『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』「緒言」
山岸玄津(礼三)  


土器、石器、先住民族の遺蹟地、貝塚、これが余市の郷土史を語る一面の姿である。
仰我日本国に於ける此等の遺蹟は、帝大人類学編纂の石器時代地名表によるに全国に一萬数千の個所を挙げてあり、未だ之れに漏らされたる個所も少なからずあるといふを以て見れば、居住民の厚薄は別として、有史以前の昔から、可なり広汎なる地区に亘り、先住幾多の民族が割拠してゐたことを想像するに難くない様である。而して我余市郷は文献によれば、既に安東氏の渡道竄入時代少なくとも足利前期時代に於いて、当時和人は東は鵡川より西は余市の間に入りて、蝦夷と雑居し云々の記録を貽すを以て、古き歴史を有する土地であり、アイヌ民族の旧住地である。而し又所謂先住民族の遺物埋蔵地として、従来幾多の遺物を出して居る。従つて十数年或はその以前より、多くは外来の人達により、土、石器類が掘り出され、時には随分盛に発掘せられたと云ふことは、亦一般周知の事である。
余市が斯く先住民族の遺蹟地であり、遺物埋蔵地でありながら、学者や好事家の発掘に任せ、或は折角蒐集したる人にありても、これを容易に人手に附与し或は今日尚堀土の折等に、時として遺物埋蔵地に遭遇することがあつても、無頓着、無理解なる鋤鍬の一撃に委ねて、之を細砕し、或は抛棄して顧みざるが如きことがある。斯くては貴重なる遺物の包含量も次第に幻滅に帰し去るであらうと思はれる。余は何かの縁で由緒ある此郷に来り、卜したる現住地が恰もその遺蹟地中の優なる場所であつと云ふことは、余自身は勿論何人も気づかなかつたのである。即ち余が現住地は俗にアイヌ街と称する処で、アイヌ住屋地に近接してゐる為め、(オノズカ)ら土人と親しみを来すことになつたのと、其上に其頃土人中に違星竹次郎(号北斗後上京金田一学士などの名士に参じたことのある且つ頗る気骨があり、又文雅の道にも趣味を有し、思索もすると云ふ面白い男であつたが惜しいことには、三年前に肺患で病没した)なる青年がゐて、時々余の宅を訪れて、余が移居当時の無聊を慰めくれ、時にはアイヌ口碑や「カムイユーカラ」の伝説、現時に於ける実生活状態など聞かしてくれたりして、随分余の新居地の東道役になつてくれた男であつた。然るに大正十二年の春彼が急性肺炎に罹り可なり重患であつたのを、余が一才引き受けて、入院せしめ世話してやつたのを、彼は喜んで全快祝だと称して、彼が年来秘蔵したる西瓜大の土器一箇を携帯寄贈してくれた。これが余が土器を得たそも/\の初めである。此品は彼が大正九年の秋、余が此地に移居の僅か二三ケ月前の或日、余市川に投網して獲得したるもので、話に聞く土器であつたから、御授かりの気持で、誰人の所望にも応ぜず保有してゐたものであると語つた。当時余の問に対して彼がいふには、私共民族の中では、従来土器の保有者一名もなく、祖先から口碑にも聞き居らず、唯伝へられて居るのは、余市アイヌが此地に来た時先住民族が居た。それはアイヌよりも小さく、弱き人種で、わけもなく追つ払つた。此人種はアイヌでは「クルブルクル」石の家の人の意味で「ストーンサークル」環状石籬を作り立て籠もつた民族である。而し「コロボツクル」(蕗の下の人)人種の事を聞いて居るが、それかもしれぬ。只先住民族が居つたと云ふから、或は其遺物であらうと思ふまでだとの答であつた。
余は此時直感した。これは現住のアイヌではない。併し現住アイヌの祖先を彼等に訊ぬれば、数百年は愚か千年以上の口碑を持つて居る。余は只不思儀の一言を発したのである。
兎に角も余は此の得難き一品を手に入れて欣喜置く能はず、心を尽くして彼を犒ひ、祝宴迄開いたことを記憶する。其後土器が縁となり、北海道史を知人から借覧などして興味をそゝり、就中蝦夷には本道の外、北千島、樺太の三派あるを知り、恰も大正十五年の春、知人沖村青年漁業家小黒四郎太氏が小樽祝津漁業株式会社の重役として、千島連島の探求を企画し、報効義会で有名なる郡司大尉の参謀役児玉氏の後援を得て、根室よりラツコ、オツトセーの監視船白鴎丸に便乗し、遠征を試むるの挙を聞き、同氏に彼地特に択捉島、国後島に現住するアイヌ、又オロチヨン族の生活状態と、先住民族の遺物たる土器、石器の有無と、これに関する口碑との三点に就いて、其調査を依頼したが、まとまつた報告を得なかった。されど主として国後、択捉に於ける各百数十戸の住民、色丹島に於ける百人内外の居住民及び農林省の監視に使役せられ居る中部千島の各島でのアイヌの体格、言語島は北海道アイヌと大差がないと云ふことであつた。余は更に年々の出稼ぎ漁夫の中で、比較的智識ある者に、樺太(東海岸方面)或は「カムチヤツカ」等に現住或は散居するアイヌ、及オロチヨン族に就きて、右の三点調査並に其地よりの遺物を物色したが、遂に何物も得ることが出来なかつた。当地にあつては口碑によるアイヌの足跡を辿つて、然別銀山方面乃至余市にあつては、城址は彼等の祈年箇所等に至る迄、殆んど徹底的に踏査を試みなどして、歳月を経過した。然るに目のよる処に瘤とやら、図らずも昭和四年四月に至り、我東附き隣地をば、小浪某より譲り受け、裏手の境界に板塀を廻らした際、其杭穴の処から、三箇の小土器を掘り出し、更に昭和五年五月南附き隣地を吉田某より譲り受け、拡張を図つた時、曾て前持主が幾十年庭続きの野菜畑として使用した地区で、僅に一尺程も鋤鍬の尖端を延ばせば粉砕せられるのに、而も地表一尺五寸程の比較的浅表の箇所に、その頭頸部を現はし居たる土器のあるを認め、人夫等が普通の陶器だと頑張るを戒めつゝ、丁寧に発掘せしめて、実に思い掛けなくも、薄手縄紋式大土器を無疵の儘出土せしめ得た。当時余は只天恵/\の言を繰り返し、該土器を直ちに清洗して床上に安置し、「神通」の銘を奉り、尚喜びを一家中に及ぼして、祝筵を開いたのであつた。
然るに昨年即ち昭和八年の四月、大川町の要所たる余市川尻沿岸一帯の地区に亘る大火災の惨事あり、次いで復興計画、都市計画上の区画整理につれ、続々新建築の為、土地開鑿、地均作業起り、余が住居地の裏手余市川に至る間に於て、土壌中に殆んど無量の貝殻破砕片の露出するを認め、且つぽつ/\土石器を掘り当てたるものあり、又此時犀川会の河野博士、名取博物館司書記及び長野氏等札幌より来つて、相当に効果を収められたのを知つた。
余亦幸にして火災の厄は免かれたが、土地整理、道路拡張の為め、前側の建物で診察所に充て居つた一棟を取り壊はすことになつた。其折りに其床下(該建物は四五十年前の旧式建物で、その以前には空地であり、曾て人工或は鍬入れをなさゞりし地区)土中より実に珍貴なる土器群十数点、同破片約百種類、並に同処に於て、石斧、石錐、石鋸、石鏃、及び其資料たる十勝石の塊片等を発掘し、皆完全に収蔵するを得た。是に於て余は其歴史的地区並びに遺物の保護を期し、門外漢としての一考察を披瀝して、同好者間に問ふことの、敢て無意義の業ならざるを思ひ、聊か茲に之を叙述したのである。

昭和九年一月於自*1園書斎

著者識


*1 貝+余

※山岸玄津(礼三)『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』(発行:茂山吟社《余市》、昭和9年2月11日)より