フゴツペの
 
古 代 文 字
   
並にマスクについて
  
小樽高商 西田教授述


     [一]

小樽市手宮の古代文字については書家の研究議論のあるところでこれを否定する一派の人々は全然近世人の戯作なりとて抹殺せんとしてゐるが、これ等抹殺派の論拠とするところは明治三年頃、常時開拓使御用掛として金山や鉱石の調査嘱託であった
  〜〜〜〜〜〜
  広野夏雲氏が
  
〜〜〜〜〜〜
明治五、六年頃手宮洞窟に戯作的に彫刻したといふことを関場博士に告白したといふことである。(広野氏は旧静岡藩士で後六代目かの札幌神社宮司となり、明治三十二年死去した人)――手宮洞窟の一般に知れわたつたのはそれより後の明治十一年て、彼の場所から石材をきり出す様になつて地形の変化をきたし、土器石器を発見したので榎本中将や山内大書記官が来観したのであつで、同年八月には有名なる地震学者ミルン博士の調査するあり、同年十月のアジア協会の報告に「これはトルコ文字である」と発表してゐる、同十三年には開拓使がその図を模写し現に札幌博物館に補完されてゐる、明治二十一年坪井博士が視察して
  〜〜〜〜〜〜
  多数の死人の
  〜〜〜〜〜〜
記念なるべしといひ、喜田博士は森林を表象せる絵画なるべしと推してゐる、鳥居博士はこれを人類学上より研究しアイヌ民族以外の民族の彫刻せし文字ならんと断じ字体は突厥文字マツカツ語ならんと推せり、あだかもこれと前後して中目学士(現大阪外語校長にて数ヶ国の言語学に精通せる人)が樺太馬群古潭のマツカツと蝦夷族戦争の古戦場研究の帰途、札幌小樽に立寄られ手宮の古代文字を調査し(常時札幌大学にをられた故恩師大野博士と中目氏とは知友であつたので立寄られた)自来研究の結果、手宮古代文字はラドロフ氏著蒙古における古代土耳其トルコ文碑と比較研究の結果
  〜〜〜〜〜〜
  手宮古代文字
  〜〜〜〜〜〜
はマツカツ語を土耳其トルコ古代文字で記載したるものなりと結論してゐる(大正七年小樽新聞紙上で発表)しかして文意は「我は部下をひきゐ……」云々なりと読断したのである、吾人は手宮古代文字が中目氏が読破したような意味あるものであるか否かの論点については、今ここに論断する事は出来ぬが、一種の先住民族の記号を彫刻したものであらうと思ふ、何故吾人がかく主張するかといふに、これは昨年小樽図書館で小樽史跡会主催の展覧会のあつた時に、当市奥沢町六丁目の田中清一氏珍蔵石刀の柄の破片と認めらるるものに、 の記号があきらかに彫刻されてあつた、これはたしかに石器時代の
  〜〜〜〜〜〜
  民族の記号で
  〜〜〜〜〜〜
あると断ぜられるが、これが手宮古代文字の基本型に近いものでないかと思はれる、広野氏が戯作をしたといふものの全く何物もなかつたものに書いたのではなくて原刻があつたのに加刻が加はつたものでないかと思はれる兎に角手宮古代文字は全く根も葉もない明治以後の戯作として抹殺する訳にはゆかぬと信ずる右の石刀の記号と一致する点の解釈がつかぬまでは否定論者の論拠は薄弱と認めねばならぬ、広野氏の加刻についても

  〜〜〜〜〜〜
  否定説がある
  〜〜〜〜〜〜
それは手宮の古代文字のあつたからあれだけの文字をしかも暗黒なる洞窟の中で左様に充分書けるものでないと否定する人もある。(つづく)

(小樽新聞昭和2年11月15日)


    [二]

こゝに手宮古代文字を復活すべき有力なる材料が最近蘭島駅の隣郷畚部川の右岸鉄道の切通し岸壁に更に先住民族の記号らしき古代文字を発見したことである
  
〜〜〜〜〜〜
  
発見の動機は
  
〜〜〜〜〜〜
去る十月五日蘭島保護区の宮本義明氏が畚部川を去る約三町(蘭島駅より余市方面に約十三町蘭島トンネルより約五町海岸よりは約一町)の切通し海岸側の小山下の崖脚より土砂を採掘しこれを泥地の鉄道線路床両側の盛土修繕に資せんとしたもので初め堀取れる地点より約十五尺掘下げたる十月八日偶然にも岸壁の凹所に古代文字様の彫刻あるを発見しその左側岩脚に
  
〜〜〜〜〜〜
  
人面の彫刻が
  
〜〜〜〜〜〜
あるを発見しなほ附近に土器、骨壺と石斧並に人骨を発見した
文字はトツ版にて現はしたる如き直線式のもので手宮洞窟における彫刻の如き曲線を認めぬ、大体は左右相称的の文字ではあるが右群の複雑なる文字は非対称で特に右上の一字は全くの非相称的文字を構成してゐる。文字は手宮洞窟のものゝやうに大形のものではなく

最も複雑で大形のものでも七寸を出でず小形たる群の
  
〜〜〜〜〜〜
  
文字は三寸位
  
〜〜〜〜〜〜
のものである、この畚部古代文字の構成は最もよく神代日文じんだいひふみなるもの特にその対馬国卜部阿留氏伝の文字に近き系統を有するものと思はる日文を五十音順に配列して見たるタ行のチに最も近似し、更に複雑なる一群がゝ左右相称的でない左に状の分岐あるはサ行のサに近く更に右上のはカ行のカに近似するを発見するのである。更に奥沢田中氏発見の石刀柄の記号は日文文字のマ行のマナ行のノハ行のフに近似するを見る、しかしてこの
  
〜〜〜〜〜〜
  
手宮古代文字
  
〜〜〜〜〜〜
の基本型と思はる点多々あるは前述の通りである、さらに日文文字中のナ行のネとワ行のワは中目氏の手宮洞窟文字読破の基本である、ラドロフ氏著蒙古における古代土耳其トルコ文碑銘、所載の土耳其文中最も良く近似する構成を有することをもつて考究するに、以上述べたる手宮洞窟の古代文字、田中氏の石刀柄の記号、畚部岩窟の記号と蒙古所在の古代土耳其文字と一脈の系統あるものなることは否定することが出来ぬと思ふ、もちろんこの神代日文文字と称するものも
  〜〜〜〜〜〜
  日本民族古来
  〜〜〜〜〜〜
のものでなく太古民族おそらくはトングース民族等より伝へこれを文字化したものと思はる、古代トングースは一方樺太、蝦夷島より本州の越しの地方まで南下したことは史家の一致するところで、更に他方朝鮮を経て対馬より本邦南部に入つたことも認められる、従つて対馬国卜部阿留氏家伝の日文文字がトングース民族の土耳其文字と共通の点あり北海道の小樽附近の手宮、畚部両地点にこの系統の文字を見るのは決して不可解のことでないと思ふ(つづく)

(小樽新聞昭和2年11月16日)


   [三]



現在発見されたフゴツペの岸壁における彫刻は単に記号と認めらるゝもので後記の人骨、骨壺、人面等より察せらるゝもので今回発掘したものはわづかに九字で、大体三様の原型であると思はるゝがいづれも単純なる記号式の縦書であること、中目氏が手宮洞窟文字について断じたる如くである。しかしてその周囲に岸壁の文字なき部分と区別するため直線の外廓を取れる形跡がある、現在現はれた文字中、中央の字の外は比較的浅く刻されてゐるがこれは多年風雨に曝露されて侵蝕されたものと思ふ
  〜〜〜〜〜〜
  岸壁は第三紀
  〜〜〜〜〜〜
の硬質凝灰岩でその上に集塊岩の層ありさらにその上部に軟質の凝灰岩が重なつてをり最上部は土壌を被服してゐる、しかして岸壁は波浪によつて形成せられたらしい浅い彎形をしてゐるから、石器時代にはこの辺も海岸の浪うちぎはであつたことゝ思ふ、現に今でも同所を線路面下五尺程掘ったら美しい砂層に達したといふことである、すなはち同所は海浜を去る僅に一丁、前面は砂丘を形成してゐる畚部川口で、西北の風強く吹きつけるところであるから、古代より現代までに徐々に砂丘に埋られ海岸より遠ざかつたことゝ推せらるる、文字の刻面岸壁は西南の向ひ日あたり良くあたゝかそうな向である。多年の風雨の侵蝕作用の結果、上部の土砂が崩れ落ちて基底と思はるゝ砂層から二十尺

も高く厚さ六尺程も土砂で埋られたもので
  
〜〜〜〜〜〜
  
現に生在する
  
〜〜〜〜〜〜
六十余歳の畚部で生れたといふ老人の話によると、同所は三十年程前までは直径一尺位の樹木が密生してゐたところであるといふから五、六十年生のものであらう、現在土砂の上に発生してゐる樹種はヌルテで二十年生程のものであるかような地形で鉄道開通以後は切通しの開鑿土砂の掘採、山火等の変をうけて現状にいたつたものであると、ある人は同所は墓地であつたといふことも聞いたが右の古老は左様のことはないと否定してをつた

 土器、骨壺、人骨
 石斧、人面彫刻

同所発掘の結果この古代文字を物語る種々の遺物が発見されたのである。先づ土器から述べる。土器はその模様から推して弥生式のものでなく蝦夷式土器で、直径九寸位、深さ一尺程のもので薄手の素焼きであり、土器の模様は細縄型曲線式のアイヌ派土器模様であるが可なり複雑なる念の入つたる模様であることは写真に見る通りである、なほ曲線の間には刻点を配してゐる、土器と共に
  
〜〜〜〜〜〜
  
人骨を掘出し
  
〜〜〜〜〜〜
たといふことであるが、余市保線区の者が持去つて遺憾ながらその原物を見ることが出来なかつたが下骨だといふことである、歯が**明瞭に残つて火葬にあらざることを証拠立てゝゐた。この土器は従来好く発見せられた骨壺の一種でないかと思ふ。しかも頭骨を収容したものである(写真は土器の模様)



(小樽新聞昭和2年11月17日)

「臣」+「頁」


   [四]

明治十一年に鳥居博士がはじめて手宮古代文字の洞窟を調査して白骨があつたと、その論文に書いたがこれは誤りで、明治十一年ミルン氏の視察のとき河合氏の当時の立会実見談では可なり精細に同処を掘起して調査したが、遂に人骨を見出し得なかつたといふてゐるから、このところは河野氏の主張する通りで何等か誤り伝へられたものであらう、かくの如く手宮洞窟では
  
〜〜〜〜〜〜
  
人骨を見出し
  
〜〜〜〜〜〜
得なかつたにもかゝわらず、鳥居氏並に中目氏は墓地並にマツカツ語墓誌と認定してゐるに対し、この畚部洞窟は立派な人骨を有するを見てなほ次に述べる人面彫刻を有する点より見て墓地としての推定は敢て曲論でないと信ずる。次に特記すべきはこの遺跡には従来他の石器時代遺跡に、嘗て発見しなかつた人面の石彫刻が、しかも彼の埃及(エジプト)ナイルの河岸のピラミツトと共に名高いスフインクスもどきの人面彫刻で、かの文字彫刻の岩壁面に向つて左側に岩壁面より

約三尺程出離れたる半島形の岩脚を巧に利用して奇怪なる顔面を彫刻してゐるが、該人面は首と共に高さ三尺、顔面は縦二尺横一尺五寸位のたひらな面で眼と鼻と口とを現はしてゐる、面の輪廓の角ばってゐることや、
  
〜〜〜〜〜〜
  
口の太くして
  
〜〜〜〜〜〜
下に曲れるところよしまりのなきり推して、トングース族のオロツコ種やギリヤーク種といふよりは蝦夷族の顔貌と認めるのである、なほ同処から六寸程の輝石橄欖岩よりなる石斧が一個発見せられたこれは多分この人面の彫刻に使用したもので記念として残したものと思はれる、大正十二年当市奥沢小学校長五十嵐氏の余市町大谷地(大谷地は今回発見せるフゴツペ洞窟より数丁の余市寄りの谷地なり)に発見せる土偶の首、赤焼きの土器は人面の優美なる焼物にて今回発見のフゴツペ洞窟の人面石彫とほゞ同一地点より発見せられたるをもつてこの辺に居住せる先住蝦夷民族は可なり進歩せる族にて相当に技術の進歩せるを見るのである、彼の土偶の首の如き一寸方余に満たざる小形のものにありては、或は他の
  
〜〜〜〜〜〜
  
先進民族より
  
〜〜〜〜〜〜
譲与を得たるものとも推定せらるることもあるが、この岩壁石彫刻の如きは全く定着的のものにてこの地点蝦夷族の優良なる技倆を認めざるを得ぬのである(トツ版は人面彫刻)



(小樽新聞 昭和2年11月18日)


[5]

   結 論



フゴツペ附近は元来石器時代の遺跡の多数あつたところで考古学者の間に知られてゐる、該切通しの余市寄りの前出大谷地貝塚は河野広道氏蔵の石器、石槍、石杵、丸石、石匙、石錐、土器、貝殻、骨片等五十二点あり中人骨もあつたところ。次にフゴツペ遺物散列地採集として同じく
  
〜〜〜〜〜〜
  
河野広道氏の
  
〜〜〜〜〜〜
蔵、石鏃、石槍、石匙、石斧、石杵、石棒、土器、貝殻、美しき小石塊、朝鮮土器片等多数先年開催の石器土器多数あることと思はれる。なほ蘭島停車場附近、蘭島トンネル手前及び忍路村字土場の環状石籬及び竪穴附近等多数の石器土器の発見されたるによるもこの辺一帯古石器時代蝦夷族居住の巣窟であつたと推定せらるゝのである、すでに蝦夷族の原始的生活は小川の沿岸にて魚族の捕獲し易かるべき地点を撰ぶもので、この点ではフゴツペ河口の如き小川と海岸の両方面に活動し得らるゝ彼の辺は最も手頃な位置と思はるゝであるしかしてこのたび発見せられたるフゴツペ切通しの岩壁彫刻はその部分における人面刻像はこれ等石器時代
  
〜〜〜〜〜〜
  
蝦夷族の墓地
  
〜〜〜〜〜〜
と認めらるゝ事すでに論ずる如くで、その首壺土器の彫刻模様の精巧なる点と特に人面を石刻せる点、記号を岩壁に刻せるなどより見て、この辺部落の酋長の頭骨を埋葬したるものと思はる、あるひはまた特に戦功偉勲社を表象して

埋葬せるものか。元来蝦夷族の埋葬仕方を聞くに、首を斬つて埋葬せぬもので首を現はして胴体四肢だけを横に埋め、その上に小屋を作るといふことであるがこれは或は平時泰平の場合で戦時敵対行動の場合は或は首丈埋葬することがあつたとも推せらるゝのである、ゆゑにこの首壺並に骨片は酋長とか偉勲者の首を葬つたものでその記号を岩壁に彫刻し更にこれを永久に記念すべく石彫の人面を刻したものでないかと思ふ。しかしてフゴツペ岩壁彫刻文字と手宮洞窟彫刻文字とを比較するに後者は遙に精巧複雑な構成を有するもので決して
  
〜〜〜〜〜〜
  
同一民族の作
  
〜〜〜〜〜〜
になるものと見ることが出来ぬ、おそらくは手宮古代文字の方がフゴツペのものより優等なる民族の作と見ることが至当である。ゆゑに手宮洞窟彫刻は中目氏、鳥居氏等が断ずる如きマツカツ民族の作でフゴツペのものはこれより低級なる蝦夷民族の作と見るの適当なるを思はしむ、勿論これは余の私見であるから更に専門家の精細なる研究調査を希望する次第である土人の記号については旧土人で熱心なる研究者である違星北斗氏が余市土人の記号はで忍路土人の記号は石狩土人の記号はであると言明してゐる、即ち忍路土人のもの余市土人のもの共に手宮古代文字系のに近似し、従つてフゴツペ古代文字とも似た点がある。つぎに石狩土人の記号は
  
〜〜〜〜〜〜
  
ラドロフ氏の
  
〜〜〜〜〜〜
蒙古、土耳其トルコ文字に近似するを見る、さらに神代日文対馬系の文字は多数の蒙古土耳其文字の要素をふくむものと推せらる即ち二十八字中約十字は共通素なるを見るものである。しかしてフゴツペ古代文字が状を劃せることにおけるが如くと全く同様であるのみならずと一致する点においてフゴツペ古代文字の全部が全く日文対馬系統の要素によつて構成するを認めるのである(トツ版は現場)



(小樽新聞 昭和2年11月19日)


   [六]

   結 論

以上手宮岩壁彫刻古代文字記号及び蒙古トルコ文字、神代対馬日文文字と田中氏発見の石刀記号と余市忍路、石狩土人の用ふる記号と総合比較研究するに一脈のその問に流るゝ要素あることを否定することが出来ぬのである、即ち中目氏が論ずる如くにトルコ文字の東洋化せるものであらうと推断するのである、特にこのたび発見のフゴツペ
  
〜〜〜〜〜〜
  
石壁の石禺は
  
〜〜〜〜〜〜
さきに発見せられたる大谷地貝塚の土禺面と相俟つて好箇の研究資料であると思ふ。すでに知る如く忍路郡忍路村土場の沢(蘭島停車場より約十町)に環状石狸籬なるものあり更に昨年西崎氏は蘭島小学校奥のフゴツペ越の処(蘭島トンネルより約四五丁上)に新環状石籬の発見するありなほ更に奥地にもありと主張するあり余市大川には蝦夷族の土城チャシあり蝦夷種族の相互か若しくは他民族との戦争しばしばなりしを思はしめる然して彼の環状石籬は蝦夷族の作れるものでなくして大陸民族トングース族の作成にかゝるものだとの説有力であるから余市小樽を中心としてこれ等両民族の戦闘があつたものと断すること中目氏の推論の如きはあながち否定すべきでないと思ふ。
  
〜〜〜〜〜〜
  
手宮古代文字
  
〜〜〜〜〜〜 
発見について河野常吉氏は慶応年間に石工の発見したものとなし北海道史関場氏は白野夏雲氏(前号広野氏とあるは誤り)の戯作になるものとなしてゐるが白野夏雲氏は明治三年頃より開拓使御用係となつた人であるといふから両者の意見にすでに矛盾したところあり特に彼の手宮古代文字の所在地は明治以前現在忍路に居住する角一印西川氏の漁場であつて明治初年前より事情をよく知つた当市緑町の河合吉兵衛氏の談によると当時何等古代文字の話なく該洞窟は間口九尺高さ二尺位にて現在は道路と同じ高さになつてゐるが常時は道路より九尺程高き斜面の上にあり、洞窟は西川氏が鰊粕の干場に並べる筵を降雨の際濡ぬやうに収容したものでそれ等の必要上遂に当時は二尺程だけで他は埋まつてゐたのを追々
  
〜〜〜〜〜〜
  
土砂を掘出し
  
〜〜〜〜〜〜
て遂に高さ六尺位奥行五尺位の岩窟を露出したるものである、かくて土砂を堀取つた結果岩壁の文字を発見したるものであらうと言ふ、しかして同所は西川家の監督厳重であつて乞食等でもみだりに立入ることを禁じゐたるところであるから白野氏の悪戯の如きは白昼ならば彼大規模の文を刻するにこれら西川氏の監督の眼を免れて作業すること出来ないであらうと、河合氏は全然白野氏戯作説を否定してゐる、又河野氏の慶応年間石工の発見云々のこともあるがこれも右の事情の如きをもつて石工の西川氏の許可なくしてみだりに立入ることを不可能と認められる(前文石場でありしとは河合氏の説明で誤伝であると思はれる)もしすでに慶応年間に発見せるものとせば明治十一年発見以前に既に世間に知られなければならないことで特に西川氏方の誰かが知らないでゐる訳はないのである。
以上の如く重野博士関場博士その他の古代文字
  
〜〜〜〜〜〜
  
否定説の論拠
  
〜〜〜〜〜〜
も甚だ薄弱なものとなるのであつて要するにこの度発見のフゴツペの岩窟遺物と同様土砂の除去等突然か徐々的の発見にかゝるものと推考するのである実際フゴツペのこの度発見の鉄道切通し附近は大谷地貝塚とフゴツペ遺物散列地との中間に位置する地点でこれ等両地点が盛んに考古学者にあさられたところであり小樽の先の本校教授寺田氏五十嵐氏橋本氏蘭島の西崎幸吉氏の如きその道の猛者が常に着目したあさり場所であるから若しフゴツペ岩壁が土砂に埋没せられ樹木に密生されてゐなかつたならばとつくの昔に発見されてゐる筈であるのにその事なくしてこの度初めて鉄道の土砂採取から突然発見せられた次第であつてその点は手宮古代文字発見の経路を暗示するものではなからうか、明治十一年八月
  
〜〜〜〜〜〜
  
御用船明治丸
  
〜〜〜〜〜〜
は大隈候と時の香港太守ミルン氏(ミルン氏は……年我国に来た人で大学の地震学の教授に招聘せられた有名な地質学者であると思ふが河合氏の談のまゝ茲には記述する)日本人なる愛*堀川氏と連れ立ち護衛の巡査に取巻かれて手宮洞窟を視察したものでその際これは土耳其トルコ文字であると言明したと当時立会った河合吉兵衛氏の談である、鳥居氏、坪井氏、重野氏の視察はその以後であることはさきに述べたところの如くである。これによつて見るに手宮古代文字の発見は明治十一年頃多分その年鰊時五月から七月頃の間と思ふ。

(小樽新聞 昭和2年11月20日)