違星青年(『北の人』版) 金田一京助


五年前の或る夕、日がとっぷり暮れてから、成宗(なりむね)の田圃をぐる/\めぐって、私の門前へたどり著いた未知の青年があつた。出て逢うと、あゝ嬉しい、やっとわかった。ではこれで失礼します。

誰です、と問うたら、余市(よいち)町から出て来たアイヌの青年、違星(いぼし)瀧次郎というものですと答えて、午後三時頃、成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶっ通しに成宗を一戸々々あたって尋ね廻って、足が余りよごれて上れないというのであったが、兎に角、上ってもらった。

これが私の違星青年を見た最初である。西川光二郎氏の北遊の途次に知られ、その引きで、市場協会の高見沢氏をたよって上京し、協会へ勤めて四十余円を給せられながら、真面目に働いている青年であったが、アイヌに関する疑問を山ほど持って来て、何もかも私から合点しようとする真剣な熱烈な会談が、それから夜中まで続いたことであった。

それ以来、私は労働服の違星青年の姿を、学会に、講演会に、色々な所に見受ける様になった。こうした一年有余の時の流れは、偶々違星生を、虐げられた半生の酸苦から引っこ抜き、執拗に追い廻す差別待遇の笞から解放して、世界を一変さした。

逢う人、逢う人に愛され、行く所、行く所に好遇されて、生活が安定し、思想が落ち著いて、何一つ不足なくなって来た時に、丁度その時に、真実な生活に徹したい違星生の真摯さは、また自分の生活の矛盾をどうすることも出来ない苦悶にみずからを追い込んだ。

私ほどの者なら、東京には余る程いる。そして、失業の、生活難のと云っている時に、半人前も仕事の出来ぬ私が、一人前の俸給を貰って納まって居られるのは、たゞ私がアイヌだからである。
 
私の様な者が、学者の会合へ交じれたり、大きな会館で、銀の匙やフォークで御馳走になったりする。この幸福も、やっぱりたゞ私がアイヌだからである。
 
私が若し和人であったら、協会のあの仲間並みに、あゝいう手合と、あゝやって暮らすだけの事、誰がこんな殊遇を与えられよう。アイヌであったからこそだ。待て、待て、「アイヌだから」という差別待遇を拒否し、悲憤して来た自分じゃなかったか。
 
「アイヌだから」のこの特殊の待遇を甘受していて私は済むか?
 
まばらに各処に生残る、そして今に地上に姿を没せんとするあわれ同族(アウタリ)よ。なつかしい未だ見ぬ村々の翁(エカシ)達よ、嫗(フチ)達よ。乙女達よ。そして今頃は我が如き考えに共鳴する青年もそここゝに涙をしぼって暮らしていはせぬか? 無縁の東京人すら熱心に攷究している同族の事を自ら卑下して知ろうとはせずに、自ら知らぬを自慢に、和人(シャモ)に成りすましていた愚かさよ、恥しさよ!
 
違星青年は、じっとして平凡な和人生活になり切ることが堪えきれなくなって来たのである。それからだ――飄然として又もとの北海道へ、慈父の如く案じて引留めてくれる高見沢氏の膝下を辞した彼が、胆振に、日高に、眠れる部落のそちこちに、その多感な姿を現したのは。

併しながら「現実」は明るい銀燭の中で夢見たようなものでは無かった。都人士の好意に満ちた温顔と、急霰のように送られた拍手の代りに、部落で遭う所のものは、冷い、無表情な、「くそ面白くもない。どこの馬の骨が、何用があって来たんだ」と、白眼視する気むつかしい目と、黙殺と無理解な嘲笑とであつた。
 
それも堪え切れない違星生ではなかったが、併し、違星生といえども、何より先に、食わねばならなかった。やわらかに人間愛にふるえるその手が抗拒されて、折角、はいって行った村々では、終日土工に交じって鶴嘴を振ったり、樵夫となって、語る人なき山中の雪に身体を虐使しなければならなかった。

酬いられざる一年の、身体を虐使した放浪の後、多感の青年は、病骨を母なき故郷の兄の家へ横たえる身となった。時折、在京の故人へ、病床遙に忍苦の歌を寄せて、今生にぜひ今一度皆様にお目にかゝりたいと云い/\、「世の中は何が何やらわからねど、死ぬことだけはたしかなりけり」と、辞世を遺して、遂に三十歳の春をも見ず、永遠に冷えてしまったのである。
 
彗星の如く現れて、彗星の如く永久に消えて行った違星生、ふと指を折って見たら、丁度その七十五日であつた。

(昭和四年四月十日「東京日日新聞」)
金田一京助「北の人」より。