●昭和2年3月23日
金田一京助→違星北斗 葉書
「いろいろなことを体験された出せう。過日北海タイムスの一文は私も向井山雄君から送られて一読しました。札幌郡広島村字中ノ沢今野正治といふ青年です。どういづ人かよく分からないが、アイヌ問題が太平洋学術会議などできまってしまひでもするかのやうに期待して聞いてよこしますから、百年千年の懸案で、さう/\会議などできまってしまふやうな簡単な事では無いのみ成らず、よそから来た人々は、オーストラリヤ人へ関係つけて考へてゐるやうですから、あんな激烈な返事を出したのでした。何かアイヌの歴史をしらべてゐるそうです。それはこれから調べるべきだと云ってやったら、それでは自分も村へはいって、そのしらべにかからうかと云ってるのです。」
金田一京助→違星北斗 葉書
「いつもお元気で結構、鰊があまりよくない由心配して居ります。体の無理をなさらぬやう祈ります。こちらはやっとよい時候になりました。あの後一度アイヌ学界を開きました。向井山雄君の上京を期として、ウメ子さんも同伴して大いにこんどは知識階級の人を東京人に紹介したわけです。一同の人々が驚異したのも愉快でした。但し向井君があのとほりのものだから、それに当夜のお客さんの中には、知らぬお客さんもよんだものだから、その人との間に向井君が激論をやり出し、会が白けて残念な幕をとぢました。議論半ばに時間が切れ、それに大雨に祟られて帰ったものでさんざんに皆が濡れとほって。
本年一月号(十二月の内に出版)の新青年に「太古の国の遍路から」を書きました。民族の五月号には知里真志保さんの研究があらはれます。」
宛名 北海道余市町沖村 ウタグス 違星漁場 違星瀧次郎様
●昭和3年7月17日
金田一京助→違星北斗 封書(要抄)
君のやうに正直な真面目な人をかうして若い身そらを空しく故山に病ましむるいふことは神の摂理のあまりに無情なことを嘆かずに居れない。
君静平な心持ちを持して寸分ゆるみなく、余計な感傷にひたることをよして、けんめいに病と戦ひたまへ。
多感な情熱家の君は、ひょっとしたらあまり感傷にひたって、病気を亢進させるやうなことがありはしないかと心配です。
中里のお父さんの死は大きな打撃でせう。この人の生涯をあくまで劇的主人公たらしめて終わりましたことをいたましくも又美しくも讃歎致します。誰かぜひともこの偉人の片影でも後世に残すやうにはたらく人がないものですか。君といひ徳治君といひ、その天職のためだけでも、まだ/\健康でゐてくれなくてはならない人だちです。君たち二人が直らなくてどうするものですか。それには悠々閑日月の心境を養ふことです。どうかどうかたのみます。