慰めなき悲み――アイヌの一青年へ――

金田一京助

「戦談(いくさばなし)を聞かされるにつけても、皇軍の為めに、涙を含み血を躍らして育った我等です。『よき日本人に!』を標語(モットー)に、涙ぐましい勤みを続けて来た我等です。何ぞ図らん、それが我等より楽土を奪い、歴代の租翁を傷め、累世の租母たちを泣かせ抜いて来た、恐ろしい旧怨の国家でありましたろうとは。一片報国の丹心と、翁達を偲び媼達を傷むこの心と、どう納まりを附けてよい我等でしょうか。

 右せんとしては、見え透く自己欺瞞を憎しみます。左せんとしては、天地も容れざる悪逆の心に自ら戦慄します。こう生れついた我等の悪み、天が下に人が沢山あっても、この心を訴うる人を知りません。海は到る所にひろがるけれども、この悲みの棄場は、どこの浜にもありません」

 覚醒(めざ)めた青年の悲みは、内地にも、農村に、工場に、巷に、学校に、今全国的に拡がる悲みです。けれども、諸君の口から響く声ほど哀切た声を聞きません。

 「追われ、奪われ、傷められて、減び行く終末(いまわ)には、人間でも無いもののように蔑視される『アイヌ』の子に、好き好んで生れたことでもあろう事か、先の世から受け継いでい、生涯放れることのできない此の侮蔑を、朝夕胸いっぱいにたゝんで、此の末を、生きる限りを、どう我等でも堪え切れるものでしよう。懐しい父租の地は、今は吾々の怨恨の郷土です・他郷へ去りたい。他郷の人々はそうまで吾々を差別しませんから。殊に西洋人は! あゝ吾々はロシアにでも行ってしまいたい」

 こゝへ来る迄、諸君の怺え/\た永年の悩みは、いつでも一緒に泣かされる私であります。

 世の中を一等割引して考えたら、十中九までは悪だと考える事でしようか。それでも一割の善が存在する事、そして弱いようでも強いのは善のカである事、この信だけは、間違っても心から取落さずに、生きようではありませんか。

 地上、どこへ行っても、吾々の出会すのは人間です。どこまでも人間相手です。君は西洋人は差別をしないと云われるけれど、其れは宣教師や、牧師や、同じ西洋人でも、立派な西洋人だけを思い浮べられるからなのです。アメリカ合衆国に於ける、近くは南米・カナダ・濠洲にも汪然として挙がったあの東洋人種排斥の声があなたの声に届きませんか。ヨーロッパの土にこの幾世紀(そゝ)ぎ尽されたユダヤ人の苦い涙を読んだことがありませんか。ヨーロッパ人の南洋の島々に行ったあの無道の殺戮、タスマニヤなどでは、イギリス人の為に土人は熊狩をするように射殺されて根絶やしになってしまいました。

 西洋人の罪悪をあばいたのは、決して、それに因って、私達の同胞が諸君に加えた非行を言訳する為ではありません。いくら人の非を挙げても、我が非が無く雲なるのではないからです。私はたゞ、人類あって以来の古くして新らしい、人間自ら造って、自ら繋がれてゆく絶ちあえぬこの覊絆(きずな)――寧ろ人文の進みにつれて、却って深刻を加えて来たかとさえ思われるこの人種的感情、如何ともするに由なき人類のこの最大不幸を、諸君と共に、いっぱい今胸に湛えて悲みたいからなのです。

 それは、丁度、一家内に於ける実子と継子とに、母性の愛を以てして、尚且つ均分に行けないと同じ人情の癌でありましょうか。継子いじめの昔噺が、都鄙・文野行くとして存せざるなく、千載聞くものと語るものとの涙をそゝる所以です。

 尤も、「世には、継親・継子のうまく納まってる所もあるではないか」と、抗拒されるかも知れません。それはその通りです。だが、それならば、序に今一つ眼をあげて巧く納まっている我が東奥の事情を思い合せて下さい。そこです。吾々に取って闇中一縷の光りを投じてくれるもののあるのは。東奥はごく近昔迄、諸君の同胞が住んでいた処でしたが、今は、どの家が蝦夷胤だとも、どの村が蝦夷筋だとも少しも判らず、少しも差別されないのみならず、寧ろ、新しい日本を背負って立つ最も有望な人々にさえ見えて来ているではありませんか。私は北海道もやがてはそうなることを信じて疑わない者です。其の為には、諸君が率先して徒らに感傷に堕落せず、どしどし新文明を吸収して思い/\に、自己の完成に邁進して下さるべきです。諸君の思慕哀悼する尊い租先の伝承の如きは、及ばず乍ら、吾等の輩が、諸君の脱ぎ棄てたあとを拾い歩いて、伝うべきは伝え、遺すべきは遺して後昆(こうこん)に伝えるだけの準備はあります。

 それに、君、従来の歴史はたゞ事変の記録でした。即ち戦闘騒乱の記事ばかりです。だから、征服ばかりされていた様に思えましょうけれど、例えば、一千年の長い歴史に、十回の戦の記事ならば、間の百年々々は、記すべきことのなかった無事交歓の時代を意味することになるではありませんか。りませんか。少くとも、戦闘は、平和を句切る句読点と思ったらよいのでしょう。喧嘩の花は兄弟の間にも時々咲きます。若し喧嘩のみを日記にしたら、読む者に、定めし喧嘩ぱかりしていた兄弟に見えましよう。それと同じ事。東北開発の歴史は、決して西洋人が諸方の殖民地に臨んだ、あのような残忍酷薄の歴史ではありません。補任を行い官職を授げ、希望に依っては、群をなして畿内附近の諸国へ帰着帰農することも許す(かばね)をも得、禁闕(きんけつ)の衛兵にも用いられ・清原氏の如く、鎮守府将軍に任ぜられたものもあった程ではありませんか。

 満たされざることは、この現実、どこへ行っても満たされない――それがこの現実なのではありますまいか。相手はやはり人間だからです。完全などは始めから望めません。まずお互いが完全ではないから。そこの所です。不完全同志の人間同志、ではあるが、尚その間に、人間味の掬すべきものが、また到る処に、見透(みとお)しさえすれば、流露しているのではありますまいか。一穂耿として消えざる人間愛の微かな火種を胸に掻きたてて、そして今一度隣人を見直したならば又そこに春日和煦(わく)の小天地が開けているのではないのでしょうか。

 私に一人の友人があります。やっぱり、アイヌ/\と云われる嫌さに、どうしてアイヌなどに生れて来たろうと、幼い時から魂を削られるように悩み続けて、成長しました。生意気盛りの齢には、「アイヌ!」と囁く路傍の児童を「アイヌが何だ」と、立ち戻って殴りとばして通りました。腹立たしく町家を通る時には、自分を目送して、「アイヌ、アイヌ」と云ってるのが、こっそりと言うのも、早鐘のように耳を撲ちました。口を(と)じてるものでも、眼がそう云って見送ってるのが気につきました。往きも復りも、毎日々々、日に幾度もの事ですから、目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、遂には病身になり、喀血をし世を呪い人を呪い、手あたり次第に物を叩き割って暴れ死にたくなりました。その時には、和人という和人を、向面(むかっつら)へ噛みついてやろうと思うまでになりました。

 此の青年が、或日ふと、隣村の青年会へよばれました。込み上げている日頃の鬱憤を爆発さして毒づいてやろうと構えて行きました。偶々、村の先生が、話の序に「いつか誰かに聞いて置こうと思って居たのですが、吾々が若し必要止むを得ずして云わなければならない時に、『アイヌ』という語の方が聞きよいか、『土人』と云った方が聞きよいか、どちらの方を吾々が使ったらいゝか」というのでした。

 それを聞いた青年は茫然としました。「ハイ」と云ったまゝ面を俯せて、「有難う御座います。そういう御心で仰しゃって下さるのでしたら、アイヌでも土人でもどちらでも少しも痛くはありません!」と云って、ほろりと落涙しました。

 やがて、演壇に上った青年は、「諸君、今迄、吾々は本当に人を呪っていた。知人の中にも、『アイヌ』と云うのに、この位心遣いをして云っている方が少くともここにお一人あったのだ。私は今の今までこういう事のあることを想いも寄らなかったのだ。石だから石、木だから木、アイヌだからアイヌというのに、何の不当があるか。一々それを侮辱されるものに思ったのは、吾々がアイヌでありながら、アイヌであることを恥じていたからなのだ。自分の影法師に自分で怯えていたのだ。一人の心は、万人の心だ。世間が広いから、吾々の知見が狭いから。して見れば、吾々の久しい悩みは、吾々自身の暗愚な僻(ひが)みが之を支持していたのじゃなかったか?」声涙並び下り、下り、感動と悔悟に鳴咽(おえつ)して、涙に濡れた拳を振って、たゞ怒号したそうであります。

 好漢、憤りは物皆を焼かずんばやまざらんとした熱血男子、悔悟する時には、滂沱として衆目の前に号泣したのであります。

 青年を囲繞(いにょう)する現実は、昨日も今日も塵ひとつ増減しなかったのですが、しかも、青年の目に、それ以来、世の中が一変したのであります。その心を抱いて会って見ると、昨日まで無情に見えた和人も、存外柔らかに温かい手ざわりを覚えて、吾と進んでにっこり握手することが出来たと云います。

 勿論、急に世の中の和人が皆よくなった訳ではありますまい。若しそう思えたら、それこそお目出度い納まり様です。実は相変らず、大勢の中には、意地悪く「アイヌ!」「アイヌ!」というものがやっぱりありました。けれども、今度は、「ふん、馬鹿者、無智!お前の其の無礼が、どんなに相手の心を引裂くのも知らずに言うのだな。お前の存在が、どれ程全体の和人を割引きさしているかも知れない馬鹿野郎!ふゝん」と、笑って去ることが出来ました。

 この笑いこそ、途徹も無く大きな笑いです。敵を憫殺して完全に征服してしまい、しかも敵が自ら知らない程、そっくりそのまゝ捕虜になっているからです。その結果は、自然と、周囲から、この青年を馬鹿にしてアイヌと呼ぶものがなくなって行きました。

 元々アイヌ種族は、遠い白人の分派の、古いアジア種族と混血したものらしいのです。白人の血があるからと、何も自慢するまでもない事ですが、さりとて、少しもアイヌであることを冷々(ひや/\)することがないではありませんか。早くみんなが自ら卑下している気持を洗って欲しいのです。「若しこの真相が知れたら、野蛮と笑われはしないか。此れを話したら、下等人間と思われますまいか」そういう念慮から、ふっと解脱して貰いたいのです。そして一切を唯有りのまゝに委して、従容と、自若と、あらわれて大丈夫なのです。どこも恥じる事も、小さくなることも、気を屈すべき事も無いのです。恥ずべきは、気を屈すべきは、昔横暴を働いたものの子孫、今専横をしているものの同胞――つまり私達の方です。

 書いてこゝまで来たら、ゆくりなく涙が落ちました。あの山奥の草屋へ遁竄(とんさん)して、この世を暗く去って行った幾代の翁達・姪達を、思い浮べたものだからです。

 併し、昔の翁達・媼達の方はまだ今の青年諸君よりも寧ろ仕合せでした。茫洋として宥せたからです。

 怒りや憎しみは不幸です。自らを焚き尽さねば止みませんから。宥しは仕合せです。宥し難きを宥す程、尚大きな仕合せです。果しのない自由へ自身を解放しますから。

 冤枉と思えば、不当の待遇は腹立ちましょうが、また冤枉と思えばこそ、其処に一つの光が湧いて来るのではありませんか。いつかは(そそ)がれる望みを有するからです。怒りや憎しみこそ泥のようなもの。悲みのみは自分の心を洗ってくれる浄い雫です。人間の悲みの涙は決して一滴も(むだ)には流れません。

 沖縄県の人達を御覧なさい。自ら吾々にはアイヌの血があると、腕を捲くって莞爾(かんじ)と笑っている人達です。丁度諸君と同様の境遇から起って、青年の涙と血に洗われて勤労と力行とが今日のすばらしい成功を齎(もたら)したのです。諸君の切磋琢磨ひとつで、やがて同族の今日の苦境を昔語にする日があるべきです。それが内部から同胞を救う第一の方法です。第二の外部から之を救う方法は東奥村方の如き雑婚です。どうです。賛成してはくれませんか。

(昭和三年四月「都新聞」)


※『北の人』角川文庫より