自働道話


大正十三年五月 一二一号
「手紙の中から」
違星竹二郎様より

拝啓時下春暖候愈御隆盛の段奉賀候
一昨日はわざ/\自働道話を御送り被下有がたく厚御礼申上候兼ねて奈良如翁先生より承り居り小生も希望致し居る折柄御鄭重にも御配送被下幸甚至極に存じ候爾後謹読仕り度く何分御教導被下度御願申上候当地は御存じの通り鯡の産地にて候間多忙一方ならず何か申上げ度き儀も之有(ママ)候共後日にゆづり只だ御礼のみ申上候会費儀は鯡場揚げにまとめて差上可く候間御了承被下度御願ひ申上候先は御礼旁御願申上候(北海道 余市)

大正十三年十月 一二六号

「樺太、北海道巡講記」西川光次郎

大正十三年十一月 一二七号
「手紙の中から」
違星竹二郎様より

「拝啓愈々秋次の候益々社会善導のため御奮闘の役誠に皇国のため慶賀に存じ奉候就ては先般はわざ/\吾が北海のはて迄もおいとひなく御来駕を給ひ正義を高唱せられ候ひしは御勇しき事に御座候、小生は貧乏ひまなき身とて御礼状も差上げぬ中に早先生より御玉翰を戴き御礼の申上様も無之候色々御親切に御教導被下有がたく厚く御礼申上候先は御礼旁一寸御願ひ申上候

敬白

 外つ国の花に酔ふ人多きこそ
      菊や桜に申しわけなき

大正十四年二月 一三〇号

「手紙の中から」△奈良直弥様より

「茶話誌」

大正十四年三月 一三一号

「発行人より」 ※上京の経緯

「校正を終へて」西川文子 ※上京の様子

大正十四年五月 一三三号

「自働道話社遠足会 高尾登山」額田真一

大正十五年八月 一四八号
「手紙の中から」
違星北斗様より

 先日は誠に有がとう存じました。私は感謝いたし乍ら、今日の出立ちとなりましたことを悦びます。もう少しの違い(ママ)でこの列車に遅るゝところでした。間一髪の処で車中の人となりました。私は本当に嬉しかったことを申上ます、それは高見沢様と同奥様がわざ/\駅に御見送りして下したことです何と云ふ幸なことでせう。私の主人はこうして手厚い御事をなされて下さいました、涙がひとりでポロ/\飛出しました。私は東京の方を遙かに合掌し三拝いたします。なんと幸な男でせう。逆境より起きた私は、すべての人に理解されました。第一に父が……兄が、友人が、東京では先ず第一に西川先生が、高見沢様が、額田様が又その他の人々及び私しのこの仕事に声援して下さる諸先生が……こと/゛\く私しの前途を拓いて下したのであります、うれしくてうれしくて万年筆が列車のゆれるよりも嬉しさに踊り出します。本日額田君外杉沼様が御見送下さいました、ではサヨウナラ皆様御機嫌克く(七月五日午後十時半)

「発行人より」 ※違星北斗送別会

大正十五年十月 一五〇号
「手紙の中から」
違星北斗様より

 家事上の都合により昨日当地に参りましたついでに少々研究もあります故九月十日まで当地に居ります、それからやはり沙流郡平取村の我が家に帰ります、
余市は涼しい デモ平取村よりも少し暑い気分です。
来年から平取村にリンゴの苗木を少し植附けますこの地方に研究的に林檎園を経営してみたいものです、それらの事も余市でなければ出来ない相談です、兎に角く、一生けんめいであります。(北海道)


大正十五年十二月 一五二号
「手紙の中から」
違星北斗様より

 来月から新冠の方面に参りたいと存ます。労働はとても疲労します
 従って皆様に御無沙汰勝になりまして、申わけもありません。どうも郵便局が四里も遠くなので、切手を求むるのが骨です。

  幽谷に風嘯いて黄もみじが、
     苔ふんでゆく我に降りくる

  むしろ戸にもみじ散りくる風ありて
     杣家一っぱい煙まわりけり

  秋雨の静な沢を炭釜の
     白いけむりがふんわり昇る

  干瓢を贈ってくれた東京の
     友に文かく雨のつれゞゝ

昭和二年三月 一五五号
「手紙の中から」
違星北斗様より

 前略(去年高田屋カヘイ百年祭でありましたと)旅行してより今日で十日にもなります。
 日高のアイヌ部落はたいてい廻ることが得られるのが嬉しい。
 平取の我が本陣に戻るのはそうですネ今日は十四日だから十八日頃でせう。
 北海道は雪と申します。けれども十一州その所によりけりです日高は尤も雪の少ない処ですこの辺は一寸位です。
 余市は三尺以上もあるでせうに高田屋嘉兵衛氏の末孫がこゝの村を開きました。今は貧しい旅館を営んでゐます。(今日の宿北海道、日高三ツ石)

昭和二年五月 一五七号
「手紙の中から」
違星北斗様より

お手紙を出さねばならぬ事を気にし乍ら、ずい分と永い間御無沙汰いたしました。
 先月小生は平取を急に出立しました。宅の方で兄の子供が病死したのでした。
 それ以来余市に居ります鯡を漁してからまたあちらの方に参ります考です。何しろ家は貧いので年から年中不幸(ママ)ばかりしてはゐられないから春の三ヶ月間は一寸でも手伝しやうと思ます。五月中頃からまた、日高方面に入り込みます大漁でもして少しお金が出来たら手塩方面にも視察してみたい考へです。ですが未定です。余市はまだ雪が五尺以上もあります。昨日ウタグスの漁場に雪堀に行きました、山のふもとは丈余浜の方で七尺五尺四尺位もあります。
 こんな雪の中でもやっぱり金魚やが昨日から見えました。先は一寸御礼旁御伺申上ます(三月十四日北海道)

昭和二年六月 一五八号
「手紙の中から」
違星北斗様より

 お手紙ありがとう存ます目下ウタグスと云ふ断崖の下の磯に漁舎を(欠)てそこに起居してニシンの漁にいそしんでゐます。今年は例年にない不漁です。
 先日奈良ノブヤ先生がいらしてこのウタグスのバラックで一夜を明しました。先生からお土産をいたゞきました。それは曽て東京で西川先生からいたゞいた焼のりをわざ/\ノブヤ先生が私に持って来て下さいました。ナンダカ堅苦しい様な気分の中でもとに角く西川先生からのと思ふたとき何ともたとへかたなき嬉しさが湧きました。厚く/\く感謝いたします。
    …………
 本年の鯡は余市始まって以来の最大不漁にて殆んど閉口仕り候、就ては再度の上京も遺憾ながら見合せる可く候(北海道、余市)

昭和二年七月 一五九号
「手紙の中から」
違星北斗様より

 北海道へお出でなさる由指折数へてお待してゐます。当地では九日十日十一日は余市神社祭であります。お祭りにゐらっしゃる事になります。さて、十日の東京出発なのでせうか?十日の余市着になるのでせうか。いづれ奈良先生にお伺したら分るでせうが………………私は病臥一ヶ月でやう/\快方に赴きましたお多用の奈良先生から連日の御見舞状でしたので病床への修養が出来たのか全快に力あった様に嬉しい。とに角全快の嬉しさに先生をお迎へ申事の出来るのも限なく喜ばしう存ます(北海道)

昭和二年八月 一六〇号
「手紙の中から」
違星北斗様より

 大正十五年七月五日でした。上野駅より出発しましたのは……もういつのまにか、記念すべき一周年が来たのですちゃうど、明日七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした。
 其の後はどんな収かくがあったでせう、かへりみる時に、うんざりします。或る時はもういやになって/\いたま(ママ)らなくなりましたことも度々ありました。本当に考へてみると東京の生活が極楽 てし(ママ)た。好きこのんでやってゐる私の最初の一歩は全く危ふいものでした。私が一番苦しめられた事は、親不孝だったことです。私を案じてゐる父の身を考えた時金にも名にもならない事をしてゐる自分……そして何の反響もない自分の不甲斐なさに幾度か涙しました。
    …………
 今もやっぱりそうです。けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。私はだまってしまひます。去年の八月号だったと思ます。道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。
 反響があらうがなからうが決して実行に手かげんはしなかった。黙々として進んでゆく博士には社会のおもわくも反響も、宛にしてやってゐるのではなかった(ママ)ことを思ふと自分と云ふ意気地無しは穴があったら入りたい様な気持になります。
 皆様が色々と私に云って下さった、高見沢様の言葉が今でも泌々と感じてゐます。私はやっぱりだまって歩くより外に道はない否でもおうでも行かねばならぬと、力こぶを入れてゐます。どうぞご鞭韃下さい。先生には御無事にお帰りになられた由お祝申し上げます。
 本日は御鄭重な御手紙及御菓子を下さいまして誠に有難う御座います。
 先日高見沢様より結好(ママ)なもの(上等反物一反)下さいました。何とも御礼の申上げやうもありません。どうぞ先生からも御目にかゝれた節どうぞ宜しくと厚く高見沢様に御礼申し上げて下さいお願申し上ます。
 今日は亦、東京からの、おいしいお菓子を送って下さいましたので、子供等は申すまでもなく大供までもよろこんでたべました。こんなに沢山お送り下さいまして誠に有難う御座います。甘いものに気の着いた雪子様にも特に宜敷く御礼申して下さい。「子供の道話のお菓子」で皆子供と一所(ママ)にパクツキました。父からも兄からも亦子供からも宜敷くと……皆になりかはって厚く御礼申し上げます。原稿用紙も沢山頂きまして誠に有難う御座いますこんどから一増勉強します。
 私は第二年目に入るのです。出陣を祝ふ如く甘とうの旗頭が武者ぶるいしてお菓子を食べました。先は不取敢御礼申上ます。
 だん/\暑くなります。今日霧がかゝって涼しいが昨日あたりの暑は格別でした サヨウナラ(北海道余市)

「北海道巡講記」西川光次郎

昭和三年二月 一六六号
「手紙の中から」
違星北斗様より

あの後は色々と不都合なことばかり起きて心配ばかりしたものであります。今はやっと心配も一通りかたづいたので切角上京しやうと思っても出来なかったものだからこんどはアイヌ研究に一心になり、目下コタン巡視察を目的に行商して歩いてゐます。薬を売って歩いてゐます。その薬も小樽の人のお世話で、大能膏と云ふ膏薬一方であります。不景気なせいか、或は新米のせいか、売行きが悪くて困りますが……然し目的はとげられそうですから一そう努力して歩かうと思ます。
第一歩は美国郡美国町それから古平郡古平町それから帰りしなに今余市の郡部を巡ってゐます。こゝは湯内と云ふ村です。お正月には石狩の国を巡りたいと思ってゐます。ナニシロ今度こそは本当に自由の身になったものですから大いに年来の希望に向つて突進出来ます。
よろこんで下さいませ。
 今年は全く心配ばかりしてゐました。
 塞翁の馬にもあはで年暮れぬ。
こんどこそ塞翁の馬に会ったように思ます。諒闇はあけるし。
めでたい年を迎へられます。
昭和二年の私の表語(ママ)。根強くまじめに……来る3年もやっぱりこの表語をかゝげて進みませう
今日は一週間ぶりで帰宅します
今年は除夜の鐘をつきました。
 俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく△新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ
不取敢厚く御礼申上ます御一同様へ何分よろしくと願ます。
 
(額田真一君からは毎度嬉しいお便りあります)
十日頃からそろ/\出発します
二十日頃には
 石狩国浜増郡小札内村能登酉雄氏方へ参ります予定であります
石狩から天塩へ出で天塩から北見の方に廻るそして三月末つ頃余市へ来て四月末頃こんど樺太方面へと大よそのプログラムを作ってゐますこんごは大いした心配もありませんから大いにやる考へであります
またそのうちにお便り申上ます
 写真機を手に入れて行く先の名勝やらそれにちなんだ古伝なぞを通信するやうにしてコタン巡礼の費用を生み出したいと思ってゐます
 今日は小樽市まで来てゐます三四日遊んでそれから余市へ帰ります

昭和三年四月 一六八号
「手紙の中から」
違星北斗様より

とても寒くて困りますこゝは白老村です。三年ぶりで来てみれば親しい友は逝れ(ママ)てゐるし友人一人はまた追分駅に出てゐて不在だし全く淋しい。土人学校が新校舎になってゐたのだけは少し嬉しかった。山本先生も留守高橋土人病院長も留守と云ふので一層物足りない。余市の方から手紙が表記の処へ廻送されてあった。いつに変らぬ額田真一君のなつかしいお手紙もあった。明後日はホロベツ方面へ参ります。石狩国視察は中止して日高胆振方面にしました。御一同様になにとぞよろしく。(北海道)

昭和四年三月 一七九号

「発行人より」 ※違星北斗への追悼

昭和四年四月 一八〇号

「手紙の中から」違星梅太郎様より ※兄梅太郎から西川光次郎への手紙


※北斗の手による「手紙の中から」については95年版『コタン』「自働道話」より。それ以外の筆者によるもの(リンクになっているもの)に関しては、95年版『コタン』「くさのかぜ」より。