回想・この一冊
「違星北斗遺稿 コタン」 郡司正勝
(国文学1973年1月号)
郡司正勝氏は1913年札幌生まれ。北斗より20歳以上年下です。演劇評論家、特に歌舞伎の研究家として著名であり、北斗の著書を評しているのは少々意外な気もするのですが、『国文学』の書評「回想・この一冊」のコーナーの32回目に取り上げた一冊として、北斗の『コタン』を挙げているのです。
私の青年時代は、病床に暮らすことが多く、手当たり次第、東西をとわず小説をよみ暮らしたので、あまり骨身にこたえるようなものを読んだ覚えがない。歌集や俳書も好きだったし、江戸の随筆集もおもしろかった。仏典やドイツの哲人の書も喜んだ。
しかし、忘れられないのは、少年期から青年期に移りかけた時代に、出合ったこの一書である。
それが「違星北斗遺稿 コタン」だといいます。
幸に戦火をくぐり脱けて、手元に残っているので、引っぱり出してみると、昭和五年の出版だから、私の十八歳のときである。著者の違星北斗は、その前年、二十九歳で、この世を去っている。アイヌ民族に心をとめる人なら、あるいは、この青年の名を知っている人もあろうかとおもうが、私にとって、はじめて、この書を読んだときの、悲しみにうちひしがれた心は、いまも疼くように覚える。
この一番最初の『コタン』は1930(昭和5)年の発行ですから、この1973(昭和48)年の時点で発行されてから43年経っています。
この粗末な本を知る人は、いまはほとんどあるまいが、奥附をみると、出版された年の五月から十月にかけて、五版を重ねている。一回にどのぐらい刷ったかわからぬが、私はこの五版目のを、注文して手に入れたことになる。出版社は、東京府下西大久保の希望杜出版部で、そのころ、青少年にかなりの影響を与えた一燈園で名高かった後藤静香が発行者になっている。この後藤静香が遺稿集として出してくれたものである。
郡司氏は後藤静香が「一燈園」で名高い、といっていますが、「一燈園」はいまでもある仏教系の宗教団体です。後藤静香はキリスト者です。希望社は当時の若者に多大な影響をあたえていたといいますから、おそらく郡司氏が混同されているのだと思われます。
ここで意外だったのは「コタン」が「第五版」まで刷られているということです。私が持っているのは初版だと思われ、「非売品」となっていますが、郡司氏は「注文」したといっておられます。これは購入した、ということかもしれません。
黒ラシャ紙の表に、鈴蘭の絵のついた、この粗末な喪服のような装幀も、人を受けつけないような悲しみがあると、その当時、想ったものだった。「コタン」とニッケル色で、横書に印刷してあるこの一二八頁の小冊子は、主として、短歌と日記と、研究や伝説、あるいは随想といったようなものの断片が集められたものにすぎない。附録に「コタン」というガリ版の雑誌の創刊号が、北斗の文を含んでおり、友人と出した同人雑誌らしいのが復刻されている。
おそらく、この書名の「コタン」というのも、彼の念いをこめた同雑誌の表題からとったものとおもわれる。コタンとは、アイヌ語の部落、また村の意である。
このあと、郡司氏は『違星青年』(金田一京助)に描かれた金田一京助と北斗の出会いのシーンを引き、「まことに純粋な先生と、この純情のアイヌ青年の出合いほど感動的なものはない」、「思いこんだ違星の面影が躍如としてる」と書きます。郡司氏は早稲田大学で金田一京助に教わったことがあるということで、かなり金田一が大きな存在としてあるようです。彼は、少年時代に先に「コタン」で、北斗を通して「金田一京助」と出会っているわけです。そう考えると早稲田で実際に教わったときには、かつて北斗に心酔していた郡司氏の中では、金田一の存在も大きくなっていたのかもしれません。
「違星(えぼし)滝次郎は、余市のアイヌで、小学校をいじめられながら卒業」、その後の鉱山、漁場などの北斗の労働生活を『コタン』の年譜から紹介します。ここで「違星」に「えぼし」とルビが振られているのが興味深いです。「えぼし」と読ませる違星さんもいらっしゃるそうですが、北斗は「イボシ」であり、「我が家名」などにもそう書かれています。これは編集者の間違いではないかと思います。
続いて、北斗が東京時代に金田一と知りあい、アイヌであるがゆえに厚遇を受け、大事にされたことを逆に恥じ、北海道へ帰ったこと、その後労働しながら研究や短歌を詠み、肺結核になって、「多感な才能をもった短い一生を、貧乏のために命を落したのである。」といいます。
そして、北斗の短歌に関しては、次のように評します。
いまみれば、うまい歌とはいえなかろうが、その素直な心情は、表現のうまさなどではあらわされぬ、ギリギリの線があり、啄木調の生活派の歌の系統ながら、より高揚したものがあるのは、なんといっても彼がアイヌ民族であったからだ。
とあり、やはり北斗の短歌を「啄木」に比しています。ギリギリの線というのはまさに微妙というか、絶妙の評でしょう。このあと北斗の短歌を5首引き、
ほとんど、憤りと悲しみが同居している歌々。滅び行くアイヌ民族の、憤りと悲しみを、一身にうけて、燃え尽くしていったこの青年の死を、私は、毎夜毎夜、著者の名の北斗を、寒い冬空にさがしては、泣いて泣いて、星の光を、涙でうるませたものであった。この書の出合いは、私を、少年から、いちどに大人にした、ほんとうの悲しみというものを、そのとき知ったのである。
正直で、真剣な、そして非力な、「獰猛な面魂をよそにして、弱い淋しいアイヌの心」を歌い、「ウタリーよ」と、呼びかけながら、アイヌ民族の自覚のために、食うや食わずで働きながら、コタンからコタンをめぐり、 「死んだほうが楽だ」いや「死んぢやならない」と歌いつづけた違星北斗青年の、本書の扉の、網目の荒い肖像写真は、アイヌ人らしく頬骨の張った、逞しい顔容ちだが、その目は、美しくあくまでも澄み、おどおどと、淋しげである。
この書に出合った翌年、私も東京の下宿で、咳血した。せめては違星青年の同じ病気になったのが慰めであった。
この北斗への想い。不遜ながら、若き日の郡司氏の姿は、私には、五十年の時を隔ててたもう一人の自分の姿であると思えてなりませんでした。図書館でこの記事を見つけ、読んだ時には涙がこぼれそうになりました。
私もまた、辛い時、疲れた時など、夜空に北斗七星の姿を探し、同族のために吹雪の峠を一人歩く違星北斗の姿を想い浮かべながら、自分も北斗のようにあらねば、強くならねばと思い、幾たびかは本当にそれによって救われたものでした。
北斗の歌によって力づけられた森竹竹市を初めとする多くのアイヌの人々と、郡司氏や私は、同じ『コタン』を違う読み方で読んだのかもしれません。だけれども、だとしても、私はこの北斗の人間としての生き方に、強い共感を受け、感動と力をもらいました。そして私は、郡司氏のこの評論を読み、シンパシーを受け取りました。北斗に力づけられたのは自分だけでなかったのだ、だから、これまで『コタン』を手に取った人々の中にも、同じような想いを抱いた人はいたに違いない、また、これからも同じ思いを抱いて夜空を見上げる人がいるに違いない、そう信じたいと思いました。
そのためにも、私は違星北斗のことを、未来へ語り継ぐ手伝いをせねばならない、それが私に力をくれた北斗へのお礼だと思っています。
(コタン管理人・山本由樹)