「六章 平取にて」より
私は、八月の初め(昭和四十五年)、平取を訪れ、高校時代の友人の家で、吉田ハナさんと会った。彼女は、古き良き時代の信仰を言葉や態度にきちんと身につけた老婦人で、花模様のプリントのスーツを着て、木彫りのネックレースをさげていた。
(中略)
ハナさんは、八重子よりも十七才、年下だそうだから、まもなく七十才になる。「婦人之友」の創刊当時からの愛読者で、どこから見てもクリスチャンの風格がにじみでていた。八重子も晩年は、さぞ、このハナさんのように、知的な雰囲気を身につけていたことだろう。
(中略)
薄幸のアイヌ歌人、
北斗は、八重子とともに、しばらくのあいだ、教会に起居している。北斗は、八重子やハナさんと共に養蚕などを手がけて、コタンの生活に新風を吹き込もうと努力したのであった。
「その頃の八重子さんは、本当によく働きましたよ。毎朝、早く山に登って、馴れない手つきで桑を摘み、背中にしょって教会まで歩いてくるのです。マユを売った代金は、バチラー先生のもとに送っていたようでした。夜中、おそくまで何やかやと、いろんなことを話し合いましたが、語れば語るほど、あまりにもウタリがみじめすぎて、わたしたちは、手を取りあって泣いたこともございました。」
しかし、北斗や八重子が、ウタリのためにと思って為したことも、すべて徒労に終った。北斗は二ヶ月にも満たない滞在で、余市にもどっている。北斗、二十五歳のことである。
(中略)
「北斗さんについて、よく人に聞かれますけれど、わたし、あの人のことは、あまりわかりませんのよ……平取にお出での頃は、二十四、五才でしてね、八重子さんは四十才を越していたでしょうか。北斗さんは、バチラー先生や八重子さんを尊敬しておられて、ウタリの向上を願う気持ちにも変わりはなかったのですが、あの人は、キリスト教では、ウタリを救うことはできない……といつも言っていましたから、その事では、八重子さんやわたしとは、意見がくい違ったこともあったのです。でも、なにぶんにも、遠い日のことでしてね、あの人のことは、はっきり覚えておりませんの……(後略)
※末武綾子著『バチラー八重子抄』北書房 昭和46年7月15日発行 より