違星北斗年譜について 


 違星北斗の年譜について、気づいたことを何点か挙げてみます。

 (1)違星北斗の生年月日について

 これは、1930(昭和5)年発行の希望社版『コタン』の年表です。

明治 三十四年 出生
同 四十一年 尋常小学校に入学
大正 三年 同上卒業。
同 六年 夕張線登川附近木材人夫
同 七年 網走線大誉地出稼、病気
同 八年 石狩鰊場人夫、登村柴刈
同 九年 畑を借り茄子作、中途病気
同 十年 轟鉱山に出稼
同 十一年 徴兵検査甲種合格
同 十二年 朝里等にて落葉松伐、病気
七月、旭川輸卒入営八月除隊
上京の計画――震災中止
同 十三年 沿海州へ出稼
同 十四年 二月上京、市場協会事務員
同 十五年 月北海道に帰る
昭和二年 平取村幼稚園、日雇――研究
同 三年 売薬行商、発病就床
同 四年 一月二十六日死亡 廿九歳

 ここでは出生年が明治34年になっています。

 ところが、これを元に構成した、草風館版『コタン』年譜では明治35年1月1日になっています。これはおそらく戸籍上の出生年月日を調べた上で修正したのではないかと思います。

1902(明治35) 0歳 1月1日、北斗(本名瀧次郎)、父甚作(文久2年12月15日生)と母ハル(明治4年9月生)の間の三男として、余市郡余市町大字大川町に生まれる。父は漁業を営んでいた。兄二人、姉一人、妹一人、弟三人が生まれたが、長兄を除き北斗を含め七人が夭逝している。祖父万次郎はアイヌ最初の留学生として東京芝増上寺に留学し、のちに北海道開拓使雇員となった。

 このように実際の誕生日と、戸籍上の誕生日が違っていたり、区切りの良い日で登録することは、よくあったことだったと思います。

 それを裏付けるように、北斗は29歳で死んだと書かれている文書がよくあります。もちろんこれは「数え年」で、満年齢で書いてある文書では満27歳となっています。

 数え年の場合、生まれた時にすでに1歳、以後正月ごとに1歳ずつ年が増えます。しかし、1902(明治35)年生まれだったら、1929(昭和4)年1月26日に死んだ北斗は、数えでは享年28歳にしかならないはず。

 やはり1901(明治34)年生まれが正しいのだと思います。出生届は明治35年の1月1日で出したのでしょう。

(2)その他95年版『コタン』年表の間違いについて 


1925(大正14)年 23歳 2月、西川光次郎、高見沢清両氏を頼って上京。その世話で東京府市場協会事務員に就職。金田一京助、後藤静香、伊波普猷各氏の知遇を受ける。金田一京助からは『アイヌ神謡集』を遺して逝った知里幸恵のことを聴いた。3月19日、第2回東京アイヌ学会で講話する。バチェラー八重子に初めて手紙を書き、返事を受け取る。
1926(大正15)年 24歳 11月、アイヌとしての自己の地位に深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、北海道に帰る。この頃、胆振鵡川の辺泥和郎、十勝の吉田菊太郎氏らとともに、”アイヌ一貫同志会”をつくって各地を回りアイヌの地位向上の運動を始める。
1927(昭和2)年 25歳 日高平取村にイギリス人宣教師バチェラー氏の創立した平取幼稚園を手伝う。日傭をしながら土器発掘等のアイヌ研究に従事する。余市の同族中里篤治とともにアイヌ青年の修養会たる”茶話笑学会”をつくる。8月10日、その機関紙としてガリ版同人誌『コタン』創刊号を発刊する。10月、『小樽新聞』に初めて短歌掲載。口語歌雑誌『新短歌時代』(12月1日に創刊号発行)に準会員として参加。
1928(昭和3)年 26歳 売薬行商に従事して各地をめぐる。4月3日、歌誌『志づく』(札幌・詩社)第3巻第2号、「違星北斗歌集」の特集号とする。この頃、発病のため余市の実兄の許に身を寄せる。郷土研究者である医師山岸礼三氏の好意ある治療を最期まで受ける。
1929(昭和4)年 27歳 1月26日、死去。

 上の年表にはいくつかの間違いがあります。

 まず1926(大正15)年「11月」に北海道に帰るとありますが、正しくは7月6日です。これは、希望社版『コタン』から間違いを受け継いでいます。単純に漢字で縦に書いた「七月」を「十一月」と読み間違えたのだと思います。

 1927(昭和2)年、「余市の同族中里篤治とともにアイヌ青年の修養会たる”茶話笑学会”をつくる」。これは間違いです。北斗は1925(大正14)年上京に際して「茶話笑学会」の会報『茶話誌』を携えています。また、『自働道話』大正14年2月号に「茶話誌」の記述がありますから、上京以前、1924(大正13)年末ごろには、すくなくとも「茶話誌」は存在していたと思われます。

 同じく1927(昭和2)年、「日高平取村にイギリス人宣教師バチェラー氏の創立した平取幼稚園を手伝う」これは間違っていなくもないのですが、正確には大正15年の7月からです。「日記」で、昭和2年の日記とされているもののほとんどは大正15年のものです。『コタン』編集の段階で違ってしまったのでしょう。(「日記昭和二年問題について」を参照)

 北斗は秋に一度余市に帰りますが、すぐに戻ってきて、12月26日に平取で大正天皇の崩御の報を聞き、昭和2年を迎えます。その後、3月ごろに兄の子の死があり余市に帰り、5月ごろには日高に戻るつもりが、病に倒れて余市にとどまり、冬に回復して売薬の行商を始めます。

 もう一点、些細な誤植ですが、1928(昭和3)年の『志づく』の発行元ですが、「零」詩社ではなく「雫」詩社です。

 以上、草風館版『コタン』の間違いについて記しましたが、この『コタン』は私のような違星北斗の研究をする者にとっては必要不可欠な本当にいい本です。違星北斗のことを知るためには、これが全てだと言ってもいい本なのです。だからこそ、願わくば、改訂版を出してほしいと思っています。無理なお願いなのかもしれませんが。