コタンBBS 過去ログ 2005年4月〜6月
05年 <7月〜9月> <4月〜6月> <1月〜3月> 04年 <10月〜12月>
※ここに書かれている見解は、書き込み当時の見解であり、最新のものではありません。その後の発見により、見解が変わっている場合があります。
五月 投稿者: あらや 投稿日: 4月 1日(金)01時38分35秒
五月上旬が今やっている函館の仕事の山場なので、現時点で、なんともお答えできないところが心許ないのですが… でも、余市にいらっしゃるのならば、なんとしてもお会いしたい、余市の街をご案内したいと思っています。お邪魔じゃなければ。うまく行けば(今年は雪が多く冬が長いので)アカベのタイミングに合うかもしれませんし。
いくらなんでも、連休まるまる仕事などということはないでしょう。(正月だって三が日だけは休めたのだから…) 楽しみです。うきうきしています。
ぜひおねがいします。 投稿者: 管理人 投稿日: 4月 1日(金)17時51分4秒
あらやさん、ありがとうございます。
私も出来るかぎりGWに北海道に行けるようにしたいと思っています。ぜひ、アカベの咲く余市の春をご案内いただきたいと思います。
(もうすこししたら予定が立ちますので)。
経済的理由から、飛行機は使えないと思うので、フェリーで上陸すると思いますが。
それまでは、余市で調べるべき事をまとめておこうと思っています。
お会い出来ることを楽しみにしています。
フェリー 投稿者: あらや 投稿日: 4月 2日(土)00時50分30秒
そのフェリー、もしかしたら…私が去年波止場で仕事していたフェリーかもしれませんね。
小樽に上陸なされるのでしたら、ものすごく話が早い。私の部屋をホテル代わりに使ってください。(私は函館ですし…) インターネットもスワン社の24時間フリーで使えます。余市は隣町。道立図書館(江別・大麻)も、おかしな札幌から出発するよりは、JR小樽築港駅より乗り換えナシで一発で行けます。
なんとか私も頑張って、小樽に戻る時間を作ります。小樽・余市にいられる時間は限られているのですから、不自由なホテルだの何だの無駄な時間、作る必要ないですよ。
コザハ? シモケホ? 投稿者: 管理人 投稿日: 4月 3日(日)19時44分50秒
あらやさん、いろいろありがとうございます。
まだスケジュールが立ちませんので、また報告します。
汽車は今コザハトンネルくぐったふとこの山の昔しを偲ぶ (「志づく」)
この「コザハ」は、函館本線の「小沢(こざわ)」でしょうか。
「小沢トンネル」は確認できませんでしたが、倶知安トンネルと稲穂トンネルに挟まれた駅で、「トンネル餅」という土産もあるようです。
では、
鉄道がシモケホまで通ったので汽車を始めて見る人もある
のシモケホはどこなんでしょう?
http://www.onitoge.org/tetsu/hakodate/48kozawa.htm
「下共」でしょうか? 投稿者: あらや 投稿日: 4月 3日(日)23時01分21秒
「コザハ」は「小沢」で正解だと思います。「小沢」と書いて「こざわ」と読みますし(「おざわ」とは読みません)、「小沢トンネル」も今でもあります。トンネル餅も健在。
小沢駅は旧岩内線への分岐点です。ウィキペディアから「岩内線」を引いてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%86%85%E7%B7%9A#.E8.B7.AF.E7.B7.9A.E3.83.87.E3.83.BC.E3.82. BF
この岩内線(いわないせん)、「北海道後志支庁管内の岩内郡共和町で函館本線から分岐し、同郡の岩内町までを結んでいた」とあります。この路線の「小沢駅 - 国富駅 - 幌似駅 - 前田駅 - 西前田駅 - 岩内駅」の内、「岩内駅」以外は、みんな「共和町」なのです。
1913年9月21日 【駅新設】国富
1919年12月5日 【駅新設】幌似
1922年9月2日 【線名改称】岩内線
「西前田駅」は1963年10月の駅新設ですから北斗の生きていた時代と関係ありませんが、「幌似(ほろに)駅」の「1919年(大正8年)12月」新設などは、なんとなくこれが「シモケホ」なのかなぁ…と思わせますね。つまり、「下共」=「下共和」町というような。
歌の配置からいうと、間に「日高」の歌が入っていますから、「コザハ」と「シモケホ」の歌はつながっていないのかもしれませんが。
しかし…、北斗の日本語って面白いですね。「ボン踊り」なんて書かれると、思わず顔が笑ってしまいます。
あらやさん、早速、調べて頂いたんですね。
ありがとうございます。
「シモケホ」=「シモキョウ」だと思ったのですが、「下京」を思い浮かべてしまいました。共和町、ですか。なんともモダンでリベラルな? 町名ですね。
北斗には男の子らしい?鉄道や船の歌がいくつかありますね。東京に代表される科学への憧憬ががあるのかもしれませんね。
あらやさん、大変厚かましいですが、北海道訪問の際にはお世話にならせて頂きたいと思っています。できれば五月の初めに小樽に上陸し、余市、道立図書館、余裕があれば平取も訪れたいと思っています。仕事は一週間ほど休めたらと思っています。
お待ちしてます 投稿者: あらや 投稿日: 4月 5日(火)22時56分13秒
なるべく私も休みをとれるよう努力してみます。楽しみです。
teacupがバージョンアップしてからというもの、この函館パソコンもなにか調子がおかしいのです。接続するのにものすごく時間がかかるようになり、接続エラーも頻繁に起こるようになりました。(先ほども一回書いたのですが、エラーで消えてしまいました…)
この書き込みでも駄目だったら、メールの方に切り替えてみます。
ヴァージョンアップしたteacupのプログラムのようですね。(teacupのページにお詫びが出ていますj)。
私も接続に何度も失敗します。
とくに深夜は繋がらないようです。
致命的、ですね。もうすこし待ってみて改善されないようなら、乗り換えも考えます。
そろそろ、過去ログを作るかわりに、整理して「研究」のページを作ろうと思っていたので、いい潮時かもしれません。この週末までに改善されなければ、掲示板をteacupから他に変えるつもりです。
無料ですが、ここは広告も目立たないし、いいかなあと思っていたのですが、残念です。
「下下方」で今の静内ではないか、1926年の開通で時期的にも近いような気がする、というご指摘を匿名で頂きました。
ありがとうございます! 感謝いたします。
普通はしもけぼう、と読むのですね。
1926年ということは時期的にも、地区的にも平取時代の短歌と見ていいでしょうね。
同じ方から、芝増上寺への「留学」についても、ご教示いただきました。
この「留学」は、相当に杜撰で強制的でなものだった、ということで、それが祖父万次郎のような当事者にとっては「自分は昔役人(になるところ)だった」という懐旧談にもなってしまうというところが問題の複雑さを示している、ということですね。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
「下下方」、ヤフーで確認しました。こっちですね。御園小学校の素敵なHPなども発見することができて、勉強になりました。歌の並びがもの凄く明確になって、この「志づく」全体が持つ詩集としての魅力が増したように感じます。(ビートルズのホワイト・アルバムみたい…) 匿名氏に感謝です。
うーん、なんか、オフ会っていうんですか、こちらにいらっしゃった時には、「コタン」オフ会なんていうのもいいですね…
先日、仕事で『キルビル』のビデオを確認していたら、妙なことを感じました。
主人公が、「青葉屋」でヤクザを一人で全滅させたあと、雪の庭園でヤクザの女組長と対決する場面。
『死亡遊戯』のブルース・リーよろしくトラックスーツに身を包んだユマ・サーマンと、『修羅雪姫』の梶芽衣子そのままのルーシー・リューが、日本刀で激しくやり合うのですが、ユマ・サーマンはルーシー・リューの攻撃によって雪の上に倒れてしまいます。
その時のルーシー・リューの言葉。
「白人女がサムライごっこ?」
この場面を見て思ったのですが、和服を着て、日本刀を持っていてもルーシー・リューの役柄の設定は、かつてはビルの一味の殺し屋で、今は日本のヤクザの女親分に収まった中国系アメリカ人」であり、役者自身も日本人ではない。しかし日本刀を持ってサムライらしいことを二人ともしている。
それを見ている、日本人の私がいる。私は「でも、そういうあんたもサムライじゃないよね」と思う。
かといって、私は日本人であってもサムライではないわけなんですが。
で、その時、なんとなく思い浮かべたのは、実は「知里真志保」のことでした。
金田一京助は、ジョン・バチラーのアイヌ研究の酷さを見て、「アイヌは日本にいるのだから、日本人が研究しなければならない」とアイヌ研究を志すのですが、その弟子でアイヌ出身の知里真志保は、「アイヌの研究はアイヌ自身によってなされなければならない」という考え方を貫き、バチラーの研究を「言霊の虐殺」として糾弾し、師匠である金田一の研究にも否定的な態度を取りました。
知里真志保にとってみれば、「英国人」のバチラーも、「日本人」の金田一も「結局アイヌじゃないよね」と思ったのではないか。
だけど、この真志保にだって、姉幸恵のようにアイヌ文化にどっぷりつかって生活したわけではなく、アイヌだけれどもアイヌ語を後天的に「勉強」して身につけている。
この「アイヌ文化」に対する「バチラー」と「金田一」、そして「真志保」の関係が、なんとなく「日本文化」に対する「ユマ・サーマン」と「ルーシー・リュー」、そして「私」に似ているのではないか、と思ったのです。
って、キルビルをご覧でなければわからないかも知れませんが・・・。
なんとなく、なんですが。
まあ、いろいろ突っ込まれると弱いので、なんとなく、そういうふうに思った、ということです。
やっぱり、ちょっと違うかな。
あらや様
一応の予定を立てました。
4月30日(土)の夜に小樽に着き、5月6日(金)の夜に小樽を発ちます。
5月1日(日)は一日道立図書館に籠もりたいと思います。
5月2〜4は道立図書館が休みですので、余市や小樽を探索したいと思います。
レンタサイクルかバイクがあれば、それを利用するつもりです。
(車は運転できないのです)。
4日ごろ、富良野の友人を訪ねるつもりにしています。
5月5、6日は未定です。
小樽・余市でぜひ見ておいたほうがいいところはありますでしょうか?
6日は船の都合があるので、余市・小樽で過ごしたいと思います。
平取にも行きたいのですが、今回は時間がありませんので、またの機会にしたいと思います。
せっかくの連休なのに、経済的理由によって、時間を削らないといけないのは辛いです。
土日に小樽へ戻っていました。思った通り、今年は冬が長く雪も多かったので、(急激な勢いで融けてはいますが)春の到来は全体に遅れ気味です。おそらく、アカベは、連休の時にはまだ咲いていないのでは…と思います。轟鉱山跡へ行く道も、たぶん冬期間閉鎖のままでしょう。残念ですが。道立図書館の、たった一日しか使う時間がないというのも、もうちょっとなんとかならんのか…という感じですね。
でも、そんなあれこれがあっても、北斗が生まれ育った余市〜小樽の町を歩いてみることは、今後の山本さんの探求に必ずなにかの新展開を生み出すだろうことを感じています。今、私たちが知らないばかりに、見えていない、見過ごしている<余市>や<小樽>がある。私は、できるならば、そういう<北斗>発見の場に立っていたいとちょっと思ったのです。
5月2日の日、なんとか休みをとろうとしています。(図書館も休館の月曜日ですし…) とれなかったら、この日だけ函館に戻ります。あとの日は、私のオンボロ車でよかったら、どこでも動きますから、なんでもリクエストしてください。
「シモケホ」の読みがモロに「ケホ」だったことに、いまだ軽いショックをひきずっています。北斗の日本語は、なんか凄い。
アカベが見れないのは残念。バッケイはいかがでしょう?
大阪も桜が遅いですね。
日曜日に吉野に行かれた方も、まだあまり咲いていなかったとおっしゃってました。
ようやく咲きかけたところにここ数日は雨なので、花見気分も盛り上がっていないようです。
道立図書館は5月5日、6日も開いているので、1日に調べられなかったことは、そこで調べられるかな、とも思っています。
道立では「光を掲げた人」違星北斗ラジオドラマ台本、違星北斗の会発行の「違星北斗遺稿集」、志づく、北海道人、小樽新聞、北海タイムスなどの北斗関連の記事を参照したいと思っています。
北斗が訪れた場所、特にフゴッペ、古平、島泊、シリパ、鰊場、ウタグス(?)などや、北斗や凸天が育った大川町、古田謙二が住み、北斗がよく訪ねたという浜中町なども歩いてみたいです。北斗の通った小学校が現在のどの小学校にあたるのか。
また、余市駅や余市川など、普通に北斗が歩いていたようなところも見ておきたいです。80年の時を越えて、同じ場所を歩くというのはなんとも感動します。
もともと余市アイヌの集落があった「イヨチ・コタン」が現在でいえばどのあたりなのかも調べておかねばなりませんね。町名や番地の変遷は、やはりその地域でないとなかなか調べられませんし。
小樽には過去4度訪れました。そのときは違星北斗に対する関心が今のように明確になっていなかったので、二度はフェリーの発着場として、一度は単に観光客として訪れただけでした。学生時代に訪れた時などは、本州から青春18きっぷで行ったため、札幌でラーメンをたべてまた各駅停車で折り返すというバカな旅をしたのですが、その時に小樽と余市も電車で通過はしました。今思えば……。
何から何までお世話になります。
よろしくおねがいいたします。
北斗は恥ずかしそうに(でも反面、誇らしげであっただろうと私は想像しますが…)「北海道の余市から東京の阿佐ヶ谷まで、牛乳一合を買ったのみで、弁当を一度も買わずに来た」などという。
東京の人にはわからないだろうけれど、北海道に生まれた人なら、これがどんなにとてつもないことか、すぐに感じとります。余市から阿佐ヶ谷!北斗の強い想いが伝わってきて、なにかしら、この箇所を読むといつも目頭が熱くなります。
4月30日の夜、かつての職場であるフェリー桟橋に迎えに行きます。バッケイは、この頃、北斗が見た通りのバッケイの形になっているはずです。楽しみにお待ちしています。
東京まで、当時は丸2日ぐらいでしょうか?
(卒論を書いた時だったか、当時の余市−東京間の所要時間をどこかで見つけた気がするのですが、どこだか忘れてしまいました)。
その間、牛乳一合というのは、本当に、すごい根性というか、一念ですね。
おそらく、汽車賃も必死で工面してきたんでしょうね。とても食費には手が回らなかった。「弁当を一度も買わなかった」ということから、想像をたくましくすれば、もしかしたら余市で乗車したとき、家族から握り飯ぐらいは持たされたかもしれませんが、それもすぐに尽き、あとはじっと我慢だったのかもしれません。ようよう買ったのが牛乳一合。
もちろん、お金は少しはあったかもしれませんが、東京に出てからのことを考えると、使えなかったのかもしれません。阿佐ヶ谷の西川宅(自働道話社)に着いたときには、西川光次郎や文子に食事を勧められたのでしょうか。最初は遠慮しながらも、ものすごい勢いで食べたのかもしれません。などと、勝手なことを想像してしまいます。
この文子の記したエピソードは、金田一の「違星青年」とともに、北斗の真面目でストイックで、控えめな、決して要領は良くないけれども一途な性格をよく表していると思います。私は北斗の「ドジ」なところも好きなのですが(高尾登山の時に汽車に遅れそうになってていますが、これから東京を後にするというその汽車も、時間に遅れそうになっています)。
いつのまにかカウンタが3000になっていました。まあ、このうち2500は私なのかもしれませんが、それでもまあ、一つの記念ではありますね。
改めて思います。
北斗は、本当に魅力的な人間だと思います。違星北斗のことを多くの人に知って貰いたい、と思ってこのサイトを開きました。
しかし、いくら言葉を尽くしても、わかってくれない人もいます。よく「どういう理由でアイヌの歌人を調べてるんですか」と聞かれ、不思議がられるのですが、理由なんて「違星北斗という人間が好きだから」という外にはないんです。どんなに北斗の魅力を語っても「何か裏があるんじゃないの?」といったよくわからない反応を受けることもありますが、そんなときはその人間が親しい人間であればあるほどなんだか淋しくなります。
私は取りたてて見所のない人間ですが、北斗に出会ったこと、ここまで惚れ込むことの出来る人物を持てたということ、それだけでも生まれてきた意味がある、と思います。などと大袈裟なことを言うようですが、違星北斗にはそれだけの魅力があると思います。
仕事での資料作成のために『パッション』を嫌と言うほど、繰り返し見ました。
ご存じ、キリストの最期をとてもリアルに描いた映画です。
いやあ、「パッション」=「受難」というだけあって、イエスがとにかく痛めつけられる映画なので、観客が3人ショック死した例の映画ですが、やはり、すごいです。ゲッセマネの園での悪魔との対決からはじまり、鞭打ちで体をズタズタにされたイエスが、十字架を抱えてゴルゴダの丘への十字架を背負っての死の行進、そして両手と足に鉄の杭を打たれて十字架に掛けられる最期まで、すごい臨場感で、まさにイエスの最期に立ち会ったかのような感覚でした。実際この映画で改宗した人もいるのかもしれませんね。私も父の形見の聖書(といっても父も私も仏教徒ですが)を引っぱり出してきて、映画と比較しながら読んでしまいました。
キリスト教にあんまり詳しくない私としては、この映画でのイエスの行動には大いに心を打たれましたが、その「お言葉」がいかにも各福音書のテキストに対する「辻褄合わせ」のようにに思えてしまいました。これは映画を見てて思ったのですが、聖書っていろいろ「正しい読み方」を定めて、教会の考えに合うように辻褄合わせをしなきゃいけないので、本来この映画のようにイエスの行動は単純に人を感動させるのに、なんだかいろいろひっついてくっついて、ややこしく取っつきにくくなっちゃってるのかなあと。
いずれにせよ、このキリストの死の行進は、当時のエルサレムでは人々の心に強烈なインパクトを残して、初期キリスト教団の成立に一役買ったのでしょうね。その場にいてイエスの姿を見ていたら、思わず入ってしまうかもしれません。甚だしく板違いですので、違星北斗に戻します。
さて、違星北斗の辞世に、
いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
キリストの如安きに居らむ
(どうしたら死を前にして「私は世に勝った」と叫んだキリストのように心安らかにいられるのだろうか、というような意味でしょうか)
とありますが、この「我世に勝てり(私は世に勝った)」というのは「ヨハネの福音書」からで、いわゆる最後の晩餐で弟子達に言った言葉です。「私はもうすぐいなくなるけれども、勇気を持って生きよ、神の国はもうきているのだ」というようなことでしょうか。よくわかりませんが。
映画「パッション」はゲッセマネでの祈りから始まりますから、最期の晩餐のシーンは回想シーンとして出て来ますが、このセリフはなかったと思います。
この短歌は、北斗のキリスト教への憧れと不信感の微妙なバランスを表しているんだと思います。
バチラー親娘や平取教会の人々、思想上の師である後藤や西川、幼なじみの中里凸天、そして何より同族で「女神」のように憧憬していた知里幸恵といった、多くのキリスト者との直接的間接的な関係があった北斗ですから、キリスト教を信じようとしたこともあったでしょう。短歌に詠み込むぐらいですから、聖書も読み込んでいたのかもしれません。しかし、信じ切れない「何か」があったのだと思います。
それが何なのかを考えるのも、また私のこれからの重要なテーマの一つだとも思っています。
あと……これはパッションを見て思ったのですが、すこし穿った見方かもしれませんが、北斗はある程度、自分の活動とキリストの布教とをを重ねて見ていたのかもしれません。並木凡平が「同族の救世主」とか言ってますが、北斗も全く意識しないことはないのではないでしょうか。石持て追われる……とまではいかないまでも、正しき道を行こうとして同族から冷笑を浴びせかけられたり、いくら言葉を尽くして理想を語っても、全く理解してもらえなかったり、苦難の連続だったと思いますが、そんなとき、キリストの受難を思って勇気づけられたことはあったかもしれません。(「十字架」という「シンボル」を背負ったキリストに対して、違星北斗は「北斗七星」という「シンボル」を背負ってもいるわけで……そういう類似もあるかと)。
しかし、短命なイメージのあるキリストだって33年だか35年だか生きているのですね。違星北斗の27年の生涯の短さを思うと、やりきれないものがあります。志半ば……本当に半ばです。こつこつと種を播き、ようやく芽が出るか出ないかで絶命してしまいました。じょじょに活動に同調する者、興味を示す者出て来て、ネットワークをつくりはじめようかというその時だと思います。
もし北斗がせめて35といわず、30まで生きていたら……現在のアイヌをとりまく状況はまったく違ったものになっていたのかもしれないのに、と思わずにはおれません。
すみません。眠くて脈絡のない文章になってしまいました。
なかなか 投稿者: 管理人 投稿日: 4月20日(水)22時41分4秒
本文の更新ができませんが……
北海道へ上陸するまでに「研究」のページを作って、いろいろテーマごとにまとめたいと思っています。
メビウス2号(ノートパソコン)の液晶が暗くて見えなくなってしまいました。
一応外付けのディスプレイをつなげば使えない事もないのですが。
あすにでも修理に出すつもりですが、おそらく北海道に持っていくことはできないでしょう。北斗関係のデータから、なにから何まで入れてあるのですが………。
すでに一年保証は終わっていて、有償修理です。
ローンだってこの正月に払い終わったばっかりなのに。
先代のメビウスも液晶でやられました。思えば一年足らずでした。
さすが、液晶のシャープとはよく言った(言えた?)ものです。
悲しい。
いろいろ終わらせておかねばならないことがありまして、心をなくしております。
その上、風邪をひいてしまい、困っています。
とにかく、29日の夜に、舞鶴行きのフェリーに乗るために、がんばります。
金曜の夜に小樽へ戻る時、フゴッペのあたりで雪がちらほら舞っていました。今年は本当に春が遅い。我が家の庭も、残雪はもちろん、冬囲いの木材が(雪の重みで)バキバキ折れていて、いや惨憺たる有様。
せっかく小樽・余市にいらっしゃるのにこんな風景では申し訳ないなぁ…とも思うのだけれど。でも、ちがう気持ちもある。北斗が生きて動いていた世界は、絵葉書みたいな「北海道」じゃないことを知っているから。
30日の夜はどうしましょうか? 手に『コタン』持っているのが私です…というのは、ちと恥ずかしいな。(以下、メールにします)
すこし体調を崩してしまいまして……。
しかし、本日、社長から休みの許可を本格的に頂きました。
これで心おきなく、舞鶴から船出できます。
ただ、なんとも、もうしわけないのが、大阪の難儀な風邪のウイルスを、北海道に持ち込んでしまうかもしれないことです。
出発を前に、定例の「違星北斗」検索をしていたら、新しいページがひっかかりました。
それも、けっこう、サプライズです。
「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」宮沢賢治学会・会報第30号
http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho30/
下の方に
「冬季セミナー講演(要旨)宮沢賢治「土神ときつね」と知里幸恵『アイヌ神謡集』
二〇〇四年十二月五日宮沢賢治イーハトーブ館 秋枝美保」
という記事があり、アイヌと賢司についての研究を発表されていて、そこに北斗の記事があります。
秋枝美保さん、という人の研究なんですね。
5 、田中智学とアイヌの接点
『天業民報』昭和五年八月五日に、「違星青年を惜む」という記事が掲載されており、アイヌの歌人「違星北斗」追悼(昭和四年没)に寄せて、彼が智学の下を訪れていたことが紹介されている。アイヌの青年たちと仏教との接点が認められ、興味深い。本発表では、賢治の実践活動への結節点にアイヌ文化との接点があったことを示した。
とあります。
田中智学という仏教の指導者がいて、その人による「違星青年を惜しむ」という記事があるのですね。
それにしても宮沢賢治学会とは……そして、田中智学とは!?
やはり、北斗は「仏教徒」であったがゆえに、キリスト教との距離をおいていたのでしょうか。この「天業民報」も見てみないと。
田中智学も調べないと。
また新たな発見があるかもしれない!
思文閣 サイト・美術人名辞典より
田中智学
たなか ちがく
宗教家。東京生。東京江戸川一之江妙覚寺で得度。のち僧籍を返還し、日蓮宗を脱して日蓮主義による宗教活動を提唱。立正安国会創立。日刊新聞『天業民報』を発行。国柱会本部を建設。昭和14年(1939)歿、79才。
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_id.php?id=4263
この国柱会にも、北斗は出入りしていた、ということでしょう。
「違星青年を惜しむ」を読んだら、そのへんはわかるんでしょうね。
国柱会には宮沢賢治が入会していたんですね。
はあ、なんだか、中原中也だけじゃなくて、宮沢賢治も、北斗のまわりにちらついてきたような……まあ、共通の知人がいる、と言うレベルなんですけど。
確か、大正15年に宮沢賢治が上京しているんですけど、
12月、チェロを持って上京。上野図書館やタイピスト学校で勉強。オルガン、チェロの練習、エスペラントを学習。29日、帰郷。
引用:http://www.city.hanamaki.iwate.jp/main/kenji/nenpu.html
惜しい。北斗は大正15年の七月に北海道に帰っているから、数ヶ月の差ですね。
しかし、北斗が「希望社」と同じようなつきあいを「国柱会」としていたとしたら、賢治と北斗はお互いの文を読んでいたかも知れない。(賢治が幸恵の「神謡集」を読んでいたのでは、というのが、秋枝先生の研究なのだと思いますが……。
うーん。深い。
ちょっと引っかかるなあ。
先の発表の要約なんですけど。その最後に
アイヌの青年たちと仏教との接点が認められ、興味深い。
って、なんか変じゃないですか?
だって、北斗が東京にいて、国柱会と接近したのは大正14年や15年ですよ?
だいぶ前に書きましたけど、北斗は普通に「仏教徒」だった、と思われるわけで、それをアイヌの青年たちと仏教の「接点」だなんて書かれてるけど、なんか違和感だなあ。
「接点」もなにも、おそらく北斗は祖父の代から普通に、仏教徒だったとおもうんですが……この文脈(元のHP参照)では、いかにも、「神謡集」の世界の住人、宮沢賢治にインスパイアを与えた、ピュアな妖精かなにかの文化の、その担い手であるかのような青年の一団が、はじめて仏教にふれ、それがとっても珍しいことのように読めてしまう。
(私だけでしょうか?)
そんな……。
変だなあ。
うーん。
(これは秋枝先生の講演の内容ではなくて、HP上の表現についての感想なんですが……)
調べれば調べるほど、「国粋主義的」ですねえ。
日蓮と、国粋主義ですか。
宮沢賢治と、
石原完爾ですか。
東京時代の、北斗の右傾っぷりを示す、一つの極かもしれませんね。
でも、なんとなく、わかるような気がする。
北斗の東京での空白の期間の秘密は、このあたりにあるのでしょうか。
後藤静香の希望社、西川光次郎の自働道話社、田中智学の国柱会。
金田一京助、博文館の中山太郎、伊波普猷、山中峯太郎、永井叔。
北斗は、一年半の東京時代を、ただおとなしく労働していただけではないのでしょう。紹介、紹介でつてを辿って、いろんなところに知己を得て、いろんな組織に出入りしていた。
まだまだ、北斗が東京で会い、親しくつきあった「著名人」はいると思われます。
何か、私に見えていない大きな目的があったのでしょうか?
何か、隠れているものがあるのでしょうか?
北斗は、一体、東京で何をしようとしていたのか……?
石原完爾が国柱会のメンバーだっただけじゃなく、極真会館の大山倍達総裁もそうだったそうで、なんでも大山総裁に空手の手ほどきをした曹寧柱という人が国柱会だったと。
違星北斗を調べてたら、それまで私がやってたことと関係あることが、いろいろ出てくるものですね。
私は「空手バカ一代」を読んで極真空手を始めましたし、大学時代にゼミのY先生の専門が中也と賢治だったりもしまして、なにやら不思議だなあ、と。
ゼミの3年次の発表では「言霊の虐殺とは何か?」ということで、金田一と知里真志保の確執を調べたんです。その時に参考書類として、北斗の短歌を刷ったんですが、それを見られたY先生は、「かえって現代的で新しいね、特にこの立ち食いソバの短歌なんて」みたいなことをおっしゃられ、それがずっと心にのこってたんだと思います。
金田一・知里の確執から、違星北斗に興味が移ったのは、それからなんだなあ、などと思っていたりもします。
ただ今、小樽のあらや様宅に居候しております。
いろいろ、本当にお世話になりっぱなしです。ありがとうございます。
本日、道立図書館に籠もりまして、いろいろ未知の資料と対面いたしました。
本日対面した資料
(1)NHK札幌 ラジオドラマ台本『光りを掲げた人々・違星北斗』
ちょっと期待はずれでした。金田一の『違星青年』および古田謙二の『落葉』をベースにしてこさえた感じ。あっというサプライズはなし。違星北斗をよく知らない人が書いたという感は否めない。
北斗のキャラクターもものすごく田舎キャラで、ものすごく抵抗があります。
詳細は後日。
(2)『違星北斗遺稿集』
詳細は後日。12頁の小冊子、ということですが、ほとんど全集についてくる「月報」です。
(3)『志づく』第3巻第1号
(5首掲載。うち一首が『コタン』未掲載の短歌。新発見!!)
詳しくは後日。
でも一応載せておきます。
悪いもの降りましたネイと
挨拶する
北海道の雪の朝方
あとの4首は
シリバ山 もしそにからむ/波のみが/昔を今に ひるかへすかな
正直なアイヌだました/シャモをこそ/憫れなものと ゆるす此頃
久々で熊がとれたで熊の肉/何年ぶりで食ふたうまさよ
コタンからコタンを巡るも/嬉しけれ/絵の旅 詩の旅 伝説の旅
(4)『志づく』第3巻第2号 (「違星北斗特集号」)
詳細は後日。
(5)『北海道人』北斗掲載号は道立図書館にはなし。ちなみにT156月号はアイヌ研究号
(6)『北海道歌壇史』「新短歌時代」の項に違星北斗および並木凡平の記事
(7)『余市文教発達史』北斗、古田謙二、島田弥三郎、山岸礼三について、また祖父万次郎の上京についても記述あり。
また、この文書が北斗の情報源としてあげている書名が『明けゆく後方羊蹄』というもので、ここに北斗のことが載っているらしい。
(8)司書の方が出してきてくださった『あいぬ実話集』『あいぬ人物誌』にも北斗の記述がありましたが、金田一の「あいぬの話」「違星青年」等の引き写しでした。
(9)小樽新聞のマイクロフィルムで西田彰三氏との「フゴッペ論争」を探したのですが、惜しくも閉館時間。そして、2,3,4と道立は3連休。
もういちど5日か6日に来ることになりそうです。
明日はいよいよ、余市を歩きまわってきます。
余市のみなさん、きょろきょろあやしい男が歩いていたら、私ですのでどうか石もて追わないでください。
今回得た情報は、いずれも、大阪に帰ってから、情報を整理してHP上に反映させます。
あらやさんともいろいろ情報交換できて、勉強になっています。
それでは。
今日は、自転車に乗って、余市の町を走りまわってきました。
しかし、私はよっぽど馬鹿なのでしょう。
フゴッペ洞窟、水産博物館、余市町図書館など、公立の施設はことごとく休みでありました。
一応、外から見れるところ(旧フゴッペ壁画跡、北斗句碑)等は見てきましたが。
また、明日ということになりますね。
町役場に行き、教育委員会のカウンターで「違星北斗について調べているんですが」と言うと、案の定、若い職員さんに、「違星北斗? それは誰ですか?」と言われてしまいました。
やっぱり、地元の人でも知らないんですねぇ。
でも、年配の職員の方が知ってらっしゃったみたいで、水産博物館に詳しい方がいらっしゃるそうです。やはり明日は行かねばなりませんね。
さんざんっぱら自転車で走りまわっていたので、おかしな人と思われたかもしれませんが、いろいろと発見がありました。
これは! という偶然の発見もありました。
でも、それが新たな謎を呼んでしまったりもしました。
北斗や凸天の生れ育った(と思われる)あたりも見てきました。駅にも近いので大通りは賑やかなのですが、一歩内側に入ると、とても静かで、時間がとまったような感じがしました。海辺には廃屋も目立ちました。
鰊漁盛んなりし頃は、きっとものすごく賑わっていたんだろうな、と思いました。
今日はなんだか余市の町そのものを探検した感じです。
戻って参りました。
海が荒れて船がかなり揺れましたので、いまも船上にいるようにゆらゆらしております。
帰りますと、ポストに「国柱会」から御手紙が。
北斗について書かれた「違星青年を惜む」についてメールで質問したのですが、封書でお返事いただいたのでした。
本当に感謝。ありがたいです。
今回の北海道行は本当に成果がありました。
ありすぎてどこから手をつけていいものか。
じょじょに発表していきたいと思います。
とりあえず、今日は寝ます。
今日のところは
国柱会の方から送って頂いた「違星青年を惜む」です。
昭和五年八月五日および六日に掲載されたもので、著者は田中智学先生ではなく、その一番下の娘さんの田中(のちに結婚されて岩永)蓮代さんという方だそうです。
※
違星青年を惜む(一) 田中蓮代
違星青年を惜む――と申しましても、私には一面識もなく、昭和四年一月二十六日に二十九歳を一期として永眠されたアイヌ青年でした。
最近の或日、且て私が言語学を教へて頂いた金田一先生を阿佐ヶ谷にお訪ねしました。学界の権威殊にアイヌの研究に於ては第一人者であられる文学博士金田一京助先生――学者的真摯と細やかな人情とを兼ね備へられた先生に適はしいお書斎で、思ひがけなくも違星青年のことを伺つたのでした。
「此の青年は貴女のお父様を崇拝してゐまして、三保の講習会へも伺はせて頂いたとか、色々の感銘をよく語つてゐました。お父様はきつと斯ういふアイヌ青年のゐた事を御存知かもしれませんから此の遺作集をお目にかけて頂けましたら、亡き違星君も満足する事で御座いませう」
かう云つて先生がお出しになつた一冊の本は「コタン」と名づけられた、アイヌ青年違星北斗(号北斗)氏の遺作集でした。
此の遺作集を読んで、私は生ける違星氏に接する感を得たのでした。アイヌである事をかくしてシヤモ(和人)に化けてゐる同族のある事を、彼は身を斬られるやうな思で歎じてゐます。
吾人は自覚して同化する事が理想であつて模倣する事が目的でない、況やニセモノに於てをやである」
アイヌでありたくない――といふのではない――シヤモになりたい――と云ふのでもない。然らば何か。平和を願ふ心だ。適切に云ふならば日本臣民として生きたい願望である」
かうした言々句々の鋭さ。彼はまさにアイヌ民族の彗星です。
アイヌには乃木将軍もゐなかつた、大西郷もゐなかつた、一人の偉人をも出してゐない事は限りなく残念である、されど吾人は失望しない。せめてもの誇は不逞アイヌの一人も出なかつた事だ。今にアイヌは衷心の欲求にめざめる時機をほゝゑんで待つものである、水の貴きは水なるが為であり、火の貴きは火なるが為である」
かう云つて彼は朴烈や大助がアイヌから出なかつたことに胸をなでおろして、アイヌの前途にせめてもの光明を見出さうとしたのでしたが、それが極めて覚束ないと考へる時のさびしさは、如何に堪へ難いものでしたらう。
公明偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「われアイヌ也」と絶叫するのだ。(中略)アイヌは亡びてなるものか。違星北斗はアイヌだ今こそ明く斯く云ひ得るが……反省し、瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視(みるめる)のである」
最後の一句の寂しさ。
※
ここまでが八月五日の文です。(続く)
続いて、八月六日の分です。
※
彼はまた短歌に於て自分の心持を適切に表現してゐます。彼は、自分の歌はゴツ/\してゐるが虚偽でないものを歌ふ、と自ら云つて居ります。
はしたないアイヌだけれど日の本に生れ会せてた幸福を知る
滅びゆくアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く
我はたゞアイヌであると自覚して正しき道をふめばよいのだ
アイヌとして生きて死にたい心もてアイヌ絵を描く淋しい心
ネクタイを結ぶと覗くその顔を鏡はやはりアイヌと云へり
ガツチヤキの薬を売つたその金で十一州を視察する俺
昼飯も食はずに夜もなほ歩く売れない薬で旅する辛さ
ガツチヤキの薬如何と人の居ない峠で大きな声出してみる
アイヌ研究したら金になるかときく人に金になるよとよく云つてやつた
葉書さへ買ふ金なくて本意ならず御無沙汰をする俺の淋しさ
佐藤湯を呑んでふと思ふ東京の美好野のあの汁粉と粟餅
同胞(ウタリー)は何故滅びゆく空想の夢よりさめて泣いた一宵
悪辣で栄えるよりは正直で亡びるアイヌ勝利者なるか
崩御の報二日もたつてやつときく此の山中のコタンの驚き
病よし悲しみ苦しみそれもよしいつそしんだがよしとも思ふ
これらは二百首近い歌の中からほんの僅かをあげたに過ぎませんが実にその意気と念願と、そして繊細な人生観照とが漲つてゐます。
多感なる違星青年は遂に和人(シャモ)になりすましてゐる事に堪へ切れず飄然と、眠れる北海の部落へ帰つて同族を覚醒せしめようとしたのでしたが、そこには無理解な嘲笑がある許りで、彼の掴み得たものは貧困と云ふ事実だけでした。身体を虐使した彼は遂に傷ましき病床に横たはつて、無量の感慨に悶えるのでした。
血を吐いた後の眩暈に今度こそ死ぬぢやないかと胸の轟き
頑健な体体でなくば願望も只水泡だ病床に泣く
アイヌとして使命のまゝに起つ事を胸に描いて病気忘れる
東京を退いたのは何の為薬のみつゝ理想をみかへる
宿望――彼は病床にあせりましたが時にはまた
何をそのくよ/\するなそれよりか心静かに全快をまて
と歌って自ら気をとりなほしてもみましたが、遂に死は迫りました
世の中は何が何やらしらねども死ぬ事だけはたしかなりけり
かうした予感をとゞめて幾ばくもなく、次第に違星青年の身体は冷えて二十九才の春に先だつて燃ゆる希望を抱いたまゝ名残をしくも短き此の世の春を終つたのでした。
遺稿集をよみ終へた時、此の多望なるアイヌ青年を追惜するのは念は誠にやみ難いものでした。
亡びゆくアイヌ――それを傍観してゐてよいものか、又はその中から何ものかを見出すべく研究しなければならないものか、そしてその研究がどれ程の価値を有するか、等々の問題は、衰滅近きアイヌの上になげられた一大問題であると思ひます。
日本の先住民族であつたらしいアイヌの文化と日本の歴史との関係、即ち文字のないアイヌが口伝してきた所の伝承は、たとへ順次に各時代の色彩が加はつてゐるとは云へ、生きた言語によつて伝へられた伝説は、普遍性を帯びた民衆的社会的の思想傾向として、正史では知られない所の日本原始の姿の上に何等かの関係ある事実を有してはゐないでせうか。
違星青年をして人生五十の齢まであらしめたならば、自然科学的研究の上にも文化科学的研究の上にも、右の如き懸案に多少なりとも裨益する点がありはしなかつたかと、返らぬ事ながら残念に思はれます。
然し乍ら心身を堵しての金田一先生が、重き使命を負はれてアイヌ研究を続けられる限り違星青年の魂も亦、北海コタンの地下にその焦慮を鎮めて、安らかに眠ることが出来ると信じます。(終)
※
北斗が「三保の講習会」に行ったことがあること、そして田中智学のことを金田一にも度々語っていたということがわかります。そして、興味深いことは、その繋がりが直接田中智学の筆によってではなく、金田一に学んだ娘の田中蓮代さんが、偶然金田一を訪ね『コタン』を託されたことによってこの記事が書かれた、ということです。
この「三保」とは、当時国柱会の本部があった静岡県三保だと思います。
すると、これは北斗の訪れた最西端になります。
これまで、最西端は高尾山だと思っていたのですが、静岡県ですか。
もしかしたら、関西にも来たことがあるのでしょうか? わかりませんが、そうだと嬉しいですね。
とりあえず、入手した資料、事実などを。
・違星北斗の詳細な家系図(これまで知られていなかった情報や、驚きの事実が多々出て来ました)。
・大正15年当時の余市大川町の地図(北斗の生家や、周囲の状況がわかりました)
・大正3年、余市アイヌの集合写真(北斗は写っていませんが、兄の梅太郎や中里徳太郎等が写っています)。
・これまで未発見の北斗の「色紙」の写真(書と絵)
・北斗と森竹竹市との書簡が白老の「森竹竹市研究会」にあるらしいこと。
・父甚作の樺太での狩猟と、5月のレプンカムイ祭りについて、その他。
・小樽新聞フゴッペ論争ほぼ全文(西田その1、西田その2、北斗、西田反論)
・その他
とりあえず書いておきます。詳細は徐々に。
乞うご期待と言う感じです。
とりあえず、これまでのいろいろな発見や研究を「研究」ページにまとめます。
テキストも多くなりましたので、整理します。
違星家のエカシシロシは書物では「※」だとされていますが、実際は「※」の左右の点がありません。(下図)
実際、「小樽新聞」に掲載された時点ではちゃんと正しい記号になっているのです。
しかし、希望社の『コタン』がそれを「※」で表したため、以後全ての文書で「※」になってしまったようです。
(このエカシシロシ、違星家の墓石にも「家紋」として刻まれています)。
ちなみに「我が家名」は「フゴッペ」掲載時に「閑話休題」として掲載されています。これも『コタン』掲載時に「我が家名」とタイトルをつけられたのでしょう。
管理人@高田馬場 投稿者: 管理人 投稿日: 5月14日(土)15時02分12秒
東京に来たついでに、新宿区中央図書館へいってきましたが、あまりめぼしい成果はありませんでした。
新宿君の後藤静香の希望社のことと、東京府市場協会について、なにかあればと思ったのですが。
司書の方が、平林たい子氏の「希望社の真の希望は何であったか?」という文章を見つけてくださったのですが、これは後藤静香の教育の名目で学生を労働に使用する、希望社運営の欺瞞を告発したものです。
あとは、大宅文庫目録で、希望社に関するいくつかの記事の存在を得たぐらいです。
「希望社に欺されるな!」(山本美智子)女人藝術1930.10 P.20
「希望社の没落、その他」(加藤武雄)婦人サロン1931.11 P.40
「希望社の正体」(林熊王)犯罪公論1931.12 P.171
「其後の後藤静香」 話1934.9 P.112
これらは、北斗の死後、後藤静香のスキャンダルが発覚するかしないかといったころの記事だと思います。
大正14,5年の新宿の地図に、「希望館」「勤労女学校」の文字をみつけました。また角筈に「青物市場」とあるのですが、これが市場協会でしょうか。
それにしても市場協会や希望社に関するものは、いったいどこにあるんでしょうか。
国会図書館にあるのでしょうか。
成果なし。
昨日は東京プリンスのイベントの流れで、朝までコースでした。すこし休んで、
今朝は北斗の祖父万次郎が留学した「芝増上寺」にいってまいりました。清光院を見るためです。
増上寺の寺務所で「清光院はどこですか」と聞くと、若い作務衣を着た丸坊主の人が、「ありません」というので閉口しました。ちゃんとテキストを見せて字を確認してもらったのですが、ありませんの一点張り。
そんなわけないので、もっと年長の人に聞いたりしてほしかったのですが……。
むこうが自信満々なので、そのまま引き下がってきました。
その後、ネットカフェで調べてみました。
やっぱり、ある。
http://www.shiba.gr.jp/seikoji/
確かに「清光院」じゃなくて「清光寺」だけど、もともと清光院だったわけで、それを知らないのかもしれませんし、知っててそこまで連想力がいかなかったものかもしれませんが……。
うーん。こっちは大阪から「清光院」を見に来ているのに、ひどいなあ。
かといって、もう帰るから見に行く時間もないし。
今日はその芝増上寺のあと、電車を乗り継ぎ、徒歩で麻布の都立中央図書館にわっせわっせといってきたのですが(東京府市場協会の服務規程なる書物があるそうです)、間の悪いことに「休み」。えーって感じです。
今回の東京はあまり成果なし。残念。
※poronupさんより、この清光「寺」は「清光院」とは違うという指摘を頂きました。
東京行きで全部つぶれてしまいましたので、今週よりサイトの更新を進めて行きたいです。
芝増上寺は、本当に立派なお寺ですね。
関西人としては、やっぱり神社仏閣は関西だ!っていうのがあったのですが、いやあ、すごい迫力でした。
これを見た万次郎も、いや、北斗だって驚いたでしょうね。
書き込みを削除しました。
プライバシーへの配慮が足りなかったためです。
その件については、議論を重ねる必要があると判断し、削除しました。
違星家のエカシシロシが「※」ではない、と先に書きました。
これは非常に重要なことです。
『我が家名』
違星家の家名「違星」は「違い星」から来ているとあります。
では、何が「違う」のか。
何と「違う」のか。
「※」ならば単に「星」です。
ワープロで「ほし」と打てば「※」が出ます。
「※」では、「星」と「違わない」のです。
つまり、「チガイボシ」は「※」ではない、ということです。
違星家のエカシシロシ「チガイボシ」は「※」ではないけれど「※」に似た記号
(下図)なのです。これこそが「違い星」なのですね。
小樽新聞にはちゃんと掲載されていたのです。
そして、古田謙二は遺稿整理の際、希望社に小樽新聞の切り抜きをそのまま送っています。
間違えたのは希望社の編集者なのです。
わざわざ星と違う、「※」じゃないと言っているのにもかかわらず、希望社の『コタン』編集者は、わざわざ「※」の活字を使ったのです。
これは、文意を無視しており、北斗が「我が家名」に込めた本来の意味を失わせてしまっています。
本当に、惜しいことです。
『コタン』編集者として名前があるのは岩崎吉勝か宗近真澄ですが、岩崎は管理者のようで、実務を担当したのは宗近かその部下でしょう。岩崎は完成したものを見て、脳天気な短歌を何首が残しています。
シヤモ達の米屋の符号それと同じ/シロシより出でしイボシ家の君 (『跋』)
岩崎はやはり「※」だと思っていたようです。
奇妙なのは、希望社『コタン』には、ちゃんと違星家のエカシシロシが登場しています。『疑ふべきフゴツペの遺跡』の中に、余市のエカシシロシの一つとして出て来ていて、活字がないので、たぶん凸版で作ったのでしょう。それなのに、『我が家名』ではそれを使わず活字の「※」を使った。
我が家名は、至るところで引用されていますが、この点を指摘している人は残念ながらいません。
『コタン』発売後、80年の時を経た現在も「チガイボシ」は間違えられ続けているわけです。
※このエカシシロシの由来については、正しくありません。この後の7月3日の書き込みでさらに考察しています。(05年10月16日追記)
北海道での 投稿者:管理人 投稿日: 5月22日(日)18時02分49秒
収穫を整理しています。
そこで、ささやかな発見をいくつか。
(1)『コタン』にも載っているのですが、小樽新聞2月27日に、北斗の短歌が載っています。
白老 違星北斗
夕陽がまばゆくそめた石狩の雪の平野をひた走る汽車
行商がやたらにいやな一ん日よ金のないのが気になってゝも
ひるめしも食はずに夜の旅もするうれない薬に声を絞って
金ためたただそれだけの先生を感心してるコタンの人だち
酔ひどれのアイヌを見れば俺ながら義憤も消えて憎しみのわく
小樽新聞には、『コタン』ではわからない情報が。
名前の所にある「白老」ですが、これは北斗が2月27日の数日前に白老にいた、ということでしょう。
白老方面での足取りを、まとめてみますと、
昭和3年
2月下旬 白老から『小樽新聞』に短歌を投函。(A')
2月24日ごろ 『自働道話』白老、親しい友が死んでいた(B)
明後日ホロベツ方面へ。(C”)
2月26日? 幌別に。(C’)
2月27日 『小樽新聞』掲載(A)
2月28日夜? 知里真志保と同宿。
吉田はな宛葉書をこの夜書いたなら
「知里ましほ君と二人で泊まつてゐます」(D)
「明日出発の予定です。」(E)
「一昨日当地(幌別)へ参りました」(C)
2月29日 『吉田はな宛葉書』を投函。
2月29日 『日記』豊年健治君の墓に参る。(B)
2月29日 幌別を出発? 八雲方面へ?(E')
確定している日付は2月29日に吉田はな宛葉書を投函していること(「泊まっています」ということは、前夜までに書いたということでしょう)と、同日、豊年健治君の墓に参っていることです。あとは「一昨日」「明後日」や、郵便を出してから届くまでの日数をもとに、相対に割り出した日付です。だいたいこういう感じだとは思うんですが……。
うーん、おかしい。
これでは白老の豊年健治君の墓は「幌別」にあったことになってしまう。しかし、豊年健治君は「一昨年の夏寄せ書した』ということは、この一昨年とは大正15年のことですから、東京から帰ってきてすぐ「明日七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした」に一致しますね。
別に豊年君が白老の人でも、ホロベツの人でもかまわない気はします。
この3月は、北斗の足取りは不明です。本当に八雲方面に行ったのでしょうか。
4月には喀血し、闘病生活に入ります。
昭和3年2月27日の小樽新聞の同じ短歌欄に、並木凡平の次のような短歌があります。
旅に出てアイヌ北斗の歌思ふこゝがコタンかしみ/゛\と見る
並木凡平が、どれほど北斗に感銘を受けていたかわかりますね。
北斗の肖像はいままで、3点見つかっています。
(1)小樽新聞、遺稿集、草風館版『コタン』などに載っているもので、一番知られている写真。
(2)『アイヌの歌人』に掲載されている写真は、白目と黒目がはっきりしていて、黒目がちな北斗の写真とは、雰囲気がちがいます。「(大正15年東京にて撮影)」のキャプションがあります。
(3)『思い出の人々』に掲載されている、中里篤治と一緒に写っているもの。
いずれもが同じ服を着ているのですが、これは一体なんだろうと思っていました。
いろいろ調べたのですが、これ「国民服」(乙式)に酷似していますね。
ただ、「国民服」が制定されたのが昭和15年ですから、大正時代にこの服が「国民服」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが……。
(1)の写真、いろいろなヴァージョンがあり、背景が写っているものと写っていないものがあります。
一番広い範囲が写っているのがこの「違星北斗遺稿集」(昭和29年)の写真で胸より上が写っています。
「フゴッペ」に出てくる「ヌサマカ翁」ですが、『余市文教発達史』には「マサマカ」とあります。どっちが正しいのでしょう?
小樽新聞の初出の方の「フゴッペ」と、希望社版の「フゴッペ」には、違いがあります。
小樽新聞での「違星家のエカシシロシ」が『コタン』では「※」になってしまっている、というのは先にも書きましたが、さらに精読してみると、あることに気づきました。
小樽新聞版と、『コタン』版では、「※」と「違星家のエカシシロシ」が、全て入れ替わっているのです。
どういうことかというと……。
うーん。
すみません。掲示板上では表現できませんね。
また今度、HTMLで説明します。
『余市文教発達史』によると、明治5年5月21日、余市アイヌ(男6人、女2人)が東京へと出発したそうです。当時万次郎は20歳。
万次郎は「成績優良で、東京出張所に採択され、開拓史の仕事にたずさわった」とあります。
「役人」であったというのは、本当だったのでしょうね。(それがそのような「役人」であるかは別として)。
余市文教発達史によると、北斗の俳句の師である古田謙二(号・冬草)は
冬草は、学究的、敬虔な基督教徒として信仰厚く「聖書研究」を常に手許から離さなかったことでも、その人柄が偲ばれる。
(田坂要人『追憶される人々』より)とあります。
また、北斗に思想的一大転機を与えた登小学校の校長・島田先生のフルネームが島田弥三郎だということもわかります。
北斗の主治医、山岸礼三についても
山岸礼三は東京の旧制第一高等学校を卒業し、明治三十四年(1901)に医師免許を取得、日露戦争での軍医としての活躍が認められ、従五位勳三等を受け、大正九年(一九三四)十二月、余市町内大川町で開院した。気さくな人柄で、困っている人には温い手を差しのべ、名医として慕われた。病院内の一室に、山岸コレクションとよばれる土器、石器を収集し、郷土研究への関心を高めた。
とあります。漢詩などもよくしたようです。
この山岸医院は北斗の家のすぐそば、徒歩10秒です。
私が持っている希望社版『コタン』には、北斗の肖像写真はありません。
ところが、郡司正勝さんは『国文学』「回想・この一冊」で
違星北斗青年の、本書の扉の、網目の荒い肖像写真は、アイヌ人らしく頬骨の張った、逞しい顔容ちだが、その目は、美しくあくまでも澄み、おどおどと、淋しげである。
とあり、郡司さんの『コタン』には扉に北斗の写真があるようですね。
なぜだろう?
郡司さんのは5版で、私のは初版らしいのですが、版によって違うのでしょうか?
※これについては、旅の途中で出会った何冊かの希望社版「コタン」で確認出来ました。私のものは、その写真のあるページがページごと無くなっているようでした。
小樽新聞における違星北斗と西田彰三の「フゴッペ論争」の全文を、テキスト化することにしました。
とりあえず、ブログを作って、そこに書き込んでいます。
気長に入力しますので、気長に見ていただきたいと思います。
1、 昭和2年11月14日 フゴッペ発見記事
2、 11月15日〜11月20日
西田彰三「フゴッペの古代文字並にマスクについて」(全6回)
3、 12月3(?)日〜12月7日
西田彰三「再びフゴッペ 古代文字と石偶について」(全5回)
(第1回欠、道立図書館のマイクロフィルムになかった)
4、 12月19日、25日、30日、昭和3年1月5日、1月8日、10日
違星北斗「疑ふべきフゴッペの遺跡 問題の古代文字 アイヌの土俗的傍証」 (全6回)
5、 7月25〜28,31日,8月2、4〜7日
西田彰三「畚部古代文字と砦址並に環状石籬」(全10回)
小樽新聞昭和2年12月4日に載っている、並木凡平による違星北斗の紹介記事です。
※
歌壇の彗星
今ぞたつ
アイヌの歌人
滅びゆく同族の救世主
余市の違星北斗君
握り飯腰にブラさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声
暦なくとも鮭くる時を秋としたコタンの昔したはしきかな
ホロベツの浜のはまなす咲き匂ふエサンの山は遠くかすんで
北海道色の濃いこの三首の歌が快律と清新な写実亡びゆく同族と虐げられるアイヌの中から男々しくも乗り出した違星北斗君が日本歌壇へ投じた第一矢がこれである
◇
彼はまた叫ぶ、高らかに叫ぶ。シヤモへの挑戦として叫ぶ。
俺はただアイヌであると自覚して正しき道をふめばよいのだ
かくさずに「俺はアイヌだ」と叫ぶのも正義の前に立つた喜び
シヤモといふ優越感でアイヌをば感傷的に歌よむやから
彼も亦青春の赤き血に燃えたぎる情熱の児であつた、コタンの革命歌人として、今ぞ同族の救世主となつて火と吐く意気は、舌に筆に、われらの前に大きな驚異を与えやうとするまこと真剣なその姿よ!
◇
余市にうまれた彼の家は貧しかつた。尋常六年を卒へると、石狩の漁場などに糧を得る労力をさゝげた、その間石に追はれる迫害に彼の思想の一転機は来た、それは十年程前、某新聞の歌壇に
いさゝかの酒のことよりアイヌらが喧嘩してあり萩の夜辻に
わずか得し金もて酒を買つてのむ刹那々々に生きるアイヌら
の歌は遂に彼れを爆発させた、この憤怒は一層反逆思想へ油をかけて燃え上つた、まだ雪深い大正十四年二月、彼は上京して東京府工場協会の事務員に働くことゝなつた、そして絶えず思索方面への錬磨をつゞけ、金田一博士その他の名士の門に出入りした。
◇
今日、演壇に起って叫ぶのも、筆をもてば立派な歌を作るのも、シヤモへの報復の一念に、燃え上がる焔の意気に出発してゐる。かくて再びコタンに帰つてから、彼は同族の遺跡をたづねて、アイヌ人の手になる記録を世にのこさうと白老や日高に徒歩の旅をつづけた
コタンからコタンを廻るも嬉しけれ絵の旅、詩の旅、伝説の旅
オキクルミ、トレシマ悲し沙流川の昔を語れクンネチュップよ
の歌はこゝに生れた。
◇
高商西田教授のフゴツペの古代文字の学術的研究に対しても、彼はアイヌとしての疑問を抱き、近くその研究を発表するとも聞いた当年二十七歳、彼の未来は恐らく同族の味方として何等かの貢献をさゝげるであらう。
仕方なくあきらめるといふこゝろ哀れアイヌをなくしたこゝろ
強いもの!それはアイヌの名であつた昔に恥よ、さめよ同族
革命歌人違星北斗!われらは暫らく温かいこゝろをもつて、彼の前途に祝福を祈らうではないか(凡)
――写真は違星北斗君
※
これは、草風館の『コタン』の付録「くさのかぜ」にも載っていないので、貴重かと思います。
内容の中で北斗の近況については、金田一の「違星青年」にすこし似ているのですが、よく考えてみると、金田一の「違星青年」は北斗の死後発表されたものであり、この並木凡平の紹介記事の方が当然早いわけですね。
いわば、北斗の事実上のデビュー、といえる記事です。
『北海道の文化』61号(平成2年2月)所収の「ヨイチアイヌの民俗『カムイギリについて』青木延広氏)によると、余市の古老「ノタラップ」は民族の誇りが高く豊富な知識の持ち主で、北斗は、このノタラップより教えを受けた、ということです。
この「ノタラップ」、「ノダラップ」として山中峯太郎の小説『民族』『コタンの娘』に出て来ます。
峯太郎は、北斗をモデルとした小説を書くため、親しかった北斗の口から出た名前、ノタラップを使ったのでしょうね。
余市アイヌの先覚者であり、北斗も影響を受けた中里徳太郎について。
先日、余市で「北斗に尺八を教えたのは中里徳太郎の父である」という情報を得たのですが、あれっと思いました。
金田一京助の「アイヌの話」では、中里徳太郎の父は徳蔵といって、徳蔵は和人のリンチに遇い、虫の息で九つの息子徳太郎に同族の地位向上のためには教育が重要だ、と言い残して死んでいます。
ということは、北斗とは接点があるはずはない。
ここで、中里徳太郎の父を系図でたどってみると、徳太郎の父は伯太郎になっています。伯太郎は、中里家出身の父甚作の兄であり、北斗が親しくし、教えをうけるのもわかります。
徳太郎の父は徳蔵か、伯太郎か。
そのあたりの追究はおいておいて、やはり北斗が尺八の手ほどきを受けたのは伯太郎ではないか、と思いますね。
西田彰三の生没年がわからないので、まだ公開できないですね。
フゴッペブログのリンクも切っておきます。
しかし、こういうほとんど市井の人の生没年なんて、どうやって調べたらいいんだろう。著書も無いようだし……。
昭和29年に違星北斗の会が発行した「違星北斗遺稿集」の内容を書いておきます。
違星北斗遺稿集昭和29.8.10 印刷
昭和29.8.15 発行
発行所
違星北斗の会
札幌市北一条西十丁目
門間清四郎方
北斗を憶う
彗星の如く現われ
彗星の如く消え去つた
違星北斗
アイヌの石川啄木といわれた
違星北斗は
その青春多感の日を
自己民族の研究と復興のために
魂も 血も 肉も捧げつくした。
北斗逝いて二十五年
その悲しいまでの志は
永久に地下のものであつて
よいであろうか。
彼の中途に於て挫折した志は
我々今日、日本人の当面する
民族的課題でもある。
平等を希い、平和を求むる心
それは自主と独立よりないことを
北斗は喝破している。
北海道の大自然に育まれた
明治の先覚者内村鑑三も
我々に自主と独立との
道を示した。
平和は何処よりくるか。
「吾れアイヌ也」と叫んだ
違星北斗の
血みどろの生涯は
我々世代に
その全身全霊とを以て
強くよびかける。
自主と独立とをこそ。
<北斗の肖像写真>
獰猛な
つら魂を
よそにして
弱い
淋しい
アイヌの心
違星北斗
違星北斗年譜
明治三十四年余市に生まる。祖父万次郎はアイヌ最初の留学生として東京芝の増上寺清光院に留学し、後に北海道開拓使の雇員となつた。
姓の違星は、明治六年祖父に苗字を許され、アイヌにとつて家紋ともいうべきエカシシロシが※であつたので、これをチガイに星「違星」と宛字をしたものという。
北斗は号で、本名は滝次郎である。一歳。
明治四十一年 尋常小学校に入学。担任の奈良直彌先生に愛せられ、終生その精神的指導と影響を受く。八歳。
大正三年 同上卒業 十四歳。
大正六年 夕張線登川附近に木材人夫として出稼ぎ 十七歳。
大正七年 網走船大誉地に出稼ぎしたが、病を得る。 十八歳。
大正八年 石狩鰊場に漁夫として出稼ぎをしたり、登村に柴刈に働きに出かける。 十九歳。
大正九年 畑を借りて茄子作りする。途中で病気再発。 二十歳。
大正十一年 徴兵検査に甲種合格 二十二歳。
大正十二年 朝里等にて落葉松伐採に従事。病気をする。
七月 旭川輜重隊に輜重輸卒として入隊
八月 除隊す。上京を計画するところあつたが、関東震災のため中止。二十三歳。
大正十三年 沿海州に出稼ぎす。二十四歳。
大正十四年 西川光次郎氏及び高見沢氏を頼つて上京。その世話で東京市場協会事務員に就職。
金田一京助氏、後藤静香氏、松宮春一郎氏等の知遇を受く。 二十五歳。
大正十五年 アイヌとしての自己の地位に深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、十一月飄然として北海道に帰る。 二十六歳。
昭和二年 平取村に英人バチェラー氏の創立せる幼稚園を手伝い乍ら、日傭等の労働によつて生活の資を得、アイヌ研究に従事す。余市の同族青年中里篤治と共にアイヌ青年の修養会たる「茶話笑楽会」を作り、その機関誌として「コタン」創刊号を出す。 二十七歳。
昭和三年 売薬行商に従事。四月発病のため余市の実兄の許に身を寄せ、遂に病床の人となる。郷土研究家である医師山岸礼三氏の好意ある治療を最後まで受ける。
七月 小樽新聞紙上にて、フゴッペの洞窟中に発見された奇形文字をめぐり、小樽高商教授西田彰三氏とその所見を戦わす。 二十八歳。
昭和四年 一月二十六日永眠。 二十九歳。
昭和五年 五月、余市小学校訓導古田謙二氏により蒐集整理された資料に基づき、希望社より遺稿集「コタン」出版さる。
2〜3ページ
<違星青年 金田一京助>
<落葉 古田謙二>
<北斗の歌声 小田邦雄>
4〜5ページ
<自撰歌集 北斗帖>
《註 彼の臨終の際、枕頭のボストンバツグの中から出て来た墨書による自撰歌集で、表紙に北斗帖と題されている》
6〜7ページ
<コタン吟>
《註 札幌市雫詩社発行の文芸誌「しづく」第三巻第二号(昭和三年四月三日発行となつている)に、違星北斗歌集として掲載されたもの。編集後記には北海道の彗星的歌人として紹介されていることが注目をひく。》
7ページ
<コタン吟補遺>
《註 昭和二年北斗の手になる雑誌「コタン」のコタン吟にあつて「しづく」のコタン吟にもれているものである。》
7〜8ページ
<心の日記から>
《註 彼の臨終の際枕頭におかれてあつた昭和二、三、四年にわたる三冊の「心の日記」の中に記されたもの》
8ページ
<俳句 北斗>
<淋しい元気 違星北斗>
8〜10ページ
<疑ふべきフゴッペ遺跡(抜粋) 違星北斗>
読まない文字
Ekashi shiroshi
Ekashi shiroshiの系統
Paroat
(昭和三年七月小樽新聞に投稿)
10〜11ページ
<アイヌの姿 違星北斗>
《真の創造的革新は破壊に対する単なる反動から来るものではない―それが現象に現れるや否や、かようなものとして作用するにしても―根源的な体験から来るのである。
「最も遠いところからのみ革新は来る」―自力を以て疾患に対抗し、或は疾患に転化する、大いなる健康から来るのだ。 ―グンドルフ―》
12ページ
違星北斗歌碑建設趣意書
違星北斗が逝くなって二十五年になります。ウタリーの最後の光芒のように、彼の短い生の中に鬱勃として湧き上つた感慨と、その悲しいまでの民族の志を口語型のゴツゴツした短歌の中に歌いこめ、歌い上げ、民族の再生と快癒の道をさし示しました。
彼は英雄でもなければ偉人でもありません。只おのれの生の体験をその内奥からの叫びを真率に歌に託し、歌に支えられて、短い生涯をとぢてしまつた一ウタリーとしての青年であります。
彼の民俗学的な研究には非常に興味の多い領域を示しているようでありますが、その完成には生活も生命も許しませんでした。もちろん彼の生涯は、ひたすら爆発的な生の燃焼として終始してしまつたのであります。
今ここに北斗を慕い、北斗を憶う有志の発願によつて、彼の歌碑を、ウタリーの故地日高国平取村二風谷に建設することになりました。どうかこの「遺稿集」を手にせられ、北斗の生涯と志について、いささかでも思知るところある方々のご協力によつて、歌碑建設を実現いたしたく存じますので、よろしくご賛同とご支援をお願いいたす次第でございます。
昭和二十九年八月十五日
違星北斗歌碑建設の会
発起人 石附 忠平 小田 邦雄
加藤 善徳 鎌塚 扶
木呂子敏彦 河野 広道
後藤 静香 更科 源蔵
田上 義也 古田 謙二
(五十音順)
歌碑建設募金計画
1 歌碑設計 田上建築制作事務所 田上 義也
2 工事費予算 七万五千円
3 募 金 一口 二百円 一口以上
4 送金方法
現金は、札幌市北一西十、門間清四郎方
違星北斗の会
振り替えは 北海道僻地教育委員会振替口座小樽四一九〇番宛に願い、通信欄に「北斗歌碑建設基金」と必ず明記して下さい。
<制作者の言葉 田上義也>
<後記 木呂子敏彦>
『コタン』を「資料」としてしか見ていないような自分が気がする。
違う。
『コタン』は私にとっては「バイブル」であり、自分は北斗の志を継がねばならない、と思っていたのに。
単なる研究者になってしまっている。
よくない。
北斗のサイトのリニューアルがなかなかすすみませんですみません。
テキストデータが膨大になってきたので、もっとわかりやすい形でアクセスできるようにしたいと思います。
内容についても、いろいろ問題があるところがありますので、直していきます。
最近、「宮本常一」の本を読む機会があり、フィールドワークというものに興味がわいてきました。
日本各地の山村にも、それぞれいろんな伝承があり、さまざまな生活習慣があり、魅力的な古老がいた(いる)のだなあ、と改めて目から鱗が落ちる思いです。
夏に、再び北海道に行きます。
そして、再び余市をおとずれようかと思っています。
それまでに、現状の疑問点の洗いだしたいと思います。
昭和29年に小冊子「違星北斗遺稿集」を発行し、北斗の歌碑建設を計画した「違星北斗の会」の代表、木呂子敏彦先生は、2004年にお亡くなりになられたそうです。合掌。
この木呂子先生は、帯広市の助役を勤められた人で、北海道賢治の会の代表でもあります。やはり、北斗が好きな人は賢治が好きな人が多いのでしょうか?
(私も好きですが)。
小冊子「遺稿集」のあとがきによると、木呂子先生もまた、若き日に北斗の作品を読んで感銘を受けたそうで、平取小学校改築の計画に際して、違星北斗のことを思い出し、歌碑による顕彰を思いついたそうです。
たしか違星北斗の日記の中に、二風谷に於て彼の事業計画があり、「平取に浴場一つ欲しいもの金があったら建てたいものを」という歌が、私の追憶の中に切々として湧いてきたのであります。少年の日に北斗の遺稿集を手にし強い感銘を受けた私は、彼の遺志のためにもこの仕事を完成したい。このことから彼の志を顕彰するためにもと、歌碑建設の計画となつた次第です。
遺稿集の発起人のメンバーもなんだかすごいですね。3つ下の記事にありますが。
「代表」の「門間清四郎」というのは、実在の人物でしょうか?
なんだか、検索していると、ドンピシャで「門間清四郎」という地名が宮城県にあるらしくて、それがやたらとひっかかるのですが。
この地名も謎が多そうですが・・・。
門間清四郎は木呂子先生のペンネームでしょうか? 出身地とか。
関係ないのかもしれませんが。
このあたり、木呂子先生の遺稿「鳥の眼みみずの目」を読めば書いてあったりするのかもしれませんが、自費出版本で、入手は困難そうですね。
北斗がらみの記述があるかもしれませんし、読んでみたい気もします。
少しリニューアルしました。
(不完全ですが)。
少しずつ、更新していきたいと思います。
ちなみに「コタン文庫」は「コロタン文庫」と掛かってますが、わかる人少ないと思います。
小樽新聞 昭和3年4月8日に
ボッチ舟に鰊殺しの神さまがしらみとってゐた春の天気だ
というのがあります。
私は、なぜかいままで「鰊殺しの神様」が、動物の「ネコ」だと勘違いしていました。
これは、どこかでそう読んだ記憶があったのでそうしてたんですが、
先日入手した並木凡平の全歌集に、この「鰊殺しの神様」が出て来たんです。
「鰊殺しの神様」は「カミサマ」つまり、以前あらやさんに教示いただいた「鰊漁場の出稼ぎ労働者」なんですね。
それにしても、なんで「ネコ」だとおもったんだろう。どこかに書いてあった気がするんですが。
並木凡平全歌集は 投稿者: 管理人 投稿日: 6月 9日(木)03時25分49秒
ちっとも「全歌集」なんかじゃない!
看板に偽りありです。
多数あるはずの「北斗」に対して詠んだ短歌は軒並み載っていないし、北斗にインスパイアされたアイヌについての短歌も載っていない!
けっこうショックです。
本当にショックです。
縦書きにしようかなあ。
あんまりサイトをいじれなかったです。
でも、ひさしぶりにすてきな、気のおけない人たちに会って話せたことは、何ものにもかえがたき幸せでした。
私は、一人じゃない、こんなすてきな人に愛され、しかも信頼されていると思えば。
日々は蒼穹の雲塊のようにごんごんと転がり流れ、永遠と思われた蜜月はいつのまにか崩ればらけて、ちょっと目を離した隙に、世界は突然、がらりと姿を変えてしまうのだろうけれども。
誰一人知って呉れぬと思ったに 慰めくれる友の嬉しさ
夜もすがら久しかぶりに語らひて 友の思想の進みしを見る
あの頃、私達が集ってあの場を形成したという偶然は、もうありえないほどの奇蹟なのだな、などとも思って淋しくもあり、嬉しくもあったもう昨日の夜でした。
よかった。大丈夫だ。
私にはまだ、信じられるものがある。
酔ってまして。すみませんでした。
ためしに 投稿者: 管理人 投稿日: 6月14日(火)00時03分28秒
フゴッペを縦書きにしてみたのですが。
いかがでしょうか。
こちらにいらっしゃってる方はほとんどIE5.0以上だと思うのですが。
他のブラウザなら、横書きになると思うんですが。
いい感じなら、テキストを徐々にタテにかえていきます
北斗の俳句の師である古田謙二(冬草)の句集『冬霧』(昭和34年発行)によると、
古田謙二は昭和34(1959)年2月2日に満60歳の誕生日を迎えた、とありますので、1898(明治31)年生まれということになり、北斗より3つ年上です。
「先生」というより、兄貴分というような感じだったのでしょうね。
古田は1918(大正7)年、20歳の時に初めて俳句を詠みます、
成長期には家が火災に遭い、小学校卒業後は額に汗して働かねばならなかったということです。小学校教員になりますが、資格をとるために受験勉強に追われて、俳句に気を向けている余裕がなかった、ということです。
昭和5年、留萌の女学校へ赴任してから、「暁雲」主幹の青木郭公に手紙を書き、それに参加、昭和19年より「緋衣」を始めます。
北斗と出会った当時、余市小学校の先生だったわけですが、3つ違いですから、まだ二十代前半です。今まで言われていた「北斗の俳句の師」というイメージともすこし違う気がします。
北斗が最初に俳句を発表したのが大正13年で、このころでも古田は5年ほどの俳句歴しかなく、いわば同人の先輩後輩ような感じではなかったのでしょうか。
北斗の遺稿をまとめた昭和4〜5年ごろでも29歳ぐらいです。
『余市文教発達史』によると、
余市小学校訓導であった古田は、大正の末ごろ、余市の句会に参加していました。
これは、田中半夢(余市農産物検査員)と多田半銭(りんご園経営)、小保内桂泉(旅館業、日記昭和3年のフゴッペに関する記述のところにに出てくる郷土史家の小保内氏であろうと思われます)らが開いていた句会で、小保内旅館で行われていたようです。
これに北斗が参加したかどうかわかりません。大正14年頃の2月には東京に向かっており、微妙なところです。大正13年より『にひはり』誌に投稿をはじめており、それには「俳句の師」である古田の影響があったでしょうから、やはり、古田を通じてこの会と関係があったのかもしれません。
古田冬草は熱心なクリスチャンで、家族がみな俳句をやっていたので、自然に短歌をたしなむようになっていったようです。若い頃は教員として余市、留萌等で過ごし、昭和24年札幌へ移り、北海道拓殖銀行に入り、昭和31年に退職しています。
今日 投稿者: 管理人 投稿日: 6月21日(火)14時25分35秒
仕事が休みだったので、電車を乗り継いで府立図書館へ。
いろいろ調べものをするつもりでしたが、駅に下りてみると「図書館本日閉館」
こんなんばっかりだー!
どうして、私がたまたま休みの日と、行く先々の図書館の休みの日が一緒なんだろう。
まあ、休みを調べていかない私が悪いのですが。
違星北斗と出会った人たちが受けた北斗の印象を並べてみます。
《上京以前》
・古田謙二
彼はよく私の所に遊びに来た。小学校も尋常科きりの学歴だったが、読書が好きで、いろいろな知識をもっており、殊にみずからがアイヌであるとの自覚は、彼を一種の憤慨居士にしていた。
(「落葉」)
これは、思想上の一大転機の前後です。上京前、大正14年より以前でしょう。
「茶話誌」を作っていたり、「にひはり」に投稿していたころかもしれません。
「落葉」は、北斗の和人への反逆思想が一転し、アイヌのために一生を捧げる前向きなものになるまでを描いていますが、肝心の、思想上の一大転機は描かれておらず、その前後が描かれています。
《東京時代》
・西川文子
幸に額田さんと違星さんとが事務を大変に手伝って下さったので助かりました。二人とも本当に感心な青年です、違星さんはアイヌの方ですが、絵も文筆も俳句なども上手な珍らしい人で、北海道の余市から阿佐ヶ谷まで来るのに牛乳一合買ふたきりで弁当は一度も買はずに来たほどの人です。
(「校正を終へて」)
この牛乳一合のエピソードは、北斗の直向きさや意思の強さ、ストイックさなどがよく表れていると思います。
・金田一京助
五年前の或夕、日がとつぷり暮れてから、成宗の田圃をぐる/\めぐつて、私の門前へたどり著いた未知の青年があつた。出て逢ふと、あゝうれしい、やつとわかつた。ではこれで失礼します。
誰です、と問うたら、余市町から出て来たアイヌの青年、違星瀧次郎といふものですと答へて、午後三時頃、成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶつ通しに成宗を一戸一戸あたつて尋ね廻つて、足が余りよごれて上れない、といふのであつたが、兎に角上つてもらつた
(「違星青年」)
これも、北斗の木訥さ、真面目さ、そして人に対して遠慮がちなところが良く出ていますね。
北斗は自分で「私は常に他人に相槌を打つ癖がある。厭なのだがしかたない、性分なのだから」(「コクワ取り」)と言っていますが、なんとなくわかりますね。
・伊波普猷
この時、一同の視線は、この青年アイヌを物色しようとして、盛に交叉されました。やがて金田一君の招きに応じて、自席を立つたアイヌは、晩餐の時、私の向ひに座つて、上品にホークとナイフとを動かしてゐた眉根が高く隆起し、眼が深く落ち込んでゐて、私に奄美大島の人ではないかと思はせた青年でした。彼れは流暢な日本語で、しかも論理的な言表し方で一時間ばかりウタリ・クス――吾等の同胞――について語り、少からぬ感動を一同に与へました。
(「目覚めつつあるアイヌ種族」)
ここでは、一転して北斗の理知的なところが出ていますね。意外に大舞台に強いところも。
・山中峯太郎
『世界聖典全集』を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。
(「コタンの娘」)
これは、ちょっと初めて読んだ時は、意外でしたね。「顔の黒い」というのが。
これは暗い印象なのか、病的に黒いのか、それとも逆に日焼けして黒いのか。
「精悍」な感じはよくわかりますが。この頃の北斗は、本当に貪欲に人脈を築き、見識を深めていっていっています。
山中峯太郎は、革命家でもあったわけですが、超一流の学者や作家なんかに後れを取らず、そういう人たちに一目置かれて、若き友人として厚遇された違星北斗という人物は、一体どんな人だったんだろうと改めて疑問に思います。
・額田真一
また見える筈の違星北斗君が、七時になっても見えず、どうした事かと案じて居ますと、七時十二分発車のベルはケタヽマシク鳴響いて止んでしまひました。もう駄目だと、諦めて。プラットホームに返す途端、違星氏が見えて大急にて汽車に飛込みました。
(「自働道話社遠足会 高尾登山」)
これは「寝坊」あるいは「時間にルーズ」かもしれないという、側面を現すエピソード。北斗は、北海道に戻るときも電車に遅れそうになっていますし、後藤静香の乗った汽車が余市を通り過ぎる日にちを間違えたりもしています。
このように北斗はけっこうドジです。
向こう見ずで後先考えないところ、進んで火の中に飛び込むようなところもあります。吹雪の中、泊まるところがなくて困ったりもしますね。
・後藤静香
嘗て、凡てを理解した様に、今はもっとよく何でも理解されると思う。
兄のあのにこやかな笑顔が見える。
(「跋」)
ここは、「にこやかな」がポイントですね。
いま見つかっている北斗の肖像は、どう見ても「にこやか」ではない。
しかし、後藤静香の脳裏には、私たちが知らない、北斗がにこやかな笑顔が、浮かんだんですね。
気になるのは「嘗(かつ)て、凡てを理解した様に」というフレーズ。
改めてここを読んで、尾崎豊が歌った
「あの日見つけたはずの真実とはまるで逆へと歩いてしまう」(「傷つけた人々へ」)
を思い出してしまいます。
私にも経験がありますが、「若さ」は時に、一時的にですが、真実を悟らせ、凡てを理解させてしまう(あるいは錯覚させてしまう)ものですよね。
・宗近真澄
北斗君は情熱の人であった。/意気の人であった。/後藤先生と初対面の時の話/君は例に依り熱をこめて/アイヌ民族の衰退を嘆き/自分の抱負を述べた。すると先生は感謝された。/『有り難う……』/先生の此のお言葉は/電気の様に違星君を打った。/此の一語は永久に君を/先生に結びつけたのだ。(「故人の霊に」)
これは、やはり青天の霹靂のようなものでしょうか。
後藤静香と違星北斗の出会いのシーンですね。北斗の熱っぽさと、それに対する後藤静香の意外な言葉。
この心の動きですね。これは、かつての「思想上の一大転機」の状況とも似ている気がします。
どうも、北斗は自分の中でどんどんどんどん熱を帯び、灼熱してゆくのですが、それが予想外の他者の「やさしさ」や「情」のようなもので返されると「ガツーン」とショックを受けてしまうようですね。
《帰道後》
・並木凡平
三日余市の妹尾よね子さんの宅に開かれた短歌会に彼の姿を見出した、私は少からぬ感激に打たれた、語り出す一語一句は、われく仲間よりなほ理智と謙譲の奥床しさがあった
(「河畔雑記」)
ここでは、北斗の理性的な面、謙虚さが出ていますが、それ以上にこの頃の北斗にはなにかオーラのようなものを感じてしまいます。だいぶ覚悟が決まってきたのもあるでしょうが、和人の年長者ばかりの歌会に単身乗り込んで行き、そこですごい存在感を示しているんですよね。なんだか凄みがある。「新短歌時代座談会」を読むと、何人かの和人の歌人の先生は、はっきりいって北斗の登場にビビってます。
(まるで「空手バカ一代」の最初の空手大会で、大山倍達の登場におののいた空手界の重鎮たちのようです)。
他にも、北斗の性格を現す文章はあります。それになにより彼の作品自体が彼をよく現しているのでしょうが、やはりこういう客観的な描写が北斗の性格(少なくとも社会的なペルソナのようなもの)をよく現していると思います。
これは、違うと言われるかもしれませんが、どうしても違星北斗という人と尾崎豊を比べてしまいます。それもファーストアルバムの。
残念なのは、北斗のラブソングが尾崎のようには残っていないことですね。
なぜだろう。きっとあるはずなのに。
誰かが隠匿しているに違いない。
私はそれが余市の古田謙二(熱心なクリスチャン)か、希望社の後藤静香&宗近真澄(まじめな修養主義者)のいずれかだと思うのですが。
それが見つかったとき、北斗のもう半分があらわになると信じています。
とりあえず更新できてませんが、水面下ではいろいろ暗躍しています。
読みたい本がいっぱいありすぎて困ります。
ロック・ミー・ベイビー 投稿者: あらや 投稿日: 6月26日(日)18時56分56秒
「アイヌ研究したら金になるか」と聞く人に
「金になるよ」とよく云ってやった
白老のアイヌはまたも見せ物に
博覧会へ行った 咄! 咄!!
北斗の歌はロックしてますよね。こういう唯物的な情感もカッコいいし、「ゴメと一緒に飛んで行きたや」みたいな一瞬の転調、バラードもすばらしい。
五月の小樽の時、オザキの話できなくて、残念です。(まさか尾崎豊まで聴いているとは思わなかったもので…)
あの時、私は二階のマンガ本置場に寝泊まりしていました。そこで読み始めた「がんばれ元気」(小山ゆう著)にすっかりハマってしまって… ちょうど今は、関拳次戦を明日に控えた堀口元気みたいな状況なので。昨日も、久しぶりに小樽に戻って、第27〜28巻を読み直して泣き、そして爆睡して(笑)函館へ帰ってきたところです。
その帰り道、山の斜面にアカベが咲いていましたのでデジカメに撮ってきました。今度メールする時に「画像」欄も使ってみますね。あんまり北斗と関係ない話で申し訳ありません。
おかえりなさい! あらやさん。
お久しぶりです。
尾崎は非常に好きです。
(というか、一時期シンクロしてましたね。所謂オザキストってのでしょうか)。
残念ながら、私は死の直後にはまったんですが、ファーストアルバムですね。私にとっては、すべて名曲です。セカンドアルバムもいいですが、ちょっとずつ作為というか、欲みたいなのが見えてくる気がします。
私は性分が北斗と似ているところがある、と感じていましたが、それと同じくらい尾崎にも似ていると思っていました。
今となっては、どうなのかわからない気もしますが。
時代と環境は違うから、歌の向かうところは違うけれども、性分が似ている気がする。
べつだん自分が背負って立たなくてもいいことを、しかし自分こそが背負って立たねばならないとしか考えられないような性分。
そこが北斗であり、尾崎なのだと思います。
西田彰三の著作権継承者をご存じないか、小樽商大に問い合わせましたところ、すぐに教えてくださいました。
小樽商大の担当者の方、ありがとうございます。なんていい大学なんでしょう!
小樽商大の総務課の方に教えて頂いた情報によりますと、
《高商では「商品学」という分野を担当され
大正7年2月25日講師で採用→
大正9年10月6日教授に昇任→
昭和18年6月14日退官→
昭和18年6月30日非常勤講師就任、
昭和24年1月4日死亡と記録されております。(緑丘50年史より)》
ということは、没後すでに56年ほど経っていますので、
西田彰三のフゴッペ論文は掲載可能だということです。
ということで、フゴッペ・ブログ、再開します。
ということは、やはり西田先生は「高商」の「商品学」先生であって、民族学とか考古学といった学問に対しては、すくなくとも専門外だったわけですよね。
あの「日文(ひふみ)」とか「蒙古トルコ文字」なんていう、トンデモぶりには納得できます。まあ、現代から見るからこそ、トンデモだとわかるわけなんでしょうが。
それに比べたら、北斗の説は、なんて地に足の着いた、冷静な意見なんでしょう。すごく現実的な、「理知的」な意見です。
新発見の 投稿者:管理人 投稿日: 6月30日(木)00時02分40秒
色紙ですが、新発見といっても、私にとって新発見だっただけで、これは余市に行った時にA氏に頂いた写真で、実物はどなたかが所蔵しているのでしょうけれども。
これまでのコタンに載っていた色紙よりずっと写実的ですね。
これに限らず、北斗の画というのは、祖父万次郎か父甚作か兄梅太郎か叔父伯太郎か、だれかをモデルにしたものかもしれませんね。
ここにきて 投稿者:管理人 投稿日: 6月30日(木)00時08分13秒
急展開を迎えそうな予感がする、ある方からの手紙があったのですが、仕事のほうが手一杯で、数日返信できていません。はやく連絡を取って、お話を伺いたいと思っています。
ちょっと 投稿者: 管理人 投稿日: 6月30日(木)23時08分50秒
すこし画像関係をいじりました。
あんまり気づかないようなところですが。