河畔雑記 並木凡平

新短歌時代 昭和二年十二月号(創刊号)


アイヌの口語歌人

にぎり飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声

暦なくとも鮭くる時を秋としたコタンの昔思ひ出される

シャモといふ優越感でアイヌをば感傷的に歌よむやから

俺はたゞアイヌであると自覚して正しき道を踏まばよいのだ

これはいふまでもなく違星北斗君が小樽新聞に投歌の処女作である、歌に現はれる通り彼は純粋のアイヌである虐げられゆく民族中の若き青年のこゝろから絞った叫びてある。私はかつて秋の千歳に遊び

  亡びゆく民の呪か街に立つメノコの唇に冷たい刻印

と一首歌ったことを記憶してるが、いま北斗君の歌を見て全く恥入ったことを白状する、歌はたしかに昂奮であるが、これほど胸に強くせまつたものはなかった、北斗君がアイヌというハンデキャップがなくとも、以上挙げた四首は、われわれにとって強い爆弾である。と同時に亡びゆく民族にとって、救世主としての彼の出現に驚異したのである。
三日余市の妹尾よね子さんの宅に開かれた短歌会に彼の姿を見出した、私は少からぬ感激に打たれた、語り出す一語一句は、われく仲間よりなほ理智と謙譲の奥床しさがあった、その時の歌は

痛快に「俺はアイヌだ」と宣言し正義の前に立った確信

少し議論ばって居るのは歌として物足りないが、その気持はよく出てゐる。いづれにもせよ、シャモによって愚弄蔑視された民族の中から、シャモを歌ひ返してやる北斗君の出たことは、口語歌壇にとって大きな発見と云っていゝ、批評が終った時、彼は懐中から恭々しく短冊を出して、千歳の一首をとの希望であったが、私はそれを引受けるのに躊躇した、彼の心を暗くさせる歌は作りたくなかった、私はそれを断って旧作の「十銭に買はれた虫はなきもせぬ、篭をゆすってなかさうとする」を与えた。私は叫ぶ、北海道から畸形的な新技巧派歌人が生れるより、この一人のアイヌ歌人の、どれだけ意義深い出現であるかを。ひっけふは真実の前に何ものも打勝つ力のないことを知った私は北斗君の前途に多くの期待をもつものである。


※95年版『コタン』「くさのかぜ」より