和三年一月号


 北斗は号であって、瀧次郎と云ふ。小学校六年生をやっと卒業した。その後鰊場のカミサマを始め或る時は石狩ヤンシュ等に働きました。どうもシャモに侮辱されるのが憤慨に堪へなかった。そのあたり(大正七年頃)重病して少しづゝ思想方面に趣味をもって来た。大和魂を誇る日本人のくせに常にアイヌを侮辱する事の多いことに不満でした。今から十年程前の事、北海タイムス紙上に出た

いさゝかの酒のことよりアイヌ等が
喧嘩してあり萩の夜辻に

わずか得し金もて酒を買ってのむ
刹那々々に活きるアイヌ等

の歌をみて一層反逆思想に油をかけて燃えたものです。私の目にはシャモと云ふものは惨忍な野蕃人である、とのみ思ふ様になりました。
 
私の思想に最も偉大な転換期を与へたのは余市の登村小学校長島田氏でした。或る日私に向って、「我々はアイヌとは云ひたくはない言葉ではあるが或る場合はアイヌと云った方が大そう便利な場合がある。又云はねばならぬ事もある。その際アイヌと云った方がよいかそれとも土人と云った方が君達にやさしくひゞくか」……私はびっくりした、私は今まで和人は皆同情もない者ばかりだと考へてゐたのをこんなに遠慮して下さる人――しかもシャモに斯様な方のあるのは驚異であった。
 なるほどアイヌと云ふ場合、土人と云ふ場合――自分にはどちらも嫌な言葉であったものを――こんなに考へて下さる人があるとは思はなかったものを。その間に私はよいかげんな答をして私は逃げて帰りました。私はその夜自分の呪ったことの間違ひであった事をやっとさとり自分のあさましさにまた、不甲斐なさに泣きました。その後(大正十四年二月)東京府市場協会に事務員として雇はれて一年と六ヶ月都の人となりました。
 見るもの聴くもの私を育てるものならざるものはなく、私は始めて世の中を暖かく送れるやうに晴れ/\としました。けれどもそれは私一人の小さな幸福であることを悲しみました。アイヌの滅亡――それも悲しみます。私はアイヌの手に依ってアイヌの研究もしたい。アイヌの復興はアイヌでなくてはならない。強い希望にそゝのかされて嬉しかった。東京をあとにして、コタンの人となったのです。目下も常にアイヌの復興の為にアイヌと云ふ言葉の持つ概念を一蹴しやうと逆宣伝的に俺はアイヌだぞと、淋しい元気を出して闘ってゐます。今こそあの時のタイムスの歌が、私を歌で復讐しやうと奮起さしたそしてすべての動機をはぐくんだことを感謝してゐます。
 私は強い/\意志の本に益々闘って行きたいと念願してゐます。

「はしたないアイヌだけれど日の本に生れ合した仕合せを知る」

 今こそ感謝の生活に入られる真に生き甲斐のあることを痛快に思ひます。


※95年版『コタン』より

※「淋しい元気」には、希望社版『コタン』に掲載された短いバージョンもある。