違星北斗とは?

違星北斗(1901〜1929) 

   違星北斗遺稿 コタン (1930年 希望社)

 アイヌの歌人の違星北斗は1901(明治34)年余市生まれ。本名は滝次郎といいます。

 少年時代より和人のアイヌに対する差別待遇に憤り、和人に対する「反逆思想」に燃えていましたが、ある和人教師のふとした一言から、それまでの自分の考え方を改め、アイヌの復興はアイヌの手によってせねばならない、という確固たる信念をもつようになります。以後、アイヌの復興を心に決めて活動を始めます。

 1925(大正14)年、23歳の時、東京府市場協会の職を得て上京を果たします。東京ではアイヌ語学者の金田一京助、沖縄学者伊波普猷などの知己を得ました。金田一京助からは知里幸恵のことを知り、彼女の遺した『アイヌ神謡集』を読んで多大な影響を受けます。また、金田一を通じてバチラー八重子を知り、彼女の影響を受けて短歌を作り始めます。思想的には、恩師奈良直弥の影響からか、上京前より西川光次郎(元社会主義者でのちに転向)の修養雑誌「自働道話」に関わっていましたが、上京後は社会運動家の後藤静香の興した修養団体「希望社」の運動に傾倒して、後藤とは浅からぬ交わりを持ちました。

 北斗は一年半の上京生活の後、アイヌの復興への想いに駆られ、北海道に戻ります。帰道後は、アイヌの復興の精力的に活動を始めます。平取のバチラー幼稚園を手伝い、アイヌ文化の研究に着手し、さらには同志の辺泥和郎、吉田菊太郎とともに「アイヌ一貫同志会」と称する結社をつくり、売薬の行商をしながら全道のアイヌコタンをめぐって、同族の自覚と団結を説いてまわります。また、それに並行して、北斗は北海道の有力紙の一つ『小樽新聞』や、歌誌『新短歌時代』などで短歌を発表し続けました。

 1928(昭和3)年4月、北斗は行商の途中で喀血し、余市の兄の家で闘病生活に入ります。再起を夢見ますが、じょじょに結核は彼の体を蝕んでゆき、1929(昭和4)年1月4日、志半ばにして、永遠に帰らぬ人となりました。27歳(数え29歳)でした。北斗の死後、彼が生前敬愛していた後藤静香の主宰する希望社より『違星北斗遺稿集 コタン』が発行されました。これは、違星北斗の唯一の著書です。

 北斗の遺した業績、特に短歌の作品は、現在では文学的には無視されていますが、アイヌ民族の歴史を語る上では、決して欠かすことのできない人物であり、その後成立した北海道アイヌ協会の活動を担った人々の多くが彼の影響を受けていることを考えれば、違星北斗という歌人は、もっと知られていい人だと思います。


※違星北斗の生年は文書によって1901年と1902年の2通りがあるが、このサイトでは1901年をとる。その理由は、こちらを参照。