コタンBBS 過去ログ 2005年7月〜9月
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※ここに書かれている見解は、書き込み当時の見解であり、最新のものではありません。その後の発見により、見解が変わっている場合があります。
チガイボシについて 投稿者: 管理人 投稿日: 7月 3日(日)18時09分30秒
違星姓の元になった「チガイボシ」についてですが、私はどうやら、勘違いをしていたようです。
万次郎はイソツクイカシヘ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜(イコンリキ)の祖先伝来のエカシシロシが※であった。これをチガイに星、「違星」と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。(「我が家名」)
この「※」ですが、これは間違いであり、もともと小樽新聞掲載時には「※」ではなく、左右の点がないもの(↓の図参照、現在も違星家の家紋として使われている)だったのが、希望社版『コタン』からは「※」の活字が使われ、それが現在まで続いていることはすでにここに書きました。
私はこの、左右の点がない「※」こそが、「チガイボシ」なんだ、と思っていました。「※」ではないから、「チガイボシ」なんだ、と。
ところが、偶然「家紋」の本を見ていて、これは間違いじゃないかと思い始めました。
家紋の中に「×」(バッテンですね)があって、それが「直違い(すじかい)」(「筋違い」とも書く、あるいは「違い木」ともいうようです)という紋のですが、これを見た瞬間に、「あれ、もしかして」と思いました。
さらに、ページをめくると、「違い矢」「違い弓」「違い竹」「違い大根」などという紋があり、これらはすべて矢や弓なんかが「交差」している図案になっています。
もしかしたら……「チガイボシ」の「チガイ」というのは、この家紋における「違い」なのではないか? と思い始めました。
そして、家紋における「星」は「●」のことです。
つまり、「チガイ」に「ホシ」とは、「バッテン」に「●」ということではないのか、と思うのです。
違星家の家名を付けたのが、北斗の祖父の万次郎なのか、学のある和人だったのか、あるいは戸籍係の役人なのかはわかりませんが、「エカシシロシ」をもとに、それを家紋として読み解いて、この「違星」という漢字を宛てたのではないでしょうか。
http://www.otomiya.com/kamon/kibutsu/ki.htm
本業の方でビッグエベントが目白押しです。
でも、とりあえず8月に北海道へ行くために頑張ろう。
その前に、いろいろやらなきゃいけないことも多い。
テキストの縦書き化を始めています。
それにともない、赤字で各テキストの注釈もしていきます。
(未対応のOSでは横書きで表示されるはずなんですが)。
まずは北斗のテキストから始めています。
後藤静香の「序に代えて」について、後藤静香の著作権を管理されている「日本点字図書館」より、掲載許可を頂きました。
どうもありがとうございました。
http://www.geocities.jp/bzy14554/jo-ni-kaete.html
はじめまして 投稿者: ゲバラ焼き肉のタレ 投稿日: 7月10日(日)23時00分12秒
どうも、はじめまして。京都市内在住の、最近アイヌに興味を持ったモンでございます。
違星北斗さんに関しましては、ジャーナリストの小笠原信之さんの著書で知りました。私は正直、短歌・詩等をわかるもんでは有りませんが、違星さんの、少数かつ被支配の民が故の苦渋を滲ませた心情を、今のロックミュージックを先取りしたんちゃうか?!と思わせる程のストレートな口語体で「叩きつけた」短歌には、メッチャ感銘を受け、ファンになってしまいました。
と、いっても、私が今知っている違星さんの短歌・詩は、まだ極僅かなんで、まだまだ「俄かファン」に過ぎませんので、色々と知りたいと思います。私の頭の中の「カッコエエ男や!リスト」に入っちゃいましたから!これからも宜しくお願い致します。
PS;私は、恥ずかしい程の筆不精なんで、掲示板での書き込みは、滅多に行わないかも知れない、という事を先に申し上げます。では、失礼します。
ようこそ、ゲバラ焼き肉のタレさん。
これからも遊びに来て下さい。
小笠原さんの著書で知られたんですか。「アイヌ差別問題読本」でしょうか。
私も北斗の短歌の絶妙の言語バランスが好きで、北斗の性格自分に似ているなあ、などと思って調べているうちに、いろいろあってこのサイトを始めるようになりました。
このサイトの「コタン文庫」に、北斗の全作品をライブラリ化してありますので、興味があれば、見て頂ければ嬉しいです。
(ただ今リニューアル中で、縦書きと横書きが混じっているのですが……)
ぜひ、なんでもいいので、書き込んでください。
これからもよろしくお願いいたします。
「違星北斗の会」の代表で、二風谷の北斗の歌碑建設に尽力された木呂子敏彦氏の作品集「鳥の眼みみずの目」を読んでいます。
いろいろと、新しく知ったことがありました。
たとえば、湯本喜作『アイヌの歌人』に協力された谷口正氏のことなどもいろいろ知ることができました。
ちょっと落ち着いてから、またこの週末までに報告します。
すみません 投稿者: 管理人 投稿日: 7月19日(火)00時05分31秒
ちょっと研究をサボりすぎました。
当初、8月半ばと思っていましたが、ちょっとリアリティが薄れてきました。
なにより、経済的な理由と、今現在、調査に対する心構えが出来ていないのが大きいです。ここ2週間ぐらい、まったく北斗の研究らしいことから離れていますもので……整理が出来てません。
8月の後半に行ければ……、と思っています。
当初、8月半ばと思っていましたが、ちょっとリアリティが薄れてきました。
なにより、経済的な理由と、今現在、調査に対する心構えが出来ていないのが大きいです。ここ2週間ぐらい、まったく北斗の研究らしいことから離れていますもので……整理が出来てません。
8月の後半に行ければ……、と思っています。
大学がらみの夏の大イベントが終わりました。
明日、やっと、2週間ぶりの休日です。
こっちに戻って来ねばと思っています。
NHK放送台本『光りを掲げた人違星北斗』(昭和30年)をテキスト入力中。
最初に一読したときは、北斗の喋り方とかがあまりにもイメージが違うので、「えーっ」と思ったのですが、今回精読してみて、そうでもないなあ、と思いました。
どのくらいかわかりませんが、けっこう時系列的には正しいような気がします。
作中に出てくる「吉田先生」はいうまでもなく「古田謙二」先生をモデルにしているのですが、この古田先生の言葉がこの台本にどれだけ反映されているのかわかりません。
もし古田先生の言葉が反映されているんだったら、結構資料として参考にすべきことが含まれているのかも知れない、と思いはじめました。
実際、文中に詳細な日付が出てきたりするのですが、別にラジオドラマで日付を明記する必要はないですよね。その辺も、どうしてだろう、と思ったんです。
たとえば
余市村の屋根裏部屋で、下宿生活をやっていた
私の所え(ママ)、 吹雪で眞白になった違星君が、
興奮した顔でやって来たのは、大正十三年一月の、確か
二十六日の夜でした。ツギだらけの作業ズボンに、菜ッ葉服
といういでたちで、髪や眉にたまった 雪の雫を拭いもせず
私と面と向い合って座るや否や、違星君は、猛烈な勢いで喋り出したのです。
北斗 先生! とう/\作ったでァ!
吉田 うん。 例の、茶話笑楽会というやつだな?
とあるのですが、茶話笑「学」会の結成時期としては、このあたりで間違いないとおもいます。
また、「落葉」のエピソードの時期もはっきりと特定されています。
N あれは……秋も終りの、確か十一月の始めの日曜日
だったと思います……。 私は裏山え(ママ)行って、
好きな俳句でも作ろうかと、家を出ました。
その時、久し振りに違星君に逢いました。
これも、もしこの台本が古田謙二に取材したものなら、あるいは正しい日付である可能性もある。
また、「違星青年」には「あまりに汚れてしまって上がれない」という記述があるのですが、この台本では、
こないだ、我々アイヌの事を研究して居られる
京助先生の家を訪ねました。 途中、タンボの中に
落ち込んで、泥だらけになり、玄関先でおいとましよう
と思いましたが、 先生は構わないから上って行きなさい
とおっしゃってくれました。
とあり、タンボに落ちたことになっているんですね。このあたりも、もしかしたらそういう事なのかも知れない、と思いました。
その他、ホントかどうかわかりませんが、北斗の「背広」は東京で買って貰ったものだという記述などもあります。
まあ、あくまで創作として見るべきなんでしょうが……この台本が、どの程度関係者に取材したものかということが判ればなあ、と思います。
『違星北斗の会』の木呂子敏彦先生の息子さんと会って、いろいろ話をしました。
木呂子敏彦先生は、とても波瀾万丈で、いろんなことをされているので、とてもひとことでは言えないのですが、その著作集によれば、帯広の教育委員、助役などを務められた方だそうです。また、フゴッペ論争で北斗と争った西田彰三は叔父にあたるそうです。
若い時に後藤静香の薫陶を受け、人格者として多くの人に慕われた方です。
木呂子敏彦先生の作品集「鳥の眼、みみずの目」には、けっこう新発見もありました。 たとえば、湯本喜作に協力した「谷口正」氏は、木呂子氏とも懇意で、またこの方は「賢治観音」の発見にも寄与した方だったこと。
お会いした息子さんも木呂子先生の若い頃いろいろ調べられたそうです。記憶の整理も兼ねて、息子さんにお聞きしたことを書いてみます。
・ご実家には、いろいろ木呂子先生の残した資料があり、そこには北斗関係のものもある。
・北斗のことについて書いた小説がある。(恩師奈良直弥が書いた?)
・アベという学校の先生が書いた、ワープロ打ちの小説もある(アベ?という先生が書いた)。これは、東京時代の恋愛も描いている。(甘味処の短歌がありますよね、あれにインスパイアされたものらしいですが)
・後藤静香について
木呂子先生は東京で後藤静香の教えを受けている。(昭和七年ごろ)
家計調査を最初におこなったのは後藤/高崎に記念館がある/
希望社の後継団体「こころの家」はすでに解散。「磯崎氏」が関係者。/
多摩川霊園で後藤の墓前祭をやっている。息子さんは参加したことがある
・木呂子先生の吹き込んだテープが40本?以上ある
・遺稿集の「門間清四郎」という名前は寄宿先
フゴッペに関しては、北斗から見て、敵役のように思われているが、身内としては西田彰三の名誉回復もはかりたく、調査しているそうです。
・西田彰三について
西田彰三は宮部金吾の助手であった/
素人というわけではなく、むしろ博物学者のようであった/
河野本道の研究会に参加していた/
小樽高商で、商業の実習として石けんの製造からマーケティング?までを
実際におこなっていた。
伊藤整の「若き詩人の肖像」に、伊藤整が西田彰三のところに石けんを
買いに行く場面がでてくる。
NHKのラジオドラマについては、木呂子先生のNHKへの働きかけによって実現したものだそうです。私が、息子さんにシナリオのコピーをお渡しすると、仏前に供えます、と言って喜んでいらっしゃいました。
その他、いろいろあったのですが、やはり印象的だったのは、「西田は決して悪者ではないのだ」ということ。そうですよね。西田の立場に立ってみることも大事なんだなあ、と思いました。
その他、思い出すことがあれば、また書きます。
一応、今回の旅の大まかな旅程を。
せっかく電車なので、できるだけ北斗が東京から帰ってきて辿った道を、私も辿っていこうと思います。
8月13日 大阪発。特急日本海で。
8月14日 北海道入り。以下、日程は定めません。
●幌別(登別) ここは大正15年7月7日、北斗が北海道に戻ってきて最初に降りた地です。ここで知里幸恵の生家を訪ね、おそらく知里真志保と出会ったと思われます(憶測)。
また、豊年健二らと会い、寄せ書きをしたのもこのあたり(幌別か白老)だと思います。真志保や豊年のことについて調べられたら。
あと、北斗が感嘆した幸恵の生家、知里森舎にも行きたい。
●白老 ここの伊達藩白老旧番屋資料館に「森竹竹市研究会」というのがあり、そこに北斗と竹市の書簡があるそうなので見てきます。ついでに、研究会の人と話ができればと思っています。森竹竹市と北斗のつながりについて詳しく調べられれば。
●苫小牧 湯本喜作の『アイヌの歌人』執筆に際して協力されたという、谷口正の遺著が、苫小牧中央図書館にあるそうですので、見てきます。北斗について書いてあるかも。谷口氏を知る人に会えたら会いたい。
●平取 北斗が大正15年8月11日(遺稿『コタン』の昭和2年は誤りです)ごろより滞在し、バチラー幼稚園を手伝っているのですが、このあたりのことがもっと立体的につかめればと思います。北斗が寄宿したという「ブライアント学園?(出典:『アイヌの歌人』)」とかも謎なので、調べたい。もちろん、北斗の歌碑を見に行く目的もありますが。あと、マンローと北斗の関係も。(ないと思うんだけど、あるという記述もある)。
あと、萱野茂さんも、この歌碑の建立に一役かっていらっしゃるそうなんですが、お会いできたりするんでしょうかねぇ!?
●札幌 北斗についてよく知っていた、古田謙二という人について、調べる。できれば、知る人に会いたい。
また道立図書館の資料で、前回調べ忘れたものがあるので、これを調べること。
●余市 言うまでもなく、北斗の生誕地です。
たくさん調べたいことがある。北斗を知る人に会って、話を聞く。郷土資料を調べたい。郷土史家の人と話をする。
北斗のお墓について調べたい。前回小耳に挟んだ北斗の情報をさらに突っ込んでしらべたい。
●小樽 小樽文学館で北斗の短歌の理解者・並木凡平のことについて調べる。
●美唄 ちょっと調べることがあるので調べる。
等々。
8月22日 函館より、特急日本海で大阪へ。
8月23日 午前大阪着。午後には出勤(泣笑)
順番としてはこんな感じで考えていますが、臨機応変にやりたいと思っています。
ちょっと詰め込みすぎ?
8月14日 幌別につきます。そこで、いろいろ調べたい。
たとえば、豊年健治の墓とか。
8月15日 登別知里森舎へ。知里さんとお会いする予定
8月16日 白老
8月17日 苫小牧
8月18日 平取
8月19日 平取
8月20日 札幌
8月21日 余市
8月22日 余市
と、だいたいのプログラムをたててをります。
あんまりガチガチに決めてしまうのもどうかと思うし。
うーん、やっぱり圧倒的に日数が足りない。
段取り 投稿者: 管理人 投稿日: 8月12日(金)10時11分22秒
もう、出発前日だというのに、この無計画さはなんなんだろう。
やばいやばい。
poronupさんに指摘いただいた、日高三石も考えよう。苫小牧在住の森竹研究者の先生にもお話したいなあ。
旅のイメージとしては、
全体的には、前半(登別・白老・苫小牧)(14〜16)
中盤(平取)(17〜18)
後半(札幌・小樽・余市)(19〜22)
といったイメージですね。
それぞれ、順不同で。
うーん。よいのかな、いろいろ旅しながら段取っていく感じですね。
携帯電話があるからこそ、成立するたびではありますね。
というわけで 投稿者: 管理人 投稿日: 8月13日(土)13時15分25秒
行って参ります。
お世話になる皆様、
よろしくお願いいたします。
違星北斗の旅 1日目 投稿者: 管理人 投稿日: 8月18日(木)06時42分24秒
こんばんは。
旅に出て5日目にしてはじめてネット環境のあるところに泊まりましたので、ここのところの旅の日記をまとめて書いてしまおうと思います。
今回の旅のテーマは、大正、昭和初期に活動したアイヌの歌人・違星北斗(いぼしほくと)が、帰道後にたどった道筋をできるだけたどることです。
実際行ってみて、いろんな人に話を聞いて、距離感を感じてみたいと思います。
一応、違星北斗の簡単な説明を。
違星北斗は1901(明治34)年北海道余市生まれ。
貧困と差別の中に育った滝次郎(北斗は号)は大正14年に縁あって上京し、当時アイヌ研究の権威であった金田一京助をはじめ、数多くの知識人と接触します。
この東京時代に北斗は知識的にも思想的にも成長しますが、故郷で困難の中にある同族を思い、アイヌの地位向上の活動をするために、平穏な生活をなげうって、大正15年7月、北海道へと戻ります。
というわけで、その北海道に戻ってからの動きを辿るつもりなんですね。
違星北斗は大正15年7月5日の夜、上野駅から列車に乗りました。残っている文章の描写からすると、寝台車ではなく、普通の座席だったようです。当時のことですから、東京から胆振の幌別まで丸2日かかるんですね。途中、津軽海峡は当然現在のようにトンネルではなく、青函連絡船になりますし。
というわけで。
その79年後の2005年8月13日夜8時すぎ、大阪駅より寝台特急日本海に乗りました。B寝台、2階ベッドの上の方でした。
そして、ただただ寝て過ごしました。
1日目おわり。
8月14日。
午後11時に青森着。
ちょうど向かいのホームに特急白鳥が来ていて、これに乗ればズドーンと函館にいけるというので、乗ってしまった。
本当は、北斗が乗った青函連絡船のこと、知りたくもあったけれど、まあいいか。
吉岡海底駅で停車した時は今「ドラえもんキャンペーン」をしているらしく、子供連れがいっぱい乗ってきた。車内アナウンスで、間違えて降りないように、と。間違えて降りてしまうと、3時間、海面下数百メートルの海底駅に取り残されるんだそうで。
子どもたちはドラえもんの紙帽子をかぶってる。まるで東映まんが祭りだなあ。あ、ドラえもんは東映じゃないか。東宝ドラハッパー祭りですね。どうでもいいですが。
「吉岡海底」駅って、なんかすごいなあ。吉岡拳法みたい。宮本武蔵(バガボンド)のね。
函館。
降りずに「スーパー北斗」(おおっ!)に乗り換え、一路幌別をめざす。
大正15年、違星北斗は東京から、まっすぐに幌別に向かい、そこで「思想の腰を下ろした」といいます。重要な地点なんですね。
でも、なぜ「幌別」なのか。それがわからないんです。
北斗は幌別に降り立ったのは7月7日、その次の記録は7月11日(大正15年。定説の昭和2年は誤り)の日記に平取での出来事を書いていますが、そこに知里幸恵の生家を訪ねたことも書いてあります。
違星北斗は、『アイヌ神謡集』を遺して19歳で亡くなった知里幸恵のことを、東京で金田一京助に聞いて、この上もなく敬愛していました。
だから、彼にとっては聖地のようなもので、この生家をまず訪ねたのであれば、非常にすっきりします。
でも、この生家は「登別」で、幌別からは現在3駅ぐらいの隔たりがある。
それの答えを求めるために、私も北海道に入ったら、そのまま幌別にむかう事にしたのでした。
幌別下車。
小さな駅ですが、ショッピングセンターもあり、必要なものはとりあえず一応ちゃんとあるような駅前。
登別の市役所や図書館なんかも、こっちにある。
なんでだろう? 向こうはもう温泉街で、こっちに行政の中枢があるのかもしれないな、と思いながら、うろうろしていると、日が暮れてきました。
というわけで、今宵はこの幌別の駅前の小さな旅館に宿をとることにしました。
明日は、登別に行って知里幸恵の生家、知里森舎へ行くのだ!
というわけで、なにもしていなけど、2日目(ちなみに誕生日)終わり! いよいよホロベツの謎が明らかに!
って、まあ私以外には興味ないとは思うんですけれども。
8月15日、3日目。
朝一番にホロベツの浜へ行きました。
なぜかというと、違星北斗の歌に
ホロベツの浜のハマナシ咲き匂ひ
イサンの山の遠くかすめる
というのがあって、ここに出てくる「イサン」は、函館の近くの「恵山」だということなんですね。
北海道を魚のエイにたとえると、ホロベツはお腹のあたり、恵山は尻尾の右側あたりです(って、よけいわからないですね)。
噴火湾をはさんで、けっこう距離があるはずですが、本当に北斗が詠んだように、対岸に恵山が見えるのだろうかということで、ホロベツの浜に行ってみた次第です。
ホロベツの浜は、今も砂浜ですが、すぐ近くを国道が走っていて、残念ながらハマナシ(はまなす)は咲き匂っていませんでした。
なかなかのいい天気。これなら見えるかもしれない、と思いながら、フロッガーのように(?)ビュンビュン走る自動車のスキマをぬって、海岸の堤防まで行き、太平洋を眺めました。
やっぱり、見事に何も見えませんでした。残念。
でも、海岸沿いの家のおばさんに聞いたところ、今でも1年に何日かは恵山も、えりも岬も見えるとのこと。
また、北斗の時代には一面に咲いていた「はまなす」は40年ぐらい前だったか、国道36号線が出来て、砂浜が狭くなったのでなくなってしまったが、国道沿いの花壇には植えてあるとのことで、おばちゃんの指さす先には、たしかに赤いハマナシの花が咲いていました。
恥ずかしながら、私はそのときはじめて、へえ、これがハマナスか、赤いんだ、と思ったのでした。
花の名を知っていても、その姿を知らないということは、知らないってことですね。
情けないと思いました。
登別へ。
知里森舎へ行く前に、先に知里幸恵の墓に参ることにしました。
小学校の校庭に知里幸恵の弟で、文学博士の知里真志保の碑があり、そこに「知里幸恵の墓・金成マツの碑(マツは高名なユーカラの伝承者で、幸恵の伯母で義母)」という矢印が出ていたので、それに従って坂道を登っていきました。もうすぐだろう、と思ってのんきに構えていると、どんどん坂がきつくなってきて、気が付けばかなり高いところまで登っているのでした。暑く、日差しはきつく、荷物は重くて、どうもへこたれそうでしたが、いやいや、病身をおして雪のコタンを巡った北斗のことを思えばこんなのなんともないやい、と思って、なんとか墓地にたどりつきました。
知里幸恵の墓は小さなお墓でした。クリスチャンだった幸恵のことを思うと、どう偲んでいいものかわかりませんでしたので、ただ手を合わせてきました。
瑞々しいアジサイがぼん、ぼんと供えられていて、可愛いな、とても幸恵に似合っているな、と思いました。
これが、知里幸恵の墓なんだ、と思うと、なにかあたたかな思いに包まれた気がしました。
最近、30にして、ようやく人はなぜお墓に参るのか、仏壇を置くのか、ということの意味が、すこしづつだけれども、理屈じゃなく実感としてわかるような気がしてきています。
理屈では墓はただの石塊だし、仏壇はただの木工だ。ユーレイも魂もみんな脳味噌のからくりだ。
でも、理屈ではそうなんだけど、やっぱり、お墓だの仏壇だのといった装置を作って、亡き人を偲ぶ。それは理屈じゃなくって、本能なんだ、そういう本能を持つのが人間なんだなと。
なんとなく思うわけです。あんまり、関係ないかもしれませんが、最近とみにそう思います。
さて、違星北斗は、上京してすぐにアイヌ文化の研究者であった金田一京助を訪ね、そこで知里幸恵の遺著を手にしたと思われ、すぐさま敬愛する幸恵の墓に参らなければ、と発言しているそうですが、当時幸恵の墓は東京の雑司ヶ谷にありました。
東京の金田一京助の元で亡くなったため、その頃は幸恵は東京に葬られ北斗もそこに参ったと思われます。その後、昭和40年代に故郷の登別に改葬されたのでした。
違星北斗は、この知里幸恵という少女、『アイヌ神謡集』というたった一冊の本を遺して死んだ少女の、その思い描いた理想を自らの理想として心の中に描き、彼女の遺した願いを、自らの願いとして、アイヌ民族のために自らの生涯を捧げようとして北海道に戻ってきたのでした。
知里幸恵の生家知里森舎へ。
違星北斗が日記に「花のお家、樹のお家、池のお家として印象深い物だった」と書いていますが、行ってみるとまさにその通りの印象でした。ただ、お庭の「池」は、干上がってしまったそうですが、森の中のお家という感じで、北斗が訪ねた時のイメージが浮かぶような、懐かしい感じがしました。
そこで、知里幸恵の姪にあたる方にいろいろお話を伺いました。
その中で、違星北斗はもっとこれから有名になって然るべき人だ、という言葉をお聞きして、とてもうれしくなりました。
懸案のなぜ違星北斗は「登別」ではなく「幌別」に向かったのか、という、私にとっては長年の疑問だった「ホロベツの謎」を、ぶつけてみました。
すると、本当に意外なほど簡単に答えがでました。
――ここは今は「登別市幌別」だけど、昔はここは「幌別村登別」だったんです。だから、ここ(登別)は、幌別といえば幌別なんです。
ということでした。つまり、登別が温泉で知名度が高くなったので、幌別の一地区の名前であった登別が、地域全体の名前であった幌別と逆転したわけですね。
だから、違星北斗は東京から帰ってきて、いの一番に「ホロベツ」に降り、「ホロベツ」の知里幸恵の家を訪ねてその両親と会っている、と見て間違いないと思います。
地元の人にとってみれば、あたりまえのことなのかもしれませんが、余所者の私には、思いもつかないことでした。
調べてみると、確かにそうなっています。幌別村は1951年に町制をしいて幌別町になりますが、1961年に町名を登別町として、その後1970年に登別市になっているんですね。
謎が、あっというまに解けました。
こういうのも、やはり現地に来ないとわからないもんだなあ、と思いました。
その他、いくつかの細々とした疑問も、即座に答えていただき、大変勉強になりましたが、一番印象的なのは、そのお家が、とても温かかったことです。
私なんか、余所者の通りすがりなのに、お昼ご飯を御馳走になり、写真を撮って頂き、なおかつ駅まで車で送って頂いてしまいました。
別れ際に「またいらしてください。忘れませんよ」とおっしゃって頂いて、なんだかとても感激してしましました。
79年前、違星北斗もこんな気持ちで、温かい気持ちになって、幸恵の父母に見送られて、花のお家、樹のお家、池のお家をあとにしたのだろうか、と思いました。
その日は白老まで行き、駅前で自転車を借りてぐるぐる走り回り、疲れて寝ました。
三日目、長い1日の終わり。
8月16日 4日目
白老の駅前で今日も自転車を借りました。
昨日、ポロトコタンの森竹商店を訪ねて、違星北斗と森竹竹市(北斗と親交があり、アイヌの歌人・詩人として名高い)の関係について聞いてみたところ、店にいたおばさんは、森竹竹市の息子さんの奥さんにあたる方だったのですが、森竹竹市の遺稿はすべて、研究者の方に預けてある、詳しくは「森竹竹市研究会」というのがある「白老仙台藩陣屋跡資料館」(以下「資料館」)に行って聞いてみてほしい、とのことでした。
ところが、昨日は月曜日で資料館が休みだったので、仕切直しということで、本日資料館を訪ねました。
この資料館が立っているのは、ようは仙台藩士の駐屯地の跡地ですよね。幕末、ロシアなんかの脅威に対抗するため「蝦夷地」が松前藩の手から幕府の「直轄領」となったため、東北の各藩が幕府の命を受け、それぞれ出張ってきたそうなのですが、この白老はそれが仙台藩だったそうです。実際には12年ぐらい、陣屋で生活して、維新を迎えたそうです。
なかなか気持ちよく整備された公園で、資料館が開くまでのあいだ、散策などしておりました。
会館前の9時過ぎに資料館に入れてもらい、子ども向けだと思われる「ハイビジョン」VTRを見たのですが……。
うーん。
たとえば、VTRにこんな子ども向けの「漫画」があるんです。(記憶なのであいまいですが)。
樺太に銃剣を持ったロシアの兵士乗り込んできて、民族衣装を着たアイヌの女の子が「おっかないよー」って泣いている。
そこに、幕府の命を受けたサムライが北海道に乗り込んでくる。
それで「蝦夷地」からロシア人は出ていきました、メデタシ、メデタシ。
うーん。
うーん。
ここの学芸員さんには大変、非常にお世話になったから、一応ノーコメントということにします。
そうそう、その学芸員さんに、いろいろ違星北斗と森竹竹市のことについて聞きました。
まず、私が探していた違星北斗と森竹竹市の往復書簡というのは、存在しないのではないか、ということ。
それから、森竹竹市研究会が過去に違星北斗を訪ねるツアーをやったそうで、その時の資料をいくつかいただきました。
この中には結構オッと思う記述がありましたが、それがY先生の記事でした。学芸員の方にこの先生(苫小牧在住)をご紹介していただけましたので、アポを取ってお話を聞こうと思いました。
森竹竹市の巡回展が、現在、日高門別で行われているということもお聞きしました。どうせ平取へ行く時に近くまで来るので、その際にぜひ見ていこうと思います。
お昼頃、資料館を後にして、ある公園に行きました。
そこは違星北斗が白老に来たときに訪ねた、高橋先生というお医者さんのいた病院の跡地です。この高橋先生は、コタンのシュヴァイツァーと呼ばれる名医で、生前に銅像が建てられたほどだそうです。
その銅像も、この公園に移設され、そばにアイヌの碑という石碑も建てられていました。
石碑に写された病院の写真を見ながら、ここにも北斗が来たんだなあ、と思うと感慨深いものがありました。
昼すぎ、苫小牧へ。
一冊、見たい本がありましたので。
湯本喜作さんという人が北斗、竹市、もう一人バチラー八重子という3人のアイヌ歌人の事を書いた『アイヌの歌人』という本があるのですが、その本を書くのに協力し、違星北斗に詳しかったという方の遺著がこの苫小牧の図書館にある
そうなので、それを探しにきたのでした。
結局、一応あることはあったのですが、北斗のことについてはまるで書いてありませんでしたが、その著者の方の経歴等がわかったので、まあいいか、と思いました。
せっかく図書館に来たので、いろいろと資料をあたってみました。この苫小牧の図書館のいいところは、他の図書館なら書庫に入っていて、いちいち書類を書かなくてはいけないような本でも、フツーに書架に並んでるところですね。また、コピーもいちいち書類をかかなくてもいいので、比較的自由にさせてくれるので助かりました。
これまで見たくても見れていなかったアイヌ史の古い資料に目を通すことができました。
その中には、違星家の人からの聞き語りや、北斗の祖父に関係する資料、さらにその祖先の名前が出てくる江戸後期の資料もありました。その他にも、北斗が暮らした当時の余市の農林水産・商工業の資料など、いろいろな資料を漁ることが出来て、大収穫でした。結局、2時ごろ入って閉館の7時までいました。
そのまま苫小牧泊。
苫小牧って、なんだかとっても大都会なんですね。
そういう地域住民なら自明のことなど、何も知らないのでいろいろ困ってしまいます。
というわけで、4日目、おしまい。
8月17日 5日目
苫小牧で起床。
再び白老へ。
アポを取ろうとしていた森竹研のY先生から夜に電話があり、白老で会おうということになったのでした。
約束の喫茶店で待ち合わせ。なんだか、森っぽい喫茶店で、その名も「休養林」。
Y先生にいろいろと森竹のことについてうかがいました。
違星北斗の恩師の奈良先生についても、詳しくご存じでいらっしゃっしゃいましたので、非常に敬服しました。この奈良先生は、北斗の小学校の先生で、生涯の恩師というべき人。西川光次郎という人に引き合わせて、北斗の東京への就職のきっかけを作ったひとでもあります。
また、北斗が白老に訪ねた高橋医師の病院、山本儀三郎先生の学校なのについても、詳しい情報をいただきました。
また、昨日いただいた資料に載っていて気になったことなんですが、森竹研が「違星北斗ツアー」をしたときに、持っていたという「アイヌの詩」という本があるのですが、それがどうやら違星北斗の著作集らしいので、そのことについても伺うと、なんとコピーをいただけるということになりました。
ただ、ここにはないので、白老仙台藩陣屋資料館に行こうということになり、お車に乗っけてもらい、資料館でコピーを頂きました。
もらうだけではアレなので、いろいろ、こっちの持っている資料のコピーをY先生に差し上げました。
Y先生は、「そういう情報を交換しようという姿勢はいいね。研究者の中には隠す奴もいるんだよ〜。でも、今後フィールドワークをしていくには、大切な姿勢だね〜」と仰いました。
私は、別に情報交換という意味ではなく、なるべく、知っていることを出して、先方からもいろんなことをお聞きしたいと思って資料を出していたのですが、先生の言葉には、なるほど、とうなづかされました。肝に銘じようと思います。
資料館で、Y先生に「今日シリカプ送りがあるから、せっかくだから見ていけばいいよ」と言われましたので、せっかくなので、見ていくことにしました。
シリカプとは、カジキマグロのことだそうで、その魂を丁重に天国へ送る儀式、という説明でいいのでしょうか。とても一言で説明できないとは思うのですが。
その後、Y先生と一緒に「休養林」に戻り、昼食にカレーを食ました。そのあとポロトコタンへ行き、シリカプ送りを見学しました。非常に勉強になるところが多かったと思います。
Y先生はシリカプ送りの途中で帰られたのですが、今日は、本当にY先生にお世話になりました。すごく、いろいろ教えてくれました。これは大学の他の先生にも言われたことではありますが、違星北斗の小伝のようなものをまず書きなさいとおっしゃってくださいました。
そうしたいと思います。感謝感謝。
本日は苫小牧泊。
明日は門別で森竹巡回展を見て、そのまま平取に入るつもりです。
あー、なんだか眠たくて文章が無茶苦茶です。すみません。
それに、全然おもしろくない文章だなー。
それでは、とりあえず。
後半戦は平取/余市・小樽方面の巻です。
無事に帰って来れました。
いろいろなカムイに感謝。
出会った人々にもイヤイライケレ、ありがとうです。
今回、北斗の足跡をたどりましたが、いろいろな新発見がありました。また今回、私が各地を訪れ、たくさんの方にご協力いただきました。
この違星北斗の研究が、自分だけではなく、いろいろな人を巻き込んでいっているんだ、もう一人でやっているんじゃないんだ、と実感し、覚悟を新たにした次第です。
旅の後半は、携帯にいろいろ仕事の電話がありまして、いろんな方に迷惑かけてしまったのだなあ、と反省しています。
というわけで、家に帰らず、そのまま研究室に出勤(涙)。
後半にもいろいろな出来事、思いもよらない偶然の出会い、忘れられない出来事などいろいろありました。
今晩から、また日記を6日めから再開したいと思います。
よろしければ、お付き合いください。
8月18日 6日め。
今日は、苫小牧を発ち、日高本線で富川へ。そこで『森竹竹市巡回展』を見ます。その後、バスで一路沙流川を遡上して、違星北斗が過ごした平取へと向かう予定です。
10時29分発の汽車に乗れば、11時すぎには富川に着くはずだったのですが、いろいろドタバタしてしまって、乗れそうになくなってしまい、仕方なく次の12時20分の鵡川行きでいいや、と簡単に考えていたのでした。
ところが、座席に着いて、時刻表をもう一度確認してみて、愕然としました。
「鵡川」は「富川」よりも手前なんだ、だからこの電車は富川までは行かないんだ、ということに、はじめて思い至ったのでした。地図は何度となく見ているはずなのに、私は、なぜか、鵡川はもっと向こうだと思いこんでいたのでした。
やってもうた、とは思いましたが、しょうがありません。
鵡川に着いてしまってから、途方に暮れました。次の汽車まで2時間待ち。
それまでに得た資料を整理したり、ぐるぐると鵡川の町を廻ってみたり、駅の売店で雑学系の文庫本を買ってみたり、地元の高校生と交流したりして、なんとかその2時間を過ごし、ようやく次の汽車に乗りました。
富川に着いたのはもう15時過ぎでした。
富川の駅を出て、沙流川を越えると、小学校と未来的なデザインの図書館がありました。
違星北斗の歌に、沙流川を歌ったものがいくつかあります。沙流川を越えた時は、感激してしまいました。
図書館に入り、森竹竹市展へ。
この展示は白老の森竹竹市研究会が制作したもので、白老の姉妹都市である仙台や、東京などでもやったと思うのですが、ここ富川(佐瑠太)も竹市が国鉄時代に勤務していた、ゆかりの地なんですね。
ちなみに国鉄職員は当然、公務員で、結構難しい試験だったのですが、竹市がこの試験を受けた大正時代には、アイヌ出身でこの試験をパスしたというのは、ほとんど前例がないことだったようです。しかも、森竹竹市は当時の多くのアイヌと同じように尋常小学校しか出ていなかったわけで、中学卒業程度の学力を要した試験に合格したというのは、やっぱりすごいことだと思います。
さて、森竹竹市展ですが、内容は森竹家所蔵の宝器や、森竹竹市の文学活動に関するもの(創作ノート、同人誌、著書など)と、戦後の白老のコタンの「村長」として過ごした時期の写真など多岐にわたりましたが、全体を通して見ると、森竹の思想の変遷がよくわかるように構成されていて、非常に興味深かったです。
この展示の中で、とりわけ見たかったのが「森竹竹市の書簡」でした。私はどこかで、この書簡の中に違星北斗との往復書簡がある、と聞いたようなことを聞いたのですが、結局それはなかったようです。
ただ、森竹竹市の自筆ノート(手帳)を見ることが出来、またそのページに書かれていた短歌を見た時に、深い感慨を得ました。
フゴッペの古代の文字に疑問持ち所信の反論新聞で読む
違星北斗初めて知った君の名を偉いウタリと偲ぶ面影
北斗です出した名刺に「滝次郎」逢いたかったと堅く手握る
これは、遺稿集『銀鈴』に収録されているので、新発見ではなかったのですが、森竹竹市の短歌の数多い中、わざわざこの3首の書いてあるページを開いて展示してくださった、森竹研の方に、しみじみと感謝しました。
この3首こそ、森竹竹市と違星北斗の交流を示す、数少ない記録なのです。手前味噌な考え方ですが、この展示の小さな手帳は、なんだか僕が来るのを待っていたのではないか、僕を感激するためにそこにあったのではないかと勝手に思いたくなりました。
この富川の図書館には、常設展示として、この地区の歴史を展示しているものがあるのですが、そこにも参考になる展示がありました。
それが「沙流鉄道」の展示なのでが、この富川から、実は鉄道が平取にまで通じていたんですね。それはもともと大正10年に製紙会社の運送用に敷設されたのですが、翌11年旅客用にも使用されるようになったそうです。
大正15年の夏、違星北斗も、幌別で知里幸恵の生家を訪ねた後、平取に入る時に、この沙流鉄道を使ったことと思います。
鉄道唱歌にも「平取編」というのがあるようですので、ここに引いてみます。
コタンのつらなる佐瑠川の
その川上の平取は
もとはアイヌの都とて
義経まつる社あり
残念ながら、沙流鉄道は昭和25年、廃止されていますので、私はバスに乗らねばなりません。
その近くには、大正時代の北海道の「鉄道網」が掲げられていました。その昔の鉄道網の充実ぶりを見ると、現在の北海道の鉄道網がいかにも寒々しいものに見えてきます。
大都会圏に住んでいると、生活は段々便利になっていくものだという幻想にとらわれてしまいますが、それは都会だけのことであって、こと鉄道に関してはどんどん不便になっていくのだなあ、と感じました。
その後、併設されている図書館で文献を漁っていると、気が付けば6時。平取行きのバス停に行くと、もうバスがありませんでした。
そのまま、平取まで歩いていこうかなあ、と考え、ちょっと歩いてみましたが、どうも果てしないようなので、3キロぐらい歩いたところで引き返してきました。
暗い夜道を歩きながら、ヘッドホンで椎名林檎の歌う『木綿のハンカチーフ』を聞いていたら、なんだかとても北斗のことや、そして自分のことどもとリンクしてしまって、どうも泣けて泣けてしょうがありませんでした。
ということで、富川泊。どうもこう、私の旅は無計画でいけませんね。
なんだか、どんどん、書き込みがマニアックになっていきますが、適当に読み飛ばしてください。
8月19日 7日目。
いよいよ、北斗が過ごした平取の地へ。
1本バスを乗り損ねた末、8時半のバスに乗り、平取へ向かいます。
いやー、速い速い。昨日荷物を背負って泣きながら歩いた道程がもう後ろへ後ろへ飛ぶように去っていきました。
バスは「平取」止まり。役場のある平取本町です。
そうか、このバスは「二風谷」までは行かないんだなあ、とバスを降りてから、初めて気づきました。
本当に私は迂闊というか、粗忽というか、考えなしで旅をしているようで、どうも困ったことだと思います。なんとなくで旅をしているんですね。だから、一人旅しか出来ないんだと思います。
バスを降りると、立派な「ふれあいセンター」という建物。役場のようなものなのでしょう。思ったより大きな町ですね。
考えてみると、私は「二風谷」を訪れるのは今回の旅で3度目になると思うのですが、この「平取」の市街を訪れるのは、ほとんど初めてといえるかも知れないなあ、としみじみ思いました。
以前にこのあたりに自転車で来た時も、バイクで来た時も、私にとっては、平取=アイヌの聖地・二風谷、というふうな思い込みがあって、平取本町はあまり眼中になく、ほとんど通り過ぎただけだったのでした。
ところが、違星北斗の研究を目的に来た場合には、それではいけないんだ、とこのときになって初めて気付きました。
平取に来た違星北斗が手伝ったという「バチラー幼稚園」は平取本町にあり、その時期、違星北斗が住んでいたのも、このバチラー幼稚園の下あたりでした。つまり、違星北斗にとっては、北斗の歌碑が建立されている二風谷よりも、むしろこの平取本町のほうが縁が格段に深いのですね。
そんなこともわかっていなかった自分が、情けなくなりました。この違星北斗の足跡を辿る今回の旅でも、もちろんこの平取本町の方にこそ、重点を置かなければいけなかったわけです。
もう少しで平取大橋を渡って二風谷に向かってしまうところでした。途中で気づいてよかったよかった。
さて、平取の町をふらふら歩いていると、いきなり「バチラー保育園」の看板が。北斗が平取時代を過ごしたのが、まさにここなのです。
実は以前、5年ほど前の自転車旅の時に一度見ているとは思うのですが、その時はバチラーって誰だっけ、みたいな感じでしたが。
北斗の大正15年(※)8月11日の日記には
ヤエ・バチラー氏のアイヌ語交りの伝道ぶり、その講話の様子は神の様に尊かった。信仰の違う私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた
とあります。それがこの教会なんですね。
北斗の居たときは「幼稚園」だったのですが、その後一旦閉鎖され、「保育園」として再開して今に至っています。その側には「聖公会」の教会も建っています。
アイヌのために一生を捧げる覚悟をして、東京から北海道に帰ってきた大正15年の夏、北斗はこのバチラー幼稚園に身を寄せています。7月7日に幌別の知里幸恵の生家を訪ねたのち、11日には平取に入っています。
英国聖公会の神父ジョン・バチラーは「アイヌの父」などともよばれ、アイヌへの援助や救済に一生をささげた人で、札幌にアイヌ子弟の教育を目的としたバチラー学園などを設立したりもしていましたが、この平取の「バチラー幼稚園」もまたその一つでした。
この幼稚園は、北斗が東京で私淑していた社会運動家の後藤静香(せいこう)が資金援助していましたから、その線での繋がりもあるのでしょう。
当時バチラーは札幌にいましたが、その養女のバチラー八重子が平取にいて、布教にあたっていました。有珠アイヌであった八重子は、父親が信者であったため、ジョン・バチラーの養女となり、高い教育を受けていました。
北斗は東京にいた頃、金田一京助にバチラー八重子のことを聞き、八重子に手紙を書いてその返事を受け取っていたといいます。それまで俳句しか詠んでいなかった北斗が、短歌という表現手段を用いるようになったのにも、短歌をよくしたバチラー八重子の多大な影響があるとおもわれます。
また、北斗が敬愛した知里幸恵の母ナミや伯母(養母)の金成マツもバチラーの教会の伝道婦だったこともあり、そういった諸々の縁が重なって、北斗を平取に呼び寄せたのだと思います。
バチラー保育園に近付くと、子供たちの騒ぐ声が聞こえてきました。失礼ながら、こんな山村にもこんなに子供がいるんだなあ、と少しおどろいたほどでした。
園内にいらっしゃった保母さんに声をかけ、園長先生を呼んでもらうと、出て来たのはやさしそうな女性の園長さんでした。事情を説明すると、子ども達が昼寝をしている2時頃来て欲しいとのこと。あと3時間ほどありますので、いろいろ回ってから後から来ることにしました。
とりあえず、バチラー保育園のすぐ上にある「義経神社」へと向かいました。この神社も北斗ゆかりの地です。北斗はこんな歌を詠んでいます。
平取はアイヌの旧都懐しみ
義経神社で尺八を吹く
奥州平泉で死んだとされている源義経が、実は死なずに蝦夷地に渡ったのだ、という伝説が北海道の各地に残っているのですが、この地の義経神社もそういう伝説から生まれた神社だと思います。また、アイヌの英雄神「オキクルミ」が、じつは義経なのだ、というような伝説があるとも聞きます。でも、これはあまりにも和人にとって都合の良すぎるものであり、どの時代、どの程度かはわかりませんが、和人側の情報操作が加わっているものだと私は思っています。
そのような事を考えながら、義経神社の資料館でいろいろの伝説だのなんだのを見て、出てくると、雨が降り始めていました。
しまった。
実は朝、こんなこともあろうかと富川のコンビニでビニール傘を買ったばっかりなのを、どこかで忘れてきてしまったのでした。まったく。北斗が尺八を吹いていたという、境内の様子もろくに見ないうちに、雨を避け、傘を求めて商店を探しました。
とりあえず、近くの商店でビニール傘を買い求めましたが、雨量はいや増すばかり。
しょうがなく、先程降りたバス亭の近くにあった「ふれあいセンター」の入口で雨をやり過ごすことにしました。
荷物を降ろして、雨宿りしていると、「どっから来たの?」と、一人の太ったおじさんが話しかけてきました。
大阪から、違星北斗のことを調べに来た、と言うと、「そうか、明日『チプサンケ』やるから、ぜひ見に来なさい」というような意味のことを言われ、「舟に乗せてやっから」と言われました。
チプサンケとは、アイヌの舟下ろしの儀式で、8月20日に行われることは知っていました。今回違星北斗とはあまり関係ないとは思いながらも、外せないと思っていたイベントでした。私がチプサンケに参加するつもりだと答えると、おじさんは前から歩いてきた別の痩せたおじさんをさして「この人が明日、チプサンケでカムイノミ(お祈り)するんだわ」とおっしゃいました。さすが平取、アイヌ文化の里だなあ、と感心しました。
雨がなかなか止まないので、「ふれあいセンター」の3階の図書館で書漁。ここで平取にいた当時の北斗に関する貴重な情報を得ました。
末武綾子著『バチラー八重子(抄)』というもので、ここに北斗とともにバチラー幼稚園にあった吉田ハナさんからの聞き取りがありました。北斗は吉田ハナさんによく「キリスト教ではアイヌは救えない」と言っていたようで、なるほど、やっぱりそうか、と思いました。
北斗の周りにはいつもキリスト者がいたのに、彼は生涯、キリスト教を受け入れることができなかったばかりか、辞世の歌にも、次のように詠っています。
いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
キリストの如 安きに居らむ
民族の運命を背負って自分の足で立つ決意をした違星北斗にとっては、多くの同族が杖に支えにとばかりにすがりついているキリスト教は、時には頼りたいけれども、決して頼ってはいけない、そのような存在だったではないだろうかと思っています。辞世のこの一句にはそういうキリスト教への愛憎の色が見えるような気がします。
さて、時間が近付いたので、再びバチラー保育園へ。
園長室に案内されて、お話を聞きますが、あまり大正時代のことはご存知ない様子でした。ただ、北斗とともにあった吉田ハナさんはすでにお亡くなりになっていること、現在の教会も保育園の建物も、建て直した時に、少し位置が変わっていること等をお聞きすることができました。
やはり、昭和初期に幼稚園が閉園になってから、戦後に保育園が開演するまで、かなり断絶があるんですね。また、聖公会も戦前は英国に本部がある英国聖公会だったのが、戦後は日本聖公会という日本に本部を置く組織に改組されているようで、そのあたりも難しいところです。
次に、園長先生から、神父さんをご紹介いただき、教会でお話を伺いました。神父さんはちょうど高校野球の「駒大苫小牧高校」の準決勝の試合を見ていらっしゃって、ちょっと間の悪い時に来てしまったな、と思いました。
神父さんもあまり、北斗の時代のことはご存知ない様子でした。ただ、大阪の桃山大学が聖公会の大学だから、そこを訪ねると、バチラーのことなどはよくわかるだろう、と教えてくださいました。
大阪、か。結構、「灯台もと暗し」なのかも。
バチラー保育園を出たら、すっかりいい天気。どうも涼しくていい感じでした。
まだ3時。
よし。これから北斗も平取から二風谷に行く時は歩いたに違いない道を通って、歩いて二風谷へ向かおう、と決意。
尺八で追分節を吹き流し
平取橋の長きを渡る
北斗が尺八を吹きながら渡ったという橋、先程途中まで渡りかけた、平取橋へと向かうことにしました。
しかし、尺八か。
渋すぎる。ニヒルっぽい(?)な北斗にはお似合いの楽器ですね。私も習いたくなってきた。
長いので、7日目(2)二風谷編に続きます。
※『違星北斗遺稿 コタン』所収の「日記」の「昭和2年」の項のほとんどは、実は前年の大正15年のものであると思われる。詳しくは研究ページ
http://www.geocities.jp/bzy14554/nikkinitsuite.html
平取から二風谷まで、歩こうと決意。
ほとんど使いもしないノートPCなんかが入っているから、結構荷物が重い。リュックサックが肩に食い込みますが、我慢我慢。北斗もガッチャキの薬箱を背負って歩いたんだから。平気です。
途中、平取の裏名物(?) ハヨピラUFO基地はなんだかボロボロの廃墟になってしまっていて、ちょっと驚きました。
もともと「ハヨピラ」とはアイヌの英雄神オキクルミがシンタ(ゆりかご)で降り立ったといわれる崖で、「聖地」なのだけれど、70年代(ごろ?)にカルト的UFO教団のみたいなのが、そこに珍妙なモニュメントを備えたピラミッドのような施設を作り、すったもんだあった挙句、団体自体は姿をくらました、というようなものだったと思います。
10年前に自転車で訪れたときには、このハヨピラUFO基地は一応は廃墟ではあったのだけれども、(忍び込んでみると)崖には色々なパンジーやらチューリップやらのお花が植えられ、オキクルミカムイの像のところには、お花やお供えがあったりして、ああ、地元の人たちがちゃんと手入れしているのだなあ、素敵だなあ、と思っていたのですが、5年ほど前にバイクで訪れた時には平取町の管理となっていて、今後は公園として活用していくようなことを言っていたような気がします。 が、今回は全面的に立ち入り禁止になっていて、かつてのお花畑の急斜面も見る影もなく、朽ちるに任せられているような状態でした。ちょっと寂しいですね。
このUFO騒ぎをモチーフにした小説に「魔の国アンヌピウカ」というのがあり、ハヨピラを知っていただけに、なかなか面白く読了した覚えがあります。
ハヨピラUFO基地を超え、平取橋を超えると、眼下に流れる沙流川。でも、10年前に見た風景とはだいぶ違います。
沙流川の遥か上流に見えるのはレゴブロックで子供が拵えたような「二風谷ダム」、この巨大な玩具のような代物が沙流川を堰きとめ、そのからだを真っ二つに分けているんですね。
確か、このダムの建設自体は違法たという判決が出たと思うんですが……。この手に爆弾があったら、ぜひ破壊してみたいものの一つですね。このダムは。(←ヤバイかな)
この中世のお城のようなダム、ハヨピラUFO基地といい勝負かもしれませんね。どうしてこの沙流川の自然の中に、珍妙な建築物を建ててしまうのでしょうか。
どうも、うろ覚えなんですが、『アイヌ神謡集』に確か、川を堰きとめる魔人の話があったと思うんですけど、まさにそんな感じだと思います。
北斗に、
沙流川は昨日の雨で水濁り
コタンの昔囁きつ行く
という歌がありますが、ここに描かれたおそらく永遠に失われてしまったのでしょうね。
また、こんな歌もあります。
オキクルミ トレシマ悲し
沙流川の昔を語れクンネチュップよ
これは、人間の堕落を憤り、人間の国土を見捨ててオキクルミカムイは去ってしまった、けれどもそのトレシマ(妹神)が、人間の国土を思い泣き暮らしている、という伝説を踏まえて、この伝説に対して、北斗は
神にすてられたアイヌは限りなき悲しみ尽きせぬ悔恨である。今宵この沙流川辺に立って、女神の自叙の神曲を想ひクンネチュップ(月)に無量の感慨が涌く。(大正15年7月25日)
と述べています。
どうして、オキクルミカムイは去ってしまったのか。そこに人間の堕落があったからだ、と北斗は考えたのかもしれません。北斗はまた、昔のアイヌは強かった、とも言い、
「強きもの」それはアイヌの名であった
昔に恥ぢよ 覚めよ ウタリー
とも詠んでいます。
ふと思います。北斗は、必ず「アイヌの聖地」と呼ばれていた二風谷に訪れなければならなかったのかもしれません。そこで彼はアイヌとして生きるために魂に注入するためのシンボルのようなものをここで得ようとしていたのだと思います。しかし、それは十字架ではいけなかったのだと思います。
熱心なクリスチャンであった知里幸恵も、伝道婦としてキリストに仕えたバチラー八重子も、詩歌の世界ではアイヌの神話世界を詠い、そこにアイヌとしてのアイデンティティを見出していました。北斗がアイヌを救うのはキリスト教ではない、と思ったのはそこに矛盾を感じたからではないでしょうか。
さて、歩いているとやっぱり思ったとおり、だんだんしんどくなってくる。結構、長い!
すれ違うライダーさんたちを見ながら、逆恨みっぽく、バイクなんて座ってるだけだもん、楽チンなもんだなー、などと思いはじめる。いかんいかん。
自分だって、以前はライダーだったくせに。
道端で竹のように大きくなった蕗の茎を見つけ、それを杖代わりにして歩く。まるでコロポックルか、お遍路さんだ。
お遍路さんといえば、これはこの旅で思いついたことなんですけど、折角これだけライダーやチャリダーなんかが巡っている北海道なんだから、四国88ヶ所みたいに、違星北斗じゃないけど、「コタン」をめぐるルートを設定できないのかなぁ、などと考えるんですけど、どうでしょうね?
そんなに厳密に順番とか順路とかを設定する必要はないとは思うんですけど、ストイックなライダーやチャリダーが、ある程度の指標として使えるようなポイントをコタンに設定して、それらをいくつか巡ると、アイヌ文化の基礎的なことが分かるような仕組みって作れないのかなあ、と思います。
自分の時もそうだったけど、今の若い旅行者って、結構適当に北海道をブンブンまわってる気がして、もったいないなぁ、なんて思ってたものですから。彼らの冒険心と好奇心を、アイヌ文化の理解に結びつける事ができたらよいのではないでしょうかねぇ。甘いかなぁ。
これは、登別の知里さんとのお話の中でも、似たようなことを話したのですが、そういうのあればいいよね、と知里さんもおっしゃっていましたが。
何か、お遍路さんって、四国をある意味「テーマパーク化」しているんですよね。普通の生活空間としての四国と、「お遍路さんランド」としての四国は、重層的に重なっている。
同じように生活者としての北海道とは別に、アイヌモシリと言っちゃうとあれだから、「コタン・ランド」のようなものとしての北海道を設定できたら、面白いんじゃないのというようなことを考えておりました。
よそ者のたわごとです。お聞きのがし下さい。
さて、蕗の杖をつきながら、ほうほうの体で二風谷へ。
二風谷小学校発見。校庭に違星北斗の歌碑があるはず!
と、探す間もなく、ありました!
田上義也設計、金田一京助揮毫、『違星北斗の会』の木呂子氏の呼びかけによって作られた違星北斗の歌碑。
本来は昭和30年代に完成予定だったものが、諸般の事情によって伸び伸びになっていたのを、木呂子氏の情熱と、萱野茂氏の協力によって、ようやく昭和43年に完成の運びとなったということを、先日、木呂子氏のご子息に直接伺ったばかりでしたので、感激もひとしおでした。
ですが、なんだか薄汚れているので、すこし寂しくなりました。でも、それならそれで、自分がやらなきゃ誰がするんだ、ということで、歌碑の掃除をしよう、と思い、校庭の水道からペットボトルに水を汲み、古いタオルを使って石碑の盤面を磨いて見ました。
歌碑を磨いていると、また歌碑について2点、新発見がありました。磨いてみるもんだな、と思いました。
今回、違星北斗の墓参りはできないかもしれないけど、まあそれに近いことはこれで果たしたかな、などとも思いました。
夜、民宿「二風谷荘」に寄宿。10年前に泊まって、楽しかった思い出がありましたので、今回もそこにしようと決めました。
この宿の夕食は、宿泊者みんなで、バーベキュー。
今回同席したのは、アイヌ関係の記録CDを作っていらっしゃるレコード会社の方と、そのお友達の業界の方々、それと山登りの二人連れ。それぞれに魅力的な方ばかりで、とても楽しいひと時を過ごしました。色々私のやっていることにアドバイスを頂いたりして、とても参考になりました。
深夜、poronupさんと合流。深夜までいろいろ違星北斗に関するお話をすることができ、色々教えていただきました。
オフで会うのは始めてですが、オンラインでの付き合いもあって、初めて会った気がしませんでした。
poronupさん、どうもありがとうございました。それから、昼間ひたすら歩いて疲労困憊してしまっていたもので、眠くなってしまいまして、睡魔に負けてしまいました。どうも、すみませんでした。
ということで、次はチプサンケです!
今回の旅で得た新たな資料です。
?小樽新聞 昭和4年1月29日 火曜日 2面 死亡記事
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○違星北斗氏逝去 本道アイヌの先覚者として将又青年文士として世人に嘱目されてゐた余市の違星北斗君は去る二十六日肺を病みて大川町自宅に於て死去された
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?小樽新聞 昭和4年2月18日 月曜日 6面 学藝欄 追悼記事
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アイヌの歌人
違星北斗君の死を悼む
稲畑笑治
にぎり飯
腰にぶらさげ
出る朝の――
コタンの空に
鳴く鳶の声
アイヌの歌人違星北斗君が最後の地上に遺した芸術の片鱗である。
勇敢を好み悲哀を愛してゐた違星北斗君が、淋しい自嘲の――病床に呻吟しながら蝕まれてゆく自己の運命をどうする事も出来なかつた、短い生涯――最後まで寂しい一個の存在であつた。一昨年秋、余市コタンに彼を訪ふた時僕のために贈つてくれた「コタン吟」の一首が今はなき北斗君を彷彿するが如く貧しい僕の書斎をうるほしてくれてゐる、当時、違星北斗君の歌壇的出現は全国的の驚異であった、それは歌壇といふ狭隘なグループのかん嘆ではなく、寧ろ亡びゆく民族の救世主として彼の思想的転換への奮起である
しかたなくあきらめるといふ心あはれアイヌを亡したこゝろ
強いものそれはアイヌの名であつた昔に恥よ、さめよ同族
正直なアイヌをだましたシャモをこそあわれなものとゆるすこの頃
シャモといふ優越感でアイヌをば感傷的に歌をよむやから
この頃はまだ、歌のスタイルさへ定まらぬ啓蒙期にありながら、その内容こそ――アイヌとしての反逆思想への序幕といつたものが深く浸潤してゐる。アイヌの滅亡――それも彼にとつては深い衆生の痛恨であり悲しい現象であつたに違ひない
アイヌ相手に金もうけする店だけが大きくなつてコタンさびれた
暦なくとも鮭くる時を秋としたコタンの昔したはしきかな
コタンからコタンを歩くもうれしけれ詩の旅、絵の旅、伝説の旅
暗い死に直面しつゝも彼の詩想は絶えず思想的な感傷に踏込まうとしてゐるのではないか、然し何人が彼の感傷を残酷に批評しうるだらうか。
昨夏、フゴツペの「古代文字」に対しても彼はアイヌとして西田教授の机上の学説に就いて質疑を追究し堂々その論陣を後悔して面目を躍如たらしめたことも世人の記憶になほあらたである。
新短歌時代の隆盛をおう歌し中央歌壇の渋滞を冷顔視しつゝ躍進する本道歌壇において彼の死去こそ無二の損亡であらねばならぬ。幾多の郷土芸術の真価を高揚しアイヌの歌人として歌壇に独自の境地を開拓した彼の生涯こそ華やかにもまた淋しい元気の終局でもあつた。吾れ/\はとまれ、郷土芸術史上に薄幸なる歌人北斗君をして永劫にその存立を讃へてやまぬものである。―二月五日夜記
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その他のものも順次掲載してゆきます。
8月20日 8日目。
ちょっと、7日目について、いろいろと書きすぎた、と反省。
今日のチプサンケ(舟下ろし神事)は違星北斗とは関係ないか、と思ったりもしたんですが、北斗も二風谷で様々な文化や儀式を見たわけでしょうから、関係ないことはないですね。
昨日遅くまで話していたので、8時すぎに起床。poronupさんと朝食。昨日の夕食のバーベキューの時、レコード会社の人たちが「スゴイ夫婦」(特に奥さんの方)が来るらしい、と噂していた大阪のご夫婦と顔を合わせる。
ううむ。旦那さんは好青年、奥さんはネイティブ・オオサカンの濃い匂いはすれど、チャーミングな人でした。
荷物を二風谷荘に置かせてもらい、萱野茂アイヌ文化記念館の前に行く。ぞろぞろ人が集まってくる。
10時より、縁結び石の祭り。
遠く離れた川上と川下で見つかった岩なんだけど、もともとは一つの岩だったということで、縁結びの神として祀っているのだそうです。
私などはぜひ、その御神威にあやかりたいと思います。
萱野茂さんもいらっしゃってました。感激。私がアイヌ文化に興味を持ったのは、やはり萱野さんの本によるところが大きいです。
神事が始まり、みなさんイクパスイとトゥキで酒を捧げます。およばずながら、私も参加。見よう見まねでカムイにお酒を捧げました。(えーっと、左肩→右肩→頭でしたっけ?)
終わったあと、紅白のお餅を頂きました。これは同宿のレコード会社の人たちがついてくださったもの。感謝して、その場で頂きました。ごちそうさま。
萱野茂さんにご挨拶。「大阪から来ました、違星北斗の研究をしています」と言うと、「二風谷小学校に違星北斗の歌碑があるはしってるかい」と聞かれました。握手をしていただきました。
11時半より、博物館側のポロチセに場所を移して、チプサンケの神事。こちらでもお酒が廻ってきたので、神様に捧げる。
隣の若者(手にアイヌ文様が描いてある兄ちゃん。そういうイベントがあったのかな?)が作法がわからなさそうだったので、やり方を教える。自分もさっき聞いたばかりなのだけれど。
なんだか、でもカルチャーギャップでした。二風谷に来られるみなさんは、普通にカムイノミの時の作法とかをご存じなんだなあ。
カムイノミが終わると、歌と踊り。
いやあ、すごかったです。
歌の玄妙なハーモニーと、華麗にしてスピーディな踊り。なんか踊り手が入れ替わり立ち替わりして、シンクロを見てるみたいで大興奮しました。
なんでも、道内13地域の中で沙流川流域の踊りが一番ハードなんだそうですね。
ホリッパの時は、poronupさんが剣を持ってウホホホーイって叫んでいました。格好いいなあ。
奥手な私は入れませんでしたが、みなさんどんどん輪にはいっていくんですね。
大盛り上がりの中で歌と踊りは終了。いよいよ、チプサンケですね。
濡れてもいい格好に着替えて、チプサンケ会場になっている、ダムの下流の河原へ。博物館前から貸切バスが出ているんですが、大型バスが河原の土手道を降りていくのはなかなか圧巻でした。
トラックから4艘(かな?)の舟が降ろされ、
いよいよ、チプサンケの始まり。
船頭の方が長い棒で舟を操り、一艘、二艘と出ていきます。
私もライフジャケットを身につけ、列に並んでいましたが、並んだのが後の方だったので、まだまだだな、もう舟たりないから、舟が戻ってきてから、二順目になるな、と思って気長に待っていたのですが……。
一巡目の舟が一艘になったとき、
「おい、そこの若いの」と、僕の前にいた若い人(手足にアイヌ文様のペイントをした3人組)と一緒に、急に呼ばれたのでした。
おかしいな、順番からいえばまだまだ、前にも10人以上残っているのに、どうして我々だけ呼ばれたんだろう、と思って行くと、この舟に乗れ、といいます。
どうも明らかに他のチプと違うオーラを放っているような。それに、乗ろうにもどうも細くて大の男が4人乗るには狭く、不安定で、すでに水が入ってきているんですけど……。おまけに、船頭役の人もいないし……。
そうか。我々は、理解しました。そういう舟で、そういう役回りか、と。
覚悟を決めて、それならばと我々4人はチプに乗り込みました。
次の瞬間、舟はひっくり返り、4人は沙流川に投げ出されました。
そして、笑い声と、カメラのフラッシュ。
まあ、みんなの笑顔に送りだされたところまでは良かったんですが……我々にとっては、その浮かばない舟で、下流のゴール地点をめざすという長い旅のはじまりなのでした。
何度か、舟に乗ろうとしてがんばってみましたが、どうしても無理のようで、それならみんなで跨ろう、ということになりました。しかし、跨ってももバランスが悪くて、すぐにコケてしまいますし、その度にイナウも流れる、棹は流れる、スリッパは流れる、水上で立て直すのにまた一苦労です。そのうち、日が陰ってきたりして、寒くなってきたりもして。
船尾の部分にいた丸顔の人が、「こうすればいいんだ」と言って、自ら舟にぶら下がって「重り」になってくれて、やっと他の3人が跨ることができるようになりました。
なんやかやあって、よいしょとドボンを繰り返しす長い航海(実際には20分ほど?)を終えて、係の人がいる所までたどり着いたころには、我々4人チームの間には熱い友情が芽生えていたのでした。 ビショビショでバスに乗っていると、小さな女の子が不憫に思ったのか、「これあげる」と言ってくれたのが、何故か道南バスの時刻表。ありがとう、と頂きました。
バスの中で、チームの1人の青年と話しました。彼らは札幌の人で、車で今日帰るとのこと。彼らの手足のペイントもすっかり取れてしまっていました。よく見ると彼はカムイノミの時、作法がわからず困っていて、私が教えてあげた人。なんだか縁ですね。それにしても、小鳥の鳴く上天気の沙流川を、丸木船に掴まって漂流なんて、なかなか風流で得難い体験ではありました。
北斗が無情のポエジーを感じた沙流川に、私は飲み込まれて漂流してしまったわけですね。
3時。平取を発つ準備。「Bee」という店でラーメンを食べていると、「駒大苫小牧」が優勝とのこと。
バス停の裏の犬の相手をしながらバスを待っていると、私の名前を呼ぶ声。二風谷荘の女将さんが、道路の向こうから手を振ってくださいました。
しばらくすると、クラクションが。どこだ?と思っていると私の目の前にラパンが止まり、中から大阪のスゴイご夫婦が車から出ていらっしゃいました。実は、隣町ですごく近所だと判明。「来年もチプサンケに来ますか?」と聞かれましたので、「ぜひ来たいです」と答えました。
さっきまで、あそこに浮かんでたんだよなあ、と思いながらバスの外の沙流川を眺め、また本当に、来年のチプサンケで、poronupさんや、あのレコード会社の人たちや、この大阪のご夫婦とかと、二風谷荘で会えるといいなあ、でも来れるかなあ、などなどと思いながら、平取をあとにしました。
今日は甲子園優勝で湧き上がる苫小牧を通り過ぎ、一路小樽まで。明日は違星北斗の故郷余市で、この春にもお世話になった郷土史家のAさんを訪ねる予定です。
山岸玄津(礼三)『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』
「緒言」
(前略)
余市が斯く先住民族の遺蹟地であり、遺物埋蔵地でありながら、学者や好事家の発掘に任せ、或は折角蒐集したる人にありても、これを容易に人手に附与し或は今日尚堀土の折等に、時として遺物埋蔵地に遭遇することがあつても、無頓着、無理解なる鋤鍬の一撃に委ねて、之を細砕し、或は抛棄して顧みざるが如きことがある。斯くては貴重なる遺物の包含量も次第に幻滅に帰し去るであらうと思はれる。余は何かの縁で由緒ある此郷に来り、卜したる現住地が恰もその遺蹟地中の優なる場所であつと云ふことは、余自身は勿論何人も気づかなかつたのである。即ち余が現住地は俗にアイヌ街と称する処で、アイヌ住屋地に近接してゐる為め、自(オノズカ)ら土人と親しみを来すことになつたのと、其上に其頃土人中に違星竹次郎(号北斗後上京金田一学士などの名士に参じたことのある且つ頗る気骨があり、又文雅の道にも趣味を有し、思索もすると云ふ面白い男であつたが惜しいことには、三年前に肺患で病没した)なる青年がゐて、時々余の宅を訪れて、余が移居当時の無聊を慰めくれ、時にはアイヌ口碑や「カムイユーカラ」の伝説、現時に於ける実生活状態など聞かしてくれたりして、随分余の新居地の東道役になつてくれた男であつた。然るに大正十二年の春彼が急性肺炎に罹り可なり重患であつたのを、余が一才引き受けて、入院せしめ世話してやつたのを、彼は喜んで全快祝だと称して、彼が年来秘蔵したる西瓜大の土器一箇を携帯寄贈してくれた。これが余が土器を得たそも/\の初めである。此品は彼が大正九年の秋、余が此地に移居の僅か二三ケ月前の或日、余市川に投網して獲得したるもので、話に聞く土器であつたから、御授かりの気持で、誰人の所望にも応ぜず保有してゐたものであると語つた。当時余の問に対して彼がいふには、私共民族の中では、従来土器の保有者一名もなく、祖先から口碑にも聞き居らず、唯伝へられて居るのは、余市アイヌが此地に来た時先住民族が居た。それはアイヌよりも小さく、弱き人種で、わけもなく追つ払つた。此人種はアイヌでは「クルブルクル」石の家の人の意味で「ストーンサークル」環状石籬を作り立て籠もつた民族である。而し「コロボツクル」(蕗の下の人)人種の事を聞いて居るが、それかもしれぬ。只先住民族が居つたと云ふから、或は其遺物であらうと思ふまでだとの答であつた。
余は此時直感した。これは現住のアイヌではない。併し現住アイヌの祖先を彼等に訊ぬれば、数百年は愚か千年以上の口碑を持つて居る。余は只不思儀の一言を発したのである。
兎に角も余は此の得難き一品を手に入れて欣喜置く能はず、心を尽くして彼を犒ひ、祝宴迄開いたことを記憶する。其後土器が縁となり、北海道史を知人から借覧などして興味をそゝり(後略)
*************************
この文献には、今まで知られていない若き日の北斗の姿がかいま見えます。
大正9年ごろ、北斗が投網で西瓜大の土器を得たこと、北斗が大正12年に肺炎で入院し、治してもらったお礼にそれを山岸礼三に贈ったこと、喜んだ山岸が祝宴まで開いたこと、それが山岸の最初の山岸コレクションであることなど。
また、山岸先生と北斗は非常に親交が厚かったようですね。山岸先生も、北斗の才能や人柄を高く認めていたようです。
余市でお会いしたご子息のお話によると、山岸礼三先生はアイヌの診断は基本的にはお金を取っていなかったようです。
コタンの赤ひげ先生は、白老の高橋房次先生だけじゃなかったんですね。
コタン文庫更新 投稿者: 管理人 投稿日: 8月28日(日)22時29分59秒
コタン文庫に山岸礼三の著作、吉田ハナの聞き書き、小樽新聞死亡記事、追悼記事、違星家聞き書きをアップしました。
※マークが黄色くチカチカしているのがそれです。
あと 投稿者: 管理人 投稿日: 8月28日(日)22時31分19秒
年表もけっこう更新しています。
平取で北斗とバチラー八重子とともにあった、吉田ハナさん。
今回入手した資料『バチラー八重子抄』ではバチラー八重子より17才年下となっていて、昭和45年現在70才とあります。ということは、1900年生まれで、違星北斗とほぼ同世代ということになる。
うーん。早川昇の「アイヌの民俗」では、明治31(1898)年に平取キリスト教婦人会長とある……うーん。
どちらかが間違っているんだろうけど……。
この方のことは、バチラー保育園の園長さんもご存じだったけど、あまり詳しいことも知らないようでした。伝道婦でもなかったので、公式の記録にも残っていないし。
聞き書きでは、北斗のこと、あんまり覚えてないって言ってるんですね。それに印象もそれほど良くない。
それは取りも直さず、北斗が「キリスト教では同族は救えない」という信念を持っていたからで……時には意見が平行線を辿ることもあったんですね。
ひとまずバチラー幼稚園に身を寄せ、八重子とともにあったけれども、北斗と八重子の思想は重なり合わなかったんでしょう。あくまで「外から(そして上から)与える」のキリスト教徒たちのアイヌに対する施策には、「アイヌの復興はアイヌの手で」という北斗の思想ははなじまないでしょうし、50年経っても一向に成果の上がらないバチラーのやり方にも失望もしただろうし。(北斗も自分の体が強くないことを気にもし、急いでもいたでしょうから)。
喧嘩別れというわけではないけれども、気まずい雰囲気を引きずったまま、袂を分かたざるを得なかったのだと思います。
日記に残っている7月の風景は、あれは北斗と「バチラー幼稚園」の蜜月の姿なのでしょう。しかし、1ヶ月もしないうちに日記にも現実的な問題点がかいま見えるようになります。たとえば、後藤静香の送金を中止といった「お金」の問題もあるでしょう。
平取に居る間、北斗は丸抱えで、バチラー幼稚園に雇われていたわけではありません。土方仕事や伐採などですくなくとも生活費は自分で稼いでいたわけです。
だから、バチラー八重子や、岡村神父といった人に命令される立場でもなく、ただ補修や雑用などの仕事を請け負うかたち(もしくはボランティアで)でやっていたにすぎないのでしょう。
住居はバチラー八重子がミス・ブライアントから貰い受け、吉田ハナが管理していた貸屋に、たぶん寄宿していたのでしょうが、関わりとしては、かっちりとした雇用関係や信仰による絆があったわけではない。ただ、ウタリの向上を願う気持ちのみ通じている。幼稚園や教会に出入りしているけれど、信者でもないので、北斗自身の行動はバチラー側には束縛されない。そういうどっちつかず「関わり方」になっていったのだと思います
穿ちすぎかもしれませんが、バチラー側からすると、幼稚園のスポンサーである後藤静香の息のかかった者でもあって、いろいろ扱いづらい部分もあったかもしれません。北斗もバチラー側と後藤静香側の板挟みになって苦しんだことと思います。
そのあたりの苦悩が、希望に満ちた7月とは打って変わって8月の日記には見え隠れしてきます。
違星北斗の旅 9日目 余市の巻 投稿者:管理人 投稿日: 8月29日(月)02時32分57秒
今回も非常に長い上にクタクタです。
ごめんなさい。
8月21日 9日目。
昨日は小樽泊。
小樽は余市の隣町でもあるし、北斗自身が短歌等で最もよく掲載されていたのが『小樽新聞』だったため、縁が深い町です。
朝イチで、小樽文学館へ。前回は行ったら休みだったんですよね。今回は、ちゃんと出る前にHPを確認して来ました。
ここに違星北斗のコーナーがあるらしいので、一度見てみなければと思っていたのですが……行って見ると、違星北斗のコーナーは40センチ四方ぐらい。小さいなあ。
記事も小樽新聞の紹介記事のみで淋しい限り。
北斗の短歌に才能を見出し、世間に紹介した並木凡平という歌人がいるのですが、それは紹介スペースが畳1畳ぐらい。小樽出身の文学者伊藤整に至っては20畳ぐらいの紹介スペース。まあ、いいけど。
何か他に資料はないのか、学芸員さんに聞こうと事務所へ。すると「今日は休みです」って……ショボーン。
じゃあ、得られる情報は「掲示」のみ?
学芸員のいない文学館なんて、ほとんど意味ないよ。
意気消沈したまま、余市へ。
郷土史家のA氏宅にお伺いするのが、1時なので、12:30に余市駅であらやさん(小樽在住の方で、違星北斗のファンの方。このHPにもいろいろとご協力頂いています)と待ち合わせしているのでした。
余市駅に着いたのが11時。
待ち合わせまで1時間半ある!
これは、時間を無駄にできない今回の旅。この1時間半で一つ二つ、出来る調査をやっておこう、ということで、駅で自転車を借りました。
今回、白老で森竹竹市研究会の会報を頂いたのですが、そこに、気になることが書いてあったのでした。
私は今回は、ぜひ前回見つからなかった違星北斗の墓を見つけて墓参りを果たしたいと思っていたのですが、その会報に森竹研のある女性の方が、自分の友達がお寺の娘で、そこで違星家の葬祭をしたことがあると言っていた、と書いてあったのでした。
これは……もしかしたらもしかするかも、ということで、そこに書いてあった寺の名前をタウンページで調べ、地図を確認して、一路自転車でそのお寺に向かったのでした。
お寺の入り口で「ごめんくださーい」と、言ってみましたが、誰も出てきませんでした。インターホンをピンポンと鳴らすと、男の人の声。「今行きます」と。
ところが、すぐに出て来たのは、ご婦人でした。
ご婦人に「ご住職はいらしゃいますか」と聞くと、「居ません」とおっしゃいました。ご婦人はお体がご不自由なようで、大きな声で、一言一言喋られるのでした。
ご住職がいないって、おかしいなあ、さっきインターホンで話したのになあ、と思っていると、反対側から住職さんが出ていらっしゃいました。
大阪から来て、アイヌの歌人の違星北斗を研究していること、このお寺で違星家の法要をされたと知ったことなどを住職さんに話しました。
すると、住職さんではなく、ご婦人の方が、大きな声で言われました。
「アイヌの研究を! それはすばらしいですね! 私もアイヌ語を習っているんです!」と一言一言、興奮ぎみに話されたのでした。それを見て、住職さん「まあ、とりあえず上がって下さい」とおっしゃってくださいました。
台所に通されると、どうもご飯の途中だったようで、平取の教会に続いて、これまた間が悪いことだなあ、と思いました。
住職さんは最初に、違星という家は知らないということで、ただ葬祭の会場として貸したのだろう、とのことでした。それから、もしかしたらここではないかというお寺の名前も教えてくださいました。
ご婦人は、「すみません、私、こんな体なので、恐いと思って、よく居ないって言っちゃうんです」と言って、しきりに謝ってらっしゃいました。
このご婦人なのですが、実は白老に住んでいらっしゃって、今日はたまたま故郷の余市に帰ってきているとのことでした。白老では、アイヌ語を習っていて、そこで違星北斗のことも知ったそうです。地元にいたのに知らなくて、白老にいってから、こんな人がいたんだ恥ずかしい思いをしたのだそうです。幼い頃、よくアイヌの子たちと遊んだそうです。
また、詩を書かれているそうで、「北の詩人」という同人誌を下さいました。
私が北斗のこと、今回の旅のことを話すと、ものすごく喜んでくださり、こっちに来ていてよかった、帰らなくてよかったと無邪気に喜んでくださり、こっちがくすぐったくなるほどでした。また、私が白老に行ってきたことを話すと、たいそう喜んでくださいました。
「これが、私の名前です。それからもし、白老に行ったらぜひこの人を訪ねてください」といって、震える手で、一つ一つ名前を書いて下さいました。
その二つの名前なのですが、書いている途中で、あっ、と思いました。その手が、次に書く字が、なぜだかわかるのです。奇妙な感覚でした。
二つとも、どこかで見た、知っている名前――だけれどもどこで見たか分からない名前。
そうか……書き上がった二つの名前を見て、ようやくわかりました。
私が、この寺に来る前に見た「森竹竹市研究会」の会報。名前の一つは、その中のこのお寺の名前が出てくる文章を書かれた女性の名前でした。そして、もう一つはその筆者の友達でお寺の娘だという人の名前。目の前のご婦人がその人だったんです。
まあ、当たり前といえば当たり前なんですが……私が、その方の書いた文章を見てここに来たんですというと、「まあ、それはすごい偶然ですね! よかった! うれしい!」と喜んでくださいました。なんだか、自分の来訪をこんなに喜んでくださるなんて、大した人間ではないのに、と思う反面、違星北斗を研究するということは、こういう風に喜んでくださる人がいるんだ、責任を負うんだ。だから期待に応えられるように頑張らなければ、と思いました。
次に自転車を飛ばして、違星北斗の生家があった場所(今は駐車場になっている)に行き、次にご遺族が最近までいらっしゃった家に行きました。近所のお店の人に聞くと、その小さな家は今は他人の所有になっていて、男性が住んでいるらしいのだが、よくわからない、とのことでした。
北斗の甥夫婦が住んでいたのですが、平成3年に甥が、平成14年に奥さんが亡くなって以来、余市から違星さんは居なくなったという話でした。
ポストにはまだ「違星」の文字があり、違星さん宛ての郵便物も入っているようでした。
扉は鍵が開いていました。「ごめんくださーい」と言ってみたのですが、誰も居ないようでした。かいま見えた室内は、現住人の生活感があるようであり、ないようであり、もしかしたらご遺族が暮らしていらっしゃった状態がある程度残っているのかも知れない、もしかしたら北斗の遺稿や資料なんかもこの家の中にあるのかもしれないなあ、とも思いました。
また時間があれば来て、近所の人に話を聞いてみようと思いました。
12時30分にあらやさんと余市で再会。あらやさんのお車に乗せていただいて、郷土史家のA氏宅へ。
A氏は余市の郷土史、とりわけアイヌ文化の研究家として有名な方で、前回余市に来たときにいろいろなお話をお聞きしました。
今回は、二回目ということもあって、非常に親しげに迎えてくれました。
まず、今回のテーマである、北斗の墓の謎について疑問をぶつけてみました。私が前回の調査で撮った写真を見せ、違星家の墓に北斗の名前がない、よって別のところに墓があるのではないか、と聞いてみると、A氏は、そんなことはない、20年ぐらい前に撮った写真には墓石に北斗(滝次郎)の名前があったはずだ、とおっしゃり、写真を探して下さるということになりました。家中かなり探したのですが、結局みつかりませんでした。
今回も、いろいろな資料をいただきました。その中には若い頃の北斗の情報ものもありました。
突然、話の流れで、違星北斗の主治医であり、最後を看取ったお医者さんの息子がいるから、これから会いに行こうという話になりました。
雨の中、あらやさんの運転、A氏の案内でたどりついたのは、ジャズ喫茶。
そこのジャズ喫茶のマスターが、じつは北斗の主治医の息子さんだったのでした。もちろん、マスターは今70才ぐらいでしょうから、没後75年になる北斗とは直接面識はないのですが、当時の余市のこと、また北斗が暮らした余市の「コタン」のことはよくご存じで、北斗の遺稿集『コタン』に登場する人々のことをいろいろと教えてくださいました。
また、『コタン』にそのお医者さんの名前がけっこう出ていることをお伝えすると、ものすごく喜んでおられました。古い写真なども見せて下さいまして、いろいろ教えて下しました。
例えば、漁業で生計を立てていた北斗の父や兄が、雇われた漁夫ではなく、ちゃんと船を持っていたことなどは、聞かないとわからないことでした。
このA氏とマスターが、近々古老のところに行って、私達のためにいろいろ聞いたり、資料を探してきてくれる、とおっしゃって下さって、なんだか申し訳ないなあ、と思いました。
このように、私一人が違星北斗のことを調べたい、知りたいと思って動くだけじゃなくて、だんだんといろんな人を巻き込んで行っていることが恐くもあり、また心強くも感じられました。
A氏の家に戻り、またいろいろと資料を見て、帰る段になって、「庭のミニトマトがいっぱい余ってるから、もいでやろう」ということになりました。雨の中、上半身裸のA氏は、次々とよく熟れたミニトマトをもいでくださり、さらに「庭にミョウガが生えているから、つんでやろう」ということにもなりました。
あらやさんによると、これが典型的な北海道の田舎のもてなしなんだ、ということでした。そういえば、さっきのお寺でも、帰りしにいっぱいお菓子を持たされましたし、前回の旅行でも、こっちが勝手にお邪魔したのに、帰りにはいっぱい物をもらっているという上京がいっぱいありました。
やっぱりそうなんだ、と妙に納得しました。
ということで、この日は小樽のあらやさんのお宅にお世話になりました。余市から小樽に向かう車中で、違星北斗談義に花が咲きました。
明日は札幌&余市。この違星北斗の旅もあと1日+αです。
違星北斗の旅10日目 札幌ぶらぶら余市の巻 投稿者: 管理人 投稿日: 8月31日(水)03時42分43秒
8月22日 10日目。
実質上、自由に動ける最後の日です。
今日はporonupさんにご紹介いただいて、北海道ウタリ協会を訪ねる予定。何か違星北斗に関する資料があるかもしれない、とのこと。
今日が月曜日なのはちょっと残念。というのは、道立の博物館は全部、月曜が休みなんですね。
道立図書館で探したい資料もありますし、道立文学館には、違星北斗の展示があるらしいので確認したいのですが、全部休館日。北大の植物園の中には「バチェラー記念館」があるのだけれど、これも植物園ごと休園日。残念です。
これも全て私の無計画性から来たことなので反省します。いつも「もう1日あれば!」と思うのですが。
あらや氏に小樽築港駅まで来るまで送って頂きました。本当になにからなにまでお世話になってもうしわけないです。
札幌駅に着き、ウタリ協会に向かおうと、地図看板を見ていると、東京の事務所から電話がり、ある書類がない、見つけて欲しい、このままではちょっと大変なことになるかもしれない、というような内容でした。青空のような清々しい気分から暗転、劇的にヘコみました。胃が痛い。
たしかコピーが大阪の自分のデスクのどこかにあったはず、研究室に電話し、かわりに探してもらうことにするが、研究室にはまだ誰もいないらしく、出るはずの人間の携帯もつながりません。
暗澹たる気持ちを引きずりながら、ウタリ協会へ。
北海道ウタリ協会とは、HPから引用すると《北海道に居住しているアイヌ民族で組織し、「アイヌ民族の尊厳を確立するため、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展を図ること」を目的とする団体》だということです。
かでる2・7というビルの7階へ。おそるおそるドアを開ける。poronupさんのご紹介で来たのですが……と言ったまではよかったのですが、それからが私のダメなところ全開で、肝心の紹介していただいた方のお名前を忘れてしまっていたのでした。
必死に思い出そうとするのですが、なかなか出てこない。確か「タ行」だったな、と頭に浮かんできた名前を言うと、「ああ、その方ね」と、資料室のようなところに案内され、女性の学芸員の方を紹介されました。
話を伺ってみたのですが、違星北斗のことはあんまり詳しくない、とおっしゃいました。あれ、おかしいな、と思いながらも、いろいろ貴重な資料を見せていただき、コピーを取らせて頂きました。
閲覧していると、いろんな方が入ってこられて、学芸員の方と親しげに会話をされているのが、いろいろと聞こえてくるのですが、はっはー、ウチの母親(おかん)と同じようなことを言っているナーなんて思えるところがあり、温かい気持ちにもなり、でも会話の中にアイヌ語の単語が普通に出てくるところが、なんかいいなー、なんて思いながら資料をたぐっていました。
その後、同じビルの中に入っている、北海道文化財保護協会を訪ねました。白老のY先生、余市のA先生も参加されていて「北海道の文化」という紀要を出している団体です。違星北斗のことを書いて発表できれば、と思うのですが。
ビルを出たところで、ようやく研究室に連絡がつく。どうも大雨で電車が遅れていたらしい。書類の捜索を頼んで、とりあえず一安心。
遅い昼食をとりながらメールを確認すると、ああっ! 違う! poronupさんが紹介してくださったウタリ協会の方は、さっき会った人じゃなかった! まずい!
急いでさっきのビルに行き、再びウタリ協会を訪ね、メールで確認したT氏の名前を告げますと、落ち着いた雰囲気の男性が出ていらっしゃいました。
事情を説明して、お目に掛かるのが遅れたことを謝りました。よかった。お怒りじゃないようでした。
早速、違星北斗のことをお聞きしますと、どうやら、poronupさんからいろいろお聞きのようで、私の研究HPも見て頂いていたようで、非常に嬉しく思いました。
T氏は、私の持っている95年版の『違星北斗遺稿 コタン』を見て、「よくこんなに珍しい本を手に入れましたね」とおっしゃり、「なぜ違星北斗を? きっかけはなんですか」と質問されました。
この質問、じつは非常によくされるのですが、答えは一つしかありません。
感動したからです。涙が止まらなかったからです。
私は、『違星北斗遺稿 コタン』をおそらく、95年に北海道で手に入れたんだと思いますが、その中の「アイヌの姿」という北斗の文章に、本当に強烈な衝撃を受けたのでした。
その文章は昭和2年の7月に書かれたものですが、80年の時を超えて、その文章は今を以てなお斬新で、悲哀に満ちて美しく、なによりも宇宙的なスケールと立体感を持っていました。読み手の視線は大自然を滑り、人々の間を次々とすり抜けつつ、いつしかどんどん大空に舞い上がり、宇宙の彼方から世界を見ているような錯覚に陥る、そんなコズミックな文章感覚を、違星北斗の「アイヌの姿」に感じたのでした。
いまは残念ながら、そうではなくなってしまいましたが、しばらくは、その文章を読むたびに涙が出て出てしょうがなかったのでした。
T氏にそのような話ほか、いろいろな話をしました。ほとんどT氏はずっと私の言うことを聞いて下さっていたんですが、「F先生にお会いにお会いになりますか?」と、言われました。
F先生とは、知里幸恵や知里真志保などの評伝をお書きになった方で、アイヌ文化に興味のある人ならほとんどの人が知っているんじゃないかという(と私は思う)くらいの、有名な方です。
T氏はF先生にお電話してくださいましたが、私が明日の午前しか時間がない、ということで、「またの機会に」ということになりました。ああ、やっぱりもっと北海道に居たい! まだまだ調べたいことはいっぱいあるのに。
(ちなみにT氏もF先生もアルファベットにする必要あるかなぁ。そのへん、どうでしょうね? 難しいなあ)。
あと、Tさんに「東京に行ったら、神田の草風館にいってみたら」といわれました。草風館は現在の『コタン』を出している出版社です。そうか。その手があったのか、と思いました。
東京の事務所から電話。書類、なんとかなったとのこと。一安心する。ハア、よかった。
札幌をあとにして、余市へ。
もう夕方だけれども、明日昼に北海道を立つから、今日のうちにもう一度、あの家に行こうと思いました。
コンビニで手みやげを買って、違星家のご遺族が住んでいた家に徒歩で向かいました。今は違う人が住んでいるらしいのですが、その方に聞けば何かわかるかもしれないし、もしかしたら遺稿や資料なんかが残っていたかもしれないので。
たどりつくと、電気がついていない。「ごめんください」と声を掛けてみると、やはり、誰もいないようでした。もしかしたら、本当に誰もいないのかもしれない。
そうか――残念。と帰ろうとしたのですが、うーん。このまま帰るのはやはり、忍びない。ここはもうちょっと頑張ってみよう、というわけで、ご近所の方に聞いてみよう、と思いました。
で、電気のついていた家に「ごめんくださーい」と、声をかけてみたのですが、誰も出て来ません。何度か声をかけ、やっと出て来られました。
その、出て来た人を見て驚きました。
一昨日、A氏とともに会いに行った、違星北斗の主治医の息子さん=ジャズ喫茶のマスターだったのです。
こちらも驚きましたが、むこうも驚いているようで、まあとにかく上がれ、といわれるままに上がらせていただきました。
マスターは、この偶然に興奮したようで、いろいろとお話してくださいました。また、近所のお婆さんのところに連れていってくださり、いろいろと聞いてもくださいました。
マスターの奥さんは「いろいろ調べてくださるなんて、ありがたいわね」「本になったら、送って下さい」とおっしゃられ、手作りのイクラの醤油づけを下さいました。
しかし、私の考えすぎかも知れませんが、その奥さんの言葉の裏になにか不安のようなものの気配を感じてしまいました。
北斗は昭和の最初期の段階で「余市は和人化が進んだ土地」だというようなことを書いています。現代では余市にアイヌのコタンがあったことを知らない人も多いのかも知れません。余市の博物館の方が余市には「ウタリ協会」に入っている人が一人もいない、ともおっしゃってもいました。
もちろん、現在ではそういうコタン――まさにそれは違星北斗の「コタン」そのものなのですが――は記録と記憶の中にはあっても、目に見えるかたちでははっきりと、もう残っていないわけです。
そこに、私か、あるいは誰かが、余市出身の違星北斗というアイヌの歌人がいるんだと、もっと多くの人に知ってもらいたいんだ、ということで、文章を書いてどこかに載せるとなると、当然余市のアイヌコタンについても少なからず言及することになると思うのですが、それを嫌がる人も出てくるわけですよね。どうして、今さら掘り起こすんだ、と思う人もいるかもしれない。
帰り道、余市の町を歩きながら、私は自分の中にたぎる違星北斗への想いと、地元の旧コタンの人たちへの思いとのジレンマに押しつぶされそうになり、もう少しで往来の真ん中で叫び出しそうになるところでした。
この日もあらやさんの泊めていただきました。
いよいよ明日で違星北斗の旅最終日です。
8月23日 11日目
いよいよ北海道における最終日です。
函館から出る大阪行き特急に乗るには、お昼12時22分の特急に乗らなければいけないのですが、それまでは動けますので、昨日行けなかった道立図書館や道立文学館に行くつもりでした。
ところが。
寝坊してしまいました。
昨夜もあらや氏と夜遅くまで違星北斗談義していたのですが……8時過ぎている!
あーあ。やっちゃった。急いで起きてしたくをし、取りあえず道立図書館へ。あらやさんに送って頂きました。本当に何から何までありがとうございます。
10時ごろ道立図書館へ。郷土資料室へ駆け込む。
北斗の死んだ昭和5年の4月と翌5月の小樽新聞と北海タイムスのマイクロフィルムを借り、閲覧しました。
前回、チェックできなかった違星北斗の小樽新聞の死亡記事と追悼記事をプリントアウト。北海タイムスにも掲載されていると聞いたので探したのですが、こちらはみつかりませんでした。
11時道立図書館を出て、札幌駅まで、あらやさんに送って頂きました。ありがとうございました。
札幌から函館まで、特急スーパー北斗。
函館で大阪行きの特急日本海に乗り換えですが、時間が余ったので、駅で食事。
今回、ほとんどコンビニのおにぎりとか、安いものしか食べていなかったので、さいごは北海道らしいものを食べよう、と駅ビルの中の食堂でカニとかホタテとかが乗ったラーメンを食べました。カニの足が丼からはみ出すように4本、根本ごと乗っていて1000円。
おいしかったけど、カニは昼間、それも電車の時間を気にしながら食べるものはありませんね。手が汚れるし、時間はかかるし。
駅ビルの構内に、青函連絡船の歴史のような展示があって、ちょっと見る。
そこで、青函連絡船の本を見ていたら、あることに気づいた。
行きの時、違星北斗は青森で降りて、青函連絡船に乗ったであろう、と思っていて、日記にもそう書いたのですが……青函連絡船って、鉄道をそのまま船の中へ線路で引き込むような仕組みになっていたんですね。カーフェリーのように、汽車ごと運んでしまうんです。
だから、北斗は青森で降りていない可能性が高いですね。うん。勉強になりました。
16時半。寝台列車へ。
行きとちがって、空席が多く、ゆったりできました。
今回の旅でお世話になったすべての方に感謝します。応援してくださったかた、協力していただいた方、やさしさをくださった方。いろんな方に時間と労力を割いていただき、その生活をかき回してしまったことを申し訳なく思います。
準備不足、無計画な旅でしたが、それだけに自由な旅の空の下で、旅の醍醐味を味わうことができました。
それまでほとんど一人でやっていた違星北斗の研究が、ここにきていろんな人を巻き込むことになり、もう引っ込みがつかない戻れないところまで来てしまったのだという覚悟をさせられた旅でもありました。
いろんな人の期待や好意に応えるために、これから違星北斗の研究をどこかに発表してゆき、世に問うていかねばならないんだ、自分にはその責任があるんだ、と思いました。
寝台特急日本海で、一路大阪へ。
翌朝9時まで、ほとんど眠って過ごしました。
10時すぎ、大阪着。その足で職場である研究室へ向かいました。
うーん、なんだかなー。
今回の旅で、余市の方の訛りとして「イ」音と「エ」音の類似があるんだなあ、というのを再確認しました。
これまで気になっていた「イ」音と「エ」音の記述の混乱は、やはりこれが原因なのだと改めて思いました。
「イボシ」と「エボシ」
「イサン」と「エサン」
「イカシ」と「エカシ」
などは、おそらくこれによるものだと思います。
また北斗「滝次郎」の名前がいたるところで「竹次郎」と書かれているのも、このせいでしょうね。
「滝次郎タキジロウ」「竹次郎タケジロウ」。
北斗自身も訛っていたでしょうし、周りの人間も「タケジロウ」と訛って呼んでいたのでしょう。
北斗自身も別名のような感じで「竹次郎」と書いていた風でもありますね。
大学の方の仕事で、4日ほど家を空けておりました。
高野山の宿坊でゼミ合宿があり、そのスタッフとして参加しておりました。
時間が空けば、違星北斗のこと、とくに先日の旅でお世話になった方々へのお便りを書こうと思っていたのですが、なかなか時間がとれませんでした。
北斗の筆まめを思うと、自分のルーズさが情けない限りです。
HPも手を入れなければいけないところがいっぱいあるし、違星北斗の小伝にもとりかかれていません。情けない。
を、書き始めることにします。
といっても、遅々としたものになると思いますが。
ブログで書きながら、みなさんのご意見を頂きつつ、書き進めていきたいと思っています。
下のURLで始めます。
よろしくおねがいします。
http://blogs.yahoo.co.jp/bzy14554
遺憾ながら 投稿者: 管理人 投稿日: 9月12日(月)01時54分29秒
「北斗をめぐる旅」を極めて中途半端にアップ。
一応、ちゃんと写真なども入れていくつもりですが、とりあえずの足がかりとして1
〜3日め載せておきます。
しばらく、更新できてません。研究も小伝も進んでません。
心を亡くしております。
そのかわりといってはなんですが、あらやさんの「北斗/賢治」のページが、北斗に関する素晴らしい考察をされていますので、ご参照ください。
↓↓↓↓↓↓
http://www.swan2001.jp/oahokuto.html
北海道から大阪に帰って、待っていたのは仕事の山。
高野山漫画合宿の準備、オープンキャンパスなど学内行事の準備、学内誌の原稿など。
ようやくほっと一息です。
この週末は休み。
ちょっとは北斗のところに戻ってこれそうです。
平取≠二風谷 投稿者: 管理人 投稿日: 9月23日(金)21時04分0秒
あらやさんの「北斗・賢治8月16日」に
もしも末武綾子(吉田ハナ談)がいうように、北斗の平取滞在が「二ヶ月にも満たない」滞在であったとするならば、今日「8月16日」の日記が平取最後の日記ということになります。
そうかもしれません。
北斗が「平取教会」にいたのは2ヶ月なのかもしれません。
では、そのあと北斗はどこに行ったのか。
「二風谷」だと思います。
『医文学』大正十五年十月号に「書中俳句(二風谷より)」があり、
川止めになってコタン(村)に永居かな
という俳句があります。書かれたのは9月から10月ごろでしょうか。
大正時代の沙流川の記録を調べればわかるかもしれません。
また、『アイヌの歌人』(湯本喜作)に、北斗が秋に二風谷の二谷国松さんをたずねたとあります。これもこの頃のことだと思います。
同じ頃、『自働道話』大正15年12月号に
来月から新冠の方面に参りたいと存ます。労働はとても疲労します
従って皆様に御無沙汰勝になりまして、申わけもありません。どうも郵便局が四里も遠くなので、切手を求むるのが骨です。
これは、二風谷から見た平取のことではないでしょうか。平取から二風谷はちょうど4里ぐらいだと思います。
平取から二風谷までは車で15分ですが、歩くと3時間ぐらいかかります。平取までは「沙流鉄道」が通っていましたから、ある程度栄えていたでしょうが、二風谷へは今日のように道路が整っていたわけでもなく、山道を歩かねばならなかったと思います。
つまり、平取と、二風谷をまったく切り離して考える必要があるんですね。
平取教会をあとにした北斗は二風谷へ向かい、そこにある程度滞在したことでしょう。そこからさらに日高の奥、新冠へと行ったのかもしれません。
私のカンなのですが、北斗にとっては、平取本町はもうすでに「コタン」ではないと思ったのかもしれません。
三、二風谷に希望園を作る 林檎三百本
北斗は二風谷にリンゴを植えようとしたのです。
平取(いわゆる平取本町)ではなく。
自働道話10月号の
来年から平取村にリンゴの苗木を少し植附けます
の「平取村」は「村」とついていることから、役場のある「平取」ではなく、「平取村」全体を指した言葉であり、より厳密に言えば「平取村二風谷」であると思います。
あらやさんが言われるように、バチラー八重子や吉田ハナがリンゴ園を手伝ったとかいう話はありません。なぜなら、平取教会を守らねばならない八重子やハナは、平取から動けないからです。
もちろん、北斗が二風谷でリンゴ園をやろうというのも頓挫するのですけれど。
『希望園』というネーミングから、北斗はバチラー幼稚園と同様に希望社のバックアップを期待していたのかもしれません。ですが、後藤静香はこの後、バチラーへの資金援助を打ち切ります。
バチラーと後藤静香の間に立つ北斗には、立つ瀬ないことだったでしょう。
微妙な関係。バチラー幼稚園にいられなくなった理由はそういうところにもあるかもしれません。
バチラーとの関係ですね。
かたや、すでに「アイヌ語の権威」「アイヌの父」として名をとどろかせていたバチラー。
かたや、キリスト教では、ましてや外国人ではウタリは救えない、アイヌの復興はアイヌがやらねばならない、といい、来るべき未来を見据えて走りだそうとしている若者、違星北斗。
いうまでもなく、バチラーをリスペクトしています。それは1年後の昭和2年8月の『自働道話』の北斗の言葉でもわかります。
今もやっぱりそうです。けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。私はだまってしまひます。去年の八月号だったと思ます。道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。
反響があらうがなからうが決して実行に手かげんはしなかった。黙々として進んでゆく博士には社会のおもわくも反響も、宛にしてやってゐるのではなかった。(ママ)ことを思ふと自分と云ふ意気地無しは穴があったら入りたい様な気持になります。
やり方はどうあれ、バチラーを尊敬する気持ちは変わっていないのですが、バチラーのやり方はもうすでにどうしようもなく時代錯誤であると。やはり北斗は自分のやり方を貫くことにしたのだと思います。
では、この二人はどの程度の関係だったのか。
日記に書かれていることだけで言えば、大正15年7月15日ごろ平取で一度と、8月26日〜27(28?)日、札幌で一度。
たった2度、なんですね。記録に残っている北斗とジョン・バチラーの接点は。
もちろん一夏をともに過ごした八重子や岡村神父から北斗のことはよく聞いているでしょうが、実際の北斗とバチラーの接触は驚くほど少ないんですね。
もしかしたら、本当に2度会っただけなのかもしれません。
7月14日の日記にある短歌、
五十年伝道されし此のコタン
見るべきものの無きを悲しむ
この歌には、読み方によってはバチラーらキリスト者の不甲斐なさを詠っているようにも読めますが、私は悲しみはむしろ、それでも見るべき者がない、ウタリの現実へと向けられているような気がします。
いよいよ憧れのバチラーと会えるという7月15日の日記のギラギラした北斗の姿と、そこから様々な現実的な問題を目の当たりにした8月の日記の内容を比べると、ものすごい落胆ぶりです。
札幌のバチラー邸で後藤静香を迎えた北斗は、一旦余市に帰り、9月ごろ再び日高へ、二風谷に赴きます。12月25日、日高のどこかの山奥(二風谷?新冠?)で大正天皇の崩御を聞き、(年表では「平取」となっていますが、違うでしょうね。いくらなんでも汽車が通っていた平取本町では、崩御の報が二日も遅れることはない気がします)。
そこからは今ひとつはっきりしませんが、冬本番を迎える前に新冠など日高の山地を漂ったあと、冬場は海側の三石など日高を転々としたのではないでしょうか。
金田一の『違星青年』に見られるように、労働しながら、調査していたのかもしれません。(もちろん、この時はまだ売薬はしていません)。
真志保と北斗 投稿者: 管理人 投稿日: 9月29日(木)01時51分54秒
今、北斗年譜を大幅にリニューアルしていて、いろいろといじっているのですが、そこで気づいたことがあります。
北斗は東京から北海道に戻ってきて、いの一番に幌別(登別)に向かいました。
そこで、知里幸恵の父と母に会っています。
私は、そこで北斗がじつは、知里真志保と会っている、と考えています。
これは、知里むつみさんに聞いたのですが、当時、室蘭中学に行っていた真志保は、室蘭に下宿していたそうですが、帰ってくるなら幌別の家だろう、ということでした。(ちなみに真志保はマシホではなくマシオという発音が正しいそうです)。
もしかしたら、北斗の幌別の目的はそれであったのかも知れない、とも思います。バチラー八重子とは東京時代から文通していたそうですが、それを考えると、金田一京助にあれだけ接触していた北斗が、知里真志保の事を聞いていないはずはないですし、真志保がバチラー八重子と親しかったことを考え合わせると、やはり東京時代から、真志保とも文通していたとしても不思議ではない。
そして、真志保は、北斗とこの大正15年の夏の時点で出会っていると思います。
なぜ、それがわかるかというと、この3つの短歌がヒントです。
新聞でアイヌの記事を読む毎に
切に苦しき我が思かな
深々と更け行く夜半は我はしも
ウタリー思ひてないてありけり
ほろ/\と鳴く虫の音はウタリーを
思ひて泣ける我にしあらぬか
(いずれも『北斗帖』より)
この3つの短歌は曰く付きの短歌で、じつはバチラー八重子が、金田一京助にこんなことを書き送っているのです。
……先生、違星さんの「コタン」の中に私の作った歌が三つのっています。それはか(こ)うなのです。幌別で違星さんと一しょに作ったのです。私がいつものちょうし(調子)で不×(一字不明。不意か?)に作ったのを、下の句のと(ど)こかおなほしになりましたのでした。
真志保さんにきけばよくわかりますの。あれは私の大切な歌なのですものね。「深々とふけ行く夜半」と云(う)のと、「新聞にアイヌの記事」と云(う)のと、「とろとろとなく虫の音」と云ふのです。
真志保さんの三人て(で)作ったのでした。……(原文のまま)
(昭和5・8・10)
(掛川源一郎「バチラー八重子の生涯」北海道出版企画センター)より)
この三つの短歌がなぜ、北斗の本に載ることになったかは、今は置いておきます。
これらの短歌とバチラー八重子の手紙には、重要な事実が隠されています。
まず、真志保と八重子は「幌別」でこの短歌を三人で詠んでいる、ということ。
そして、この短歌の内容から、これらの歌が詠まれたのが「夜」であるらしく、また「虫の声」がする季節であること。
ということは、秋でしょう。夏かもしれませんが。
そして、夏から秋で北斗とバチラー八重子がともにあったのは、大正十五年だけです。昭和2年の夏にはもう、余市に帰って『コタン』を出し、フゴッペを調査し、小樽新聞などに盛んに投稿をしている。余市を活動の拠点としていて、バチラーとの接点もほとんどないような気がします。
3人が一堂に会したのが大正15年で、夏から秋だとすれば、それは北斗とバチラー八重子が平取教会に一緒にあった時期と重なります。もしかしたらそれは夏で、帰道直後のあの幌別かもしれないし、そうでない別の機会に3人が幌別に集まったのかもしれないですが。
いずれにせよ、大正15年のその頃に出会っていないと、昭和3年、吉田ハナさんへのハガキのように知里真志保と同宿して、昔話、噂話をするというのもしっくりきません。
帰道後の幌別で、北斗は真志保と出会い、そこで豊年健治君などとも会います。真志保と豊年君は同郷のウタリですから、当然知りあいです。
北斗と真志保、豊年君、その他真志保の友人たちが、北斗を迎えたのかもしれません。そこで歌を詠み、みんなで寄せ書きをしたのでしょうか。
八重子の足跡 投稿者: 管理人 投稿日: 9月29日(木)01時57分59秒
バチラー八重子の足取りというもの、実はよくわかりません。
掛川源一郎『バチラー八重子の生涯』が一番詳しい本でしょうが、いろいろと疑問点もあります。
たとえば、バチラー八重子は大正13年から昭和2年まで「幌別教会」勤務になっていますが、これも大正15年に直すべきかもしれませんね。
八重子は「幌別教会」から「平取教会」に移ったのと、北斗が幌別を経て平取教会に入ったのはなんらかの関係あるかもしれません。
真志保と八重子の関係もまた、そのあたりに秘密があるのかもしれません。
バチラー周辺 投稿者: 管理人 投稿日: 9月30日(金)01時21分7秒
『バチラー八重子の生涯』によると、バチラー八重子が幌別教会にいたのはT13から、S2年まで、S2より平取教会となっています。
これは、『若きウタリに』(岩波文庫)も同様。『異境の使徒』も『バチラー八重子抄』も『バチラー八重子小伝』(『若きウタリに』)でも昭和2年。
これらの「昭和2年」の記述は、北斗の日記の「昭和2年」という記述に引っ張られているものだと思います。
で、北斗の「昭和2年」の日記が、実は「大正15年」だった、という発見を受けて、これらのバチラー八重子の平取教会時代が昭和2年からだ、というのも間違っているといわなければならなくなりません。
今回の旅で平取教会を訪れたのですが、あまりめぼしい資料はなかった(わからなかった?)ようでした。神父さんが「聖公会の資料は、大阪の桃山学院にある」とおっしゃっていたので、確認してみたいと思います。
平取幼稚園の始まりの年も、本によって大正11年だったり、12年だったり、本によって違いますし、終わった年も「昭和3年」と「昭和4年」があり、はっきりしません。
平取教会で頂いた資料(「平取保育園25周年記念誌」)によれば、保育園の前身である平取幼稚園は大正12年9月〜昭和3年。後藤静香の援助が大正11年12月(『後藤静香選集10』)〜大正15年(「日記」)だから、これは結構信憑性が高いのではないかと思う。後藤静香の援助を受けて設立された幼稚園だから、大正11年12月より前に幼稚園はできていないと思う。
04年<10月〜12月> 05年<1月〜3月><4月〜6月><7月〜9月>