コタンBBS 過去ログ 2005年1月〜3月
※ここに書かれている見解は、書き込み当時の見解であり、最新のものではありません。その後の発見により、見解が変わっている場合があります。
明けましておめでとうございます 投稿者: 真弓 投稿日: 1月 2日(日)03時16分52秒
管理人様、ご無沙汰しております。
冷え込んで参りましたが、お元気でしょうか。サイトの更新、楽しみにしております。今年も宜しくお願い致します。
http://www.h2.dion.ne.jp/~m0620/
真弓さん 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 3日(月)15時31分13秒
明けましておめでとうございます。
1月5日はお店に行けるようにがんばります!
では!
虎杖丸 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 4日(火)16時15分32秒
手許に資料がなく、記憶だけで書いたので、間違えてしまいました。
今、金田一京助の「アイヌの研究」を見てみますと、
『虎杖丸』に出てくる四神が宿った剣「虎杖丸」は「クツネシ《ル》カ」ではなくて、
《kutune shirika》「クツネシリカ」あるいは「クトゥネシリカ」、アイヌ語特有のカナ表記で書けば「クト゜ネシリカ」が正しいみたいですね。
すみません。
金田一先生 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 4日(火)16時20分18秒
金田一京助の孫の金田一先生が、年末年始、よくテレビのバラエティー番組に出ていらっしゃいました。
その傍らには偉大なる祖父「京助」と父「春彦」の肖像がありまして、私はなんだか少しびっくりしてしまいました。
金田一京助のアイヌ研究が、広く知られるようになれば、いいですね。
ちなみに 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 6日(木)23時10分13秒
ぜひ、金田一秀穂先生には、TVで「じっちゃんの名にかけて!」と言っていただきたいものです。
すみません。
しかし、秀穂先生には大活躍していだだいて、「金田一京助」のアイヌ文化に関わる仕事や、知里幸恵・真志保姉弟のこと、はたまた北斗のことなどにスポットを当てていただきたいと応援しております。
ちょっとだけ 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 7日(金)02時44分21秒
更新しています。
表紙の画像と、年表の一部、人名篇の違星北斗、違星甚作、違星梅太郎、違星ハルのそれぞれ「**について」のページをちょこっと。
正月はなにかといろいろあって、はかどりませんでした。
しかし心強いことに成人の日が。
がんばりましょう。
北斗は 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 7日(金)03時09分5秒
「違星ハルについて」のページにも書きましたが、
ちょっとマザコンでしょうか。
やっぱり12歳ごろに母親を亡くしているっていうことが大きいんだと思いますが、
北斗は女性を「神聖視」しちゃう部分があるのかもしれません。
バチラー八重子や知里幸恵を「崇拝」しているようですし、女の人について書いた記述は、普段丁寧な文体がいやまして丁寧になってくる。
(『自働道話社遠足会』における中島礼子さん、東京府市場協会の高見沢夫人についての記述、吉田はな宛葉書など)。
フェミニスト?
うーん。短歌にも、母以外の女性について詠んだものはないし、「日記」にもない。
嘘のように、女性の影がない。東京時代も帰道後についても、女性について書いた言葉はない。
亡き母と、妹のことが少し。それだけ。
ひょっとして「アチラ」か? というのもアリかもしれませんが、そういう痕跡もない。
本来、日記というのは、そういうものこそを書くものだと思うので、北斗の日記も何冊もあったわけですから、当然そういう記述はあったのではないでしょうか。しかし遺稿整理をした古川先生や、希望者の人たちが『コタン』出版の際にカットしたのかもしれません。
もしそうだとしたら、本当に惜しいことだと思います。
知里幸恵の日記には、恋人のことが出て来ますが、北斗には恋人どころか、女のおの字も出て来ませんね。おっさんばっかりです。
どこかの漫画雑誌の編集長なら、「お色気が足りーん!」といって、打ち切ってしまいますよ。これは。
王道の狗 投稿者:管理人 投稿日: 1月 7日(金)09時54分12秒
安彦良和『王道の狗』を購入し読んでいます。
第一巻は明治中期の、ちょうど網走囚人道路を建設していたころの話です。
網走囚人道路にはひどい話がたくさんあるそうなのですが、そこを抜け出してきた2人の囚人(思想犯)が、一人のアイヌに匿われ、行動を共にするのですが、そこでアイヌの差別待遇を目の当たりにし、2人が一暴れしてピンチに陥ったとき、全国を武者修行中の大東流柔術(合気道のもとになった武術)の武田惣角があらわれて、といった具合。
安彦さんは一般にはなんといっても『ガンダム』のキャラデザイン人ですが、最近の漫画は非常に好きです。
『虹色のトロツキー』でも、満州の「建国大学」の講師として合気道の創始者・植芝盛平を登場させていますし、『ナムジ』『神武』では古事記世界をうまいこと料理してらっしゃいますし、いいとこ突いちゃう人ですね。本当に。
ちなみに『王道の狗』の囚人の一人の名前は「風間一太郎」、武田泰淳の『森と湖のまつり』に登場するアイヌの青年運動家で、どことなく違星北斗を思わせる「風森一太郎」と一字違いであり、安彦さんは『森と湖のまつり』を読んだことは確かでしょう。
以前、あらやさんのBBSで、ぜひ違星北斗を谷口ジロー氏で漫画家してほしい! と突拍子もない希望を言いましたが、安彦良和さんの「違星北斗」も見てみたい気がします。
「虹トロ」のウムボルトのように、やっぱりアムロ顔になっちゃうのでしょうか。
浦川太郎吉について 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 8日(土)18時42分47秒
同人誌『コタン』に「自覚への一路」を寄せた浦川太郎吉について
「エカシとフチ」(札幌テレビ放送株式会社)に、浦川太郎吉の娘さんである
娘さんである松田ノブ子さんの聞き書きが載っています。以下要約。
松田ノブ子さんの父、浦川太郎吉は明治27年11月10日生まれ、昭和26年7月24日没。
若い頃から「ウタリを貧乏の中から引き上げようとして一生懸命で、それぞれの家庭を訪問して歩いていた」という。
家業は農家だが、夏になれば浜に出て、漁師をしたり昆布をとったり、冬になれば山に狩りに行って鹿や熊をとっていた、という。そんな生活の中で、ウタリのことを忘れず、コタンをまわっていた。
土人学校時代の親友に浦川清という人がいて、この二人がアイヌの将来について語り合ったら話がつきなかった。この清は昭和の初期に亡くなり、松田ノブ子さんもその葬儀に参加した。
また、おそらく大正時代、浦川太郎吉は東京に行っているといい、その写真も残っていたが、紛失してしまった。東京のどこか、また何をしに行ったかはわからない。
そのあたりから付き合いがあったのかは不明だが、違星北斗とは文通していたと聞いている。太郎吉はノブ子さんに「アイヌ、アイヌって馬鹿にするけども、かなり昔から目覚めたアイヌの歌人がいた」「たとえアイヌってさげすまれても、病気で苦しみながらでも一生懸命生きて、アイヌのためにって歌を作っている人」と言って随分ほめていたという。
浦川太郎吉について(2) 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 8日(土)19時47分5秒
浦川太郎吉は、コタンの生活向上に努めて、さまざまな活動をしている。
谷地の開拓や精米所や授産場の建設、さらにはアイヌ給与地問題にも奔走する。荻伏村の村会議員をつとめた。戦争中には、浦川の家には江賀寅三、向井山雄、小川佐助、知里真志保といったアイヌの指導者たちがかわるがわる家に訪れて、アイヌの将来について語り合っていた。
動物が好きな、心優しい人であったといい、小学校で弁当を持って来れない子供達のために娘のノブ子さんに毎日牛乳を二升持って行かせたという。
妻は伝承者として有名な浦川タレさん。
「文献上のエカシとフチ」覚え書き 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 9日(日)07時17分28秒
『エカシとフチ』別冊『文献上のエカシとフチ』(札幌テレビ放送)によると、
北斗とともに「アイヌ一貫同志会を結成した吉田菊太郎は明治29(1896)年7月生まれ。昭和40(1965)年1月8日没。
幕別町白人(ちろっと)の生まれ。
父は村長の吉田庄吉(イトペウク)、母は吉田マツ(アシマッ)
同じく「アイヌ一貫同志会」の辺泥和郎(ペテ・ワロウ)は明治39(1906)年12月3日生まれ、昭和57(1982)5月22日没
バチラー八重子の弟向井山雄は明治23(1890)年5月19日生まれ、昭和36(1961)年2月24日没
能登酉雄は明治6(1873)年石狩町花畔生まれ。明治38年樺太へ、大正4年帰道、江別、浜益を経て昭和4年茨戸に帰る。祖父能登谷円吉(石狩通詞)、祖母ウナカラ、父イワウクテ、母モン。(高倉新一郎の聞き書きは「北海道社会事業」第37号・別刷「能登酉雄談話聞書」、昭和10年)
幌別の謎 投稿者:管理人 投稿日: 1月 9日(日)16時26分44秒
前から気になってたことなんですが、大正15年、北斗は東京から北海道に戻ってくるとき、なぜか生まれ故郷の余市じゃなくて、いの一番に「ホロベツ」に向かってるんです。
七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした。(西川光次郎宛手紙、『自働道話』昭和2年8月号)
どうしてだろう、と思ったんですが、これはもしかして・・・
バチラー八重子がいた「幌別教会」に行ったのではないかと思うのですが、どうなんでしょうか。北斗は東京時代に金田一より聞いて、八重子と文通をしていましたし、幌別といえば知里幸恵の生家もありますし・・・。
ただ、知里幸恵の生家を初めて見たのが翌2年の7月というのは時間がかかりすぎですね。
いずれにせよ、幌別にて列車を降りたのであれば、バチラー八重子の教会へは行ったことでしょう。それまで文通のみであった八重子と、大正15年の7月に「オフ」で出会い、そこでいろんなことを話し、また俳句ではなく短歌を作ることをすすめられたのかもしれません。
あるいは、翌昭和2年オープンする「平取幼稚園」の話がもうすでに決まっていて、なりゆきとして北斗が手伝うことになったのかもしれません。
その二週間後には二風谷にいて、
末世の人間の堕落を憤り人間の国土を見捨てオキクルミ神威は去ってしまった。けれども妹にあたる女神がアイヌの国土を懐ひ泣くと云ふ」神にすてられたアイヌは限りなき悲しみ尽きせぬ悔恨である。今宵この沙流川辺に立って女神の自叙の神曲を想ひクンネチュップ(月)に無量の感慨が涌く。(大正十五年七月二十五日)
オキクルミ。TURESHIトレシマ悲し沙流川の昔をかたれクンネチュップよ
の歌を詠む北斗です。
ちなみにここの「TURESHI」は読まないのが通例です。(後のバージョンでは無くなっています)。
※この「幌別の謎」は、ここで模索が始まったばかりです。のちに「日記」昭和2年問題で進展し、05年夏の旅、幌別の地を訪ねたことでひとまず一段落します。(05年10月16日追記)
吉田ハナ 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 9日(日)19時24分28秒
なぜ、吉田ハナ(はな子)を「少女」だと思っていたかがわかりました。
藤本英夫「知里真志保の生涯」に、「北斗が平取でしり合った同胞(ウタリ)の少女、吉田ハナさん」という記述があったんです。
それで吉田ハナを北斗よりも年下だと思ったんですね。
しかし、吉田ハナは北斗が生まれる前から平取でキリスト教婦人会長を務める、北斗より20歳以上年上のおばさんです。
うーん。
しかし、「ウタリ之友」に寄稿している「吉田花子」について、『アイヌ民族 近代の記録』の解題で、山田伸一氏は「若い世代のアイヌ女性」と書いてるしなあ。
(でも、この吉田花子の「信仰を基礎としてウタリの向上を望む」は、読み方によってはすごく婆くさいんだけど・・・)
もしかして、吉田ハナと花子は別人なのか?
うーん。
「子」については、昔は「子」をつけたりつけなかったりするしなあ。
(金成マツを金成マツ子といったり、知里幸恵は自分のことを知里幸恵子とかいたりしています)。
関係ないけど、大正時代は「○子」という名前が大流行だったみたいですね。それまで「タケ」とか「マツ」とか「花」と言ってたのをそのまま「子」をつけた形ですよね。
江戸時代は親しい人には「おタケ」さんとか「おマツ」さんとか、「お花」さんって「お」を付けていたのを付けなくなったのと、名前のお尻に「子」をつけるようになったのは関係ある気がします。根拠はありませんが。
いずれにせよ、平取で違星北斗とバチラー八重子とともにあった「吉田ハナ」と、その後バチラーの「ウタリグス」に記事を書いた「吉田花子」は、同一人物だと思うのですが。
ひょっとして、藤本英夫先生や山田伸一先生のいうように、吉田ハナは若い女性であって、吉田ハナは二人いるのでしょうか?
※ 平取教会吉田ハナの成年については、バチラー八重子より年上という記述と、北斗と同世代という2通りの文書があり、現在も調査中です。(05年10月16日追記)
更新 投稿者: 管理人 投稿日: 1月 9日(日)22時38分12秒
・人名編 全面見直し・新情報・違星家、知里家、バチラー系図
・森竹竹市について・後藤静香について・中里徳太郎、篤治について
・後藤静香について・知里幸恵について・知里真志保について・年表
等々更新。
今年もよろしくお願いします 投稿者: poronup 投稿日: 1月10日(月)23時53分50秒
いろいろ深く調べてらっしゃるようで興味深く拝見しています。
今回は一つだけ気づいたことを書きます。
能登酉雄は東京生まれです。ただし1歳か2歳ぐらいで両親とともに北海道に戻ったので
育ったのは石狩なのですが。高倉新一郎の聞き書きをご覧ください。
ちなみに彼が生まれたのが「酉(とり)」の年なのでこの名前になっているそうです。
また父親の和名は能登岩次郎です。
『文献上のエカシとフチ』は大変すばらしい労作ですが、中には不正確なデータも含まれているので、原資料をたぐって事実を再確認する必要があると思います。
それから 投稿者: poronup 投稿日: 1月10日(月)23時57分20秒
違星北斗がなぜ幌別に寄ったか、ですが、当時は当然飛行機などはなく、おそらく汽車で北海道に帰ったはずです。余市に帰るにしても、函館から苫小牧経由で北に向かったはずです。となると幌別は通り道です。
幌別には彼が懇意にしていた人が複数いましたから余市に帰る前に立ち寄ったとしても不思議ではないと私は思いますがいかがでしょうか。
さらに 投稿者: poronup 投稿日: 1月11日(火)00時39分0秒
能登酉雄の聞き書きは非常に興味深いのでぜひご覧ください。
非常に記録の少ない石狩川下流地域のアイヌの生活誌についての貴重な記録です。
以下の論文集に収録されています。
『新版 郷土と開拓』(北方歴史文化叢書)
北海道出版企画センター、1980
この本は比較的手に入りやすいです。
なお、同名の論文集が1947年に柏葉書房から出版されてますがこちらにもこの聞き書きが収録されているかどうかは分かりません。
(新版の方はネットの古本屋で調べましたが見つかりませんでした。しかし旧版の方は1000円台であちこちで見つかります。)
また現在刊行中の『高倉新一郎著作集』にも収録されているかもしれませんが、こちらの方も未確認です。
ありがとうございます。 投稿者: 管理人 投稿日: 1月12日(水)19時09分11秒
poronupさん、ありがとうございます。
『郷土と開拓』、早速あたってみます。
正月休みから、急に多忙になり、目がまわっています。
やっと、小休止。
「文献状のエカシとフチ」、たしかにそのですね。
この本に限らず、そういう食い違いが、結構ありますね。
95年版『コタン』もいくつか大きな間違いがあるようですし。
バチラー幼稚園の開園の年を調べていても、本によって大正13年だったり、昭和2年だったりして、困りました。
そういうのを、原典をあたって、一つ一つ調べていくのも大切なことなのですね。
大きな図書館の隣に住みたい。
「山本先生」 投稿者: poronup 投稿日: 1月14日(金)17時43分15秒
大辞典に書いてらっしゃる白老の「山本先生」というのは、山本儀三郎のことだと思います。
彼は、白老第二尋常小学校の校長兼教師で白老のアイヌの児童の教育にあたった人物で地元の人に慕われていたそうです。ウタリ協会の元理事長・野村義一さんも教え子の一人で、野村さんの著書『アイヌ民族を生きる』と、最近出た竹内渉編著『野村義一と北海道ウタリ協会』(ともに草風館)などに詳しく出ています。
感謝です。 投稿者: 管理人 投稿日: 1月15日(土)00時43分50秒
poronup様、いつもいろいろ教えて頂き感謝しております
山本儀三郎先生は学校の先生ですか。
野村さんの著書は読んだことが無いので、読んでみたいと思います。
それと、言い忘れていましたが、「ホロベツ」の件、ありがとうございます。
やはり土地勘がないというのは辛いですね。
北斗ゆかりの地へ、調査旅行へ行ってみたいのですが・・・現在の私にはなかなかむづかしいです。
あれから 投稿者: 管理人 投稿日: 1月17日(月)02時50分23秒
10年ですか。
あの震災から。
うちは明石でしたので、家がわずかに傾いただけでしたが、勤務先が神戸だったので、知りあいが多く被害を受けました。
大きな被害を受けられた方とは比べものにならないかもしれませんが、それでも私にとっては、世界が変わった日でありました。
明石から元町へ通っていた私にとってそれは、日頃の行動範囲の殆どが全く姿を変えてしまったという意味でもありますが、それ以上に精神的なショックが大きかったと思います。
燃える街の姿。人を生きたまま飲み込んでゆく炎の姿。
それをぬくぬくとテレビでみている自分。
自分とは、人間とは、一体なんなんだろう、と思い、とにかく強くならねば、と思った10年前の夜でした。
さらなる多忙の予感。
更新もままならず。
図書館にも行けそうにない。
気がつけば、免許が失効していたりする。
それを更新しにいくこともままならない。
うーん。
うーん。
原稿 投稿者: 管理人 投稿日: 1月28日(金)23時37分20秒
を書いている今日この頃です。といっても、会社が出す本ですので、名前は出ません。お金も出ません。たぶん。
昼は仕事に出なければいけないので、もっぱら夜書くことになります。
あれだけ憧れていた執筆生活なのに、これほどまでに苦しいのか、いやなのか、と思います。
集中して書き始めるとエキサイトしてきますが、なかなかその集中に至れないのですね。修行が足りません。すぐに寝てしまいます。
この本が出来たら、いろいろとやりかけの北斗の仕事をしたいと思います。
いつになったら、このサイトは完成するのだろう、なんて思います。
事物編もおざなりだし、書誌もまだ初めてもいない。切れたままのリンクは放置してるし。キーワード歌集も当初の予定どおり、それぞれのキーワードに関する説明を書きたい。
大発見? 投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)01時51分21秒
後藤静香遺稿集の年表によれば、後藤静香の東北・北海道巡講は大正15年の8月となっているんですが、これ、北斗の日記では昭和2年です。一年ずれています。
でも、日付と場所は一致するんです。
以下、比較です。
(後藤静香年表T15年)・・・・(違星北斗日記S2年)
8月26日(記述なし)・・・札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札
27日 札幌・・・・・・午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。金をどうするかと訊かれる。
28日 小樽・・・・・・雨、時々晴 小樽で後藤先生の御講演を聴く。
29日 小樽・・・・・・(記述なし)
30日 夕張・・・・・・(記述なし)
31日「アイヌ部落」・・午後十一時卅二分上り急行で後藤先生通過になる筈。中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。併し先生は居られなかった。
とあり、まったく一致します。
ということは・・・・どういうことか。
どちらかが年号を間違えているわけでしょうが、どっちでしょう。
後藤静香の年表? それもありえるでしょう。しかし、この年表は希望社という組織の記録でもあるので、ある程度信頼性はあると思います。個人の日記である北斗の日記の方が間違っている可能性が、高い。
もし北斗の方が間違っているのであれば、ものすごいダメージです。
もう一度、日記の日付の信頼性から考え直さなければならない。
しかし、私自身この現在の年表にスッキリしないものを感じていたのも事実です。
どうも、北斗の動きが不自然です。バチラー幼稚園にいた昭和2年の夏の日記が、どうも腑に落ちないというか、他の記録と違和感があるというか。
もし・・・。
日記の昭和2年が、実は大正15年の日記だったとしたら? 「コタン」編集の段階で間違ったという可能性は考えられないでしょうか。
大正15年の8月といえば、まだ東京から戻ってきてさほど時間がたっていません。しかし西川への手紙で、大正7月7日に幌別についたという記述と、日記の始まりが「昭和2年」7月11日であるという記述は妙に胸騒ぎを覚えます。
そういえば、北斗の筆致が妙に初々しく、感動に満ちている気がする。バチラー八重子の姿に感動し、知里幸恵の家を初めて知った、という。この感激は、どこかで見た気がする。北斗は、帰道後、幌別についてから大正15年7月25日に確かに沙流川の河畔で短歌を詠んでいるんですが、この感激具合が、ちょうどそれっぽい気がします。
そう考え出すと止まりません。
もし、日記の昭和二年の夏が、本当は大正15年の夏の日記だったら?
そしたら、自分の中にあった違和感はすべてクリアになるような気がする。
たとえば、あの不朽の名文といわれる「アイヌの姿」を書いたのは昭和2年7月2日。同人誌「コタン」の発行は昭和2年8月10日。発行は余市の中里凸天とであり、平取にいて幼稚園の手伝いをしていて出来る仕事ではないでしょう。とても重要な、すごみのある仕事をしている。昭和二年の夏には、すでに北斗の思想は固まっている。各地の同志と連絡を取り合い、活動をしている、と見るべきでしょう。
やはり、バチラー幼稚園云々は、帰道直後の日記ではないか、という気がします。
そして、極めつけ。
違星北斗の日記にはこうあります。
「(昭和二年)七月十一日 日曜日 晴天 平取にて」
曜日計算ソフトで調べてみると、「昭和2年」の7月11日は月曜日、大正15年の7月11日が日曜と出ます。やっぱり、という感じです。
念のため複数のソフトで調べましたが、同じ結果です。この後の曜日も、大正15年の方に一致します。
これは・・・もうちょっと検証が必要だとは思うのですが、ひょっとしたらひょっとしますね。
『コタン』所収の「日記」の、昭和2年の日記(の少なくとも一部)は、大正15年の日記である可能性が高い、と言えるんじゃないでしょうか。
この仮定が本当だとしたら、いろんな不自然さが氷解すると思います。
どうでしょうか。
おそらく間違いないと思います。
というわけで(続き) 投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)01時45分12秒
北斗は大正15年7月7日に北海道に帰り、その後すぐ、11日に平取でバチラー八重子の姿に感動し、そこでバチラー幼稚園と後藤静香のお金の問題に巻き込まれる。秋に余市に一時的に帰るが、その後平取に戻り、大正天皇の崩御を平取で聞く。その後昭和2年3月に兄の子の死とともに余市に帰り、そこからは余市を活動の中心としはじめます。研究、春から病を得ますが、夏には何とか治り、思想が完成して同人誌「コタン」や「アイヌの姿」ができるのが夏。バチラー八重子の影響を受けた短歌が、雑誌に載り始めるのが昭和2年の秋です。そして行商の旅と喀血と闘病。
帰道後の北斗の動きは、こういう流れでしょう。
ああ、スッキリした。まったく。
曜日が違うよって、誰か気づかなかったのでしょうか。
(というか、皆さん、特にporonupさんとか、ご存じだったりして・・・)
さて、『コタン』の昭和2年の日記が、じつは大正15年のものだったと仮定してみると、他の年の日記も気になります。
曜日を調べて見ると、昭和2年はすべて大正15年の曜日と一致する。昭和3年・4年は正しい。
ただし、昭和3年4月25日は月曜となっているが水曜が正しい。もしくは25でなくて23日月曜日の間違いかもしれない。
また、昭和3年8月8日は火曜となっているが、水曜が正しい。もしくは8月7日火曜が正しい。
いずれにせよ、本来あるはずの昭和2年の日記が欠落していることになります。
古田謙二が希望社に送った手紙には、遺稿整理の際参照した文書の中に、日記帳数冊と、希望社発行の一年日記「心の日記」の昭和2・3・4年版があるので、どうもこの古田の遺稿整理に問題がありそうです。
この古田謙二が希望社に送った遺稿とは、古田がボストンバッグに入った北斗の遺稿を原稿用紙に書き写したものであり、遺稿そのものは余市においてあったのでしょう。もしかしたら、違星北斗の遺稿というのは、案外残ってたりするのかもしれませんね。
「昭和2年」12月26日(曜日は書いていない)は、昭和2年で正しい気がします。
兄が感冒で寝ている、との記述があるので、北斗は余市にいるということです。
もし、大正15年なら、前日に12月25日に大正天皇の崩御があったわけですから、大変です。しかし、日記には何も書いてない。
北斗は山の中の平取コタンで2日遅れの崩御の報を聞いたのです。やはり、この12月26日は昭和2年の年末だとすべきではないでしょうか。
ノートの現物が残っていればなあ、と思います。
というわけで 投稿者: 管理人 投稿日: 1月29日(土)08時32分16秒
年表を変えてみました。
大発見です 投稿者: あらや 投稿日: 1月30日(日)22時04分36秒
(函館パソコンから書いていますので今回は大丈夫だと思います。)
大発見ですね! 年表見てきました。以前、山本さんが書いてらっしゃった「なぜ余市に帰らず、ホロベツだったのか?」の回答がここにあると思います。
北斗は《アイヌとしての自己の地位に深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、北海道に帰る》決意をしたわけですね。7月5日、上野駅を発つ。函館へ。そして、そこでたぶん北斗は迷いなく室蘭本線の方を選んだのです。自分が行くべき場所は平取であって、余市ではないことを北斗は決意していた。だからこそ「7月の7日」「北海道のホロベツ」に途中下車したのです。「東京から持って来た思想の腰をおろ」すために。それは、聖地「平取」に辿り着くための、北斗にとっての大事な儀式だったのではないかと思います。
当時の函館〜札幌間の国鉄の主流は函館本線です。(翌年あのフゴッペの遺跡が発見されるのも、もともとは函館本線の整備拡張工事が発端でした) 北斗が余市へ帰ろうとしていたのなら、わざわざ苫小牧〜札幌を経由する遠回りの室蘭本線を選ぶわけはない。もっと短時間で余市へ帰れます。でも、その函館本線を選ばなかった。北斗の意識は明瞭だと思います。東京から一直線に「平取」への階梯を急いでいるからです。
あらや様、ありがとうございます。
少しは「研究会」らしくなってきたかと。
北斗の足取りを追うためには、日記と西川光次郎宛書簡、新短歌時代、小樽新聞の掲載などが役立つのですが、これまで、日記昭和二年の問題があり、「短歌」の制作年代が割り出しづらい状況があったのですが、今回、北斗の動きがシンプルになったので、今後、やりやすくなると思います。
北斗の思想はまず幌別に腰を下ろし、平取に落ち着いたのでしょう。
知里幸恵、バチラー八重子、ジョン・バチラーのことは金田一から聞いたでしょうし、ジョン・バチラーのことは、尊敬する希望社の後藤静香からも聞いたでしょう。
(しかし「希望社がバチラー幼稚園の援助をしていた」それがいつからなのか、どういったいきさつなのかはよくわかりません)。
大正15年夏から昭和2年の春まで北斗は平取にいます。ここでバチラー八重子とともにあり、知里幸恵の理想を実現すべく、思想を育み、活動の準備をしたのだと思います。ここで得た人脈はバチラー伝導団の人脈です。
八重子、辺泥和郎、そして金成/知里家。あこがれの幸恵の弟、真志保と知己を得るのも自然な流れでしょう。アイヌ人口の多い平取で育った屈託のないアイヌたちや、和人の教師やキリスト教指導者、医師といった人格者の温かい視線たちに囲まれて、次第に思想が固まっていったのでしょう。(しかし、この温かい視線は、のちにコタン巡察での同族から冷たい視線にうってかわり、その落差が北斗を苦しめるのですが)。
昭和2年の北斗の夏の仕事は、自信に満ちあふれ、北斗は「打って出る」体勢にあったと思います。「アイヌの姿」、同人誌『コタン』。
大正15年の夏、沙流川の河畔で得たポエジーは、バチラー八重子の影響を受けた短歌として、やがて奔流のように北斗の思想を世の中に示し、後のアイヌの活動に影響をあたえることになります。
補足ですが、
・後藤静香年表にT15に北海道訪問はありますが、S2年に北海道訪問の記録はありません。
また、日記昭和2年が大正15年であるなら、
・北斗が働いた「バチラー幼稚園」の設立年ですが、こうして『バチラー八重子の生涯』にあるS2年はありえない。『異境の使徒』の大正11年の方が正しいのでしょう。
布団問題 投稿者: 管理人 投稿日: 1月31日(月)07時43分36秒
いままで疑問だったのですが、「布団の問題」というのがあります。
湯本喜作『アイヌの歌人』によると、北斗は平取時代、布団がなく、それを送ってもらうために余市に帰った、というような記述があるのです。
しかし、その帰り知里真志保に幌別で知里真志保に会い、吉田ハナ宛に「一昨日当地(幌別)へ参りました。知里ましほ君と二人で泊まつてゐます」という葉書を書いた、と湯本さんは言っています。しかし、これは間違いです。この葉書は藤本英夫さんが『知里真志保の生涯』もおっしゃるとおり、2月29日の消印が押されているため、閏年の昭和3年のものであり、このころ、すでに北斗は平取にはいない。
それでもこんな下世話というか庶民的な話だからこそ、逆に信憑性はあると思っていたんです。そして日記昭和2年8月27日には後藤静香が「蒲団は送る様に話して来たと仰しゃった」というようなものがある。これも大正15年のことならわかる気がします。8月下旬といったら、北海道なら肌寒くなってくる頃のではないですか?
また、大正15年8月ごろ送られたと思われる西川光次郎への手紙(『自働道話』10月号に掲載)に、「家事上の都合により昨日当地に参りましたついでに少々研究もあります故九月十日まで当地に居ります、それからやはり沙流郡平取村の我が家に帰ります」とあり、この家事上の都合がもしかしたら「布団問題」に関係あるかもしれないですね。
マンロー問題 投稿者: 管理人 投稿日: 2月 1日(火)00時30分36秒
問題シリーズです。
北斗に関する記述の中で、?なので放置していたものなのですが、この際ですので、書いておきます。
仁多見巌『異境の使徒・英人ジョン・バチラー伝』に、マンローと北斗の関わりについて出てきますが、その情報は今のところ、この本にしかみつからないんです。
ニール・ゴルドン・マンローといえば、バチラーと並んで、平取に関わりの深い外国人です。バチラーと同じ英国人で、医師。明治24年に来日、人類学研究を行い明治31年に北海道へ訪れ、明治41年に『先史の日本』という考古学の本を出します。マンローはアイヌの習俗に興味を持ち、バチラーを頼って昭和5年の冬に平取に訪れます。
この時のことを、仁多見巌先生は次のように書いています。
バチラーは多忙のため、弟子の辺泥五郎伝道師が佐瑠太(現富川)まで出迎え、平取村までは軽便鉄道に乗った。バチラーからマンローが来ることを聞き、ひたすら待っていた青年があった。その名は違星北斗。アイヌの啄木ともいわれた歌人である。しかし、マンローが到着する前年、すれ違いに故郷の余市へ帰ったが、結核を患い二十九歳の若さで死亡した。
とあるのですが、こんな話は他では聞いたことがないのです。
バチラーとマンローは知己であり、当時は仲が良かったと思われます。(のちに決別し、さらに和解するのですが)。
違星北斗がバチラーからマンローが来ることを聞いてずっと待っていた、というのは本当なんでしょうか? これはどういう事なんでしょうか?? 年代的にも無理があるし。
いつ? なんのために? 北斗はマンローと会って、どういう話をするつもりだったのでしょう?まったくわかりません。
久しぶりです 投稿者: poronup 投稿日: 2月 1日(火)21時47分11秒
ここしばらく忙しくて掲示板を見てないうちにいろいろすばらしい書き込みが。
日記の日付の矛盾のことなどまったく気づきませんでした。さすがですね。
ここまで読み込まれてるとは。感服します。
違星北斗の研究を行う上で、テキスト批判が必要でしょうが、本人直筆の原稿は存在するのでしょうか?どこかに存在するのかもしれませんが私は聞いたことありません。
日記の原本があればいろいろなことが分かるでしょうが・・・いずこに?
あらやさんの書き込みを読んで、私の以前の書き込みの間違いに気づきました。
函館本線に乗れば余市まで幌別を経由せずに帰れますね。北海道には30回近く来てますし、去年から住んでますが、余市には行ったことないですし、後志・渡島の地理には疎いもので。失礼しました。
こんばんわ 投稿者: 管理人 投稿日: 2月 3日(木)19時55分24秒
お久しぶりです、poronup様。
なんだか忙しくて、北斗のこともできません。
しかし、昭和二年日記の問題は、なんだかその忙しさから逃避しようとパラパラ後藤静香全集をめくっていたら見つけたんです。
そこから、一気呵成に調べ始めたんですが・・・結局そのしわ寄せが今に来ております。
この土日が山ではあるのですが・・・。
来週は来週で、二泊三日の「合宿」があり、昼間はその準備に追われています。
いやあ。
凹む暇もない。
ちょっと 投稿者: 管理人 投稿日: 2月 7日(月)22時03分33秒
合宿に出かけてきます。
南紀白浜です。
太平洋です。
でも合宿所に缶詰です。
温かいといいなあ。
泳げるといいなあ。
もどって 投稿者: 管理人 投稿日: 2月13日(日)20時01分17秒
参りました。
創作の合宿だったのですが、若い人たちの情熱と才能を目の当たりにして、自分もがんばらねば、と思いました。
ついでに、原稿仕事も山をこえました。
北斗のことでおざなりにしているものがありますので、手をつけていきたいと思います。
あと、日記の昭和2年問題ですが、どこかに発表したいのですが、どうしたらいいのか皆目わかりません。
幸いにして仕事で大学に出入りしているので、先生方に相談してみたいと思います。
ウタリグス 投稿者: 管理人 投稿日: 2月14日(月)19時49分38秒
北斗は上京時、ウタリグスを持参している、と大辞典のほうに書いていますが、どうもそれは間違いですね。東京アイヌ学会の時、『茶話誌』とともにテーブルの上に並べられ、伊波普猷がそれを見ています。『茶話誌』は、中里凸天とともに作っていた同人誌『コタン』の前身です。
上京前からウタリグスを持っているのなら、バチラー八重子のことを当然知っているはずですが、その気配はない。やはりウタリグスは、上京時に金田一に見せられたものではないか、と思います。
また訂正しておきます。
前の書き込みは 投稿者:管理人 投稿日: 2月15日(火)17時08分5秒
わかりにくいですね。
北斗が東京アイヌ学会で講演したあと、テーブルの上に『ウタリグス』と『茶話誌』が並べられ、伊波普猷はそのことを『目覚めつつあるアイヌ種族』に書いています。
大辞典には、この記述から、北斗が上京時にこの二誌を持ってきたかのように書いてありますが、それは茶話誌だけで、ウタリグスは上京後に金田一にはじめて見せられたものであろう、ということです。
わかりにくくてすみません。
違星北斗の 投稿者: 管理人 投稿日: 2月17日(木)15時28分5秒
書誌を作成中。
しかし、名前だけ出てくるぐらいの書物はどうするか、とも思います。
佐須良井浪夫とは 投稿者: 管理人 投稿日: 2月19日(土)03時40分50秒
田中英夫先生は『西川光二郎小伝』で、次のようなことを言っておられます。
『自働道話』同年一二月号所載「アイヌの一女性」は八重子をえがく。「アイヌの中等学校」を建てるために力を尽している八重子を「他のアイヌ先覚者と自任する幾多アイヌ人に見らるゝやうな対和人への僻みがない/貧しきが故に蒙る、侮蔑。/無智なるが故に陥る、罠。/不潔の故に隔らるゝ、垣。/これ等悲しむべき一般的な社会現象を皆悉くアイヌなるが故の受難とのみ感受して、遣る瀬なき悲噴の睨眦を裂く者多きが中に、嬢は常に相当の分別と理解と余裕とをもつてゐる」と見た。
「筆者亦行旅の身、遺憾にしてその堪能流るゝが如しといふ日英夷語を親しく聞知するの機会を逸した」、そう結んだ筆名佐須良井浪夫は、違星その人のように思う。
と、この書き手「佐須良井浪夫」を北斗だ思うとしています。
これに対し、95年版『コタン』の解題で山田伸一先生は、「アイヌに対して第三者的で不自然な感があ」り、北斗の作とは認めていません。
これには、私も同感です。
この「アイヌの一女性」の全文を読んだわけではありませんが、これは北斗の作ではないと思います。
その理由として、
(1)山田伸一先生の挙げた理由に加えて、まず文体が北斗のものではない気がします。北斗が八重子を「嬢」と呼んでしまったりはしないと思いますし。
(2)「遺憾にしてにしてその堪能流るゝが如しといふ日英夷語を親しく聞知するの機会を逸した」と書いてあるので、この人は昭和2年の秋ごろまでに、バチラー八重子と「親しく」語り合う機会が持てなかった、ということでしょうから、(新年表でいえば)大正15年の夏、平取教会で毎日のように八重子と会っていた北斗ではありえないでしょう。
(3)『自働道話』の昭和2年12月号に掲載されているということは、素直に考えれば昭和2年の秋から冬にかけて書かれたものであると思われますが、その年は(新年表では)3月から北斗は余市にいて、夏は研究と同人誌『コタン』の編集、秋は本格的に短歌の投稿をし、新短歌時代の活動にも参加していた頃であり、また行商を始めつつあったころです。当然、もう平取にはいないのです。
ということで、これも、日記の「昭和2年の謎」が解決してくれます。
では、この昭和2年に平取を訪ねた「佐須良井浪夫」とは誰なのか。
私は『自働道話』の発行者「西川光次郎」その人かもしれない、と思っています。
西川は『自働道話』昭和2年8月号に、「北海道巡講記」を書いています。
昭和2年の6月13日に函館より余市に入り北斗と再会、14日小樽入り、そのあとは「(後略)」となっていますが、北斗と親しんだ西川ですので、平取入りしたことは充分考えられるのではないでしょうか。
ただ、6月に訪れ、秋に書いたのは時間があきすぎかもしれません。ちょっと無理があるでしょうか・・・?
※今読むと、この説はあまり信憑性がありませんね。まあ、そういうことを考えたこともある、ということで……(05年10月16日追記)
ちなみに 投稿者: 管理人 投稿日: 2月19日(土)04時36分26秒
西川光次郎は日本共産党の創立メンバー6人の内の一人ですが、何度も投獄された末、北斗が出会ったころには社会主義からは離脱していました。
戸籍では「光次郎」なのですが、好んで「光二郎」とも書いたようです。
読みは「みつじろう」が戸籍上は正しいのですが、「こうじろう」で通していたと娘さんもおっしゃっているそうです。(「西川光二郎小伝」田中英夫)
田中英夫先生は「光二郎」をお使いですが、これまで草風館版『コタン』記載の「光次郎」で通してきましたので、引用以外は光次郎で通したいと思います。
北斗の 投稿者: 管理人 投稿日: 2月19日(土)16時17分29秒
書誌をアップしました。
といっても、まだまだ制作途中です。
1 違星北斗の作品が載っている書物
2 違星北斗を論じた書物
以上について、心当たりのあるかたは、ご協力をお願いします。
郡司正勝先生の『コタン』評論(要約)をアップしています。
非常に感動的な文章で、郡司先生がいかに北斗と「コタン」を大事に思っていたかが伝わってきます。
「コタン文庫」に入れておきます。
遅い! 投稿者: 管理人 投稿日: 2月23日(水)23時37分0秒
やたらとBBSに入るのに時間がかかるのは私だけでしょうか・・・?
論文を書きたい件で、いろんな方に相談に乗って貰いました。
特に大学の先生方や、偶然見つけたサイトから質問したアイヌ研究団体の先生には、いろいろなことを教えていただきました。
その先生には、違星北斗や知里幸恵、森竹竹市、バチラー八重子あたりは、ヒロイックに取り上げられることが多いが、それがかならずしもアイヌの近現代の実相をとらえるのに有効かどうか、というような意見を聞き、私もそうだなあ、と思いました。
私もやはり違星北斗をヒロイックにとらえていると思います。すくなくとも憧憬の対象ではあり、違星北斗の生き様が格好いいとおもっています。
そういう意味では私は学者にはなりえないのだろうなあ、と思います。
ファンなのか、マニアなのか。
違星北斗の生きた時代や、彼に関する事実は知りたい。
しかし、私の「発見」がもし仮に、誰かがすでに発見していたり、すれ違いで他の人に発表されてもさして悔しくもないし、それによって、また北斗研究が進み、いろんな情報が出てくるのであれば、べつにそれでもかまわないような気がします。
しかし、北斗のことを研究している人と、いろんな議論はしてみたい、という気はしますね。
北斗研究の嚆矢『アイヌの歌人』の作者、湯本喜作さんとか、いまご健在だったら100歳以上ですが、もしお会いできたとしたら、いろいろ議論してみたいところはいっぱいあります。
歴史のIFついでに、違星北斗が生きていたら・・・などとも考えます。森竹竹市の
こんな時「北斗」が生きて居たならと/沁々思ふ――一人夜更けに
の歌ではありませんが。
やっぱり、私はヒロイックに見てしまいます。研究者には向かないのでしょうね。
入手した資料など 投稿者: 管理人 投稿日: 2月24日(木)23時03分31秒
・柏葉叢書『郷土と開拓』高倉新一郎
能登酉雄の聞き書き。(poronup様、情報ありがとうございます。)
・旭川人権擁護委員連合『コタンの痕跡』
旧土人保護法に関する論説を集めている。
410ページに喜多章明「旧土人保護法とともに五十年」があり、その中に「保護法の成立の感懐を歌う詩」というのがあります。これは、伏根シン子さんが昭和十二年に伊勢神宮に行った際に、参加者から各々聞いて読んだ詩(8編)の中に、余市町違星北斗君の述懐」というものがあります。
が、これが北斗の述懐をもとにしたものかどうかは非常に疑わしい。昭和四年に死んだ北斗です。これは、兄の梅太郎なのか、それとも間違いなのか。
この喜多章明という人は和人で、昭和五年設立されたアイヌ協会の会長ですが、読めば読むほど、北斗や真志保なんかの考え方とは違うなあと思います。
いろいろ書きたいことは出て来ますが、またの機会にしたいと思います。
同じ本に三好文夫が文あり、これも北斗に軽く触れていますが、ここでは「偉星北斗」になっています。けっこう短歌を引いているので、原典に依っているはずですが、どうしてこういう間違いをしているのでしょうか。
それとも、「偉星」となっているテキストが存在したのでしょうか。(私は知りませんが)。
また、山川力の「新しい歴史が開かれる」には北斗と森竹竹市との付き合いの一端が見えます。非常に興味深いので、また後日、報告したいと思います。
・荒井源次郎遺稿『アイヌ人物伝』
ものすごい乱丁本でしたが、そのせいか安かったです。下が裁断されてないので、物差しで切りながら読みました。
自費出版なのでしょうか。ワープロ文字、オフセット製版。
史料としての精確性を欠くかもしれませんが、いろいろなエカシやフチに関することがらが得られて、自分としてはいい買い物でした。
書誌に追加する情報(O先生に教えていただいた情報です)。
・『国学院大学新聞』1935年5月1日付に「金田一博士とアイヌ歌人」という文章があること。
・山中峯太郎の『民族』という小説は違星北斗を題材にしたもの?
近くの図書館にあるようなので、調べてみます。
ネットで得た情報では主人公は「ヰボシ」といい、最後に自殺するそうですが・・・。
ちょっと 投稿者: 管理人 投稿日: 2月24日(木)23時24分36秒
風邪なのか、疲労なのか、体が弱っています。
直したはずの昔の症状が出てきて、心まで弱くなります。
永いこと病床にゐて元気なくこころ小さな俺になってゐる
健康な身体となってもう一度 燃える希望で打って出たや
という北斗の歌を想いながらふらふらと家路につきました。
ボストンバッグ 投稿者: 管理人 投稿日: 2月26日(土)08時28分29秒
北斗とは関係ありませんが。
見るともなく何気なくつけていた「NHK歌壇」。
そこで、松岡達宜先生が、ご自身の短歌を紹介されていました。
不幸が帽子のごとく似合ふ父ありき風ばかりのボストンバッグも
松岡先生は、このボストンバッグを、お父様から受け継がれたのか、皮のとても重くて大きなボストンバッグだったと言います。そこに明治、大正、昭和を生きたお父様の生涯を重ねて読んだ歌だそうです。
私はそれを聞いて、違星北斗の枕元に置いてあったボストンバッグのことを思い出しました。病床の北斗の枕元にあった、彼の遺稿が詰まっていたボストンバッグも、おそらくそのようなボストンバッグなのかなあ、と想いました。北斗も27年の生涯とはいえ明治・大正・昭和を生きた人ではあります。
東京、平取、行商と、彼とともに旅した鞄かもしれませんね。
山中峯太郎「民族」 投稿者: 管理人 投稿日: 2月26日(土)23時51分11秒
図書館で山中峯太郎の『民族』を閲覧してきました。
昭和十五年、「陸軍将校の機関月刊誌『偕行社記事』に連載したものを、本にしたものである。」ということです。
厳密に言えば「ヰボシ」は違星北斗そのものではありません。モデルとなっていることは確かですが、知里真志保のイメージも多分に見られます。
全体の八割は、シビチャラという娘を主人公に、和人の侵入によってアイヌの生活が破壊され、それに対するアイヌの叛乱と和人による(だまし討ちによる)制圧が描かれます。コシャマインの戦いや、シャクシャインの戦いのイメージを髣髴とさせます。
後の二割程度が、「ヰボシ」という秀才少年が、東京で学び、アイヌの将来に失望して自殺するという内容です。こちらは違星北斗や知里幸恵・真志保のイメージが投影されていると思います。
粗筋はだいたい次のようなものです。
コタンで父とともに自給自足の生活を送っていた美しい娘シビチヤラは、突如現れた和人に稗の畑を奪われます。彼らが暮らしていた大地は「道庁」に取られ、和人のものになり、狩猟を禁じられました。彼女の父親は和人のもとで働く同族のノダラップに唆され、二人はコタンを抜け出して漁場のタキヤという運上屋で働かされることになります。そこで和人に見初められたシビチャラは、和人に家を与えられ、父と住むことを許されます。じょじょに父は和人のような考え方をするようになり、シビチャラは悲しみます。
土地を得た親子でしたが、税金が払えず、前田という和人がそれを立て替えます。前田は美しいシビチャラを狙っていたのです。同じくノダラップもシビチャラを狙っていました。二人は彼女を巡って争い、前田はノダラップを殺し、シビチャラを連れ去ります。
シビチャラに想いを寄せていた若きオトナ(首長)シツネクルが、ようやく彼女の家を探し出したとき、そこには瀕死のノダラップしかいませんでした。ノダラップは同族の仇を討ってくれといい、息絶えます。
折しも弁財船が大量の大釜を運び入れ、それはアイヌを煮殺すためのものだという噂がたちます。シツネクルは各地のオトナを集めて蜂起を呼びかけます。彼らは和人の街に火をつける計画を立てますが、運上屋は和睦を持ちかけ、オトナたちを呼び寄せて酒や御馳走でもてなし、酔いつぶれたところを吊り天上で皆殺しにします。ただ一人、シツネクルは生き残り、復讐を誓いながら、シビチャラをともなって敗走します。
十五年後、秀才とよばれたアイヌの少年「ヰボシ」は土人学校を抜群の成績で卒業します。その才能を見込んだ校長は上の学校にいかせようとしますが、本人は東京に行くことを望み、校長の知人の書生として上京することになります。
東京の中学校に主席で入学したヰボシでしたが、日本の歴史を学び、自分ののために生きないというシャモの「奉仕的な素質」にこそ、繁栄の秘密があるという考えに至り、慄然とします。「個我に生きて、全的に奉仕的素質をもたない民族は滅びる」「優者は全体に生きて興隆し、劣者は個我に生きて自滅する」という結論に達し、中学の五年の時に自殺します。
その知らせを聞いた父のシツネクルも、母のシビチャラも、絶望して命を絶ちます。
読み終えてまず思ったのは、和人の侵略を執拗に描いた、イビチャラが主人公の部分(仮に第一部とします)と、ヰボシが主人公の部分(仮に第二部とします)が、まったく感じが違うことにめんくらいます。
第一部はシビチャリの視点で和人の横暴が描かれており、作者の山中峯太郎はアイヌに同情的に思えます。(ただし、滅び行くものと決めつけているところはあります)。
しかし、「第二部」のヰボシのところは、和人の性質に関する優位性を(優生学的に)説くばかりで、とても読んでいられません。前書きには「吾れら大和民族は、北にアイヌ民族を、西に熊襲民族を、素質の優劣によつて、おのづから征服した。彼らの亡びた素因は、彼れら自身が劣弱性をもつてゐたからである。大和民族が彼等を亡ぼしたのではない」、作品の最後は「彼等を滅ぼした者は、彼等自身である」と締めくくっています。
昭和15年という時代と、陸軍将校の機関誌に連載という事情もあるのでしょうが、それにしても、「第二部」は残酷にすぎます。
全体の八割を占める「第一部」において、シネツクルはアイヌのオトナたちを束ねて蜂起を促す、コシャマインやシャクシャインを髣髴とさせる「英雄」として描かれますが、一転して「第二部」では時代にとり残され、秀才の息子ヰボシに望みを託す、卑小な、しょぼくれた父親として描かれ、最後には息子の後追いで自殺してしまうのです。それは「英雄時代」さえも抹殺してしまうのです。
(息子のヰボシとの関係は、金田一京助の『あいぬの話』中里徳太郎と中里徳蔵のエピソードを髣髴とさせます)
ヰボシは東京で和人には「自分の為に生きない」「奉仕的」という理由を発見し、「個我に生きる」アイヌに未来はない、と結論を下して自殺します。
これにも、現在の我々からすると、うーん、と首をかしげざるを得ません。和人が「全体に奉仕し、自分の為に生きない」と言われても全然納得できませんし、アイヌが「個我に生きる」から未来はない、というのもどういう根拠で言っているのか、よくわかりません。(それが、山中峯太郎の思想か、それとも読者である陸軍将校へのポーズなのかはわかりませんが)。
もちろん、この考え方は、違星北斗の思想とは全く違うものです。
しかし、何の予備知識も持たず読んだら、はあ、そうかと思ってしまうのかもしれません。活字の力、ペンの力、物語の力はこわいものだと思います。
図書館で一読しただけですので、重大な部分を読み落としているかもしれません。
(目次と前書き、ヰボシの部分のみコピーしてもらいました)。
続き 投稿者: 管理人 投稿日: 2月27日(日)02時06分25秒
山中峯太郎はエリート中のエリート陸軍大学の出身ですが、その後朝日新聞の記者(筆名未成)として、中国に渡り孫文の辛亥革命に参加、革命失敗後は中国人として日本に亡命、山中峯太郎名義で小説を書きました。戦前には『敵中横断三百里』『アジアの曙』『大東の鉄人』他、戦記や海外を舞台にした冒険小説に多くの著作があります。戦後のポプラ社のホームズの翻案等でも有名です。もしかしたら、ヰボシの苦悩に、エリート軍人の道を捨て、新聞記者に転身し、革命に身を投じるた作者自身の心境が重ねられているのかもしれませんが、この『民族』が書かれた昭和十五年当時、どのような思想を持っていたのかはわかりませんので、どうなのかわかりません。もうすこし読み込まないと、と思います。
あるいは、山中が本当に書きたかったのは「第一部」なのかもしれないという気もします。ヰボシの出てくる「第二部」は軍部に対するポーズなのではないか、だからこの『民族』という作品は、この昭和十五年の出版を最後に、戦後はまったく公開されていないのではないか、などとも思います。
時代考証的には問題ありではないかと思います。ヰボシの卒業が明治23年ということになっていて、その15年前にシネツクルの蜂起があったとなっていますが、明治7〜8年になります。運上屋によるアイヌ大虐殺が、明治時代に行われていることになります。いくらなんでも、という気がするのですが、どうなんでしょうか。
始めまして!! 投稿者: こあら 投稿日: 2月27日(日)07時22分35秒
始めまして。卑弥呼とアイヌの関係が知りたくて、調べていたらこのサイトを見つけました。またお邪魔させてください、よろしくお願いします!!
アイヌ人は、インディアンと似てますね。
卑弥呼とアイヌに関係はあるのでしょうか?
アイヌと卑弥呼 投稿者: 管理人 投稿日: 2月27日(日)12時59分6秒
はじめまして、こあら様。
アイヌとインディアンとの類似点ですが、先住民族で、他民族から侵略をうけたという歴史的な経緯が似ている、あるいは自然を尊ぶ精神文化が似ている、という意味であれば、似ていますね。
人種的に似ているのかということになると、いろいろ研究している方がいらっしゃいますが、私はあまりわかりません。
卑弥呼とアイヌについてですが、これも私はあまり詳しくないのですが、まあ乱暴に言えば関係あるし、慎重にいえば関係ないでしょうね。
結局、言葉の定義の問題だと思うのですが「アイヌ」というと、北海道、樺太、青森最北部ぐらい、時代も近世以降ぐらいに限定されてしまうでしょうから、とりあえず慎重に「関係ない」というべきかもしれません。
「蝦夷」という言葉も時代によっていろんな意味を持ちますので説明するのは難しいかもしれませんが、彼らの源流と考えられる「縄文人」となら「関係ある」といってもいいのではないでしょうか。
卑弥呼が統治していた邪馬台国は、稲作を行っていたようなので弥生人系のようなイメージがあるのですが、反面、入れ墨をしていたり漁猟を行ったりと縄文人的な特徴ものこしているようでありますので、縄文人的な文化も多分に残していたのではないでしょうか。邪馬台国は30余国の連合国家ですので、縄文人の流れをくむ豪族も含まれていたことだと思います。
また、卑弥呼は「鬼道をよくした」と言われるシャーマン(巫女)ですが、アイヌ文化の中にもシャーマンの文化はありますし、沖縄や青森など、縄文文化に関わりの深いところでは今でもシャーマンの文化が色濃く残っていますね。
まあ、キーワードを「縄文」にしちゃうと、日本すべてのものが「関係ある」になってしまいますから、答えになっていないかもしれません。
コタンの娘 投稿者: 管理人 投稿日: 2月27日(日)23時54分51秒
山中峯太郎『民族』に描かれている「ヰボシ」について。山中峯太郎研究協会の平山様からご教示いただきました。
峯太郎の「民族」は戦後になって「コタンの娘」と改題、改稿されて出版されているそうで、その内容はかなり違います。
それについて、ひらやま様は「それぞれの時代の峯太郎の心境を反映しているものとおもわれます」とおっしゃっておられます。
非常に興味深い論文です。しかし、山中峯太郎について、今の私にはそれを読み解くだけの勉強が足りませんので、のちの勉強とさせていただきたいと思います。
ただ、いただいた資料から、違星北斗について重大な新情報が得られましたので、報告したいと思います。
『コタンの娘』の前書きに山中峯太郎は次のようなことを書いたということです。孫引きになりますが、引きたいと思います。
この本は、かうして書いた
『世界聖典全集』を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。
ヰボシ君と私は、その後、かなり親しくなった。アイヌ民族の事情について、さまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。その話を材料にして私は「民族」を書いた。しかし出版すると発売禁止になった。今度それを書き改め、前には書けなかつたことを、思ふとほりに書きたしたので、名まへも改めたのである。 山中峯太郎
(『山中峯太郎研究協会報』第十一巻、「山中峯太郎の作品回顧」平山 雄一)
ここに見える松宮春一郎氏の紹介を書いた名刺を持ってきた「アイヌの秀才青年ヰボシ君」は、ほぼ間違いなく違星北斗です。必然的に大正14年の2月から15年の7月までの間の出来事になります。
北斗は、山中峯太郎と「かなり親し」くし、アイヌの現状などを語っていた、というのです。
この情報、すくなくとも私はこれまで聞いたことがありません。自分的には新発見です。
『民族』に登場する「ヰボシ君」は、今から見れば非常にナンセンスなことを言っているように思えるのですが、しかし・・・東京時代の北斗の発言がヒントになっていると思えば、あながちそうでもない気がする部分もあります。そのころの北斗なら言いそうなこともある気がします。
東京時代の北斗の思想には、妙に和人に対して遠慮し、思想的にも右傾した部分があります。(著作でいうと「アイヌの一青年から」あたりに顕著です)。親切な和人に囲まれ、逢う人逢う人から「アイヌも『日本人として』お国のために役に立たねばならない」というようなことを吹き込まれていたわけですから、そういう思想に傾いたのも分かる気がします。
そして、山中峯太郎もそのころに会った人の一人なわけです。
山中峯太郎は、自らが関わった「革命」について北斗に語ったでしょう。それが北斗の心に刻み込まれたのではないでしょうか。水平社に敬意を抱き、アイヌの地位向上を目指していた北斗も「革命」には興味があったと思われ、そういう人物だからこそ、松宮氏も北斗に紹介したのかもしれません。
松宮春一郎についてはよく知りませんが、図書館の著書名を見る限りは学者なのだと思います。文中に出てくる『世界聖典全集』の第二集の中には金田一京助の『アイヌ聖典』が入っていますから、そのあたりのルートかもしれません。
いずれにせよ、これは大辞典や年表にも反映すべき情報であると思います。
『民族』『コタンの娘』については、まだ荷が重すぎます。今のところ宿題にさせてください。この二作は著作権継続中なので、要約をちかいうちにアップしたいと思います。
なんとなく 投稿者: 管理人 投稿日: 2月28日(月)00時21分27秒
今日の心境を表した一首
淋しいか? 俺は俺の願ふことを願のまゝに歩んだくせに
永劫の象 投稿者: 管理人 投稿日: 3月 1日(火)01時11分2秒
ずっと疑問だったのですが、「豊年健治君」が大正15年の夏に寄せ書きした短歌
永劫の象に於ける生命の/迸り出る時の嬉しさ
及び、昭和3年に彼の墓前で北斗が詠んだ、
永劫の象に君は帰りしか/アシニを撫でて偲ぶ一昨年
の「永劫の象」の意味ですが、どういう意味でしょうか? 出典がありそうなのですが。後藤静香? 少なくとも『権威』にはないようだし。『聖書』でもなさそうです。
とりあえず私には意味不明なんですが、字面的には、プラトンの「永遠のイデア」っていうのを思い浮かべてしまうんですが・・・豊年君は「永遠のイデアの世界」、魂の世界に還ったと。違うでしょうか。
北斗の返歌の方はそれでいいんですが、豊年君のオリジナルの方が意味がそれでもよくわからない。
ロダンに「永遠の偶像」って作品がありますが関係なさそうだし?
象は「象徴」「印象」の「象」、かたちという意味で、「像」と同じような意味でいいと思うのですが・・・まさか「象さん」の象ではないですよね。
「親しい友」豊年健治はどのような人だったのかわかりません。大正15年の夏、寄せ書きをしたというのは、どういう場面だったのか。
寄せ書きだから、「がんばろう」という会合だったのかもしれません。
更新 投稿者: 管理人 投稿日: 3月 3日(木)01時27分27秒
「大辞典」すこし変更あり。
「関係者」のところに山中峯太郎の関係。
「事物編」作業中のものアップ。
あれー 投稿者: 管理人 投稿日: 3月 3日(木)13時02分31秒
大辞典、どちらとも化けてますね。
帰ったら直さなきゃ。
電車の中で 投稿者: 管理人 投稿日: 3月 3日(木)13時28分10秒
本橋哲也『ポストコロニアリズム』(新潮新書)を読んでいます。
ポストコロニアリリズムとは、植民地主義以後、あるいは脱植民地主義と訳すのでしょうか。
まだ途中なのですが、アルジェリアの革命に身を投じたファノンという運動家の文章が、北斗の思想に共通点があることに驚きました。
ファノンは1925年生まれ、1960年に死んでいるのですが、同じことを言っている、というところが何箇所もあります。
また、詳しく調べたいと思います。
後藤静香の援助 投稿者: 管理人 投稿日: 3月 4日(金)00時41分22秒
後藤静香がバチラーを援助していた件について、後藤静香の著書の中から、それに関する記述をみつけました。
アイヌ民族の保護
大正十一年十二月から、この事業に着手いたしました。これはまだ発表したことがありませんから、不思議に思われるかも知れません。
しかし、これは、国家がなすべき当然の仕事です。これをすておいては、人道の上に立った日本として世界にモノが言えません。国家がなすべくして、未だなし能わざるとき、これに代って国民を代表し、当然の責務を果たすのが、社会教育者の務めでございます。私はこんな見地から、この授業のために四十幾年間没頭していられるバチラー博士を助けています。いまは主として、幼稚園の経営につくしています。
(後藤静香「希望社の事業とその信念」『希望』大正13年1月、『後藤静香選集』第十巻)
これを見ると、大正13年の執筆ですから、北斗と出会うより前から幼稚園に着手していたわけですね。大正14年に上京した北斗が、後藤に接近したのは、先に「修養」ではなく「アイヌ民族の保護」をしている静香だからこそかもしれません。金田一も後藤がこのような事業をしていたことを知っていたのかもしれません。金田一とバチラーのラインと、バチラーと後藤のラインがあるわけですから、金田一と後藤も面識があってもおかしくはないでしょう。やはり、北斗と金田一とのあの出会いが、多くの新たな出会いを生み、北斗の世界を拡げたのかもしれませんね。
更新 投稿者: 管理人 投稿日: 3月 4日(金)07時23分0秒
中途半端に更新。
各ページのフォーマットを統一しました。
(無題) 投稿者: 管理人 投稿日: 3月 7日(月)08時51分18秒
峯太郎研究協会の平山です。
ようやくこちらもリンクしました。遅くなってすいません。
それから、関連の記事もHPにアップしました。これからもよろしくおねがいします。
平山様、こちらからもリンクいたしました。
よろしくおねがいします。
今、評伝を読んでいますが、山中峯太郎という人は、ものすごくドラマチックな人生を歩んだ人ですね。
山中峯太郎が北斗にどのようなことを話したか、また北斗がどのような影響を受けたのか興味が湧きます。
東京に行く用事がありましたので、いろいろ「視察」してまいりました。
大正14年、違星北斗は上京しますが、一番に阿佐ヶ谷の西川光次郎のところへ行きます。
「発行人より」
△東京府市場協会の高見沢さんから、『真面目な青年がないか』との御相談があり、私は大阪の額田君と、北海道の違星君などをおスゝメしました、幸に採用さるゝことゝなって、額田君は既に上京し、違星君も近日上京することになってをります。
「校正を終へて」
幸に額田さんと違星さんとが事務を大変に手伝って下さったので助かりました。二人とも本当に感心な青年です、違星さんはアイヌの方ですが、絵も文筆も俳句なども上手な珍らしい人で、北海道の余市から阿佐ヶ谷まで来るのに牛乳一合買ふたきりで弁当は一度も買はずに来たほどの人です。(神保院にて文子。十八日)
(自働道話 大正十四年三月号)
五年前の或夕、日がとつぷり暮れてから、成宗の田圃をぐる/\めぐつて、私の門前へたどり著いた未知の青年があつた。出て逢ふと、あゝうれしい、やつとわかつた。ではこれで失礼します。
誰です、と問うたら、余市町から出て来たアイヌの青年、違星瀧次郎といふものですと答へて、午後三時頃、成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶつ通しに成宗を一戸一戸あたつて尋ね廻つて、足が余りよごれて上れない、といふのであつたが、兎に角上つてもらつた。(『違星青年』金田一京助)
自働道話社があった阿佐ヶ谷は大正14年当時は東京「市外」で、「東京府豊多摩郡杉並町」でした。当時金田一京助が暮らし、北斗も訪ねた「成宗」もおなじく杉並で、ご近所です。
阿佐ヶ谷駅から成宗まで歩いてみましたが、2、30分ぐらいでしょうか。
当時、大正11年7月、国鉄中央線の「高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪」の3駅が開設され、震災後東京市中から郊外への人口流出がはじまります。大正13年に「杉並村」から「杉並町」になりました。現代でもそうですが、新宿まで「電車」ですぐに出られるため便利ですが、金田一の記述にもあるように、まだまだ家が少なく、駅をすこし離れると武蔵野の森が拡がるのどかな田園地帯だったようで、家賃も安かったのでしょう。
ちなみに、阿佐ヶ谷に「文士村」といわれ、井伏鱒二などが多く暮らしはじめるのが昭和2年あたりから。北斗が過ごしたのは大正14年から15年ですから、ニアミスです。ただし、北斗がいた当時、高円寺には中原中也が、女優の長谷川泰子と同棲していて、よく夜中に阿佐ヶ谷駅前の「ぴのちお」(のちに阿佐ヶ谷文士のたまり場になる支那料理店)に食べにいっていたそうです。
北斗の歌には
支那蕎麦の立食をした東京の 去年の今頃楽しかったね
というのがあります。ここでは「立ち食い」になっているので、「ぴのちお」ではないかもしれませんが、この店にも食べに行ったことがあったのかもしれません。
この長谷川泰子を中也に紹介したのが『青空詩人』永井叔です。永井は北斗が大正13年に書いた詩「大空」を大正14年に『緑光土』に載せたており、北斗とは何らかの交流があったと思います。
もしかしたら、中也と北斗が……などと空想してみたりもしますが、まあわかりません。中也は大正14年5月に高円寺に泰子とともに同棲しますが、泰子は小林秀雄にとられてしまい、翌年4月には日大予科に入学して中野に移ります。
金田一と北斗が熱烈な会談をした「成宗」は地名表記からは消えてしまっていますが、「成宗公園」「成宗交番」「成宗ビル」などという名残は見られました。
現在は「成田西」「成田東」という地名になっていますが、これは「成宗」と「田端」を合わせた名前だそうです。(昨今の市町村併合もそうですが、こういう、古い地名をどんどん消していくのはどうかと思います)。
東京時代の北斗が立ち寄ったと思われる場所を挙げてみます。
自働道話社(西川光次郎) 東京府豊多摩郡杉並町阿佐谷(現:杉並区阿佐ヶ谷)
希望社(後藤静香) 東京府下西大久保(現:新宿区西大久保)
金田一京助宅 豊多摩郡杉並町成宗(現:杉並区成田)
高見沢清(東京府市場協会)豊多摩郡淀橋角筈(現:西新宿)
伊波普猷宅 小石川
にいはり出版所 牛込区中里町(現:新宿区中里)
(にひはり句会) (不明)
自働道話送別会 四谷(三河屋)
医文学 本郷区新花町(現:文京区湯島)
(医文学送別会) (?)
北海道人 東京市外満田町
東京アイヌ学会 永楽町(現:大手町)永楽クラブ
山中峯太郎宅 北豊島郡中新井村(練馬区豊玉上)
自働道話社遠足 新宿→高尾山
知里幸恵の墓参り 雑司ヶ谷霊園(池袋)
あと、祖父が留学した芝増上寺あたりも行ったかもしれません。
肝心の北斗の居住地がどこなのか、また下宿か、一人暮らしかも含めてわからないのですが、西川の自働道話社の近く(阿佐ヶ谷)か、市場協会のあったと思われる新宿の近辺だと思います。
新宿には後藤静香の希望社もありますので、足繁く通ったのもわかります。
北斗は遠足会の時、北斗は寝坊して(興奮してねむれなかったのかもしれません)新宿駅のホームに駆け込んでいますから、一人暮らしの可能性が高いですね。
阿佐ヶ谷近辺に住んでいるのであれば、西川らと一緒に来るような気がしますし、やはり新宿近辺なのかもしれない。勤務先の市場協会が新宿であれば、やはりその近くに住みますよね。推測の域を出ませんが、やはり北斗は新宿あたりに住んでいたのでしょう。
うわっ 投稿者: 管理人 投稿日: 3月16日(水)20時19分37秒
年表を少し更新したら、また表示がおかしくなった。
もう、使い慣れたGoLive使うのやめて、手打ちにしようかな、と思ったり思わなかったり。
北海道立図書館に、次のような図書があるようです。
『違星北斗 光りを掲げた人々』
著者名 森本 儀一郎/著 出版地 〔東京〕出版者 〔札幌中央放送局〕
出版年 1955 ページ 34p 大きさ 26cm
一般注記 JOIK放送台本 昭和30年3月6日(日)放送 謄写刷
こ、これは「ラジオドラマ」ではないでしょうか?
それも、昭和30年3月6日(日)に放送された、ということでしょうか!?
まさか・・・テレビ? と思ったのですが、JOIK・NHK札幌中央放送局でテレビが始まったのは31年だそうですから、やっぱりラジオでしょうね。29年の「違星北斗の会」の『違星北斗遺稿集』発行を受けてのことでしょうか。
大変だ!
日記にも「ラヂオ」云々がありましたが・・・。まさか北斗のラジオドラマがあったとは・・・!
聴きたい!
そして、この台本を見たい!
この図書館には『違星北斗遺稿集』もあるし、小樽新聞も北海タイムスも、北海道人も志づくも新短歌時代もあるので、ぜひ近いうちに行きたいと思います。
GWに長期休暇を取って、ついに北海道へ行こうかと画策中。
北斗ゆかりの余市を歩きたいのと、この札幌の図書館に2、3日籠もりたいというのがあります。
北斗が「大空」を載せた『緑光土』(大正14年)の作者、大空詩人こと、永井叔(よし)について調べています
自叙伝を入手して、読んでいます。
永井は松山の医者の息子で松山中学、同志社を出た教養人ですが、天衣無縫というか奔放な人ですね。上官を殴って軍隊を辞め、マンドリンを挽きながら全国を放浪した「吟遊詩人」です。北斗より10ぐらい年上ですね。
托鉢で旅費と出版費用を稼いでいたそうです。
大正時代のヒッピー、とでもいうべきでしょうか。50年早かったですね。
戦前より街頭詩人として有名(というか、名物)な人だったらしいです。中也に影響をあたえ、恋人、長谷川泰子を紹介したのが彼だそうです。
「大空」を崇拝する独自の哲学というか宗教観のようなものを持っていたようで、大空を称える詩を数多く作りました。
北斗との関わりですが、95年版『コタン』では掲載の経緯が不明となっています。
しかし、大正14年、永井は東京にいましたから、北斗が街頭でマンドリンを弾く永井に接触したのだと思います。
「名物」の街頭詩人永井は様々な文化人と交流があったようですが、一部を除いてあまり深い交わりではなかったようですね。
永井の著作の中では「長谷川泰子」は「清水谷八枝子」となっているのですが、これはどういうことでしょうか。芸名でしょうか。
長谷川泰子の自伝「ゆきてかへらぬ」も参照してみたいと思っています。
『緑光土』も確認しなければと思い、昨日大阪府立中之島図書館に行ったら、なんだか年度末の休館で閉まっていて、無駄足でした。ショック。
歴史に残らなかった人々 投稿者: 管理人 投稿日: 3月24日(木)06時59分24秒
永井叔や、山中峯太郎、後藤静香など、北斗の関わった人たちにはあまり知られていないけれど、それぞれに興味深い人が多いです。
縁あって私は北斗の生涯を追いかけているわけですけれど、これらの人々も「調べてみたい」と思わせる、面白い人生を送っています。
まあ、でもそんなものかもしれない。
懸命に「なにか」を追いかけ続けた人たち。
歴史に残る人物と、残っていない人びとの差は、社会的に認められる「結果」を残せたか否かということだけであって、その人生の面白さ、個人の魅力なんかはかわりがないのではないか、と思います。
勝者が歴史を作る、といい、敗者の歴史は残らないといいますが、そんな大袈裟なことでなくって、勝者でも敗者でもない人、ギリギリのラインで歴史に残らなかった人々の人生もまた、面白く、すばらしいものだと思います。
『新日本紀行1北海道』(NHK社会番組部編・新人物往来社¥昭和48年1月)に北斗についての記事あり。
P96「アイヌの運命を憂う歌人」。内容は沙流川(ここでは沙流谷と表記されています)における北斗の活動の紹介で、新しいところはありません。執筆は後藤和晃とあります。
ただ、この本は、NHKの旅番組「新日本紀行」のスタッフが書いたものだということです。前書きによれば、この番組は昭和38年に始まり、44年頃から「ただ地方の自然、行事、風習、話題を紹介するだけではものたりない……」と「その土地の自然とそこに住む人々のかかわりあいを見つめ、その中に日本人の姿を捉えようとする態度にかわりました。」とのこと。
掲載されている内容が番組として放送されたものだ、とは書いていないのですが、おそらく「新日本紀行」で放送されたものだと考えてもいいと思います。
北斗のことが、テレビでも紹介されたのですね。
昭和44年9月22日(月)の毎日新聞(東京版)によると、NHKテレビ19:30[カラー]『新日本紀行』「サラブレッド草原」(北海道・日高)とあり、昭和51年にNHKソフトウェアから『新日本紀行2 サラブレッド高原』というタイトルでビデオも発売されたようですが、今では入手困難で、あまり図書館にもないようです。(そこに北斗のくだりが含まれているか不明ですが、見てみたい)。
北斗のラジオ番組について、図書館で新聞のラジオ欄を調べてきました。
毎日新聞(東京版)昭和30年3月6日(日)
NHK第一
9:30
「アイヌの解放を叫んだ『違星北斗』西国成男 他」
とあり、番組紹介記事の中に「ききもの」コーナーとして、次のように紹介されています。
「◇光を掲げた人々『違星北斗』(NHK第1前9・30)アイヌの解放のためにコタン(部落)を巡礼して志を説いた若き歌人違星(いぼし)北斗の生涯をドラマ化。彼は明治三十四年生れ。幼少から和人に軽蔑されて反抗したが、大正十四年金田一京助を頼って上京し、それ以来滅びゆくアイヌの生活と文化の紹介に一生を捧げ昭和四年死亡した。郷里に歌碑建設の計画がある。」
やはり、ラジオドラマだったんですね。
(朝日新聞(東京版)には、紹介はなく、ただし出演者に「若山弦蔵」の名もあります)。
これはもう、北海道立図書館に行って台本を読むしかありませんね。
ラジオといえば、
日記の昭和3年9月3日に
山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。
とあり、私はこれも北斗が紹介されたのかもしれないと思っていますが、図書館から帰ってから、この昭和3年9月3日のラジオ欄も見てきたらよかったと、激しく後悔してしまいました。
北斗の「大空」が掲載されている『緑光土』を図書館で見てきました。
『緑光土』は奥付によれば大正14年8月16日発行。
表紙には英語で「EVER GREEN ZION」、「OHZORA」、裏表紙にエスペラント?で「TERNE VERDA ZIONO」「Y.NAGAI」「獄中作」「GRANDA CIERO SHA」などといろいろ書いてあります。
著者 永井叔、印刷人 小林繁次郎(東京市麻布区六本木町廿一番地)、印刷所 小林印刷所(所在地同じ)、発行所 オホゾラ社出版部(所在地同じ)。定価一円八十銭。
作者の永井叔に似て、変な本です。
出版資金は街頭でマンドリンやバイオリンを弾きながら、托鉢で稼いだのだということです。
目次がなく、またページノンブルも最初から最後まで連なっていません。詩編「緑光土」の上編と下編でそれぞれページ数が1から振られています。
『緑光土』はメインが永井叔が獄中(軍隊で上官を殴ったため)で書いた長編詩(叙事詩)ですが、他にも数人の作品(歌・画)が載っています。
永井の叙事詩のあとに、北斗の「大空」が載っており、その次のページに数人の寄稿者の名前とともに、「緑光土のために作品を御贈り下さつたすべての方方に心から謝意を表します。」というコメントがあります。いずれも永井の大空賛歌に賛同しているような作品ばかりなので(北斗も含め)、賛同者や援助者からも寄稿を募ったのかもしれませんね。
緑光土とは、永井の思い描く楽土というか仙界というかエリシオンというか・・・キリスト教的というのではなく、ギリシア神話っぽい楽園を描いたものでしょうか。どことなく新興宗教の合成神話のようですが、宮沢賢治的な感じもしないでもないです。95年コタンの解題では山田先生は「何とも形容しがたい永井の『詞曲』」いう表現をされていますが、まあ、そうでもないかとも思います。
北斗が、闘病中の昭和3年9月3日の日記に「山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。」とある件ですが、図書館で新聞を見てきました。
東京毎日新聞昭和3年9月7日朝刊「ラヂオ欄」
JOHK【仙台】午前一〇、〇〇家庭講座、長沼依山▲午後〇、一〇講談「清水次郎長の内荒神山」神田伯治▲六、〇〇(子供の時間)「公共美談六少年の力」長沼依山▲六、三〇商業講座清水正巳▲七、一〇趣味講座、山野鴉人▲八、〇〇俚謡「水戸名物磯師」外二組水戸市金太ほか▲浪花節「祐天吉松の内孝女の仇討」木村松太郎
とあります。この「七、一〇趣味講座、山野鴉人」が、その番組ですね。
北斗の日記にある「山野鴉八」は「八」ではなくて「人」だということです。
まあ、ささやかな新発見いってもいいでしょうか。
ちなみにこの東京毎日以外も朝日、讀賣を見てきました。讀賣はほとんど同じでしたが朝日は結構略されていました。
あと、忘れてはいけないのは、讀賣には次のような記載がありました。
仙臺HK389.6
後7、10趣味講座『短歌行脚漫談』山野鴉人
つまり、この山野鴉人さんは短歌関係の人、ということが言えるのではないでしょうか。(検索でも引っかかりませんでしたし、讀賣新聞のCD-ROMなどでも探してみましたがありませんでした。国会図書館にも著作はないようです)。
ちなみにこの頃の番組は、今のように曜日ごとにバッチリ番組が決まっているわけではないようで、この山野さんも、レギュラーで番組を持っているわけではないようでした。趣味講座という枠の中で喋ったのだと思います。
この内容というのは今となっては知る術はほとんどないのでしょうけれども、日記にある北斗への葉書の内容によれば、沙流川の昔を語る、ということで、そこで北斗のことを触れた可能性が高い、といえると思います。
関係ないですが、黎明期のラジオ欄を見てみて、意外だったのは、東京版に全国の放送局(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)の番組表がすべて載っていたということ。これはチューニングを頑張れば他の局も聴けたということなんでしょうか? 現在でも、例えば大阪でも普通に東京のAM放送局も入りますし。ノイズはありますが。
あと、全国の局は全て違う番組をしている(生放送だから当然でしょうが)ということ、それに現代でもNHKはそうですが、夕方六時に子供の番組をやるということ。これはやはり六時に家に帰らせようという教育的配慮かもしれませんね。
まったく関係ないですが。
東京府市場協会 投稿者: 管理人 投稿日: 3月28日(月)00時24分43秒
北斗の東京での身元引受人、高見沢清についての記事を見つけたので、拾っておきます。
昭和3年7月7日讀賣新聞(東京)朝刊(3面)婦人欄
(表題のみ)
日常必需品の買物の仕方 経済的なのは現品むき出しの品
あまり宣伝をするものや 包装の綺麗な品物は高い
東京府市場協会常務理事 高見沢清氏談
内容は、そのままです。商品の見た目や宣伝に騙されるな、という主婦へのアドバイスです。現代にも通じるかも知れません。
この中で高見沢は「市場協会が経営する30ヶ所程の公設市場云々」と言っていて、あれ、市場協会って民間じゃなかったっけ、と思ったんです。東京府市場協会は財団法人で、国の役人の天下り先でもあるようなんですが、これってなんていうんでしょうか。3セク?でしょうか。
昭和3年7月21日朝刊3面 婦人欄
(表題のみ)
精力旺盛剤に米糠を召上れ 婦人は特によい
鶏卵などは馬鹿らしい位
東京府市場協会常務理事 高見沢清氏談
これは、思いっきりテレビのような「米糠健康法」のおすすめです。高見沢は自ら米糠健康法を実践し、すこぶる調子がよく、その立場からパン屋に米糠パンまで作らせてしまったとのこと。大新聞なのに鶏卵などは「馬鹿らしい」位とは、えらい書きようですが。
いずれも、北斗が北海道に去った(闘病中)の新聞です。東京時代に北斗も米糠を食べさせられたのでしょうか?
芝増上寺 投稿者: 管理人 投稿日: 3月29日(火)23時48分33秒
再び催し物で5月半ばに東京に行く予定なのですが、その催しが行われるのが東京プリンスホテル。私などにはなんとも敷居が高くて……。
それはそれでおいといて、地図を見るとちょうど、芝増上寺の近所なんですね。
芝増上寺といえば、北斗の祖父万次郎が留学したところです。ちょうどいいので、ちょっと見てきます。
(その前に、GWに北海道へ行きたいのですが……行けるでしょうか)。