コタンBBS 過去ログ 2004年10月〜12月


 05年 <7月〜9月> <4月〜6月> <1月〜3月> 04年 <10月〜12月>


※ここに書かれている見解は、書き込み当時の見解であり、最新のものではありません。その後の発見により、見解が変わっている場合があります。


とりあえず  投稿者: 管理人  投稿日:10月 3日(日)00時58分38秒

違星北斗研究会の掲示板を作りましたので、
違星北斗研究をしている方、違星北斗ファンの方は、こちらになんでも書き込んでいただければ、うれしいです。


アイヌと云ふ新しくよい概念を  投稿者: あらや  投稿日:10月 6日(水)23時53分12秒

アイヌは「人間」という言葉。
「人間」の新しくよき概念を伝えるホームページの誕生にうれしくて眠れない夜です。
「違星北斗とは」を新しく加えられたことに不退転の決意を重く感じました。
うれしい。


ありがとうございます。  投稿者: 管理人  投稿日:10月 7日(木)15時57分31秒

 本当に、もったいないお言葉、ありがとうございます。
 これから大辞典などのコンテンツを充実させていきたいと思っています。
 高望みかも知れませんが、いまはおぼろげにしか見えない違星北斗研究に
確固たる実体を与えられたらと思います。

 それから、よろしければ、相互リンクをお願いできたらと思います。


独り言ですが  投稿者: 管理人  投稿日:10月13日(水)18時38分46秒

※※ 進捗報告 ※※
この三連休で、少し進みました。
只今、違星北斗大辞典(仮)を更新中です。
《人名編》と《その他》に分けようと思っています。
まず《人名編》からとりかかっています。

それから、リンクページも近々アップしようと思っています。
※※ 報告終わり ※※

それにしても、私にとって、違星北斗という人はシビれる、というか、
ロックというか(使い方間違っているかもしれませんが)、
とにかく、メチャクチャかっこいいんですが、
どうして、あまり人に知られていないんでしょうか。

例えば、「アイヌの姿」の後半なんて、凄まじいリズム、イメージの奔流というか、
グルーヴ(?)だと思うんですけど。
なんか、一気に魂が成層圏まで飛んでいくような感じです。


違星北斗のブレイクはまだ遠きか。


リンク完了です!  投稿者: tanaka@余市ネット  投稿日:10月14日(木)23時15分8秒

おばんでした、tanaka@余市ネット管理人です。
少々遅れましたが、リンクが完了いたしましたので、ご確認ください。

彼の故郷に生まれ育っていながら、未だに一度も彼の歌を目にしたことが
ないので、今度ぜひと思っています。勉強不足であいすみません。

よろしくお願いします。


リンクありがとうございます。  投稿者: 管理人  投稿日:10月15日(金)08時40分31秒

>tanaka@余市ネット様

 ありがとうございます。

 「
滅び行くアイヌのために起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く
 「
アイヌといふ新しくよい概念を 内地の人にも与へたく思ふ

 違星北斗の歌は、「コタン」のページ(コタン文庫)に掲載していますので、
 
よろしければご覧になってください。
 こちらからも、リンクさせていただいていますので、ご確認ください。
 余市の住宅地図を見ながら、まだ踏みもせぬ余市の地に思いを馳せています。
 ちかいうちに余市に調査に参りたいとおもっております。
 
 これからもよろしくお願いいたします。


西崎氏? 西崎さん?  投稿者: 管理人  投稿日:10月15日(金)14時12分13秒

ゼンリンの「住宅地図」をネットで購入しました。
なんと一万円弱。しかし、研究のためと「えーい」とばかりに購入。
届いて、包装を解いて、一瞬。
ほんとうに一瞬で早速一つの謎が解けました。

西崎山。

という文字。
なーんだ。
北斗の「フゴッペ」の中に、

 
一名これをMochashi-kotともいわれてゐるが、或る日とはそれはポンチャシコツの間違ひであらう(西崎氏の裏山のこと)といはれてはゐるが……

 
という記述があり、それを、私はずっと「西崎氏の所有する山」かと思っていたのです。
でも、これは「西崎氏」ではなく「西崎山」ではないかと。

 つまり北斗は「西崎さんの裏山」と書いたのではないかと。「山」をひらがなで開いて書くことはまあ、あることですよね。

 それが、新聞掲載の時にか、もしくは希望社版『コタン』掲載時に「西崎氏」に直されてしまって、そのまま現在に至っているのではないかと思い至ったのです。

 「西崎山」は場所的にもフゴッペ遺跡にも近いですし、「フゴッペ」の内容とも合致するんですね。

 あー、なんだって感じです。
 地元の人なら、「西崎氏の裏山」といわれたら、「西崎山のことだな」とわかるんでしょうが……。

 もう、こういうことがあるから、研究は楽しいんですね。

 それから、
 (1)西崎山にはストーンサークルがあるんですね。
 (2)旧フゴッペ遺跡は、「古代文字踏切」と書かれてありました。
 (3)ゼンリンの住宅地図が届いた夜、「プロジェクトX」でゼンリンのエピソードをしていました。地図製作の苦労。いや、ありがたいですね。

 ※管理人注 どうやら「西崎氏」は、西崎氏所有の山という意味でよいようです。(2005/10/16)


覚え書き「心の日記」  投稿者: 管理人  投稿日:10月16日(土)12時35分11秒

 下の余市住宅地図と同じ日に買った、「後藤静香全集10 実践運動篇・静香年譜」が届きました。古本で1500円程度。

 後藤静香(せいこう)は東京時代に北斗が思想上の影響を受けた人物。修養団体希望社の主宰者で、盲人、らい病患者、アイヌや台湾の高砂族などの少数民族の援助、ローマ字運動、エスペラント運動などいろんな運動(希望社運動と呼ばれた)をした人で、その主著『権威』は100万部を売ったといいます。

 修養団体っていいますが、まあ神様のいない宗教みたいなものでしょうか。実際、後藤は神様のように「信者」に慕われるカリスマでした。

 後藤静香はクリスチャンですが、希望社の教条はキリスト教だけではなく、個人個人が修養して、国家に役立つ立派な人間になろう、という生き方の指南するような感じでしょうか。仏教や儒教やら、リンカーンやらナポレオンなんかの歴史上の偉人のいい話などもごたまぜに盛り込んでいて、なにより絶対的な前提として、「お国のために」というのがベースにあります。

 で、後藤静香全集です。
 これでまたいくつかの謎が解けました。

「心の日記」について

 北斗の昭和2年12月26日の日記に出てくる、

 「
希望社から金十円也と「心の日記」に「カレンダー」を送って貰うた。全く有り難いかな。

 ここにある「心の日記」は希望社から大正15年より昭和15年まで発行の日記帳。これまでの日記と違い、毎日上欄に修養の短文を載せていたそうです。後藤静香の言葉でしょう。

 また、岩崎吉勝の「跋」によると、いわゆる北斗の「日記」もこの日記帳に書かれていたということで、昭和2年、3年、4年の分を、遺稿整理の際に参照しています。
 

 北斗の同人誌『コタン』にも「心の日記」というコーナーがあり、ここに「遺骸」「自己の道」という二編の詩が載っていて、長らく北斗の作として扱われているようですが、実はこれ、後藤静香の作品なんですね。

 少なくとも「遺骸」は、後藤静香の著書「閃光」に載っている静香の詩です。まだ確認できていませんが、おそらく「心の道」もそうだと思います。

 北斗は「心の日記」より、という感じで引用し、同人誌『コタン』の読者も、それでわかったのではないでしょうか。

 「力の泉カレンダー」は「
1ヶ月31日分の標語と絵画を組み合わせた美しい新機軸のもの」で、昭和2年より発行。北斗がもらったのは一年目、ということになります。
 
 この「力の泉」は、希望社のバイブルとも言うべき『権威』の簡易版で、音読に用いられたようです。(湯本喜作『アイヌの歌人』にある「雑誌」は間違い)。

 あと、希望社関係では日記昭和3年12月28日

福岡県嘉穂郡二瀬伊岐順村三六四 八尋直一様より慰問袋「心の日記」とチョコレート。

 とありますが、この「慰問袋」は、希望社が大正11年にはじめた「慰問袋贈呈運動」と関係があるようです。この運動は、病人に慰問袋を作って贈る運動で、後藤静香が提唱・実行したものです。

 などなど。まだまだ新事実が出て来そうな予感です。


覚え書き「北斗の号について」  投稿者: 管理人  投稿日:10月16日(土)13時45分7秒

 何気なく、「ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡」をめくっていたら、こんな記述がありました。

 「第5章 アイヌの説話と生活」の「星の伝説」より

 4 北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。

 その子熊は、止めを刺された後に、その魂は、熊の祖先が住んでいる北極星に行くのだ、とされているのであります。このことは、熊祭りに参加している首長たちや、古老たちが、別れの挨拶に北極星の方向に向って空中に矢を放つ理由なのです。

 なるほど。北斗七星と同じ言葉で表される北極星は「先覚者」「守護者」の意味を持つんですね。

 いうまでもなく、中国においては「北斗」は死を司る星ですが、西洋では大熊座の一部です。
 北斗の父甚作は、余市における熊取り名人だといいます。北斗の家には昔ながらのヌサ(祭壇)があり、熊の頭蓋がイナホ(イナウ:木幣)とともに飾ってあったといいます。これは、北斗の家がイオマンテ(熊送り)を行っていた、ということでしょう。北斗は「熊の話」「熊と熊取の話」や、熊に関する短歌俳句など、熊に関する作品がけっこうあります。

 これだけでも、熊に対する思いがひとかたならないものだと思えてきます。

 いろいろと、符号することがあり、なんというか、くらくらするようです。

 「先覚者」「保護者」「大熊座」「死を司る星」。

 違星滝次郎はこれらのことを知っていて、「北斗」という号を名付けたのでしょうか。

 (ただ、バチラーの説は、この伝説がどの地方の伝説なのかを伝えていませんし、そもそもバチラーの説にはいろいろと信憑性に疑問符がつくところもあるようです)。


覚え書き「桃太郎の母」  投稿者: 管理人  投稿日:10月16日(土)18時00分32秒


 これは少し前なんですが、まったくの偶然手に取った本をパラパラめくっていたら、北斗に関連する記述を見つけました。

 石田英一郎「桃太郎の母」(講談社学術文庫)を呼んでいたら、「月と不死」という論文の注釈の中に、名取武光氏の「月の若水」という論文からの引用として、次のような記述を見つけました。

 
石狩の茨戸では右のなまけ者の子供が、水汲みの手桶と干魚の頭を縄でつないだものを、川にうるかし(干物を水でもとにもどす意)に出たといい、お月様の中の子供がはっきり見えるときは豊漁であるといっている(茨戸アイヌ能登酉雄氏談)。

 
 
この、能登酉雄氏は、西川光次郎への北斗の手紙(『自働道話』昭和3年2月号)で、

 十日頃からそろ/\出発します 
 二十日頃には
 石狩国浜増郡小札内村能登酉雄氏方へ参ります予定であります

 というのがあるのですが、ここに出てくる人物と同一人物ですね。

 たまたま手に取った本だったのに、妙な偶然もあるものだと思って、さらに読み進めると、こんどはこんな記述にぶつかりました。
 
 また後志の余市アイヌは、お月様を羨んだ水汲女が、手桶をさげてお月様の中にいる、犬がいるとは伝えられていないと語り(余市アイヌ違星氏談)

 とあるのを見つけて、もうビックリしました。

 違星氏は北斗の祖父より始まった姓ですから、北斗本人か、その近親者ということになります。

 こういうこともあるんだな、とずいぶん驚いたものでした。


とりあえず  投稿者: 管理人  投稿日:10月17日(日)18時44分14秒

 違星北斗大辞典(人名編)をアップしました。
 が、いろいろ難がありますので、これから直して行きたいと思います。


バッケ  投稿者: あらや  投稿日:10月17日(日)22時40分52秒

人名編のアップ、おめでとうございます。

BBS更新も着々と進みつつあり、本当にうれしいです。小樽に帰ったら(あと一週間!)私も知ってる限りの人たちにこのHPのことを伝えるつもりです。余市にも、もっと知り合いがいたらなぁ…

書誌的な裏付けがつかないので「レファレンスBBS」にまだ書けないのですが、「カミサマ」の時にアドバイスしてくれた余市水産博物館の学芸員さん(苫前町出身)が、子どもの頃、「ふきのとう」のことを「バッケ」と呼んでいたそうです。(なにか、事項編の時の参考にでもならないでしょうか…)

で、「アカンベ」なんですが、ふきのとうが咲く春先に赤い花がつく野草なんてあったかなぁ…と今考えているところなんですが、全然思いつきません。「カミサマ」の時もそうでしたが、あまり「アカ」→「赤」といった思いこみで入って行かない方がいいのかもしれませんね。


アカベ・アカンベ  投稿者: 管理人  投稿日:10月19日(火)23時00分26秒

 ありがとうございます。
 バッケ=ふきのとうですか。なるほど。

 「バッケ ふきのとう」でGOOGLE検索してみたら、けっこう出ましたね。

 東北でも「バッケ」というようですし、知里真志保の「地名アイヌ語小辞典」にはふきのとうは「korkoni」とあり、平取の萱野茂さんの著作「アイヌ歳時記」にも「コロコニ」とありますので、バッケはアイヌ語ではないのかもしれませんね。

 「アカンベ」は、「アカベ」との記述もあります。

赤いものの魁だとばっかりにアカベの花が真赤に咲いた

雪どけた土が出た出た花咲いたシリバの春だ山のアカベだ

(小樽新聞)


 「アカベ」なら「アカベ牡丹」、「アカベ」というサボテンがあるようですが、どうなんでしょうか。ちがうような気がします。

 あと、興味深いことに西村京太郎に「アカベ・伝説の島」という作品があって、その中に「アカベ」という花が出てくるのですが……

 「
弁護士の中原が新幹線のビュッフェから戻ってきたとき、隣席の男が突然苦しみだした。急遽、ひかりは熱海駅で臨時停車をしたが、間に合わず、男は「妹を助けてくれ」と一言残して事切れた。その男のポケットから出てきた花弁の落ちた真っ赤な花と湯山仁三郎という弁護士の名刺。花は恩根島のみに咲くアカベという植物だった。この花が咲くと島に不幸がもたらされるという。中原は死んだ男の一言を頼りに、かつては流人の島であった恩根島に秘書の高島京子と共に向かった。300年前の因習と伝説に支配された島に次々と起こる奇怪な殺人事件。」だそうです。

 西村京太郎は「殺人者はオーロラを見た」の中で、違星北斗をモデルにした「異星一郎」というキャラクターを登場させていて、その本の中には「違星北斗」に関する記述があったりもするので、もしかしたら、というのもあります。

 まあ、関係ないんでしょう。


覚え書き「坊ちゃんの時代」  投稿者:管理人  投稿日:10月23日(土)17時41分25秒

 あらやさんのBBSにも書いたことですが、関川夏央・作、谷口ジロー・画の

「坊ちゃんの時代」にはいろいろ教えてもらいました。

 もちろん、漫画なので基本的にはフィクションということになるのでしょうが、それまで曖昧だった金田一京助のイメージが私の中で具体化したのは3巻、若き日の金田一と啄木とのエピソードを読んでからです。

 あの中の借金王、どうしようもないダメ人間として描かれる啄木もインパクト大でしたが、どこまでもお人好しの金田一京助の人柄も、印象深いものでした。

 金田一京助は女性のように丁寧で上品なしゃべり方をする人だったそうです。北斗や知里幸恵、その他の人々との交流の記録を見て思うんですが、金田一京助という人はやさしすぎるほどのやさしい人だったのでしょうね。

 金田一のアイヌ研究については、弟子の知里真志保に批判されたりしていますが、やはり金田一の残した業績は偉大だと思います。金田一の研究あっての真志保だと思いますし。
 
 あと、このシリーズには、平民社時代の西川光次郎も出てきます。1ページほどですが。


更新  投稿者: 管理人  投稿日:10月25日(月)00時10分11秒

「参考文献」をアップしました。


覚え書き「おど」  投稿者: 管理人  投稿日:10月25日(月)11時07分58秒

 岩崎のおどは今年も熊とった金毛でしかも大きい熊だ(「小樽新聞」)

の「おど」って何だろうと思っていたのですが、やっぱり「親父」でいいんですね。


覚え書き「ケマフレ」  投稿者: 管理人  投稿日:10月25日(月)11時20分26秒

ケマフレは和名ケイマフリ。ケマフレは赤い足の意。

Teuri Is Seabird Sanctuari  http://www.teuri.jp/keimahuri.htm


独り言  投稿者: 管理人  投稿日:10月26日(火)18時54分58秒

 最近、テレビをみていたらある俳優さんが自分にはアイヌの血が入っている、母親がアイヌなんだ、とおっしゃっていました。その顔には、少しのためらいも、気後れもないように見受けられました。その俳優さんは若い頃には暴走族でいろいろと伝説を作った剛胆な方だそうなんですが、この人を見ていて、楽観的にすぎるかもしれないですが、もしかしたら、北斗が夢見たような世の中に、少しずつ近づいているのかもしれないなあ、と思いました。


独り言2「北斗とメディア」  投稿者: 管理人  投稿日:10月28日(木)16時36分13秒

 10年ぐらい前に、「サムライスピリッツ」という格闘ゲームにアイヌの少女「ナコルル」というキャラクターが登場しました。
 その時には「キャラクターの衣装が伝統的なアイヌ文化と違う」といったクレームがアイヌの団体からあったりしたらしいのですが、私は正直、そのクレームはちょっと違うなと思っていました。

 5年ほどまえ、少年ジャンプに「シャーマンキング」という漫画が連載され、そこに主人公の仲間として「ホロホロ」というアイヌの少年の魅力的なキャラクターが登場したときにも少し驚き、同時にうれしく思いました。これはTVアニメにもなりましたので、ご存じの方もあるかと思います。これに関してはクレームがあったという話は聞いていませんが、もしかしたらあったのかもしれません。

 どちらのキャラクターの登場も、私は歓迎すべきことだと考えました。
 子供たちがそれらのキャラクターをかっこいいとか、すてきだとか好きだ、などと思ったのだとしたら、やがて大人になった子供たちは、アイヌに対して「よい概念」を持つのではないでしょうか。
 それとも、私の考えは甘すぎるのでしょうか。

 最初はニセモノだ、こんなの「島唄」じゃないと言われたTHE BOOMの「島唄」は、若い人たちのあいだに沖縄音楽のブームを起こし、逆に沖縄音楽を学ぶ人を爆発的に増やしました。今では三線の教本にも載っていると聞きます。

 また、草なぎ剛の演じたチョナンカンが先駆けだと思うのですが、間にワールドカップをはさんんで昨今のヨンさまブーム韓流ブームなどをへて、日本人の韓国文化に対する見方が、だいぶ変わったように思います。

 おめでたい私はマスコミの力、キャラクターの影響力ってすごいなあ、と素直に感動してしまいました。もちろん、そういう風に世論があっというまに変わってしまうというのは恐ろしいことだとも思うのですが、ただ、そういう劇的な変わり方もある。
 
 違星北斗という人は、80年も前から、こういうことを考えていたんじゃないか、と思うんですね。メディアを利用した意識改革ということを、ある程度は違星北斗も意識的にやろうとしていたことなのではないか、と思います。彼は新聞や雑誌などに「短歌」を発信し続けました。もしかしたら、当時の最新メディアである「ラヂオ」も意識していたのかもしれません。
 では、この「メディア」を利用するという戦略は、いつ北斗に芽生えたのか。それはやはり、東京時代に西川光次郎の「自働道話社」や後藤静香の「希望社」に関わったことも大きいでしょうが、その原点は幼少期に違星北斗を深く傷つけた『北海タイムス』に掲載された2首の短歌ではないか、と思うのです。

   
いさゝかの酒のことよりアイヌ等が/喧嘩してあり萩の夜辻に

   わずか得し金もて酒を買ってのむ/刹那々々に活きるアイヌ等

 この和人による2首の短歌を見て憤慨した北斗は、その屈辱を忘れないためにこれを残しておいたのでしょう。「あの時のタイムスの歌が、私を歌で復讐しやうと奮起さしたそしてすべての動機をはぐくんだ」と十数年後に北斗が言うように、彼はかつて自分を傷つけた「新聞」というメディアの力を、逆に同胞を勇気づけるために使ったのでした。
 実際に北斗の小樽新聞や雑誌での活動は森竹竹市のような後続者を生み、多くの同胞たちに読まれ、影響をあたえました。


独り言3「ラヂオと北斗」  投稿者: 管理人  投稿日:10月26日(火)21時53分10秒

昭和3年9月3日の日記

山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。

 これはもしかしたら、北斗のことが、この放送で紹介された、と見るべきなんでしょうか。
 いままで、「もし、そういう日が来たら」という仮定だと思ってたんですが、そういうふうにも読めるんですね。
 語る内容「シシリムカの昔」は、沙流川の昔のことですから、平取にいた北斗であれば、紹介することはできるわけです。

※「山野鴉八」はただしくは「山野鴉人」。昭和3年9月7日に仙台放送局(ラジオ)で午後7時10分より「趣味講座・短歌行脚漫談」が実際に放送されている。北斗が紹介されたかどうかは不明。(05/10/16)


そろそろ  投稿者: 管理人  投稿日:10月27日(水)18時38分34秒

大辞典「事物編」に着手するつもりです。


覚え書き「吉田ハナ」  投稿者: 管理人  投稿日:10月28日(木)16時30分4秒

 早川昇著「アイヌの民俗」に、沙流郡平取町荷菜の清川戌七翁(聖公会伝道師、昭和33年8月10日没)の談話「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」が掲載されています。
 その中で、筆者、早川氏は「昭和二十七年の夏も末の頃」、「まるで自分の叔母のように思わせて頂いている老刀自、吉田花氏のお宅で、四方山話」をし、そこで一夜を明かしたとあります。
 これは平取時代北斗とともにあった、吉田ハナ氏のことだと思われます。筆者早川氏はこの吉田花氏に紹介され、バチラーの助手をしていた清川翁を紹介されたのです。
 吉田花氏については、清川翁が語るところによれば、「わしたちの古い古い同信。心友とも盟友とも申し上げたくなるお方」で「そのころの事は、私たち以外では、吉田様が生き辞書でしょう。明治三十一年に平取聖公会教会が現位置に移転・完成されますと、このお方が平取キリスト教婦人会長として選ばれ」たといい、普段札幌にいたジョン・バチラーが平取に来ると、歓喜で顔つきが変わったという。平取教会に牧師のいなかった時代、吉田花は「食器持参で、教会の夜をお守り下さった」。
 また、「吉田様へのも一つ大きな感謝は、ニシパ(管理人注:旦那の意、バチラーのこと)が後藤静香氏のご援助で、平取にお設けでした『平取幼稚園』(『バチラー幼稚園』)」について、「ともかくも大正十九年(管理人注:九年か十年の誤りか)九月から昭和三年ごろまでは続けれはしたものの」諸事情により「解散を余儀なくしたのを、吉田様は大変遺憾」に思い、バチラーの死後、昭和十九年に金策を講じて、昭和二十四年に『バチラー保育園』の開設に尽力したということです。

 私は吉田ハナは、北斗と同い年ぐらいなのかなあと、根拠もなく思いこんでいたのですが、どうやらかなり年上のようです。18歳年上のバチラー八重子よりもさらに年上みたいですね。清川翁は、この八重子と吉田花の仲を「この花さんとお八重さんとぐらい仲良しの人って、先ずあるものではありませんよ」といっています。
 
 北斗の吉田宛ハガキなどを見て、ひょっとして、堅物(?)の北斗にもロマンスが? などと想像したのですが、この年齢差ではありえませんね。
 なにせ平取キリスト教婦人会長に就任したのが明治三十一年。北斗は生まれていません。
 母を早くに亡くした北斗にとっては「平取の母」のような人だったのかもしれません。

※吉田ハナの年齢については、北斗と同世代というような記録もあり、今のところ、はっきりしない。(05/10/16)


覚え書き「北斗と宗教」  投稿者: 管理人  投稿日:10月28日(木)12時25分20秒

 北斗の人脈を彩る人々の、多くがクリスチャンなのですが、北斗はクリスチャンではありません。

 ジョン・バチラー、バチラー八重子・向井山雄、平取教会の吉田ハナ、岡村国夫神父。多大な影響を受けた知里幸恵。自働道話の西川光次郎もクリスチャンですし、希望社の後藤静香もです。

 幼なじみ中里凸天、同志・辺泥和郎もそうです。

 初期のアイヌ運動を牽引したのが、キリスト教の教えを受けたアイヌが多く、それらのアイヌは、教会の援助によって高い水準の教育が受けられたことが原因だと考えられます。

 もうひとつの先覚的なアイヌの流れに「修養団体」の影響を受けた人々があって、北斗の場合はこれにあたるのでしょうが、西川にしても後藤にしてもクリスチャンではありますので、やはりキリスト教の影響は大きいのだと思います。

 北斗はなぜ、キリスト教徒たちにこれだけ近づきながら、彼らの影響を受けてクリスチャンにならなかったのか。

 平取教会では、

 
ヤヱ・バチラー氏のアイヌ語交りの伝道ぶり、その講話の様子は神の様に尊かった。信仰の違ふ私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた。

 とあり、「信仰の違ふ」北斗は、「平素の主義」に反して祈ります。

 この「信仰」とは何か。「主義」とは何か。

 違星家には「イナホ」(イナウ)や熊の頭骨を飾る御幣棚があったりするので、アイヌの「信仰」かとも思うかもしれませんが、北斗はそれらを昔の名残り、遺物だと言っています。そういう信仰を心の中に秘めつつも、現実に和人の多い地域で暮らす、違星家をはじめとする当時のアイヌの人々は、ふつうに「仏教徒」であることや、「神社の氏子」であることも、コミュニティの一員として受け入れていたのでしょう。

 ですので、私は、ここでいう北斗の「信仰」は、ふつうに「仏教」ではないか、と思うのです。

 北斗は「お寺」の除夜の鐘をついたりしていますし、「トモヨ」なる人物(妹?親戚?)の法要について「今日はトモヨの一七日だ」と言っています。これは「ひとなぬか」=「初七日」で、仏教の言葉です。また白老で友人の豊年健治の墓に参ったときも線香を手向けています。ついでにいえば、祖父万次郎が東京留学で学んだのは芝増上寺です。

 しかし、北斗はなぜクリスチャンにあれほどまでに接近し、影響をうけながらも、キリスト教自体にはあくまでも距離をとり続けたのかがわかりません。

 キリスト教に影響をうけることを阻む何かがあったのか。あるいは、北斗を改宗させるだけの何かが、キリスト教になかったのか。もしくはそんなことに気をもんでいる暇がなかっただけかもしれません。

 結局北斗は最後まで、キリスト教に心を許すことができませんでした。 

 いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
 キリストの如安きに居らむ

 どうしたら、死を臨んで「私は世に勝った」と叫んだキリストのように、心安らかでいられるのでしょう。

 この辞世の一句が、それを如実に表しているのだと思います。


覚え書き「追分の人」  投稿者: 管理人  投稿日:10月28日(木)12時17分14秒

西川光次郎宛書簡(自動道話昭和3年4月号掲載)に

こゝは白老村です。三年ぶりで来てみれば親しい友は逝れてゐるし友人一人はまた追分駅に出てゐて不在だし全く淋しい。

 
とあります。この「親しい友」は、「豊年健治」であることは間違いないですが、次の「友人一人は追分駅に出てゐて」、これは当時国鉄追分駅勤務だった、森竹竹市のことでしょう。

 ということは、この時点で北斗は竹市と友人であるわけで、それ以前に出会っていたということになりますね。


覚え書き「アイヌの運動団体」  投稿者: 管理人  投稿日:10月28日(木)12時37分17秒

 大正から昭和にかけての、アイヌの運動団体のことをもっと調べたいと思います。

 バチラーの「アイヌ伝道団」、辺泥和郎と「チン青年団」、吉田菊太郎と十勝の「旭明社」、水平社運動に影響を受けた近文の「解平社」など。


ちょっと  投稿者: 管理人  投稿日:11月 1日(月)02時21分44秒

 いろいろあって北斗の更新作業ができません。

 しかし、まあ気長にやります。

 後藤静香の思想を調べるためにそのバイブルともいうべき現行の「権威」(善本社から出ているのですね)と、六〇年代に「心の家」(おそらく、解散した希望社の有志が再建した団体だと思います)から出ていた「権威」を購入。

 私は後藤静香の言葉は、一部戦前の国家主義的な色合いが強いものや、考え方が現代ではそぐわなくなったようなものもありますが、その多くは充分今でも通用するものだと思いますね。

 キリスト者らしく大上段から愛とか、真実だとか、使命だとかを語ってしまうので、苦手な人は苦手かもしれませんが、そんなに説教臭いわけでもありませんし、ちょっと砕けた美文調でスッと入ってくる。

 欺瞞だらけの世界の中で、それでも正しく生きたいと悩む若者たち。その漠然とした思い、疑問なんかに後藤の言葉は気持ちいいほど、ズバッと答えを出してくれる。

 真面目な北斗が心酔するのはよくわかります。全国の若い教員や真面目な青少年のハートをぐっとわしづかみにしたんですね。

 元祖十代のカリスマ。尾崎豊とはちょっとちがうけど。


覚え書き「おど」  投稿者: 管理人  投稿日:11月 2日(火)10時02分28秒

 武田泰淳の「森と湖のまつり」には、

 「おど」とは、山村漁村を流れ歩いて、不定の仕事を拾って行く、素姓も知れぬ稼ぎ人のことである。

 とありますね。
 
東北の方の方言では「父親」という意味だったので、同じかと思ったのですが。


またちょっと  投稿者: 管理人  投稿日:11月 9日(火)10時09分19秒

いろいろあって北斗から遠ざかっております。

灰色の空に隠れた北斗星 北は何れと人は迷はん

お手紙を出さねばならぬと気にしつゝ豆の畑で草取してゐる。


ふて寝  投稿者: 管理人  投稿日:11月11日(木)10時47分41秒

 前の書き込みの「豆の畑で草取してゐる」という歌にもありましたが、

 北斗の歌には、宿望に向かっていくらでもやりたいことがある、なのにやりたくても時間も金もない、こんなところでこんな事をしている、情けない、というような焦りの歌がありますね。

 その気持ち、なんだかよくわかる今日この頃。
 
 更新をせねばならぬと気にしつつ社長に怒られ不貞寝してゐる
 
 いかん。

 仕事仕事。


リンク追加  投稿者: 管理人  投稿日:11月12日(金)22時48分8秒

 リンクページに「烏書房 うぇぶ烏通信」を追加しました。

 からす様、リンクしていただいてありがとうございました。


甲府の夜  投稿者: 管理人  投稿日:11月17日(水)18時14分49秒

 大学の先輩で詩人のH氏宅でほうとう鍋を食べてきました。

 そこで、言われた言葉。書け書け書け。

 参加者全員で、星を見上げてきました。

 こういう、素直に真面目に美しいものを見たり、語ったりする事は、芸大生だった大学時代以降、久しくありませんでしたし、とかくノリやツッコミ、気の利いた発言を強要される大阪と違って、この甲府の夜はなんだか新鮮でした。

 なんだ、これでもいいんだ、と思いました。

 これからは、どんなに忙しくても、決して書くことから逃げないようにしたいと思います。


それは嬉しい  投稿者: 真弓  投稿日:11月19日(金)23時56分41秒

山本さんんが創作に復帰されるなら、嬉しい限りです。

詩のセンスがない私にとっても、純粋に興奮できた数少ない詩作者ですから。

あの詩集、今も持っていますよ。

http://www.h2.dion.ne.jp/~m0620


まあ!  投稿者: 管理人  投稿日:11月20日(土)18時26分12秒

 これは真弓さんんではないですか。

 こんな辺鄙なところに来てくれてありがとうございます。

 今後は詩を書くか何を書くかどうかはわかりませんが、研究の方もおろそかにしないようにせねばと思っています。

 詩集ですか。ありましたね。よく覚えてらっしゃいましたねぇ。私は自分が詩人であったこと、詩集を作ったことも最近は忘れていました。

 こんなことではいけませんね。


リンク追加  投稿者: 管理人  投稿日:11月20日(土)18時22分17秒


 椅師のrymさんと、詩人ほたさんのスタイリッシュなサイト「edicrafts」へのリンクを追加しました。


河内天美アドベンチャー  投稿者: 若松亨尚  投稿日:11月21日(日)16時39分25秒

どうもおひさしぶりです。メールいただいたので覗きにきました。甲府へ旅行してたんですね。

ところで、リンクのページを見てみたら、「エルシネ」という単語に「社」が付いていたので驚愕しました。いろいろと活動しているようですね。

ブログの方も見せてもらいます


もし  投稿者: 管理人  投稿日:11月22日(月)11時43分50秒

 違星北斗のファンであって、ここを覗いてくださる人があったとして、最近の私の行動を見ている人があったら、こう叱られるかもしれません。

「違星北斗研究はどうなったんだ」「違星北斗を裏切った」などと。
(そんな人はいないでしょうが)。

 でも、私の中には北斗の事を忘れた事がないから、北斗に対する後ろめたさはないんです。
 こうして北斗研究をまがりなりにも発表の場を得て、幾人かの人にはお褒めや励ましを頂いて、すごく力づけられました。

 また、北斗のことをすごく身近に感じるようになりました。北斗によって、力をもらった感じです。
 
 こうやって、一時は断念しかけた「文を書く」という道を再び見直してみようと思ったのは、やはり違星北斗のおかげであり、感謝こそすれ、北斗に対する裏切りでもなんでもないような気が、自分ではしています。

 依然として違星北斗は私のあこがれであり、師であり、またライバルでもあります。

 創作と研究、この二つの車輪をどちらもちょっとづつ動かして、がんばって行きたいと思います。北斗のコンテンツも、更新していきます。

 >わかまつ様

 お久しぶりです。エルシネ社の頁にも遊びに来てくださいね。

 あと、わかまつ様の破壊力満点の原稿を、アーカイブの方に載せたいのですが、よいでしょうか。新作も待っています。

 メールでもいいので、お返事ください。


お久しぶりです。  投稿者: ほっしー  投稿日:11月22日(月)13時05分4秒

山本さん、お久しぶりです。

先日メールを頂いたので覗きにきました。

いやぁ…勉強不足なもので、正直このような人がいたことすら知りませんでした。

まだちゃんと拝見しておりませんので、これからゆっくり見させて頂きます。

私事ですが、先日結婚しまして、確実に東京から離れることはなくなりました(恐らくですが…)。

また大阪に行くことがあれば、山本さんを含め、懐かしい方々との再会を望んでおります。

では、またメールさせて頂きます。


新婚星  投稿者: 管理人  投稿日:11月24日(水)23時48分34秒

>ほっしー様

 ご結婚おめでとうございます!
 また詳しいお話甘い話からい話をお聞かせください!
 私も東京に行ったときにはぜひお会いして、いろいろとお話したいです。

 いやあ、もしかして大学時代の、あのへんの連中の中では、一番でしょうか?

 ほっしーさん、末永くお幸せに!


覚書:北斗と手紙  投稿者: 管理人  投稿日:11月24日(水)23時51分46秒

現代人である私たちの感覚とはだいぶちがうと思うのですが、それでも北斗はかなり筆まめだったと思います。

 西川光次郎への手紙を見て分かるとおり、一月か二月に一度は、手紙を書いて送っています。特に「筆まめ」ぶりは、東京時代の後、帰道後において顕著かもしれません。西川光次郎や後藤静香などの思想上の「師」にあたるような人たちには、挨拶を欠かさず、近況の報告を事細かに送っていたようですし、金田一京介にも便りを送っていたように見受けられます。

 そして、それとは別に、新聞や雑誌への短歌や文章の投稿も行なっていますから、けっこうな通信費だったのかもしれません。

 それだけに、生活が苦しくなり、手紙が満足に遅れなくなると、北斗は苦悩します。

 葉書きさへ買ふ金なくて本意ならず ご無沙汰をする俺の貧しさ(『北斗帖』)

 また、病床にあっても北斗は手紙を欠かしません。死の間際にも、俳句の師である古田健二に代筆を頼んでいます。

 それだけに、末期(死の一週間前)に詠んだこの一首は深く心に迫ります。

 何か知ら嬉しいたより来る様だ/我が家めざして配達が来る

 結核に冒され、衰弱した北斗の耳に、遠くから聞こえてくる郵便配達夫の足音。

 それは、なににもかえがたい「福音」(ちょっとちがうけれど)だったのかもしれません。

 *本サイト「キーワード歌集『手紙』」を参照。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegami_key.html


はじめまして  投稿者: poronup  投稿日:11月25日(木)02時06分6秒

北海道の日高在住の和人です。

アイヌ文化やアイヌ語、アイヌ史(特に近現代史)に関心を持って勉強を続けています。

先ほど偶然このサイトを見つけました。

私も違星北斗を愛する一人です。

独自ドメインまで作って、こんなに丹念に、驚くべき情熱を持って違星北斗のことを研究している方がいらっしゃるとは思いませんでした。すばらしいの一言です。

これからじっくり読ませていただきます。


ありがとうございます!  投稿者: 管理人  投稿日:11月25日(木)10時20分49秒

 poronup様、ありがとうございます!

 感激しています。違星北斗を愛する方が、このサイトに来ていただけるなんて。

 

 当然ながら、私もアイヌ史、近現代史に興味を持っていますが、まったく詳しくありません。ただ、私はアイヌ史の中で違星北斗は結構重要な働きをしたと信じていますので、北斗という一人の人間を見ていくことによって、だんだんとその時代やその時代のアイヌの人々の考え方が見えてくるのではないかと思っています。

 私は短歌、文学の方向からまず知里幸恵や金田一京助、そして違星北斗とたどってきたものですから、「運動史」的なことにはあかるくありません。(だから、運動家の方とかには、失望をあたえてしまうかもしれません)。徐々に勉強しているところです。

 poronup様、これからも違星北斗.comをよろしくお願いします。

 徐々にではありますが、更新を続けていくつもりにしています。


こんにちは  投稿者: poronup  投稿日:11月26日(金)07時03分43秒

このサイトはもっと宣伝した方がいいと思います。ヤフーにも登録したらいいと思いますが。

(ページ検索では引っかかりますが。)

今のところは山本さんの友人知人の方が多いのでしょうか。

違星北斗はまま知名度ありますし、アイヌ・和人ともにいいなと思っている人は結構いると思います。

でもどういう人なのかよく知らない人も多いと思います。

こんなすばらしいサイトはほかの方に教えたらいいと思います。

私の友人知人に教えたりほかの掲示板でこういうのがありますよ、と宣伝してもいいですか?


こんにちはporonup様。  投稿者: 管理人  投稿日:11月26日(金)10時26分49秒

 ありがとうございます。いまのところ、知人がほとんどです(照笑)。

 ヤフーには自薦してみたのですが、駄目だったみたいです。

 ただ、工事中の多い時だったので、まずかったのかとも思いますので、もう一度登録してみようと思います。

 そうですよね。違星北斗はかっこいいです。その弱さを含めて。

 私の場合は、特にアイヌだから、和人だからということじゃなくて、一人の歌人としてかっこいいなあと思ったんですね。生き様というか、志が。ドラマチックな人です。もっと知られてよい人だと思います。

 基本的には、歌人の「ファンサイト」「研究サイト」という意気込みでやっています。
 
 このサイトに関しては、内容的に今のままではちょっとツメが甘いなあ、という実感がありまして、また「違星北斗大辞典」の「事物篇」をアップしていないので、それが出来たら一応当初の設計図のコンテンツはそろうのですが。

 それにしても、もったいない言葉、ありがとうございます。励みになります。

 宣伝していただくと有り難いです。ちょっと恥ずかしい気もしますが。


こんにちは  投稿者: poronup  投稿日:11月27日(土)14時03分4秒

掲示板の投稿を読んでの感想や気づいたことを書きます。

石田英一郎の本にアイヌの伝説のことが出てくるとは知りませんでした。

こうやって知らないことを教えていただくのはありがたいことです。

水汲みを嫌がった少女(または少年)が罰があたって月に閉じこめられたという伝説は北海道各地に残っていて余市の別の人から聞き取った話が『北海道の文化』という北海道文化協会の機関紙に掲載されたことがあります。

(詳細が必要でしたら言ってください。)

その「余市アイヌ違星氏」が誰なのかは興味あります。『桃太郎の母』は初版が1956年ですから、その本のための調査はいつ頃行われたか調べる必要がありますね。私は、北斗じゃなくて別の方である可能性が高いような気がします。彼の兄の梅太郎はアイヌ文化についての知識をもっていたそうで河野広道の調査に協力していたので可能性あるのではないでしょうか。

能登酉雄は、両親が東京の増上寺のアイヌ教育所にいた人で、彼も両親が東京にいる時に生まれた人です。

違星北斗の祖父もその学校にいたのでそういうつながりで付き合いがあったのでしょう。

彼についての詳しい聞き取りを高倉新一郎が発表してます。違星北斗についての言及もあったかもしれませんが今手元にないので確認できません。

私も以前から余市に行ってみたいと思っているのですがまだ一度も果たせていません。

私にとっても憧れの地です。


月の若水  投稿者: 管理人  投稿日:11月27日(土)19時26分10秒

 poronup様、たいへん貴重な情報をありがとうございます。

 能登酉雄氏については、この石田英一郎の「月と不死」(『桃太郎の母』所収)の解説に出てくる記述と、『コタン』所収の西川光次郎宛書簡の二点しか確認していなかったので、大変勉強になりました。祖父万次郎の東京時代の「同窓」なんですね。ありがとうございました。

 石田の「月と不死」の解説をよく読んでみました。要点をまとめてみますと、

(1)ジョン・バチラーの「アイヌとその習俗」には、「月のなかの人」という項があり、そこには水汲みを嫌がった若者が、月に上げられた話。

(2)金田一京助収集の『ユーカラ』の「サンタトリパイナ」にも同様の記述。

(3)名取武光の「月の若水」(『北の会報』第一号、昭和18年1月)に以下のような記述がある。

 まず、日高ペナコリ村のアイヌ山下媼の談(月中童子説話)を引き、その他に二つの同種の伝承(茨戸アイヌの能登酉雄氏の談と石狩アイヌ内浦媼の談)を載せている。

 さらに次に余市の違星氏と、オタスのオロッコ族五郎(山本注:北川五郎氏でしょうか?)氏の同種の説話を載せている。

 つまり、この石田英一郎「月と不死」の能登氏と違星氏の談話というのは、名取武光の「月の若水」(ややこしいですが)からの引用なのです。この、名取武光氏の「月の若水」の載った『北の会報』が、昭和18年発行ですので、「違星氏」の話は、それより前に採集されたものだと思います。

 北斗の没年昭和4年に名取武光が研究を始めていたかどうかは微妙ですね。(名取については調べてみるつもりです)、やはり北斗の兄梅太郎という線が濃厚だと思います。

 あと、梅太郎が、河野広道の調査に協力していたのですか。それに、高倉新一郎にそんな記述があるのですね。河野にしても高倉にしても、真志保の周辺の人として、一応名前は知っているのですが、本格的に調べたことがありませんので、まったく、知識がありません。能登酉雄氏にしても、最近気づいたぐらいです。

 もしかしたら、そのあたりの本を読めば答えが出ることがたくさんあるかもしれませんね。

 もっと勉強したいと思います。  


違星梅太郎  投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時21分17秒

『河野広道ノート 民族誌編1 イオマンテ・イナウ篇』(北海道企画センター)に、違星家のシロシ(パスイなどに彫る印)についての聞き取りの記録が載っていますのでご覧ください。


それから  投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時35分13秒

名取武光の論文のことは知りませんでした。

今度その論文を探してみます。

能登酉雄は両親が東京留学中に生まれた子供ですから、むしろその両親が同窓的な存在だと思います。世代的には北斗のおじさんぐらいの歳なのではないでしょうか。

ちょうど先ほどネットで検索したら次のサイトが引っかかりました。

http://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi1-35.html

それから東京留学時代の写真が北大のウェブサイトで見れるようになっています。

(いろいろな本に掲載されているのでご覧になったかもしれません。)

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025630000000.html

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025620000000.html

この中に違星万次郎や能登酉雄の両親が写っている可能性が高いのですが、今のところ誰が誰なのか分からないのです。


ありがとうございます。  投稿者: 管理人  投稿日:11月28日(日)11時33分30秒

 なるほど。

 能登酉雄はかなり年上なんですか。北斗の祖父と父の間ぐらいでしょうか。

 (今見たら、「東京留学」の際には、祖父万次郎は30すぎでしょうか。

 けっこういい年です。結婚して、すでに父甚作が生まれて10歳になっているんですね)

 能登酉雄が10代後半から20代ぐらいだとすれば、まさに「おじさん」という年代ですね。

 早速、河野広道の本を探してみます。

 いろいろサイトを教えていただき、ありがとうございます。

 札幌北区のページ、私もじつは、同じ頃だと思うのですが、私も検索で見つけたばかりだったんです。能登さんは茨戸アイヌの生き字引のような人だったのでしょうね。

 

 写真は、この中に万次郎がいると思って見たことがありませんでした。北斗の面影を探そうとしてみたのですが、難しいですね。


アイヌ留学生写真  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)03時56分44秒

このうち、真ん中にいるアットゥシを着た男性が札幌アイヌの琴似又市です。

この写真は、確か皇居で皇太后にアイヌの舞踊を披露した時に帰りに撮った写真だったと思います。

今思い出しましたが、この写真の裏に、誰が誰なのか書いてあるという話をとある方に聞いたような木がします。北大図書館で現物を見れば人物が特定できるかもしれません。


もう一つ参考までに  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)04時15分7秒

同じ北大に、余市で1917年に撮られたアイヌの集合写真があってウェブでも見られるようになっています。

この中に違星北斗本人もしくは係累の方が写っているかもしれませんが、一人一人があまり大きく写ってないので特定が難しいです。実物を見ればもう少し詳しく分かるかもしれません。

この写真に写っている人々が誰と誰なのか地元の郷土史研究家の方が古老に聞いて確認しているらしいですが詳しいことは分かりません。

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B030040000000.html


つらだましひ  投稿者: 管理人  投稿日:11月29日(月)16時10分28秒

 poronup様。ご教示ありがとうございます。

 なかなか、集合写真では、親しい人でないと、個人の認識は難しいでしょうね。宿題が出来ました。

 写真といえば、違星北斗の肖像は草風館版『コタン』に掲載されている写真のみだと長らく思っていましたが、そういえば『アイヌの歌人』に掲載されている写真は微妙に表情が違います。気のせいかもしれませんが、すこし柔らかい気がします。別の写真なのかもしれません。今手元にありませんが、今度詳しく調べてみようと思います。

  獰猛な 面魂を よそにして/弱い淋しい アイヌの心

 どちらも、険しい顔つきの中にも目の優しさ(と強さ)が印象的な写真です。


余市の写真  投稿者: 管理人  投稿日:11月30日(火)11時23分14秒

 余市の写真は、写っているとしたら、北斗は15歳ですね。

 北斗の同年輩だと思われる中里篤治(凸天)や、その親類と思われる中里徳太郎(余市アイヌ一番の先覚者ということですが、篤治の祖父か叔父のような人でしょうか?)も写っている可能性は高いでしょうね。

 中里徳太郎に関しては、アイヌの紳士録のような書物に載っているのかもしれません。(「北海道史人名字彙」には載っていませんでした)。そういう本を探したことがあるのですが、結局見つからずに今日にいたっています。

 写真の人は和装、アイヌプリ(使い方合ってますか?)、洋装の人がいますが、和人も何人か混じっているようなですね。

 拡大するとだいぶ荒くなりますが、なかなか興味深いです。

 なかなか北海道まではいけませんので、こういう写真が載っている本かなにかがあれば、いいなあと思います。


違星北斗の写真  投稿者: poronup  投稿日:12月 2日(木)00時07分27秒

三省堂の『金田一京助随筆選集2 思い出の人々』に収録されている「あいぬの話」の中で違星北斗と中里篤治が一緒に写っている写真が紹介されています。この随筆は『金田一京助全集』に収録されていますが写真は省略されています。この写真は初出時に掲載されたものなのか、随筆集に初めて掲載されたものなのかは分かりません。

この随筆の初出は分かりませんが、金田一全集を見れば分かると思います。手元にありませんので図書館で調べてみます。

中里篤治は中里徳太郎の息子です。中里徳太郎については上に挙げた随筆で紹介されています。

余市のアイヌ民族史・アイヌ文化については地元で何人かの方が調査しているそうですが少数の報告文が発表されているだけです。

「アイヌプリ」という言葉は通常儀式などにおける「アイヌのやり方」を指すことが多いので、アイヌの民族衣装について「アイヌプリ」と表現することはあまりないような気がします。


篤治の写真!  投稿者: 管理人  投稿日:12月 2日(木)12時43分45秒

 ご教示ありがとうございます。

 なんと、中里篤治の写真があるのですか! 早速週末に図書館に行ってしらべてみたいと思います。

 それに、中里篤治が中里徳太郎の息子である、ということまで!

 ああ、感謝します。

 ほんとうにありがとうございます。

 助けていただいてばかりなので、私もちゃっと研究しなければ、と襟を糺す思いです。

 

 本当に知らないことだらけです。

 

 さきほど、大阪市立図書館の蔵書検索をしてみたら、「予約中」とありました。残念。

 大阪「府立」図書館のほうにはありましたので、そちらに行ってみたいと思います。

 ああ、早く週末になって、その本を読みに行きたいと思います。


藤井貞和  投稿者: 管理人  投稿日:12月 4日(土)00時49分39秒

 詩人の藤井貞和が、違星北斗について論じているそうです。

 『自由詩学』(思潮社)

 早速あたってみようと思います。

 Amazon:

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4783716102/qid=1102088931/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8668345-3537859


別冊太陽  投稿者: 管理人  投稿日:12月 4日(土)02時22分55秒

それから、別冊太陽スペシャル(2004年11月)「先住民 アイヌ民族」の冒頭に、違星北斗の「アイヌの姿」が引用されているそうです。これも要チェック。


覚書:バチラー八重子  投稿者: 管理人  投稿日:12月 4日(土)01時21分34秒

 父・向井富蔵(アイヌ名モロッチャロ)、母・フチッセの次女。幼名フチ。きょうだいは、上からチミ、フチ(八重子)、トヨ、山雄、富次郎、チヨの6人。

 それと北海道大学付属図書館の資料。

 バチラー夫妻と、八重子・山雄姉弟の写真。

http://www.lib.hokudai.ac.jp/hokkaido/mukashi/3620.HTM


金田一京助『思い出の人々』  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)00時14分50秒

 poronupさんに教えていただいた、金田一京助随筆選集を入手。

 色々と新発見がありました。以下、金田一京助随筆選集2『思い出の人々』より。

(1)中里徳太郎

 「年少のころから、村の老酋長を助けて、その知恵袋とも、懐刀ともなって余市のアイヌ部落をして今日あらしめた有力者であります。

 余市のアイヌ部落のために、土地払い下げを願い出たり、余市部落の互助組合を組織したり、そのためには役場へお百度をふんで、町役場ではだめと見切りをつけて、札幌に出て道庁に願い出てみたり、そのためには幾年の努力、身銭をきって奔走し(中略)千辛万苦、ついにみな目的を達して、巨万にのぼる、村の共同財産というものができ、今でも部落の人の仕事をする時に資金の融通ができたり、和人の町屋と軒をならべていて、少しの遜色もないほどに、余市部落の生活を向上させた功労者(後略)」

 とあります。

 また「中里徳太郎君の先代は、徳蔵といって、これがまた余市のアイヌの傑物」で、アイヌと和人の両方から信望を得ていたのですが、酒の席で寄った和人と喧嘩になり、鳶口を持った数十人によってめったうちにされます。

 瀕死の徳蔵は、九つの徳太郎に遺言を残します。

「『(前略)徳太郎、お前、早く大きくなって、父さんのあだを討て! (中略)が、勘違いをしてはいけない。刃物三昧のあだ討ちならたやすいが、父さんのいうあだ討ちはそれじゃないんだぞ。いいか。理不尽に、父ちゃんたちが、こんな目に合わされるのはなあ、父ちゃんたちが読み書きがないところから、無学文盲なところから、ばかにされてこうなんだ。くやしい。お前はなあ、明日からでも、すぐ学校へいって、うんと読み書きを習うんだ。そしてなあ、早く和人並みになって和人を見返してやれ、それが父さんのあだ討ちだぞ、わすれるなよ』」

 徳太郎は、役場にしつこく頼み込んで、当時まだ、アイヌの子どもは入れなかった学校に入れてもらい、勉強を始めます。最初は同級生からののしられ、侮辱されたが、そのうちに成績も首席になり、和人からも親しまれ、尊敬されるようになります。

 彼は余市の名誉職をつとめるようになり、余市の青年たちの崇拝の的となり、青年団長として青年たちを教え導く存在となります。

           ※

 北斗が「東京アイヌ学会」で語り、伊波普猷に勧めれれて「沖縄教育」に載せたという「アイヌの先覚者中里徳太郎を偲びて」は、おそらくこの金田一の中里徳太郎に関する記述とそう変わらないかもしれません。


金田一京助『思い出の人々』続き  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)00時50分27秒

金田一京助随筆選集2『思い出の人々』より。要約。

(2)違星竹次郎

(西川光次郎の手紙と同様に、これも「滝次郎」ではなく、「竹次郎」になっています。もしかしたら、当時の北斗は「竹次郎」という名前を普通に使っていたのかもしれません。兄の名前が梅太郎ということもあり、もっと調べてみる必要があるのかもしれません)。

北斗の部分は、全文引用します。

「さていま一つの余市の方はというと、中里徳太郎君の息のかゝった余市の青年に違星竹次郎君がありました。中里徳太郎君の感化をうけて、力強くアイヌに目ざめ、勤労のかたわら、みずから雑誌を作って同村内の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語(モットー)として、よき日本人にという題字を掲げてまっすぐに同化の一路を進む方針であったものでした。しかし違星竹次郎青年のそうなるまでには、それはなか/\、たいへんな苦悩を体験した結果でありました。

 生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育ったのだそうです。八つで小学校にあがって、他の子供から「やいアイヌ、アイヌのくせになんだい」といわれて、泣いて家へ帰って、両親へわけをたずねて、はじめて自分たちがそういうものだということを知ったそうです。それまで、何の曇りもなく無邪気に育ったものが、こゝに至って急に穴の中へさかさに突き落とされたよう、「どうしてアイヌなんどに生まれたんだろう」と、魂を削られるように悩みつゞけて成長しました。」

(続きます)

         ※

 この、北斗は8つまで、自分がアイヌであることを知らなかったというのは、初めて聞きました。


金田一京助『思い出の人々』続続  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)00時57分36秒

続きです。

「自分が通るのをみると路傍の子供などまで、「アイヌ、アイヌ」というものですから生意気ざかりの年ごろには、「アイヌがどうした」と立ちもどって、なぐりとばして通ったこともあったそうです。子供が意外な顔をして、打たれてびっくりして泣いた様子が、あとまで目について、打たれたよりも苦痛だったと申します。腹立たしく町を通ると、自分を目送りして「アイヌ、アイヌ」とさゝやいたのが、こっそりさゝやくのも、早鐘のように耳をうち、口をとじていわないものでも、眼がそういって見送ったように思え、行きも、返りも、昨日も、今日も、毎日毎日のことですから目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、ついには病身になり、血をはきなどして、世をのろい人をのろい、手あたり次第に物をたゝき割って暴れ死にたくなったそうです。

 村の人の話では、当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、まっくらな嵐の晩に磯の岩の上にすわって、一晩尺八を吹いていたこともあったそうです。

              ※

 この、尺八のくだりも初めて知りました。

 尺八を吹くということは、短歌の中にも出てきていましたが、このようにいろんなところで夜尺八を吹いていたというのは、知りませんでした。まるで苦行のように嵐の磯の岩の上で尺八を吹いている姿は、北斗らしいといえるかもしれませんが、なんとも痛々しくて、つらい話です。


金田一京助『思い出の人々』続続続  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)01時39分19秒

続きです。

 しかるに、竹次郎青年、ある日ふと隣村の青年会へ演説してくれと呼ばれました。病気だからと一度は断ったが、むしゃくしゃ、込みあげている、日ごろの鬱憤を爆発さして、毒づいてやろうと、二度目に承知していったそうです。たま/\村の学校が会場で、教員室に入って控えていると、学校の先生が、「ちょっと君に聞きたいことがある」といって次の室へ呼んでいうのには、

「いつかだれかに一ぺん聞こう/\と思って、つい聞きそぐれていることなんだが、我々は、いうまいと思うけれど、必要以上いわなきゃならないことがあるものだ。もしいわなければならなくっていう時には『アイヌ』といった方が君たちに聞きよいか、『土人』といった方が聞きよいか、君たちに、どっちの方が聞きよいのだろうか」

ということだったそうです。

 それを聞いた違星青年は茫然として、はいといったまゝ、しばらく面を伏せて、

「ありがとうございます。さようですか、そういうお心持ちでおっしゃってくださるなら、アイヌでも、土人でも、どちらをおっしゃってくだすっても、少しも痛くはありません、どちらでも結構です」

といってほろりと落涙しました。

 こゝです、わずかばかりの心づかいですが、人間一人を救ったやさしい心づかい、この青年がこれをきっかけに心機一転するのです。

 やがてベルが鳴って時間になって、演壇に立った違星青年は、

「諸君、我々はまちがっていた、ひがんでおりました。和人の中にもアイヌという一語を口にするのに、このくらい心づかいをしていてくださる方が、少なくともこゝにお一人あったのです。私は今の今まで、こういうことのあるとは思いもよりませんでした。石だから石、木だから木、アイヌだからアイヌというのに、何の不当があろう。一々それを侮辱されるものに思ったのは、我々がアイヌでありながら、アイヌであることを恥じていたからだ。自分の影法師に自分でおびえていたのだ。一人の心は万人の心だ。世間が広いから。我々の経験が狭いから。してみれば、我々の久しい悩みは、我々自身の暗愚なひがみが、これをかもしていたのじゃなかったか! 私はあやまる!」

声涙ならび下り、感動と悔悟に嗚咽して、涙にぬれたこぶしをふるって、たゞ怒号したそうであります。

 好感、憤りは物みな焼かずんばやまざらんとした熱血男子、悔悟する時に滂沱として衆目の前に号泣したものだったそうです。」

               ※

 いわゆる北斗の「思想上の一大転機」です。

 この一大転機を描いた記録には北斗の「淋しい元気」(新短歌時代)、伊波普猷の「目覚めつつあるアイヌ種族」、それに金田一の「慰めなき悲み」などがあり、この「あいぬの話」も「慰めなき悲み」の内容を詳しくした感じですね。

 この北斗・伊波・金田一のバージョンの中で、金田一バージョンにだけあるのが、北斗の演説シーン。思想上の一大転機を迎えた北斗は、観衆に対して演説を打つのですが、これはどうも金田一の中で潤色されたのではないかと思います。

 衆目の前でさめざめ泣いたとありますが、北斗および伊波のバージョンでは、家に帰って泣いた、となっており、おそらくはそちらのほうが正しいのでしょう。金田一版はドラマチックに過ぎます。


金田一京助『思い出の人々』その5  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)02時23分23秒

続きです。


 この青年を囲繞(いにょう)する現実は、昨日も今日も塵一つ増減したものがなかったのですが、しかも、青年の目に、それ以来、世の中が一変したそうです。

 その心をいだいて会ってみると、昨日まで無情に見えた和人も、存外柔らかに温かい手ざわりを覚え、我から進んでにっこり握手することができたそうです。

 そして驚いたことには、血まで吐いた病気もぐんぐんなおって、大いに村のために茶話会を斡旋して開いたり、茶話会の機関誌を、謄写版でてずから造って若い人々を啓発するに努めたそうです。

 たま/\東京に出て来て私などにはじめて会い、アイヌというものは、おそく生まれた弟のようなもので、這い/\していても恥じることがないどころか、人間生活の太古の姿を偲ぶ貴重な生活事実であって、我々が真剣にそれを研究しているのだ。そればかりではない、アイヌはひょっとして白人種かもしれないのだよ。そういうことになったらアメリカで、日本人の人種問題がなくなってしまうではないか、などいうような話を聞かされて、アイヌであることをのろう今までの気持ちからぷっつりと蝉脱して、天真爛漫、だれにも愛されて、愉快な東京生活をつゞけておられたのでした。

        ※

 この、アイヌ白人説は現在では否定されています。ただ、金田一はこのアイヌ白人説を積極的に信じていたわけでもなく、ただ当時、劣っていると見られていたアイヌの人々を力づけるために、こういう説もある、という意味でよく用いていたようですね。


金田一京助『思い出の人々』その6  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)10時58分26秒

 続き、北斗はこれでさいごです。


 しかるに、まっ正直な違星青年は、東京には私ほどのものは箒で掃くくらい、箕で簸(あお)るくらい、沢山ある。いや沢山ありすぎて、就職難を告げているのに、私なんどが、アイヌのくせに、和人ぶりをして、その席をふさいでいるのは申しわけのないことだ。

 私がアイヌでなかったら、だれがこんな高い月給で使ってくださるか。アイヌなものだから、かわいそうにと同情して、何もできもせぬものにこんな高給をくださるのだ。おめ/\頂戴しているのは申しわけのないことだ。それでなくってさえ、アイヌ部落にいるのをきらって、少し目がみえてくると、みんな部落を飛び出して、よその飯を食うので、いよ/\部落はつまらないものだけが残る。アイヌを見に部落に来てくださる人はアイヌといってつまらない人間だと見て帰られるわけだ。祖先に申しわけのないことだ。

 これは、帰って同族の世話をもみ、また同族のことを詳しく知って、東京のご好意の先生がたにご探索の労の一助とでもなるべきだ。

 そういって北海道に帰ったのでしたが、からだを虐使し、若い時にやったことのある肺結核を再発させ、

 

  世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり

の詠を残して世を去りました。

          ※

 これで、北斗の項は終わりです。

 この「あいぬの話」は、「違星青年」と「慰めなき悲み」をあわせたような内容ですね。

 発表年代がいつごろかがわかれば、どちらが先かがわかるのですが。

  


金田一京助『思い出の人々』その7  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)11時25分31秒

(3)中里篤治(凸天)

 この「あいぬの話」では、中里篤治は「徳治」となっていますね。「篤治」の方が正しいです。

 違星滝次郎は「竹次郎」になっているし・・・なにか理由があるのでしょうか。

 

 違星竹次郎君の無二の親友が、中里徳太郎の一子、徳治でした。父の太っ腹だったのに比して、これは、俊敏細緻、よく父の偉業を受け継いでほとんど一人で互助組合のことにあたって、過労のあまり、病に倒れて、惜しいことをしましたが、この人々の涙ぐましい努力のあとは、決してそのまゝにやんでしまいません。子供たちにも利口な子らがありますし、余市だけはアイヌ部落も和人町に伍して遜色なく健全に日本化しております。


 金田一をはじめとする、当時の親アイヌ派の文化人のほとんどが、この「日本化」「同化」こそが、アイヌを「滅亡」から救う、唯一の方策だと考えていたようで、アイヌである違星北斗や中里篤治も恩師でアイヌ青年の修養会「茶話笑学会」の顧問でもあった奈良直彌や、奈良を通して、西川光次郎の影響を受けて、「よき日本人に」なるために、という考えをもって活動していたようです。


北斗と凸天の写真  投稿者:管理人  投稿日:12月 5日(日)11時42分9秒

 北斗と凸天(篤治)がいっしょに映っている写真。

 この写真に出会ったとき、なんだか「やっと会えたね」というような奇妙な感動を覚えました。

 懐かしい感じです。

 いま、手元にスキャナがないのですが、近いうちに今回の引用文も含めてHPにもアップしたいと思います。

 北斗は、なるほど北斗ですね。「コタン」の写真よりも若くて、丸坊主です。襟のある厚手のシャツを着ています。ちょっと歌手の平井堅をゴツくした感じでしょうか。

 凸天は、和装だと思うのですが、北斗と比べるとかなり痩せています。一見、あまりアイヌっぽい感じはしません。蓬髪で、文士、たとえば太宰か、誰かに感じが似ているような気がします。

 

 この写真を見た瞬間は、ほんとうに懐かしい、といった感じがしました。

 よく知っている人の、しかし見たことのない昔の写真を見た感じ。

 そのまんまですが。

 


別冊太陽『先住民アイヌ民俗』  投稿者: 管理人  投稿日:12月 5日(日)15時56分42秒

 別冊太陽に違星北斗の作品が引用されている、とのことなので購入しました。

 表紙は掛川源一郎撮影・森竹竹市がカムイノミをしている写真。

 なかなかいい本です。

 別冊宝島の「アイヌの本」がありましたが、ああいう感じでしょうか。

 巻末に知里幸恵とバチラー八重子の記事があります。

 さて、肝心の違星北斗の引用ですが、たった一行です。

 「山の名、川の名、村の名を静かに朗咏するときに、そこにはアイヌの声が残った

 「アイヌの姿」の一行を引いて、地名の解説をしています。

 なかなかいい本なんですが、違星北斗度が低いので、私的にはちょっと不満。


ヤフー!  投稿者: 管理人  投稿日:12月 7日(火)18時51分27秒

 このサイトが、ヤフーに登録されました。

 カテゴリは、社会科学/アイヌ文化です。

 ここ数日、妙にカウンタが伸びているのは、そういうことだったのかもしれませんね。

 ヤフーに掲載を認めていただいた以上、もっとよいページにしていかなければなりませんね。

 がんばらないと。


それから  投稿者: 管理人  投稿日:12月 7日(火)19時16分23秒

 poronup様。

 ヤフー登録を勧めていただきありがとうございました。

 「アイヌ」「コタン」「北斗」「違星北斗」などの言葉で検索すると、出てきますね。嬉しい。でも「歌人」では出て来ない。残念。

 また、poronup様に「あいぬの話」の存在を教えていただいたのおかげで、北斗のイメージが、またすこしはっきりしてきました。

 

 ここにいろんな方がいらっしゃって、この人がいろんな人に知られるようになったら嬉しいです。

 
 北斗の事をご存じない方も、どうぞお気軽に書き込みください。


おめでとうございます!  投稿者: poronup  投稿日:12月 7日(火)21時52分25秒


ヤフー登録おめでとうございます。

登録されて当然だと思います。今後のサイトの発展をお祈りしています。

さて「あいぬの話」の初出は、全集に記載されていたと思いますが、

手元にないので確認できていません。分かり次第お知らせします。

山本さんの方で全集を見る機会があればそれはそれでいいと思いますが。


それから  投稿者: poronup  投稿日:12月 7日(火)22時24分28秒

> この、北斗は8つまで、自分がアイヌであることを知らなかったというのは、初めて聞きました。

このことについてコメントします。

そもそも、我々和人は、自分が日本人であるとか、和人であるとか、生まれた時から意識しているでしょうか。たぶん何かきっかけがないと自分が「日本人」であるとか「和人」であると意識しないはずです。

簡単に言うと「他者」の存在を意識した時に初めて自分の存在を確認するのが普通なのではないでしょうか。

アイヌの個々人も、アイヌも和人も暮らしている環境の中で生まれて育って、最初から自分が「アイヌ」であることを意識しないはずです。他者である和人/シャモと出会い、それとの関わりの中で自分が「アイヌ」であることを意識するはずです。これは様々な人の体験談を聞いたり読んだりしてよく聞く話です。

たとえば親がアイヌで、差別を恐れて親が子供にアイヌであること、アイヌの血を引くことを教えないで子供が育つ場合もありますが、そういうケースとは別の話だと思います。


ありがとうございます。poronup様  投稿者: 山本です  投稿日:12月 8日(水)01時31分1秒

>poronup様

 そうですね。浅薄な書き込みでした。

 私も読み返して違和感を感じました。

 北斗は小学校に上がるまでは、余市の祖父や父母の許で、自分がアイヌだとか和人だとかいうことを特別意識することなく育っていた、ということですよね。

 もちろん、アイヌ語やアイヌの文化は北斗のまわり、祖父や父母との生活の中にはあったのでしょう。伊波普猷の『目覚めつつあるアイヌ種族』には北斗の言葉として

 アイヌ語をあやつるのを恥ぢたので、かんじんな母語を大方忘れて了ひました。

 とあります。『熊と熊取の話』には

 熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ


 とあり、北斗はある程度、アイヌ文化にも囲まれて、それが当たり前だと思って育ったんだと思います。

 しかし小学校に上がり「他者」、和人の子供達にさかんに「アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました」(伊波前掲書)と侮蔑されたことによって、初めて自分が世間的に彼ら和人とは「違う」とされているんだ、いうことを意識せざるをえなくなった、ということなんでしょうね。

 8つ、ということですが、これは満年齢ではなく数えでしょうから満年齢では7つか6つだと思うのです。このころは物心がついて、自我の萌芽とも関係するのではないかとも思うのですが、どうでしょうか。

(ここで6〜7歳と幅をもたせているのは、自分は北斗の誕生日についても1月1日というのは戸籍上の記載で、本当はそれ以前に生まれていた可能性があると私は見ているからです)。

 この発言自体は北斗の生の言葉ではなく、金田一随筆の中の言葉であり、先の書き込みの「一大転機」に関する北斗自身や伊波普猷の記述と比べて、金田一の筆になるものが著しく潤色されているのと同様に、金田一によるデフォルメが入っている可能性があります。

 だから、北斗が金田一の書いたとおりの発言をしたかどうかも、実際のところわからないですね。(それに関しては、伊波普猷や古田謙二などの描いた北斗像もまたデフォルメされていると考える必要があると思うのですが)。

 いずれにせよ、小学校に上がるまで、「8つ」までは家族のもとで、幸せに育ったのだ、という想像はしてもかまわないのではないでしょうか。それは私にとっては救いであり、またそこに北斗の根の真っ直ぐさ、素直さが、そこではぐくまれたものであると思えてならないのです。


F先生!   投稿者: 管理人  投稿日:12月10日(金)10時49分39秒

 

 大学時代から今現在までお世話になっている、F先生(漱石と映画の事を話し出したら止まらないとの噂)に北斗情報を教えていただきました。北斗についての文献が国会図書館、国文学研究資料館にあるそうです。

 郡司正勝「違星北斗遺稿『コタン』 回想の一冊32」 国文学18巻1号 1973年 2

ペ−ジ

小田きよ子「『銀のしずく』知里幸恵著、『コタン』違星北斗著」 朝日ジャ−ナル

26巻13号 1984年

 わざわざ調べていただいて、ありがとうございました。貴重な情報、本当にありがとうございます。探してみたいと思います。 


中途半端に更新  投稿者: 管理人  投稿日:12月13日(月)09時54分59秒

 更新・アップしています。

 本当は、事物編をすべてアップしたかったのですが、「カ行」までしかできませんでした。中途半端ですみません。ただ、こうして置いた方が、「いつまでもあのままじゃまずい」ってことで、更新は早いような気がしますので・・・。

 休みの時にぐわっとやろうと思っていたのですが、ぐったりしてしまって泥のように眠ってしまいました。

 最終的には大辞典の説明の中に出てくる用語それぞれにアンカーをつけて、クリックすればそこに飛ぶようにします。また、年表や他の頁も同様にしたいですが、その労力を考えるとぐったりします。

 あと、写真や文書のアップは慎重にしたほうがよいというご指摘がありましたので、見直していきます。とりあえず、知里幸恵・真志保姉弟の写真は取りました。

 後藤静香、金田一京助等、あきらかに著作権が存続している人については、作品の中で北斗に関わる部分のみ、一部引用し、その他の部分についてはどのようなことが書いてあるかを解説する、というかたちにしていきたいと考えています。

 

 また、BBSで判明してきたことについても反映させていきたいと思います。その際、ご教示を受けた事項についてはそのことを明記することにしたいと思います。

 あと、更新履歴の頁を作らねば、と思っています。

 などなど、なかなか始めないくせに、始め出すともう時間がないという今日この頃であり、どうもよろしくないなあ、などと思ってしまう今日この頃でもあります。

 とりあえず、事物編は今週中に全部アップできるようにしたいです。

 以上。


今見たら  投稿者: 管理人  投稿日:12月13日(月)11時18分16秒

事物編、化けてますね。直さないと。


うわー  投稿者: 管理人  投稿日:12月15日(水)19時19分32秒

 大辞典「事物編」、今見たら、間違いだらけだー!

 それに、自分で見ても「え?」というような浅い記述が目立つ気がしてなりませんので、今週末に出直します。

 いろんなことを教えて頂いてありがとうございます。

 みなさまからお教え頂いた情報は、必ず研究に役立てたいと思います。

 また、北斗に関係する書籍を教えて頂きましたが、それも必ず反映させていくつもりです。

 今後とも、よろしくお願いします。


(無題)  投稿者: 管理人  投稿日:12月16日(木)09時30分8秒

 pronupさんに教えていただいた雑誌のバックナンバーを入手。

 しかし、読むと暗澹たる気分になりました。

 「アイヌ史資料集裁判」については全く知りませんでした。

 違星北斗の記録がこういう形で残されていることに驚き、問題になっている事を知り、どうしようもなくやるせなくなりました。

 違星北斗の資料。

 それはどんなものであれ、私にとって、それは喉から手が出るほど欲しいもの。

 違星北斗情報は、欲しい。

 しかし、その存在自体が、多くの人々をきずつけるとしたら、どうなんだろう。

 それが、現在生きている人々のプライバシーを侵し、名誉を傷つけるものになりうる資料だとしたら・・・。

 金田一京助や他の研究者の研究もそうかもしれない。やり方や考え方に反感を持つ人もいるけれども、私は彼らの残した記録を読んで勉強している。

 とにかく、悩みます。


思いつき「一大転機」  投稿者: 管理人  投稿日:12月17日(金)10時00分51秒

 思いつき。

 北斗の「思想的一大転機」について、少なくとも4種類のテキスト(金田一「違星青年」「あいぬの話」、北斗「寂しい元気」、伊波「目覚めつつあるアイヌ種族」)がある。これを比較してみたい。


北斗ファン発見!  投稿者: 管理人  投稿日:12月20日(月)01時24分19秒

大阪府立図書館に行き、北斗関係の本を何冊か見てきました。

1 大学のF先生に教えて頂いた軍司正勝が北斗について書いた記事(『国文学』1973年)

2 同じく小田きよ子の記事(アサヒジャーナル1984年)

 また後日報告しますが、特に、軍司正勝の記事は大収穫でした。

 軍司正勝は「違星北斗ファン」でした。それもリアルタイムの、北斗ファンなのです。

 昭和5年に出た初版「コタン」を手に入れて、読んで感動し、長じて早稲田の教授になり、四十数年の時をへて、それを思い出の一冊として「文学界」に紹介したのです。

 軍司さんは若いころ、夜空に北斗七星をさがしては、北斗のことを想ったのだそうです。

 とても他人とはおもえません!

 あと、もう一冊重要な文書を閲覧してきたのですが、これについては今はなんといっていいかはわかりません。もうすこし考えようと思います。


おつかれさまです  投稿者: poronup  投稿日:12月20日(月)02時15分20秒

違星北斗について言及している著述は数多くありますね。

それらを網羅的に集めて書誌のようなものができればいいと思います。

最近知里幸恵や知里真志保についてそのような仕事をされている方がいらっしゃいますがすばらしい労作です。

これからもがんばってください。いろいろ教えていただけると嬉しく思います。


訂正  投稿者: 管理人  投稿日:12月20日(月)08時08分18秒

 poronupさん、ありがとうございます。

 違星北斗の書誌ですか。いいですね。

 

 違星北斗についての記述は結構ありますが、名前と簡単な経歴、代表的な短歌などどこかからそのまま引っ張ってきたような、基本的なことを紹介するのみといったものが多く、なかなか「はっ」とする記述には出会えないのです。そういう記事に関しては、あまり記録していません。

 「書誌」のイメージは以前よりあったのですが、網羅的になかなかデータをあつめるのも大変そうですね。今後の課題としたいと思います。

 poronupさん、今後ともよろしくおねがいします。

 事物篇はもうすこしかかりそうです。

 ここのところの調査で、いろんな新発見が出てきており、データの見直しが必要だと思っています。

 年末年始の休みは「更新」「更新」でいきたいものです。


昨日はお疲れ様でした  投稿者: 幽霊指導員  投稿日:12月20日(月)15時59分12秒

 初めまして(笑)。初投稿させて頂きます。全くスレ違いの投稿ご容赦下さい。

 

 昨日は本当にお疲れさまでした。

久しぶりに管理人さまの歌声を聞いて非常に懐かしく、そして楽しく過ごさせて頂きました。

私的には、色々思うところがあったのですが、あの雰囲気に入るとどーでも良くなってしまいます・・・。毎度の事ながら不思議なもんですね。

 そうそう、私事で恐縮ですが年明けの飲み会が1月30日(sun)の予定でございます。

どうぞご参加の程一つ宜しくお願いします。

 管理人さまに対してこんな事を申し上げるのは非常にお恥ずかしい話ですが、私も実はシャーマニズムには興味がありまして、将来時間があれば南米へ行ってみたいと思っています。実際それが叶うのはずいぶん先になりそうですが・・・。

またオフ会やりましょう。いろいろ募る話もありますし。

ブックマークに登録させて頂きましたので、またちょくちょくお伺い致します。

これからも宜しくお願いします。


ありがとうございます  投稿者: 管理人  投稿日:12月20日(月)18時35分19秒

 ユーレイ先輩、お疲れさまでした。&ご結婚おめでとうございます。

 

 ユーレイ先輩のお顔が見れてよかったです。

 

 私もそうですね。思うところはありますが、やはりあの雰囲気は当てられるというか、なんというか。よーし、なんていつのまにか思いますね。

 

 1月30日は、U-ray先輩の結婚披露パーティですよね。おめでとうございます。お子さまのお姿を拝見できるのですね。ぜひ参加したいと思います。

 オフ会もぜひ。大学に勤めている関係上、年末年始はわりに時間があります。(サイトの更新という重要な任務はありますけれども。

 シャーマニズムについては、私も非常に興味があります。

 文学や音楽、舞踊といったあらゆる芸術、さらに文明の起源とも深い関わりがあるでしょうし、物語や、日常生活における「感情移入」などもまた、シャーマニズムなしには語れないと思うからです。

 そもそも心と体を分けて考えるという考え方にしてもそうですし、猿と人間との分かれ目にある心や夢なんていう概念もまた、シャーマニズムとは切っても切れないと思うんです。

 南米といいますとマヤやアステカでしょうか。「ジパングボーイ」の世界ですね。自分はおばあちゃん(父方)の両親がブラジル移民だったそうで、サンパウロにいたそうです。失敗して祖母が幼いころ出戻ってきたんだそうですが、そういう意味でも南米にはひとかたならない憧れがあります。(あと、アニメ「母を訪ねて3000里」の影響でしょうか)。(そういや祖母はコーヒーが大好きでした)。

 

 あんまり関係ないですが。

 オフ界ではいろいろとマニヤックな話、下世話な話なども出来ればと思います。

 それでは。


恐縮です  投稿者: 幽霊指導員  投稿日:12月21日(火)12時32分50秒

管理人さま、素早いレスありがとうございます。

>お子さまのお姿を拝見できるのですね。ぜひ参加したいと思います。

すみません・・・。出産は3月なんでまだ2世は皆さんにご挨拶は出来ません・・。

ガキのお披露目は出来ませんが、必ずきてくださいね。(笑)

 シャーマニズムや自然崇拝に関してですが、「癒し」の名の下にいま流行と言うかもてはやされていると言うか。

 私はあまり世間の風潮に便乗しているつもりはないのですが、自ら自然と決別する事を選んだ末に作り上げられた現代社会が今求めているのが、自然と共に生きていた古代の人々が作り上げた思想であり文化であるというのはとても興味深い反面、人類の節操の無さを感じます。

 結局人は、いつの時代も常に目に見えぬ何かに恐怖し、己より強い存在に憧れ時にはその威光にあやかり、時には自身がその強者となったと錯覚する。

この螺旋は、人類が常に絶対的弱者であるがゆえ繰り返されていることに気付いていないのではないでしょうか。

その昔、自らを守るために人は集まり、その恐怖から逃げるようにさらに隔離された社会を造り、その中でまた自らを守るために他との繋がりを絶ち、その結果自身を危険に晒している・・。

結局人類の歴史は、逃避の歴史ではないかと思います。

「逃避」か「共存」か、いま少しずつ「共存」を選択するように時代は動いているように感じますが「逃避のための共存」になると結局何も変わらないような気もします。

 そう考えると「頭は低く目は高く 口慎んで 心広く 孝を原点とし 他を益する。」

かの大山総裁は良い言葉を残されているなとしみじみ感じます。ちょっと儒教の影響がでている様に感じますが。

 なんだか書いてるうちにだんだん暗い話になってきましたので、これくらいにさせて頂きます。(笑)

 なんせこんな時代ですから、自分が生活するのが精一杯で、なかなか他の事まで気を回せないのが現実ですが、田尾エキス、もとい「他を益す」がちょっとでも実行できるように心掛けたいと思います。

それでは失礼します。


すみません実は  投稿者: 管理人  投稿日:12月22日(水)01時21分40秒

ありがとうございます。幽霊指導員先輩。

>ガキのお披露目は出来ませんが、必ずきてくださいね

 もうしわけありません。

 先輩のパーティの件ですが、じつはその日は仕事が入っており、出席出来ないことに気付いてしまったのです。この日は大学の仕事のなかでも結構大事な行事でして、なかなか休むこともかないませんので、本当にもうしわけありませんが、。

 残念です。

 ぜひ、オフ会でお話いたしたく思います。

 

>シャーマニズムや自然崇拝に関してですが、「癒し」の名の下にいま流行と言うかもてはやされていると言うか。

 「癒し」ですか・・・そうですね。私は、「自然」や霊、精霊、神なんていう「超自然的存在」といったものは、そもそも本来的には人知を超えたものであり、人間にとっては畏怖すべき存在以外のなにものでもないものだと思うのですが、そういうものでさえ、マスコミや商業ベースに乗せられてしまえばキャラクター商品やフィギュアなんかにされてコンビニに並べられ、消費されてしまいますよね。

 ネイティブ文化や、自然崇拝も、現代文明の中では、トレンドグッズ、ブランドとして流通してしまっているようなところがあります。

 ネイティブアメリカンの「シルバーアクセ」なんかを掲載していた物欲雑誌が、「ネイティブ・アメリカン」特集を組み、 それがしかし本格的によくできていて、結構人を感動させてしまう、なんて事態も起こってしまう。

 いいのか、違うだろ、と思うのと同時に、まあいいか、という考えもあります。

 私は思いっきり若いころに思い詰めた経験があって、ある種、諦観からくる楽観のようなものがあるのかもしれません。物欲雑誌でもマンガでもいい、それでもメディアの利点は多くの人の目に触れることだと思っていて、その中の0.1パーセントの人でもいいから、

>結局人は、いつの時代も常に目に見えぬ何かに恐怖し、己より強い存在に憧れ時にはその威光にあやかり、時には自身がその強者となったと錯覚する。

>この螺旋は、人類が常に絶対的弱者であるがゆえ繰り返されていることに気付いていないのではないでしょうか。

 そうですね。現代人って、「知識」は古代人と比すべくもないですけど、実際はいたって無力ですよね。たいていの人は火もおこせないし、衣服も自分でつくれない。動物を狩ることもさばくこともできない。でもこれは、古代人にとってはあたりまえのことだったのかもしれません。総合力では、頭でっかちな現代人は、甚だしく古代人に劣っているのではないでしょうか。

 しかし、科学文明によって庇護されている現代の人間は、その本来は絶大な力を持つ自然や超自然の存在でさえ、名前をつけ、分類することによってわかったつもりになって、まるで掌の上でもてあそべるような錯覚を抱いてしまう。

こわいですね。

>結局人類の歴史は、逃避の歴史ではないかと思います。

>「逃避」か「共存」か、いま少しずつ「共存」を選択するように時代は動いているように感じますが「逃避のための共存」になると結局何も変わらないような気もします。

 根本では変わらないかもしれませんが、それでも表層だけでも、すこしだけでも改善されればそれでもとりあえずは仕方ないのかな、というふうに、最近の気は思います。

 私は先輩もご存じのとおり、私はC・W・ニコルを心の師(?)と仰いでいますが、彼は母方のケルトの精神文化を多く受け継いでいるんですね。若いころ、そのニコルさんに叩き込まれた危機感みたいなのがあって、やっぱり現代ってちょっと、やばいところまで来ちゃってると思ってるんですが、やっぱりこのへんで、ポーズでもブームでもフェイクでもなんでもいいから、古代の方を見ないといけない、シャーマニズムの方を振り返らなければいけない、というのはあって、それはもうなりふりかまわなくてもいい、経済やマスコミに利用されても、それでも「共存」の方に向かなきゃ行けないっていう気がしてしまっています。

 それでも私はやはり、基本的には人間はいいもんだ、と思いたいところがあるのかもしれません。

> そう考えると「頭は低く目は高く 口慎んで 心広く 孝を原点とし 他を益する。」

>かの大山総裁は良い言葉を残されているなとしみじみ感じます。ちょっと儒教の影響がでている様に感じますが。

儒教は対人間、人間社会における教えだと思うのですが、私はこの教えはもしかしたら自然や超自然の存在に対しても向けねばならないのかなあ、と思いました。「一、我々は神仏を尊び謙譲の美徳を忘れざる事」っていう言葉や、「敬天愛人」っていう言葉もそういう意味なのかもしれませんね。

 

 ちょっと徒然なるままに書きましたで、ちゃんとした返答になっていませんね。

 ユー霊先輩、またオフ会をやりましょう。

 

 それでは。


そうですか・・・  投稿者: 幽霊指導員  投稿日:12月22日(水)15時48分8秒

 結婚パーティーは残念ですが、年末年始にオフ会をぜひ。

会場は幽霊邸にて、日時は追って連絡させて頂きます。

>儒教は対人間、人間社会における教えだと思うのですが、私はこの教えはもしかしたら>自然や超自然の存在に対しても向けねばならないのかなあ、と思いました。

 確かに「儒教」は、人はどうあるべきかと言った「家族道徳」を説いたものです。

超自然的な存在を好まず、あくまで現世における士大夫の行動規範として発展していったため、「生死」といった人間の最も根源的な話題に触れることは無く、分類的には宗教ではありません。

 

 しかし、紀元前アジア一帯に流布していたシャーマニズムがその母体であると考える説もあります。

 春秋末期、秩序が崩壊した時代を憂いた孔子は、古代の敬天思想、天命思想を継承した思想を唱え周王朝の礼楽文化の復興を求めました。いわゆる復古主義ですよね。

孔子は各国を回って遊説しましたが、彼の唱える説は残念ながら弱肉強食の時代には受け入れられず無念の内に帰国し、晩年は弟子の教育に専念する事になります。

後世、儒教が正当思想として広まったため、開祖として崇められるようになりますが、彼の人生は決して平坦なものではありませんでした。

とまあ、なんだか話がそれてしまいましたが、敬天思想を継承している部分で繋がっているんじゃないか、という事で引き合いに出してみました。

 でもこれってなんだか「北○の拳」の設定に酷似してますよね。

ってことはこの現代において求められているのは「○斗の拳」なのか?!

と言うことで、早速携帯の着メロをクリスタルキングに、待ち受けをレイにしてみました。

多分来年の流行語大賞には「ひでぶ!」「たわば!」と言った北拳語録がこぞってノミネート。街はケンシ○ウやユ○アのコスプレで溢れ、子供から大人までユワーッシャ!を口ずさみ、少年誌では劇画ブームが再来。

全国公立小学校では学級文庫に「北斗の○」コーナーが常設され、漫画喫茶では北斗の○専門店が出現する始末。

なんて訳ないですね・・。

すんません、少し調子に乗ってしまいました。

 話は戻りますが「第一回オフin幽霊邸」、うちの嫁も楽しみにしてますのでまた都合を教えて下さい。宜しくお願いします!

では、さらばじゃ!


なるほど  投稿者: 管理人  投稿日:12月23日(木)04時39分41秒

 たしかに、『北斗の拳』は儒教的かもしれませんね。

 しかし、あたりまえかとも思いますが、北斗の拳には「道教」の影響が多く見られますね。

 先代伝承者リュウケンの使った「北斗神拳奥義七星点心」は道教のこれは明らかに『禹歩』と呼ばれる歩法であることからもあきらかです。って、いうじゃなーい。

 でもここは

 「北斗」は北斗でも、

 「違星北斗」サイトですから。

 

 残念!


 ひでぶ。


河野広道ノート  投稿者: 管理人  投稿日:12月23日(木)05時00分1秒

 違星北斗の兄、梅太郎の談話が載っている「河野広道ノート民族誌篇(イオマンテ・イナウ)」入手。


 違星梅太郎氏談(1931.5.24?、余市)として

1)《違星家シロシ、三宅家シロシ》

 

2)《違星家蔵イクパシュイおよびキテのシロシ》


というのがあり、記号が載っています。(記号なので、ここには表示できませんがHTML化の時にちゃんとします)。

この「違星家のシロシ」が「※」の左右の「点」がない形です。

北斗は「エカシシロシ」は「※」だといっていますが、もし違星家のシロシ=エカシ・シロシなら、「※」というのは正確ではないんでしょうね。

 

 ここには能登酉雄の談話も載っています。


アカベ 投稿者:あらや  投稿日:12月25日(土)17時17分15秒

お久しぶりです。

今、「おたるの図書館」の「レファレンスBBS」で「アカベ」をとりあげています。

そこでお願いがあるのですが、以前「コタンBBS」で書かれていました西村京太郎の「アカベ」話題を引用してもいいでしょうか。

「バッケイ」は一件落着したと思うのですが、「アカベ」はなかなかに難問です。


異星一郎  投稿者: 管理人  投稿日:12月26日(日)01時49分50秒

 あらや様

 「アカベ」の件、了解しました。

 といっても、私も検索で見つけただけなので・・・。

 しつこいようですが、西村京太郎は「殺人者はオーロラを見た」に異星一郎というキャラが違星北斗の名前とともに出て来ますので、北斗ファンは必読です。

 違星北斗が出てくる本としては、もっとも部数がでた本かもしれません。

 ミステリーつながりですが、私の北海道への憧れの始まりは、PCのゲームの「オホーツクに消ゆ」(堀井雄二)でした。最近も携帯のアプリでクリアしましたが、すごいパケット通信料・・・でした。


なつかしいですね  投稿者: poronup  投稿日:12月26日(日)03時08分24秒

私も「オホーツクに消ゆ」やりました。

友人宅でPC-88版で少しやり、ファミコン版は最後までやりました。

あの時全然意識しませんでしたアイヌが出てきますね。

(民族衣装を着た和人だったかもしれませんが。)

ファミコン版はイラストが漫画っぽくていまいちでした。

あのパソコン版はイラストが渋くていいですよね。

(↓のサイトで見れます。)

ウインドウズ版もあるらしいので今度買ってみようかなとも考えています。

http://www3.airnet.ne.jp/ashen/oldgame/ohotuku.htm


オホーツクに消ゆ  投稿者: 管理人  投稿日:12月26日(日)23時20分2秒

 私はMSXでやりました。

 『ポートピア連続殺人事件』にはまって、その次にやりましたね。

 まず、「オホーツク」っていう響きにやられて、「消ゆ」ですから。

 もう、実際すごいタイトルですよ。もの凄い言語感覚。

 北海道の地名も、大方このゲームで知りました。

 お土産屋の主人ですね。

 当時べーマガ(マイコンBASICマガジン)の「チャレンジ・アドベンチャーゲーム」のコーナーで、山下章さんが「いかにもアイヌといった風貌のお土産屋の主人」みたいなことを書いていたのを記憶しています。

 私はパソコン少年だったので、poronupさんの貼って下さったリンク先は、もう懐かしくてしょうがありませんでした。

 ゲームを自分でも作ったりして、投稿などもしていたものです。

 今思えば、ゲーム文化の過渡期であり、今日のゲーム文化の隆盛を支えているのは、こういうゲームで胸をときめかせた世代なんでしょうね。

 アイヌ文化に関係するゲームといえば、『サムライスピリッツ』(1994)の「ナコルル」が有名ですが、「オホーツク」が出たのはその10年前、(1984)なんですね。今後もアイヌ文化がサブカルチャーに取り上げられていくことが多くなるでしょうし、きちんとアイヌ文化の押さえるべきところを押さえたものというもの増えてくるでしょうね。


♪ポンチョに夜明けの風はらませて  投稿者: 管理人  投稿日:12月27日(月)21時49分17秒

 Ysいいですよね。MSX2でやりましたが、すごくおもしろかったですね。1で本をあつめて、確か2では神像に本を返していく話ではなかったでしょうか。

 ちょっとそれより古いですが、私はハイドライドが好きでした。ブラックオニキス、トリトーン、ファランクス、リザードなんていうのをほとんどはテープ(借りて)でやりました。サラトマ、デゼニ、惑星メフィウスなんていうアドベンチャーもやりましたね。

 アドベンチャーゲーム全盛のころのゲームは、BASICで組まれているのが多くて、ちょっと頑張れば自分にも作れるっていう感じがありました。


>ユカラやウエペケレを題材にしたRPGとか誰か作れば受けると思うんですが。

 ゲームになりそうなユカラといえば・・・。

 あまり詳しくないんですが、「虎杖丸の曲」なんていいですね。

 少年英雄ポンヤウンペが持つ「クツネシルカ」の剣には四種の憑き神(狼、雄龍神、雌龍神、夏狐の化け物)が宿っているという。

 ものすごく、キャラクターが立っていますね。

 あと、山本太助翁の「カムイ・ユーカラ アイヌ・ラッ・クル伝」(平凡社ライブラリー)は文句なしにおもしろいですよね。ゲームはわかりませんが、そのままアニメ化できるようなおもしろさです。

 そういえば、高畑勲と宮崎駿が組んだ「太陽の王子ホルスの大冒険」(東映動画)はもともとユカラをもとにした深沢一夫の戯曲「チキサニの太陽」を原作とした企画だった、といろんなところに書いてあるんですが、これは「人形座」で1959年に上演された『春楡の上に太陽』のことだと思われますね。

 http://taro.readymade.jp/cgi/ningyouza/archives/000719.html

 「チキサニの太陽」は出版されたことはないみたいですね。

 「ホルス」では、なぜか舞台を北欧に移していますが、やはり当時(1968年)には、アイヌの神話を映画化することに抵抗があったのでしょうか。

 ちなみに、深沢一夫さんは「母を訪ねて三千里」などの脚本を担当された方のようです。途中で異様にテンションの上がる名曲「草原のマルコ」の作詞者でもあります。


ちなみに  投稿者: 管理人  投稿日:12月28日(火)15時23分51秒

 「虎杖丸」(いたどりまる)は「クツネシルカ」に金田一京助があてた和訳です。

 グーグルで「虎杖丸」で検索したら、なにやら漫画のキャラクターに「虎杖丸」(こじょうまる)というのがいるもよう。

 ガンガンWINGに連載している「KAMUI」という漫画。

 これはアイヌ神話をモチーフに、舞台が未来のSFっぽい物語らしいです。

「オキクルミ」という神が出てきたりしています。(未読ですが)。

 アチラ方面の同人誌的にも人気があるようですし、出版がスクウェア・エニックスなので、ゲーム化もされるかもしれません。

 正攻法でアイヌ文化を題材にとるのではなくて、これからはこういう風な使われ方をすることも多いかもしれませんね。


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