辺泥和郎の発言   「アイヌ論考」(藤本英夫)より


(前略)

ちょうど小樽で港湾労働者として働いていた日高鵡川の辺泥和郎は、同じく人夫をしていた北斗と知り合った。

 そのころのことを辺泥はこう語る。

くわしい内容は忘れたが、北斗とは、アイヌの自立について話し合い、意見が一致した。そのころ、知里幸恵の『アイヌ神謡集』がでて、そこから買ったのか、読んだ記憶がある。神謡集については、ウタリでも二つの見方があった。あれを誇りに思うものと、いまさらあんなものをかいてアイヌの恥さらしだという考え方――

 辺泥は、北斗が『アイヌ神謡集』に、どんな所感をもったかは「わからない」というが、北斗の日記には、幸恵を賛美しているところがあるから、この小冊子から受けた印象には強いものがあったろう。昭和二年八月にガリ版で作った小冊子『コタン』創刊号のトップに『アイヌ神謡集』の知里幸恵の序文が転載されているところをみても感銘をうけたに違いない。

(中略)

 北斗は死の三年ほど前、平取のバチェラー八重子の教会に身を寄せ、八重子の仕事を手伝い、かたわら行商をしながら、ウタリの家々を訪ね歩いた。

 当時、バチェラーの宣教で伝道師になっていたアイヌ出身の金成マツ・片平富次郎・辺泥五郎・江賀寅三・向井山雄・八重子たちは、”アイヌ伝道団”なる組織をつくり、機関誌として月刊『ウタリグス』を発行して活動していた。北斗が、八重子のもとに身を寄せたのは、バチェラーの聖公会の布教を支持したからではなく、アイヌ伝道団のなかの一つの星で、同族の向上のために力をつくす八重子にひかれてのことらしい。北斗は、「ウタリのために」なることをしたいのだ、といい、それに共鳴した辺泥和郎も、北斗とはコースを別にして行商活動をしたことがあった。

ただ薬を売ることが目的ではなかった――

 と、辺泥は当時を回想する。

 北斗が胆振、日高をまわって行商しているとき、辺泥は上川から天塩を歩き、また十勝の吉田菊太郎は道東のアイヌの家々をめぐっていた。彼らは、自分たちのそのようなつながりを”アイヌ一貫同志会”と呼んでいた。(中略)辺泥和郎は、「このような動き方をするようになった裏には、水平社運動の刺激があった――

 と、いう。

(中略)

 しかし、アイヌ一貫同志会は、初期の志の形では日の目をみなかった。

 それは、同志の一人、辺泥和郎が徴兵で入隊、また結核におかされた身体をぎりぎりまで酷使して運動を続けていた北斗が、ついに一九二九年たおれたりしたからである。北斗なきあと、運動体の組織化にあたって法的手続などで、当時道庁役人であった喜多章明の手を借りることになった。

 こうして生まれたのが、一九三一年に設立された”北海道アイヌ協会”であった。

(中略)

けれども北斗らが、水平社運動と心情的に連帯した精神は、水にうすめられていた。このことについて、辺泥和郎は、「……自称和製バチェラー氏(喜多章明のこと)の個人的思想が、われわれウタリーのイメージと断絶し、(できあがった会は)せまい運動にとじこもった空なものになってしまった(筆者あて書簡による)と、反省している。

(後略)


※『近代の記録5 アイヌ』「アイヌ論考」藤本英夫より