道内アイヌの人物評伝


幕別村の吉田君

 十勝千三百名の同族中、一頭地を抜いて進みつゝある人物は何と言つても幕別村白人の吉田君に指を屈せねばならぬ。君は本誌にも書いてある通りに四五年前迄は、酒の為めに可なり失敗を統けた。感ずる事あつてプッツリと酒を断ち、爾来茲に数年の間専心教化事業に奉仕されてゐる。

 吉田君は文字の通り口も八丁手も八丁、おまけに押しも相当強いから何処へ出しても余り遅れを取らぬ。一度壇上に起てぱ眼中我なく人なしの態の雄弁家、而も理路整然として説き去り説き来る処、和人中にも余り多くは見ぬ切れ者である。現在幕別村の矯風会長、土人保導委員、互助組合の評議員、十勝アイヌ旭明杜の幹事長として十勝千三百名の同族を牛耳つてゐる。当年僅かに三十五歳の青年であるが、此儘で進んだら将来は必ずや十勝の頭目として其活動を期待されてゐる。子分格に案東君、高橋君など言ふ元気な青年がゐる。何れも吉田君の仕込で雄弁家である。

池田町の山西君

 池田の高島部落には山西君、村田君、山川君、山内君と言ふ若い有為の士が生ひ立ちつゝある。此人達は余り表面には立たぬけれ共、揃ひも揃つて理財家である。昭和二年に自覚組合を組織して、一生懸命に部落の自作を奨励してゐるが、実績は大いに著れて自作の面積も次第に殖え、自作反別の多い事は道内でも一歩の長をなしてゐる。今後団結して進んだら必ずや模範部落になるであらう。

 各位夫れ自重あれ。

帯広町の田村君

 帯広町の伏古コタンは帯広の郊外半里計りの所にある。場所柄丈に夏季になると、中央から視察客が跡を絶たぬ。然し乍ら此処の人達には自ら見世物にならうとする人は一人もない。斯うして面白半分に見に来られる事を非常に嫌つてゐる。其意気は大いに感ずぺきである。部落には田村吉郎君を始めとし沼田君、泉君、古川君等と言ふ元気のよい青年が中堅となつて一意部落の改善に努めてゐる。此後一致団結して進んだら立派なコタンになるであらう。

有珠の向井君

有珠は昔から歴史的に名高い所、夫れ丈けにアイヌ人の人材も生れてゐる。其内の第一人者は何と言つても向井君であらう。君は同族中唯一の神学士、牧師さんである。今回の伊達町の町議戦に於て大多数を以て町会議員に当選した。アイヌ人にして町議に当選は蓋し君を以て噴矢であらう。以て君が同町に於ける勢力を知るべきである。君の姉さんはバチエラー博士の養女八重姉であり、御令弟の片平君は博土の秘書役である。共にアイヌ族中の貴族階級に並植して一種の門閥を為してゐる。

平取の平村幸雄君

 此処はアイヌの神様義経公を祀る義経神杜の所在地、昔からアイヌの旧都である。流石に社会的にも、財政的にも勢力が和人に匹敵してゐる。平取市街の和人等は大部分土人の給与地の上に住居してゐる。三十年来バチエラー氏が基督教を宣布した所丈けあつて部落民中には有志者が多い。平村幸雄君、清川正七君、二谷文次郎君等と云ふ多才有識の士がうよくしてゐる。此処の部落の事に付いては何れ号を改めて具に御紹介するであらう。

鵡川の大河原コビサントク君

 鵡川の萌別には金持と妾持とで名高い大河原コビサントク氏がゐる。此人は風貌魁偉、宛も大西郷さんそつくりの風采をしてゐる。其上にお金が三十万もあると言ふんだから鼻息の荒い事は夥しい。開村以来の村議であり、学務委員であるそうだが、村会等は大河原君のお髯の塵を払はなければ議事が通過しないと言ふのを聞いても大体其勢力の程がお察しが付くだらう。歳はもう六十の坂を越えてゐるが中々の精力家と見えて萌別の農場事務所兼妾宅には四人のお妾さんがゐる。亡び行く民族の名の下に世の人々から哀れがられてゐるアイヌ族も、鵡川に来ては却て和人の方が哀れまれる。そして坐ろに彼のコシヤマイン当時の豪勢さが偲ばれる。

余市の違星梅太郎君

 余市は評人青年北斗君を失つてから何となく寂寥を感ぜさせられる。然し幸ひに令兄に当る違星梅太郎君が大いに若返つて青年の指導教化に努力されてゐる事は嬉しい。近く北斗君の遺志を継承して北斗農園を経営されるそうだが、君もあの難物の造資組合を引被つてゐるので、彼れや是れや相当今後骨が折れるだらう。

本別の萩原君

 本別のチヱトイに萩原、土多、沢井の三君がゐる。其内で同族の為に熱心なのは萩原君であらう。同族の為ならばどんな犠牲を払つ

ても尽力すると云ふ熟血青年である。将来此部落の開発には君の努力に俟つべきものが多い。

士幌の浅山時太郎君

 既に六十の坂を越えておまけに足が片足不自由である。にも拘らず集会と言ふ集会には必ず顔を出す。斯んな真面目な人は道内でも尠い。アイヌに物を貸したら返して貰つた例がない等と侮辱してゐる人々は、アイヌ族に浅山君あるを知らないのだらう。同族の青年

は勿論シヤモの青年も時々浅山君の家を訪ねて、彼の人格にあやかつたがよいだらう。

自糠の小信小太郎君

 私の釧路国に於ける唯一の知人である。但し夫れも手紙の上での……。私は過去十年間アイヌ事業に従事してゐるが先方から積極的に呼かけられたのは彼のみである。まだ直接声咳には接しないが、書かれた文面に徴しても非常に熱心家である事が窺はれる。釧路国の同族は是れ迄余り振はなかつた。幸ひ今後君の熱誠に依つて同方面の教化に努めて貰ひたい。

厚岸の三田嶺作君

 厚岸は東蝦夷地に於けるアイヌの旧都である。昔は太田君等と言ふ偉い人物がゐて、今の太田村を開村したそうだが、今では孤城落日の感がある。眼星しい人物と言つては三田君に山川君とがある丈けだ。(外に人物がゐるかも知れぬが)両君を失つた後の厚岸コタンは想ひ半に過ぎるものがある。只今では菊地保導委員の援助に依つてぽつ/\恢復しつゝあるが幸ひにして、往昔の厚岸コタンたらしめたいものである。

名寄町の宮田孫市君

 名寄町の内淵に宮田、村井の両君がゐる。宮田君は能弁家で才士肌の人、村井君は沈着で事業家肌の人、共に相協力して名寄町一五〇人の同族を牛耳つてゐる。本誌に両君の意見を聞けなかつた事は甚だ遺憾に思ふが、次号には宮田君の眼から鼻に抜ける様な鋭い御意見を拝聴する事にする。(紅洋)


※『近代民衆の記録5アイヌ』所収「蝦夷の光」創刊号(昭和5年11月)より