保護法の成立の感懐を詠う詩

伏根シン子 (『コタンの痕跡』所収「旧土人保護法とともに五十年」喜多章明)


(前略)

     

 保護法の通過促進運動に参加して上京した、帯広の酋長伏根弘三翁の令嬢シン子さんは詩人であり、熱心なキリスト教の信者でもあった。一行十三名と共に御礼のため、伊勢神宮に参拝した際、参加者から各々述懐を聞いて次の通り詠んだ。シン子さんはその後まもなく二十一歳を一期として此の世を去った。吾々はこの薄幸の詩人に心から冥福を祈るものである。

(1) 

裸体跣足(はだかはだし)で山や野を

跋渉(ばっせふ)したる往昔の

蝦夷(あいぬ)の姿今いづこ

今ははかなき泡沫(うたかた)の

淡い夢とはなりゆきぬ

(白老酋長十三代目の後裔熊坂シタッピレ君宅において)

(2)

若い頃には命がけ

母にねだった首飾(くびかざり)

嗚呼その大切な御宝(みたから)も

時の流れに浚(さら)はれて

妾(わらは)限りの永(とこしへ)に

(音更町中村酋長婦人)

   

(3)

文化の光輝きて

アツシは脱ぎつ毛は剃りつ

今は同じく日本の

国民(みたらら)なるぞうつしよに

務め忙(いそ)しむ身となりぬ

(白人コタン吉田菊太郎君)

(4)

入墨(いれずみ)姿に蝦夷錦(えぞにしき)

飛雁(かり)になぞらい踊(りむせ)した

往昔(むかし)の姿はいまいづこ

そは遠い日の泡夢(あはゆめ)の

消えて影なくなり果てぬ

(広野ハル老婦人を見て)

(5)

三千年来(むかしこのかた)流れける

同化の波に誘はれて

文化洽(あまね)く北辺

夷処女(おとめ)の上に輝きぬ

(伏根シン子嬢)

(6)

皇恩辺土に洽(あまね)きて

御維新此方(ごいしんこのかた)大君の

ウタリに賜う至仁至慈(しじんしじ)

今日はた迎う御使いを

仰ぐも畏(かしこ)し皇恩に

只感激に泣かんのみ

(白人コタン勅使御差遣をうけて)

(7)

明治三十(みそ)まりふたとせに

御法布(みのり)しかれて此の方は

教を受けつ業習(わざなら)ひ

只管(ひたすら)御恩に報いんと

務めいそしむ四十歳(よそとせ)に

御蔭で社会人(ひと)になりました。

(本別町沢井初太郎君の述懐)

(8)

待焦(まちこが)れたる保護法は

今日両院を通過しぬ

想(おも)へば長き七歳(ななとせ)の

努力は遂に報はれぬ

御法(みのり)の光輝(ひかり)いや増して

ウタリの上に輝(かがや)かん

(余市町違星北斗君の述懐)

(9)

嗚呼遠き日のその昔

伊勢路(ここ)に住まひし祖先(えかし)達

今日の我等(すがた)を見給ひて

地下で喜び給うらん

神前(みまへ)に額(ぬかづ)き地に伏して

有難涙に泣きました

(運動員一同伊勢神宮に御礼参拝して)

(後略)


※明治32年に成立した「北海道旧土人保護法」は何度か改正されているが、この「旧土人保護法とともに五十年」は昭和12年の改正法案に関与した喜多章明が昭和47年に記した文章。その中に伏根シン子氏の詩として引用されている。

 この改正法案の成立に際し喜多は道内からアイヌの「有力者」を13人、東京に呼び寄せており、そのあと伊勢神宮に参拝した。この詩を詠んだ伏根シン子さんもその一人であるという。

(8)に違星北斗の名前が出てくるが、昭和四年に他界した北斗が、この保護法の改正案が通った昭和十二年の時点で生きているわけはないので、喜多の勘違いであろう。あるいは北斗の兄梅太郎なのかもしれない。

※『コタンの痕跡』「旧土人保護法とともに五十年」(喜多章明)より