牛乳のような柔らかみを帯びた空に夕陽が赤く流れる春の夕べ、美しい雲が往来して、そよ吹く風に林檎の花が銀の雪のように散った。
山に猟にでかけたコタン近くまで来た時には、日はとっぷり暮れてかすんだ月がぼんやり輝いて細長い野道を青白く彩っていた。若者はほの白く咲いたりんごの木並びに差しかかった時、ふと誰かがつづいて来るように感じた。若者ふりかえって見た。けれどもそこには甘い匂いを漂わすりんごの木立ちが道の両側を囲むのみで、何の姿も見え出せない。「何だろう?」若者はつぶやきながら歩みつづけた。けれど何となく恐怖しかかった。彼は大声を上げて歌い出した。それは恐怖から逃れようとする彼の可憐な努力であった。洗練された美しい声が、静かな山道に反響して遠く消えて行く。りんごの花がほろりと散る。若者は一心に歌った。けれど声がとぎれると、確かに何者かのかすかな足音が耳に入る。ちょうど宙を行くような軽い足音であった。「あなた、あなた。」水の垂るような声が、ふと夜の静けさを破って聞えた。若者はきょっとして声のする方を見ると、そこには世にも美しい一人の女が立っている。
「私は先刻からあなたのお出でを待っていました。」と言って、女は真珠のような歯を現わしてほほえみました。
「一体あなたは誰人です。」
若者は顫える声で訊いた。女は「シノオマニイオチの娘です。わたしはあなたを思っていました。」と言って寄り添って来た。若者は、それから後は夢見るような気持ちであった。
「今夜はこれでお別れしましょう。」暫くたって女はしんみりと言った。若者はまだ熱にうかれたかのようい「これから私と一緒に来て下さい。そうしていつまでも離れずに居りましょう。」と言う。
「今夜は行くことが出来ません。十六夜の月が出たら迎えに来て下さい。」「なぜ今夜はいけないのですか。」「でも……。」と女は言葉を濁した。「では十六夜の月の出る時を待っていましょう。その夜、美しいあなたを、私はきっと迎えに来るでしょう。」「ほんとうに……。」「誰がウソを言うものですか。」「堅くお約束いたします。」「勿論ですとも。」と若者は大きくうなづいた。「わたし嬉しい……。」と女は燃ゆるような瞳を若者の頬に寄せた。若者は念を押して女の手を放すと、「さようなら……。」と女は言葉を残したかと思うと、雪と散るリンゴの花の中に、姿を吸われるように消えてしまった。
若者は、あまりのことにぎょっとした。そして恐怖を感じて鳥の翔けるように走ってコタンに帰った。その出来事は嬉しい夢であり、恐しい夢であった。女との約束を果たす気にはなれなかった。十六夜の月はほのぼのと大きく輝いて、山からさしのぼった。若者はしかし女のとこに行こうとしなかった。次の朝、白いリンゴの花に身を埋めて若者が冷たくなっておるのをコタンの人々が発見した。
※鍛冶照三『あけゆく後方後志』より