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コタンBBS

違星北斗研究会


 違星北斗研究会は、もうその役目を終えたのかもしれない 
学生時代に草風館の95年版「コタン」に出会い、あまりにもまとまった資料が少ないので、自分で収集を始め、2004年にこのサイト「違星北斗.com 違星北斗研究会」を立ち上げた。

それから20年。
古書店で資料を集め、各地の図書館に行き、
あるいはいろんな人に会いに行って、資料をいただいたりして…
年表を埋めていったり、いろんな発見があったり。
Wikipediaの項目を作ったりして、違星北斗の紹介や顕彰をしてきたけれど…

『違星北斗歌集』をKADOKAWAから出すことができて、これまでの研究によって見つかった発見の数々をある程度まとめることができた。

そして、みんなが「違星北斗」について、いろいろと発表するようになった。

それは、当然ながら、私の研究を元にしていたりする。でも、当人はそんなのはお構いなしで、自分が違星北斗について調べて発表している、ということになる。

おじいさん研究科やおばあちゃん教授が、
にわかの「違星北斗研究の専門家」となって、
人前で喋ったり、雑誌に寄稿したりする。

そして、それを見ざるをえなくなる。

本当に、シンドい。

でも、それが研究ということなんだろう。
調査して、まとめて、検証して、間違いないと書く。
それが本になる。

そしたら、もうそれは事実になるから、
ニュースのように誰もが書き放題だ。

いちいち胸を痛めている方が悪い。

違星北斗研究会は、おそらくもう、

その役目を終えたのだろう。

でも、僕は望む。

功成り名遂げた

おじいちゃん研究者や、
おばあちゃん教授じゃなくって、

若い、余市出身の君や
若い、アイヌの君に引き継いでほしい。

北斗の短歌の言葉尻を数えたり
引き写しの上辺だけの知識で北斗の生涯を語るのではなく

北斗の魂
太田満エカシの伝えてくれた
今のアイヌに生きる北斗の「元始のコタン」を

未来のアイヌに伝えて欲しい。

 
管理人  ++.. 2023/10/11(水) 17:18 [694]





 いろいろあります。 
北海道で講演したり、そのついでに調査したり、
落ち込んだり、喜んだりいろいろあります。

いろいろ媒体が出たりとかもありますが、

基本的にはツイッターの方でいろいろ書いてます。
https://mobile.twitter.com/kiyamashina

また、研究会のブログの方にまとめますね。

 
管理人  ++.. 2022/06/13(月) 22:35 [693]





 ウタリノヒカリに北斗に関する記述あり。 
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11453880_po_bulletin_ACRC_vol4_07_p097_108s.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
 
管理人  ++.. 2022/02/14(月) 18:28 [692]





 無題 

2021年8月5日
わーい。マーク・ウィンチェスター先生から本が届いた! 
『アイヌ通史』(岩波書店)

歴史に残る、歴史を伝える大きなお仕事です!
今日から拝読します!

違星北斗も多く言及されております。

どうやら私が伝えた住所が間違えていて、迷子郵便になってたようです!

 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 21:09 [691]





 無題 

2021年8月8日
何気に北斗のいた「東京府市場協会」の記事あるやん。何年かな。

若槻禮次郎が内務大臣のころだから大正13年から14年。北斗の上京の直前かな。この事件が北斗の上京とタイミング的に関係ありそうで面白い。

 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 21:05 [690]





 余市姫 

2021年8月11日

いろいろアイヌ関係の本が出てますが、神話伝説の本を出したい出版編集の方いらしたら、これ超オススメです。

『余市姫』
(小学館 少年少女世界の名作『アラビアンナイト/古事記』に収録、絶版)

スーパーヒロインです。
児童書なので、この倉島栄子訳は明快。

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-3c7795.html


余市での余市姫の知名度は致命的に低い。

余市の皆さん、郷土の名を冠したスーパーヒロインを最も推した方がよいよ!


巨鳥に乗って余市へ!

なかなかバイオレンスなプリンセス。

この「余市城」と呼ばれたものは実際にあり、余市に古城ありと記した古文書の記述もある。フルカチャシ(天内山)と呼ばれ、シャクシャインの戦いの時余市の大将八郎右衛門とその子孫が住んだであると伝わる。
ポンヤウンペと余市(イヨチコタン)のつながりについて考えたことはあまりなかったが、他地域のユカラに残るイヨチコタンの姿を出来る限り集めてみて、外側から失われた余市コタンの(伝承上の)姿を照射してみたい気もする。
「ユカラに見る『余市(イヨチ)コタン』の研究」
誰がやって!若い人!

ただ、千年亡くなったアイヌのOさんが、「トミサンペツ、シヌタプカと縁の深い余市アイヌの違星北斗のイチャルパ(慰霊祭)をやりたい」とおっしゃっていたのと、余市にもポンヤウンペ伝説があるのを余市の郷土誌で読んだので、やはり関係深いんだ、思ったのでした。

そう言えば萱野茂さんの「許婿の〇〇(自主規制)が」にも他の地域からイヨチの人に嫁入りする出てきたよね。イヨチの許婿の〇〇がものすごすぎてどうしよう、怖い!というすごい話。

 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 21:02 [689]





 書評 
北斗は自分からは「歌人」と名乗らなかっただろう。ましてや「アイヌの歌人」とは。

しかし彼は人から歌人と呼ばれた。

彼は歌人として認められるためではなく、

アイヌのいう一民族を救うために筆を取った。

そして、広く発表できる場に、掲載可能な形式で書いた。

何も品評されるためではない。
現代の歌人には想像もつかないかもしれない。

趣味や風流や道楽や自他の娯楽のために歌を読むのではなく、
自らの属する民族が「滅びゆく民族」「アイヌはもういなくなる」と言われ、言葉による抹殺で消しさられそうになったとき、言葉による存亡の際に、
武器でもテロでもなく、歌と言葉で戦った歌人
がいたということだ。

美しい、風流な、洒落た、技巧の巧みな、そんな細工物のようにこしらえた短歌を品評するのが歌人ならば、

違星北斗は歌人ではないかもしれない。

だが、短歌で世界を変える、自分を、家族を、民族を救おうとし、そして実際に小さくない影響をアイヌ民族に残した、「英雄」だ。
·
2021年9月15日
『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』|感想・レビュー・試し読み https://bookmeter.com/books/18125113

2021年9月19日
あらー朝日新聞に『違星北斗歌集』が紹介されてるの!? 買って来よ!


本日9月19日付の朝日新聞 朝日歌壇の短歌時評に『違星北斗歌集』が取り上げられています。
ここに書かれた「難しさ」。
私もまさに最近Twitter上で見た「ただ言いたいことを言ってるだけでエレガントじゃない」(大意)という北斗の短歌への評価につながるものだと思います↓

北斗の短歌を理解するには、受け取る読者にも前提となる知識、当時のアイヌの置かれていた状況の知識が必要なので、知識も興味もない人が、ただ北斗の歌をそれだけ読んでもよくわからない。技巧の下手な、アイヌによる自己弁護だけの歌に読めてしまう。

そして、これは90年前に北斗自身が当時の歌壇の人々に言われてきたことそのものでもある。
(「私の短歌」序文)

読み手をとりまく、アイヌに対する意識、社会的な常識が、(一部の人を除き)それほど変わっていないということでもあるのだと思う。

なので、『違星北斗歌集』では、きちんと違星北斗の生きた時代のことを解説で書いたつもりです。北斗作品の鑑賞に必要な知識も一冊で読めるように工夫しました。
宣伝でした。

違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を (角川ソフィア文庫)

·
2021年9月21日
違星北斗の書評はとても嬉しいが「アイヌの啄木」というキャッチーだが人物にそぐわない仇名が広まっていくのは困ったな。

·
2021年10月9日
「図書新聞」10月16日号の岡和田晃さんの記事で『違星北斗歌集』をご紹介いただきました! 驚くべきことに! ありがとうございます! マークさんの『アイヌ通史』の下!


2021年9月26日
あ、赤旗でも紹介されたの? どうやって入手できるんだろ?
https://twitter.com/akahatabunka/status/1442011202482180097?s=20&t=ul-GNOA6tXI43Yvpwgy0rw

2021年10月23日
北海道新聞夕刊カルチャー面で、岡和田晃さんに『違星北斗歌集』をご紹介いただきました。

ありがとうございます!


2021年10月26日
岩波書店のサイト「B面の岩波新書」の岡和田晃さんの評論の中で、『違星北斗歌集』をご紹介いただきました!
https://t.co/jStPy8YNj7

2021年10月31日
北海道新聞に『違星北斗歌集』の書評が掲載されました。

評者は『近現代アイヌ文学史論』の須田茂さんです。

2021年10/31道新朝刊読書
■<ほっかいどう>違星北斗歌集
などなど。

·
2021年11月2日
「角川短歌」11月号に『違星北斗歌集』の書評が掲載されています。評者は河路由佳さんです。

·2021年11月4日
『望星』11月号(東海教育研究所)に『違星北斗歌集』の書評が掲載されました。

評者は文芸評論家の佐藤康智さんです。

https://tokaiedu.co.jp/bosei/

 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 20:55 [688]





 ツイッターより 

2021年11月7日

もうさ、北海道の縄文、続縄文、擦文文化は「縄文アイヌ文化」「続縄文アイヌ文化」「擦文アイヌ文化」、近世のアイヌ文化は「近世アイヌ文化」とか呼んだらどうなのかな。それぞれの文化の担い手が連続性を持っているといことが、よくわからん人が、間違えたり勘違いしたりできないように。



2021年12月31日
本日12月31日から明日1月1日に移り変わるくらいの時間帯が、違星北斗生誕120年になります。北斗さん、おめでとうございます!

1月26日
本日1月26日は違星北斗の命日です。93年前の1月26日午前9時、違星北斗は亡くなりました。


1月26日
https://mairi.me/-/1032518
こういうのもあるのだね。



 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 20:20 [687]





 ケマフリ 
NHK「#ダーウィンが来た」でケイマフリ(ケマフレ)特集。

シャモの言葉でもケイマフリだよ、北斗さん。


水けってお尻ふりふりとんでゆく ケマフレにわいた春のほゝえみ 

ケマフレはどこからくるかいつもの季節に またやってきた可愛水鳥 

建網の手あみのアバさ泊まってて 呑気なケマフレ風に吹かれる 

人間の仲間をやめてあのやうな ケマフレと一しょに飛んでゆきたい 

人さまの浮世は知らぬけさもまた 沖でケマフレたわむれてゐた 

https://twitter.com/kiyamashina/status/1469983170951278593/photo/1

 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 20:09 [686]





 北斗ノートより 
北斗ノートより
「我等は自覚さへすれば救れる、生る、植る。
代表的正直者 杉本竜太郎
孝子 喜一氏
中興の偉人 中里
無名の壮士 安之助
最初の文士 雪枝子」

この雪枝子は知里幸恵のこと、
安之助は山辺安之助、中里は中里徳太郎。喜一は余市の友人杉本喜一、杉本竜太郎はその父瀧太郎かな。

 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 19:59 [685]





 無題 
【新発見】違星北斗の手紙(金田一京助宛)大正14年5月25日
豊多摩郡阿佐ヶ谷大字杉並村成宗三三二
金田一京介先生
机下

T様より、違星北斗の手紙の写しを発見した旨、お教えいただきました。
拝見すると、うち1点が新発見でした。
--------------------------------
前略
 昨日は誠に有がとう存ました
 殊に大好物なお汁子 沢山ご馳走様になりまして 御礼の申上げ様もありません
 あれから代々木の藤田様のお宅に行く ついでに久保寺様方に立寄りました
 ちやうどお留守でした そこのご主人は また 僕の先生(小学校)のそのまた先生なんでした ウレシカッタ
 そこからすぐ藤田様方に行き また愉快に遊び日曜の一日を過しました
 先生 如何でしたでせう 例のアイヌのことは 私しも大へん心配してゐました
 アイヌから一人でも能力のある者を出したい 私しは ホントウニ アイヌであって しれが売り物でないことを 望ましい処から 昨日は 遂(つ)い 失礼を語菜を申し上げたのであります どうぞ御海容を下ませ
 本日 東京日々新聞に戸田直斎?博士談「アイヌに就て」彼らは蛮人にあらず 系統は西洋人に近い……曰々の記事がありました
 こうしてアイヌでない人によって立證されることは 誠に感謝の次第であります 
 戸田氏はアイヌの少年(一三)を自宅に置いて教育してゐるそうです ナント云ふ 有りがたいことでせう 蔭乍ら拝んで居ります
兎に角く 今はアイヌの幸福の秋である様に思れます ちゃうど今までのと反対に同情に満たされてゐるのです
有りがたい時代に生れ合せたことを感謝致し舛。外部から證據たてられるより 内部から実證することを大切だと思います
それは 同情は ともすれば我等民族■惰弱に流れやすい欠点の多く持ってゐることを思ふからであります。
先日の問題を西川先生に相談しました(希望の件)三十一日(日曜日)にまたお伺い申上げます 先は一寸御礼申ます

四谷区三光町一五〇 市場協会内 違星北斗

--------------------------------
いろいろと新発見もあり、また「なるほど」と空白を埋めたり、なんとなく予想していたことを補強してくれる内容もあったり。
後で解析したいと思います。

 
管理人  ++.. 2022/02/06(日) 19:56 [684]





 メモ 違星北斗歌碑について 
違星北斗の墓にはモデルとなる建築物があったようですね。

https://sapporowalk.sakura.ne.jp/tanoue/1956/iboshi/

 
管理人  ++.. 2021/06/26(土) 16:31 [683]





 エカシとイカシ 
アイヌ語で老翁のことを「エカシ」というが、北斗は主に「イカシ」を使う。

これは「余市方言」であると思っていたが、本当にそうなのか?という疑問があって、いろいろ調べてみた。

北斗がイカシを使っているのは

小樽新聞「フゴッペ」「わが家名」では
「オソツ(ヲ)クイカシ」「ヌプルランイカシ」を使用
→死後の「コタン」では「エカシ」に直されている。

「烏と翁(パシクルとイカシ)」
は初出「子供の道話」では「イカシ」
コタン掲載の小樽新聞版も「イカシ」

「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」
これは初出「子供の道話」では「イカシ」。
コタン掲載時は「エカシ」になっている。


東京時代のノートには「エカシ」とあるのですが、これは東京時代のものですので、東京の学者の本を読んだりして、影響が あったのかもしれないと思っています。

それから、これは北斗の筆になるものではないですが、北斗の死後、昭和5年 の北海タイムスの記事で、兄の梅太郎への取材ですが、
 オタルナイのザンザラケップから海の神の怒りを買って村を滅ぼされ、小舟に 乗って漂流したという違星家の祖先を「コタンパイガシ」と書いています。


 このように、北斗は主に「イカシ」を使用し、
 新聞雑誌ではそのまま「イカシ」なのが、
 「コタン」掲載時に「エカシ」に直されるという流れがあるように思います。

 
「小樽教育地図研究会」が2010年に出した
『小樽・余市アイヌ語の研究―後志・日本海側地方への試み』
(編者・岩井真澄、大関洋平、並木翔太郎)という研究書(小冊子)

 で、小樽・余市の江戸時代の通詞の語彙集を集めた資料がありまして、

 A「蝦夷言葉集」
 B「イロハ番付阿異野事葉」
 C「蝦夷西場所アイヌ語事典」

 の3つの通詞の語彙集の語彙を集めていまして、その中に、当時のアイヌの通 詞が使った語彙として、

 A では「祖父 イカシ」
 B では「祖父 イカシ」
 C では「祖父 イカミ」(写し間違い)

 となっているのを確認しました。
 
 いずれも、北斗の時代に関係なく、江戸時代の通詞が「イカシ」と聞き取り、 話していたと判断できるので、これをもって、
「イカシ」は余市(後志)方言としても問題ないのではないかと思いました。

(ただし、3つの資料は共通の文書から派生したものではないかということらし いので、そのへんはエビデンスとしては弱いのかもしれませんが)。

「イカシ」が江戸時代より余市アイヌによって話されていたの が、和人の通詞にはそう聞こえた、ということだと思いますが、
 それは、エ/イ音どちらとも取れる発音だったのかもしれないですが、教育を 受けた北斗や梅太郎なんかが「イ」を選んで書いているのですが、
 とはいえ、北斗や余市アイヌは

 イボシ=エボシ
 タキジロウ=タケジロウ
 イサン=エサン

 と、「い」「え」の混同がみられるのは地元の郷土史家の方にも確認したことがあります。


 
管理人  ++.. 2021/06/19(土) 05:39 [682]





 HP修正 

トップページと、コタン文庫を修正しました。

修正内容は「違星北斗歌集」についての記述を追加。
それと「コタンノート」へのリンクも加えてあります。

Goliveが使えなくなり幾星霜。HTML手打ちでなんとかしのいでいますが、
Table(表)を使ったページの更新はなかなか面倒です。
 年譜にいたっては、Tableを駆使しすぎていて、HTMLではもはや更新不可能…。
 エクセル版のPDFをアップして、そこにリンクするようにしようか…

 
管理人  ++.. 2021/06/15(火) 00:56 [681]





 『違星北斗歌集』刊行のお知らせ 
 長らく違星北斗の遺稿集『コタン』が絶版でしたが、それに代わる遺稿集が発行されることになりました。

………………

『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』著者 違星 北斗
(角川ソフィア文庫)

発売日:2021年06月15日 商品形態:電子書籍

「アイヌの啄木」と呼ばれた歌人の心の叫び。

「アイヌと云ふ新しくよい概念を内地の人に与へたく思ふ」
「滅亡に瀕するアイヌ民族にせめては生きよ俺の此の歌」
「滅び行くアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く」

先住民族アイヌが公然と「亡びゆく民族」の烙印を押され、本来は「誇り高き人間」「立派な人」という意味を持つ「アイヌ」という言葉が侮蔑の響きをもって使われていた大正時代から昭和のはじめ。アイヌ民族復興のために立ち上がりその生涯を捧げ、病のため27歳で早世した歌人がいた。文庫ではじめて違星北斗の短歌、俳句、詩、童話、散文、ノートの記録を集める決定版。

【目次】
違星青年 金田一京助

短歌
医文学/小樽新聞/新短歌時代/北海道人/志づく/私の短歌/はまなすの花/ウタリ之友

日記
大正十五年七月十一日から絶筆

俳句
句誌にひはり/医文学/俳句/北海道 樺太新季題句集/月刊郷土誌よいち


冷たき北斗/大空

童話・昔話
熊の話/半分白く半分黒いおばけ/世界の創造とねずみ/死んでからの魂の生活/烏と翁/熊と熊取の話

散文・ノート
ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて/ぶちのめされた民族が/アイヌの一青年から/春の若草/我が家名/淋しい元気/淋しい元気/コクワ取り/アイヌの誇り/疑うべきフゴッペの遺跡 奇怪な謎

手紙
自働道話/子供の道話

コタン創刊号
目次/巻頭言 白路 凸天生/アイヌ神謡集序文コタン 知里幸恵/偽らぬ心 凸天/生活 自覚への一路 浦川太郎吉/「アイヌの姿」 北斗星/心の日記(後藤静香)/断想録(其ノ五) 十一州浪人/コタン吟(其ノ二) 十一州浪人/はまなし凉し/編輯余録/奥付

解題・語注
違星北斗年譜
解説 違星北斗その思想の変化  山科清春

https://www.kadokawa.co.jp/product/322003000263/
………………

タイトルは「歌集」ですが、遺稿集『コタン』の内容を網羅し、さらに新発見の道話・手紙・ノートなどの文章を収録。

350ページですが、うち90ページは「解題」「年表」「解説」を私が描き下ろしています。

違星北斗の生涯と思想の変化を解説しているので、コタンよりも分かりやすくなったと思います。

 
管理人  ++.. 2021/06/04(金) 01:02 [680]





 ラストアイヌの中の北斗 
「ラストアイヌ」という森竹竹市の評伝の中に当然、違星北斗のことも出てくる。
その中で当サイトの情報を使用しているのだけれど、ちょっと北斗に関しては、読み込みが足りないというか、理解が足りない気がする。
…やはり、原典にあたろうよ、とは思うわけです。

そうしないと、周辺の経緯や背後の状況などがわからない。このサイトに載せているのは北斗に関する(表に出せる)記述だけであって、それを出すためには、その数倍もの資料を読み込んでたりするわけで…。
その背後には文脈というものがあるし、それはやはり図書館なり古本なりで原典や周辺の情報を把握してから書こうよ、と思うわけです。

その一行を書くために、数年、十数年かかってたりすることもあるし、休日と飛行機代やら新幹線代を使って北海道やら岡山やら、全国の図書館に行って調べたりしているのだから。

もちろん、この本があかんということではありません。
いい本だと思います。

 
管理人  ++.. 2021/03/30(火) 03:40 [679]





 アイヌ新聞4号 
アイヌ新聞4号 高橋真(1946年4月21日)

アイヌ偉人烈伝(その三)

熱血の違星瀧次郎氏
余市アイヌが久遠に誇り得る偉人「違星滝次郎氏」の名は全道アイヌの心に深く刻まれねばならぬ。「アイヌは見世物にされる、そして悪い和人のために欺され亡びてゐる。一体これでよいのか?」熱血児滝次郎の心は何時もこの心で一ぱいであった。或時は日高、胆振のあちこちに、或る時釧路のコタンに、また或る時は十勝のウタリーに「アイヌよめざめろ!!」と力の限り叫んだ。けれども同族からさめ様ともしなかった。そして「フヽン余市アイヌが何を云ふ」といふ冷い嘲笑のみが多かった。多感な滝次郎は上京してアイヌを正しく都会人に認識させるために、熱弁を揮った事もあった。アイヌ研究家、ユーカラの権威金田一京助博士にも種々と論難したのも滝次郎で此の同族愛の燃ゆる情熱は多くの人々から愛された。そして高給で市場協会の職員に採用された。然し平凡な和人生活になり切るよりもコタンに帰って、ウタリーの為に世の荒浪と斗う事とし●然帰郷、手づから「コタン」と云ふ雑誌を刷って同族の啓発に努めたりした。だが生活は何時も苦しかった。一枚のハガキを買ふことも出来ぬ時もあった。加ふるに労働のため体は弱く遂に病床に伏さねばならなかった。「くそ、しぬものか…」だが、昭和5年2月享年30歳で「世の中は何が何だかわからねど死ぬ事だけは確かなり」と詠じて此の世を去った。熱血児、歌人違星氏は「北斗」と称した。

 
管理人  ++.. 2020/09/11(金) 15:40 [678]





 更新 
久しぶりに更新しました。

久しぶりに「違星北斗.COM」をメンテナンス。

大昔adobeのGoliveというソフトで作ったのですが、すでにその環境も失われて久しく、HTMLを思い出しながら。

変更個所は 

・トップページ(最新情報)に  

http://iboshihokuto.o.oo7.jp


「違星北斗ノートについて」

http://iboshihokuto.o.oo7.jp/hokutonotenitsuite.pdf

「北大資料」のページ

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0f98.html

へのリンクを追加。
 

・違星北斗写真館(北斗少年の写真) 

 北斗の少年時代の写真を追加

・違星北斗書画集

  図表編集が面倒なので、ブログの方に追補ページを追加しました。

・その他、ブラウザの仕様変更で、縦書きが崩れてしまうようになっていたので、すべて横書きに戻しました。

 違星北斗.comは、2001年ごろから作り初めていましたから、もうすぐ20年ですね。
 もはや、トップページももはや骨董品です。

 
管理人  ++.. 2020/09/08(火) 15:48 [677]





 ヨイチの指導者 
文政年間あたり〜

上ヨイチ 

惣乙名 イコンノミ 
脇乙名 カシタ井
→ イタキサン

下ヨイチ 

惣乙名 サケシュス
脇乙名 イナオリ
→ 子トハケ

天保年間あたり〜

上ヨイチ 
惣乙名 ヲシトンコツ
脇乙名 イタキサン

下ヨイチ 
惣乙名 サケシュス
脇乙名 イコンリキ
→ 子トハケ

 
管理人  ++.. 2019/05/29(水) 00:36 [676]





 ヌサマカ翁 
フゴッペに「ヌサマカ翁」という古老の名があるが、「水郷余市の奇勝 神巌蝋燭岩」(山岸礼三)に

「忍路に、先祖から居つたと云ふアイヌの一族、その古老格の人物に無江圓助(アイヌ名「ヌサマカ」八十有余歳で昭和七年に故人となった)なる者がゐた」

とある。出漁の時は、蝋燭岩を方角を見たり、天候を予見する時の目安にした、といった話。

 
管理人  ++.. 2019/05/04(土) 00:31 [675]





 ヨイチ場所 ヲムシャ申渡書 
安政ニ乙卯年六月書上写
 ヨイチ御場所諸用書上
 ヲムシャ申渡書

一、公儀を重じ御制札の表并前に被仰渡候通御法度の趣堅相守申事。
一、御用状継送状并御役人様方御通行の節諸合之無遅滞相勤候趣神妙之候猶此上申合相勤可申事。
一、異国船又は怪敷船并難破船等見更候はば早速運上屋に相届申事。
一、火之元大切に入念取扱可申事。
一、御軽物は勿論、諸産物壱品成共船方共、交易致者有之おゐては厳重有り可申付事。
一、上下ヨイチに至迄常漁業致出情食料類貯置差支無之様可心懸事。
 附 煎海鼠鮑の儀、近来格別の上命に付候ば厳重に申聞候通出増ニ相成候様相心持右番人稼方は勿論船手追鰊取之者に至迄聊成共交易ケ敷儀不致様、乙名小使共より可申付事。
一、親子兄弟夫婦を始諸親類睦敷可致儀、勿論故而蝦夷人共仲能いたし且男女年頃ニ及候はば乙名小使共世話致縁組取結候て相届可申事。
 但 病気蝦夷人并老若のもの為養生喰物等之儀ハ日々運上屋迄申出厚取扱致候様一同へ申聞置尚病気のもの薬用等精々可申付候
一、蝦夷人他場所へ参候儀聞て不相成候若無拠筋にて罷越候節ハ早速運上屋へ願出支配人通詞之差図請可申事。
一、数多蝦夷人の内壱人若悪工等改者有之大勢寄集騒敷事有之候はば数百人之難儀に相成候間左様之儀無之様相心得申事。
一、喧嘩口論不申及言葉を工聊にてもつぐの急がましく儀堅無用若於相省は厳重に可致事。
一、乙名小使産取に到迄御盃并御産被下置候儀は重き事に候常申附を不省様ウタレ共之内悪意を好混雑間敷儀有之節は厳重に取扱猶運上屋えも注進等可致事。
一、運上屋支配人通詞番人に至迄親敷可致候其上分之儀取扱候はば早速可申候事。
右之候ヲムシャ定例之如上下ヨイチ御場所役蝦夷人産取に至迄申渡候間不洩様ウタレ共可申聞候もの成。
 右之通奉書上候                以上 
 卯六月         ヨイチ請負人
                  竹屋 長左衛門
町御役所

 
管理人  ++.. 2019/05/03(金) 02:00 [673]

 
オムシャとは和人とアイヌの交易の時に行われる儀礼であった。

もともとは「対等」の交易であったはずであるが、和人の場所請負人がアイヌを支配下におくようになり、

やがて上記のような「申渡書」によって、アイヌをがんじがらめに縛るようになった。



管理人  ++.. 2019/05/03(金) 02:56 [674]





 メモ 
「よいち」S29 10-11 第5巻 26号
「北斗歌碑にご賛同を希う」

よいち
 「藻入情話 トシカの恋」
 アイヌの伝説(?)

 ロミオとジュリエットのように、余市川の左岸・右岸の恋人がシリパで死ぬ話

改造 T14年 「悲しみのオキクルミ」

 
管理人  ++.. 2019/03/21(木) 13:27 [672]





 徳太郎の両親 
中里徳太郎の父親・母親の名前は「林家文書」でも欠落しており、わからなかったが、荒井源次郎遺稿に
「明治10年(1877年)9月、父イタク・エアシカイ、母スネコロの長男として生まれる」とある。
佐藤氏調べの「系図」では伯太郎とあり、金田一の「あいぬの話」では徳蔵とされているがどちらかは不明。

 
管理人  ++.. 2019/03/01(金) 13:28 [669]

 
脇乙名 イタキサン 57歳(1803年ごろ生)
長男 ?
次男 ?
三男 コエタ 改 鯉太郎 1845年ごろ生まれ
四男 ホンコエタ 改 猪之松(助?) 1852年ごろ生まれ→東京留学をして、市川姓へ。
妹 ヲヘレケ 改 とみ 1855年ごろ生まれ。

この?の子(イタキサン孫)として
イタク・エアシカイ(伯太郎?徳蔵)?
甚作(→違星家)1862年生まれ
宗市
甚三


このうち、長男か次男が「イタク・エアシカイ」だろうか。

名前は「能弁」の意味かな。


管理人  ++.. 2019/03/01(金) 13:42 [670]

 
イタキサン(1803年ごろ生)

↓→(長男)名前不明(1820年〜30年代ごろ生?)
↓→(次男)名前不明(1820年〜30年代ごろ生?)
↓ ※長男か次男のどちらかの息子
↓  ↓
↓  ↓→→(継子)イタク・エアシカイ(1850年代ごろ?)
↓  ↓   (伯太郎(佐藤利雄説)/徳蔵(金田一京助説)
↓  ↓     ↓
↓  ↓     ↓→→(イタク・エアシカイ長男)
↓  ↓         徳太郎(1877年生)
↓  ↓           ↓
↓  ↓              →篤治
↓  ↓      
↓  ↓→→(次男?)
↓  ↓   甚作(セネツクル)1862年生
↓  ↓
↓  ↓→→弟
↓  ↓→→弟
↓   →→妹
↓  
↓→(イタキサン三男)
↓    鯉太郎(コエタ)1845年ごろ生

↓→(イタキサン四男)
↓    猪之助(ホンコエタ)1852年ごろ生
↓   東京「留学」、市村姓を名乗る

 →(イタキサン娘) 
      とみ(ヲヘレケ)1855年ごろ生


管理人  ++.. 2019/03/07(木) 13:16 [671]





 イコンリキ 
8ページめ、余市上場所では初鰊や初鮭が上がるとら和人とアイヌの合同の祭りをし、違星北斗の曾祖父イコンリキらがイナホ(イナウ)を作りカムイノミをしていたという資料。
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/38286/1/3_17-26.pdf

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:44 [667]

 
イコンリキは違星北斗の祖父・万次郎の父。
北斗の曽祖父。
脇乙人なので、幕末の「林家文書」に結構名前がでてくる。
カムイノミしたり、和人へのツグナイで連帯責任で刀の鍔を供出したり。
名の通ったアイヌだったのだろう。
養家イソヲク家(後の違星家)に婿入りした万次郎はイコンリキの名残りを家紋と家名に残した。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:45 [668]





 無題 
メモ・余市町でおこったこんな話「その168 松浦武四郎が見たヨイチ」https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2018/sono168.html
・「ウタングース」ウタグス、違星漁場。
・「ノジユシマス」星が落ちて岩になった
・武四郎は「ヨイチはイウヲチなり。イウとは温泉、ヲチはある」として、ヨイチは寅卯(東北東)の風をいう」と主張。

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:38 [664]

 
上記サイトより。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:39 [665]

 
メモ・余市町でおこったこんな話
余市の伝説
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2008/sono50.html
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2008/sono51.html
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2008/sono52.html
ローソク岩
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2014/sono117.html
フゴッペ
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2013/sono113.html
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2010/sono76.html
天内山
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2006/sono30.html
山岸先生
https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2016/sono141.html

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:41 [666]





 無題 
違星北斗は和人にぶちのめされた《民族》を勇敢に立ち上がらせ、立派な《民族》に再びつくりあげるために戦っていたのだ。
「アイヌ民族なんて存在しない」と嘯く小林よしのり一味に悪用されるような存在ではない。
かの時代の日本に生まれてよかったと言うのは民族復活の光栄な義務と責任を負うが故だ!

「わたしたちの子供の時代、またその次の時代が来たとき、ぶちのめされた民族が、こんなに勇敢に立ち上がったことを自慢に語ってきかせたい。この立派な民族をつくりあげたのは俺たちであると言ってきかせたいではないか。この義務と責任を負せられた大正のアイヌは人々の光栄としてうらやむことだと思う」(北斗ノートより)

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:21 [662]

 
北斗の皇国/文明讃美に見える表現には、たいてい対比として「アイヌの現状」がある。「誰がこの苦しみを与えたのだろうか」ということが根底にある。

その上で、「シャモに蹂躙されるままのアイヌも(このままでは)いかん、アイヌは日本の社会の中で、和人と伍して劣らぬ存在にならねばならない」と言っているのだ。
北斗は、和人、アイヌ、朝鮮民族、それぞれの民族がそれぞれの個性を発揮し、共存できる「多民族」の社会を目指していた。

「アイヌ民族は存在しない」という連中が、「北斗も同化を目指していた」と言うことが間違っていることは明らかである。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:26 [663]





 無題 
『ゴールデンカムイ』のアシリパさんは小樽のコタン出身の設定なんだけど、「小樽アイヌ」の文化の記録があまり残ってないので、他の地方の文化を参考にしているそう。だったら、折角だからドンドン近隣の余市の文化参考にしてほしい!
そして余市に来て5歳の違星北斗を出して!

北斗も祖先はオタルナイ出身で、鯱神の怒りを買って余市に漂流してきたと伝えられている。だから、小樽付近のアシリパとは親戚かもしれない。(妄想)

(2018年12月5日 twitter)

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:37 [644]

 
違星北斗の祖先はもと「ザンザラケップ即ちオタルナイと言われた銭函付近」にいたそうだけど、このザンザラケップとはどういう意味なのかな。サン(棚)と関係あるのかな?
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:47 [650]

 
違星北斗の祖先はもと「ザンザラケップ即ちオタルナイと言われた銭函付近」にいたそうだけど、このザンザラケップとはどういう意味なのかな。サン(棚)と関係あるのかな?

地形的には海の近くなので、崖を背にして海に向かって開かれた地形に関係あるのかな、とか推測していました。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:48 [651]

 
違星北斗はイナウのことを「イナホ」「イナヲ」と表記する。
余市アイヌの方言だと思ったら、近隣の小樽にも使用例があった。

小樽市稲穂の地名由来は、稲の穂ではなく、アイヌの祭具イナホ(イナウ)から来ていると。
小樽アイヌの言葉はやはり余市と似てるのかも。

http://dragonjinja.ec-net.jp/yurai.html


管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:16 [660]

 
余市の「林家文書」などでもイナヲなどの表記がある。
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:17 [661]





 知里幸恵の写真 
知里幸恵さんの写真というと、画像検索すると有名な写真が何枚か出てきますけど、この少女時代の画像はネット上には上がってないのかな。
 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:53 [652]

 
時系列だと、こんな感じかな。
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:59 [653]

 
この時代は写真取る時、少女はお花を持たされていたのかな。


管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:00 [654]

 
2番めの写真と同じ場所かな。
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:01 [655]

 
よく知られた写真。
ちょっと固い表情。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:03 [656]

 
おばの金成マツさんとの写真。
珍しく笑っている。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:06 [657]

 
知里幸恵は写真によってだいぶ印象が異なるけれど、これも、アシリパさんの百面相を思い出してしまう。


自分は、アシリパさんのイメージの中に、知里幸恵と『アイヌ神謡集』の投影があると思っていて、大自然の中を駆け回るアイヌの少女、あれは時代的に現実にはありえない理想であり、悩み苦しみ悲しんだ知里幸恵の見た夢のようなものかもしれないのかなと。


管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:11 [658]

 
ここに描かれている世界は、そのまま作中のアシリパのイメージにつながる。でも、それは失われたものだと幸恵は言う。
『アイヌ神謡集』序文
https://t.co/xZYdnWYEdk

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 21:13 [659]





 無題 
教員用のアイヌ民族の歴史の教科書ガイド。すっごく勉強になるんだけど、違星北斗(載ってる!)のところは、ツッコミどころ満載なんだよねえ。

https://t.co/75wf9rvpVt

なんか、違星北斗が戦前の「北海道アイヌ協会」を作ったみたいに書いてあるんだけど……ちょっと飛躍しすぎ。吉田菊太郎らとの「アイヌ一貫同志会」が、戦前の「北海道アイヌ協会」(実質、そのようなものはなかったともいわれているけれども、仮にあったとしても)の前身の一つにすぎないし。


 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:40 [645]

 
いや、でもこんなに自信満々に教科書に「違星北斗、吉田菊太郎たちが仲間を集めてアイヌ協会を作った」と書いてあるのはなぜだろう……それを裏付ける文書でも出てきたのかな!? 1931年、北斗、死んどるよね?
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:41 [646]

 
「東京で事務員をしている時に、民族の復興を思い…」と書いてあるが、もちろん違う。民族の復興のために、東京に就職し、さまざまな学者文化人の知識を吸収して北海道に戻ったのだ。あと、北斗の生年月日ね。戸籍上は1902年1月、実際は1901年12月だけど、ここでは新説1903年説が登場。
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:42 [647]

 
あと、誤解を招きそうなのが「『コタン』を1927年に発刊」。実際はガリ版刷り同人誌『コタン』を1927年に発行(北斗の作品だけでなく、他の人の作品も掲載)、1930年に遺稿集『コタン』を発刊で、今言う『コタン』、北斗の著作としての『コタン』は1930年版。

いや、いい本だと思いますよ。でも、違星北斗がまるで「ヒーロー」になっちゃうじゃないですか。こうやって「歴史」って作られていくんですねえ。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:44 [648]

 
『アイヌ一貫同志会』自体が、実在したか確証に乏しく、藤本英夫の文章に伝聞としてでてくるだけで、他には見当たらない。当時の文章なり手紙なりには一切出てこない団体名なんだよね。
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:45 [649]





 アイヌの物語アニメ 
先程、「アイヌのお話アニメ」に辿り着きにくいと書いたのですが、キーワードがよくなかったようで、「アイヌのお話 アニメ」で検索するとうまく行きました。
でも、やっぱりラインナップが見られるちゃんとした公式ポータルサイト欲しいですよね。

くもの女神 - ヤオシケプ カムイ - アイヌ語音声日本語字幕 https://youtu.be/IXBy9TZOgQk

オキクルミの妹 - オキクルミ コッ トゥレシ - アイヌ語音声日本語字幕 https://youtu.be/bhsQGeWktiU

アイヌのお話アニメ オルシペ スウォプ 「レホッネ シンタ(60のゆりかご)」 https://youtu.be/25X8OosDCZk

小さなアワの穂 - ノカン ムンチロ プシ - アイヌ語音声日本語字幕 https://youtu.be/xewQ5MkF_lA

「ポイヤウンペ(サコイェ)」アイヌのお話アニメ オルシペ スウォプ https://youtu.be/EjFYrsYHcfE

サマイクルのイム - コンル カ タ - アイヌ語音声日本語字幕 https://youtu.be/TGwkOIv-0X0

うさぎがはねた(アイヌ語音声+日本語字幕) https://youtu.be/8RQ5Rprpw9U

パナンペとペナンペ トドのシラミ - エタシペ コムイ - アイヌ語音声日本語字幕 https://youtu.be/FKTaBUtuWxY

空の上の雪かき(アイヌ語音声+日本語字幕) https://youtu.be/GHHyQfFQK1U

空き家の化け物 - オハチスイェ - アイヌ語音声日本語字幕 https://youtu.be/eeFrBqd5Pn4

この木たおれろ(アイヌ語音声+日本語字幕)https://youtu.be/FG2naTkjSHI

口輪を鳴らして - オタコチャンチャン - アイヌ語音声日本語字幕 https://youtu.be/svAr1R22owA?list=PLZxG9Trb0LOH3Dbj_2BH_rcKbUHDgieZw

赤ん坊の知らせ アイヌ語(オリジナル)音声 日本語字幕 https://youtu.be/7H7nF9W2R8g

この砂赤い赤い アイヌ語音声 日本語字幕 https://youtu.be/hPZicP4VDFk

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:30 [641]

 
これは別の「しらおいポロトコタン アイヌ民族博物館」のページだけど、こういうページがあれば……。
http://www.ainu-museum.or.jp/takar/book/

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:30 [642]

 
素晴らしいまとめが。

「アイヌのお話アニメ」解説
https://togetter.com/li/504157

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:32 [643]





 『アイヌの伝説 其情話』 
余市の郷土史家で北斗の友人の鍛治照三が『あけゆく後方羊蹄』に引用した違星北斗の手によるものとしていた童話「林檎の花の精」「ローソク岩と兜岩」が、大正13年の青木純二『アイヌの伝説 其情話』に掲載されているのだ。

これは、一体!?
これらは北斗の手によるものではないのか?どっちが先だ?


 
管理人  ++.. 2018/11/22(木) 00:07 [633]

 
大正13年なら、北斗は茶話誌に書いていた可能性もある。また、余市の伝説だから、北斗やほかの余市アイヌが青木純二に語った可能性もある。

逆に北斗が青木の文を茶話誌か何かに引用し、それを鍛治が、北斗のものとして引用した可能性もあるかも。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:04 [639]

 
北斗の評伝を書くには、当然余市コタンの歴史や伝承も相手にせねばならないのだけれど、実際はそこが難関だったりする。
北斗の祖先は鯱神を怒らせてオタルナイから余市に来たという伝承なのだが。
やはり小樽余市の伝説を調べねばならないのは必須なのであった。
シトナイ問題は北斗とも関連するのだ。

管理人  ++.. 2019/02/10(日) 20:06 [640]





 ヤエ姉様 
「違星北斗はバチラー八重子のことを「ヤヱ姉様」と呼んで慕っていた」的言説はおそらく半分は正しい。慕ってはいたが、八重子は北斗にとってはむしろ母くらいの年齢なんだよね。自分はこの「姉様」呼びはクリスチャンの敬称〇〇兄、〇〇姉の由来だと思うんだが、どうだろう。

(2018年8月23日 twitter)

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 19:57 [638]





 今日のシリパ岬 

今日のシリパ岬


(2018年7月17日 twitter)

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 19:54 [637]





 ヘイトする創作者 
創作者をめざしてるのにヘイトに染まっている人は
「自分の作品を楽しみに手にとってくれた人を逆に傷つけ悲しませ、手にとったのを後悔させるような表現をするべきではない」
ということの折り合いをどうつけるつもりなのかな。憎悪振りまきながら多くの人に愛されたいって、矛盾してるでしょうに。

(2018年4月17日 twitter)

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 19:43 [636]





 北斗のポテンシャル 
研究者としての違星北斗、実は凄いポテンシャルだったと思う。あのまま研究を続けてれば…。猛反論して北斗を萎えさせた先生は罪深いよ。「祖父に聞いた」「兄はこう言う」「我が家の伝承では」「隣のM家の伝承」「川向かいのコタンでは」アイヌである北斗ならではの地に足がついた根の生えた研究。

あ、北斗とフゴッペ大論争をした某先生のことを悪くいうつもりはなくて、実は、昭和30年代に、違星北斗の資料の収集と顕彰をした、北斗を現代に残した方の子孫が、その論争相手の方と浅からぬ関係があったりもして……。不思議な縁があるものです。

(2018/6/2 twitter)

 
管理人  ++.. 2019/02/10(日) 19:41 [635]





 コタンとの出会い 
私が違星北斗と出会ったのはいつだったか。書店で95年版『コタン』を手にして、「アイヌの姿」を読んだ時に、涙が出てしかたがなかった。

たしか、札幌の書店だったと思う。
でも、それが何年のことかがわからない。95年版だから95年以降なんだろうけど……。

98年頃にはゼミの参考資料として北斗の短歌を出していて、
20001年頃には、北斗の短歌をデータベース化を始めているから、その間だなあ。

 
管理人  ++.. 2018/11/28(水) 08:25 [634]





 無題 
北斗と親交があったらしい詩人・秋田雨雀のことをもっと調べないといけないと思っていて、青森の記念館にも行きたい。

とはいえ、群馬の後藤静香記念館にも行けてないのだ…。

http://kuroishi.or.jp/sightseeing/akita

 
管理人  ++.. 2018/11/11(日) 19:22 [628]

 
上野の国際子ども図書館の「『赤い鳥』創刊100年―誌面を彩った作品と作家たち」展
http://www.kodomo.go.jp/event/exhibition/tenji2018-03.html
を見てから、秋田雨雀のことを考えている。
筆まめな人で、多くの文化人の登場する詳細な日記を残している。北斗とは面識があり、北斗ことも書いてあるかも知れないと、雨雀の日記を購入する。

管理人  ++.. 2018/11/22(木) 00:04 [632]





 無題 
秋田雨雀日記 大正14年12月13日「夕方アイヌ人の選里(千里)君がきたので、夜まで話した。やはり大和民族にたいする怒りを持っているようだ」
この「選里」は「違星」の読み間違いではないかと。(編者は「千里」としていて、知里真志保に比定しようとしているのかも知れないが、真志保はまだ室蘭中学の学生)

 
管理人  ++.. 2018/11/22(木) 00:01 [629]

 
秋田雨雀日記には北斗の知人もたくさん登場する。金田一京助、柳田国男、そして、街頭マンドリン詩人永井叔。
秋田雨雀は「アイヌの滅亡」「悲しみのオキクルミ」という戯曲を書いている。(北斗に出会う前の大正13年)


管理人  ++.. 2018/11/22(木) 00:02 [630]

 
秋田雨雀日記、秋田雨雀記念館に行けば、手書きのもの見れるのかな。
それにしても、手書きの原稿(特に本人が校正できない遺稿)を編集者や印刷工が活字にするときに間違いが生じることがいかに多いことか。


管理人  ++.. 2018/11/22(木) 00:03 [631]





 サイト引っ越し 
「違星北斗.com」コタンで使用していました「Yahoo geocities」が3月末で廃止になりますので、ニフティに引っ越します。(この掲示板は引っ越しには関係ありません)。

 お気に入り、ブックマークの修正をお願いいたします。

 http://iboshihokuto.o.oo7.jp/

 
管理人  ++.. 2018/11/07(水) 13:31 [627]





 余市町ホームページ 
余市町のホームページに
「余市町でおこったこんな話「その169 違星北斗(いぼしほくと)」」
が掲載されています。

北斗が大川遺跡で掘り出したという銅鏡が掲載されています。

https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2018/sono169.html

 
管理人  ++.. 2018/09/10(月) 20:09 [626]





 『違星北斗の生涯』 
『違星北斗の生涯』という本を、ある出版社で出そうという話になったのですが、もちろん儲かる本ではないので、本業で食い扶持を稼ぎながら、時間を作ってまとめていかねばならないので、ちょっと大変そうです。

 怠け者なので、ブログか、シミルボンのような書評サイトかどこかに、少しずつ書いていくような形で、どうにかして書き続けて行けるような形に持っていかねばと思います。
 本当は、〆切と「せっついてくれる人」がいれば、書かざるを得ないので、書かせてくれる同人誌か何かがあればいいのですが。悩み中です。

 
管理人  ++.. 2018/05/24(木) 12:10 [625]





 無題 
今、大川周明がなぜかブームですが、そういえば北斗も大川周明の講演を聞いてノートにメモを残していたなと思い、読み直してみました。

大正14年11月3日「大邦日本の理想 文学士 大川周明氏」の講演を聞いた北斗は、
大川周明の意見に、いろいろと思うところがあったようで、

「日本の理想は?
食ふことから出発せなくてはならないなんて、哀れな理想ではないか。
対外政策が日本の理想か。
なぜもっと良い理想がないのか。
国家以上の大理想がないか。
食ふことの問題? 
生きることの問題? 
人の人たる問題を援(?)いて食ふため国の立つための問題が理想であったら全く小さな問題である」

これは、大川が「食べるため国家を立てるための理想を語ったのに対して、「人の人たる問題をないがしろにして、何が理想だ、国家以上の大理想はないのか」みたいに読んだんですが、「人の人たる問題を援いて」だとすると、「たすける」「援用する」みたいな意味になってきて、ちょっとわからない。前半で小さな理想だとディスっているので、否定的なんだというのはわかるんですが。

 
管理人  ++.. 2018/02/16(金) 12:03 [621]

 
「人の人たる問題をおいて」かなと思ったのですが…それなら意味は通るんだけれど。

北斗の文章は文法的な間違いもあったりするので、真意を掴むのがなかなか難しい。

管理人  ++.. 2018/02/16(金) 12:05 [622]

 
これが、大川周明講義の内容の北斗のメモ。

「朝鮮台湾を含んでこれを大邦日本……
植民政策は同化主義は失敗と攻撃せられた(フランス)…
日本はそれを如何(台湾を植民地とみるは不可
西洋の例にのりとる可からず……ヲウストリアが治めた政治……日本は同化政策ととる可し
民族を同じうする……ローマの同化政策は成功
した。 フランスは独逸の或る一角地を同化させて
しまった 百年後には祖先よりフランス人たるを誇りとした
大邦日本の理想 日本海を中心にして海■に発展すること」

 といった、大川の日本中心・征服者としての心得を北斗はどう聞いたのか。

管理人  ++.. 2018/02/16(金) 12:17 [623]

 
やはり、国家の都合、産業や資源などの「食うため」の理想を掲げて、人を人を思わない「国家の理想」「大邦日本の理想」という考え方に対して、

「哀れな理想ではないか」
「国家以上の大理想がないのか」

という言葉が北斗のアンサーなのかなと思います。

管理人  ++.. 2018/02/16(金) 12:22 [624]





 徳富蘆花 
違星北斗が「蘆花許せん!」と言ったらしいのですが、理由がよくわからなかった。

もしかしたらだけど、蘆花の旅行記に「熊の足跡」というものがあり、その中の釧路での記述の中に、

「昨日石狩嶽に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川原野を南方へ下つて行く。水田が黄ばむで居る。田や畑の其處此處に燒け殘りの黒い木の株が立つて居るのを見ると、開け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀が身にしみる樣だ。」

といったものがある。
これなんか、北斗が見たら怒りそうではある。

 
管理人  ++.. 2018/01/26(金) 01:42 [620]





 北海道新聞に「違星北斗!」 
今日の道新の「ミンタラ」《先人たちの物語 シンリッオルッペ》で違星北斗が取り上げられています。

すごい!
内容については、まず、問題ないです。
特に良いと思ったのが「同人誌コタン」の表紙がちゃんと正しいものになっていること。(遺稿集に掲載されているエカシの立ち姿の載ったページは、実は目次ページで、収録時に表紙が散逸していたのでしょう。数年前に古書店で同人誌コタンが出た時に、本当の表紙がわかったのです)。 

添付画像では読めないと思いますので、下記リンクを参照。
FB「新聞記事スクラップ」
https://www.facebook.com/sisam2017sinbun/photos/a.137540280136904.1073741826.137538480137084/198243270733271/?type=3&theater

ただ、北斗のイラストはもうすこし男前がよかったな。

 
管理人  ++.. 2017/11/26(日) 01:05 [619]





 秋田雨雀 
違星北斗と面識があった秋田雨雀。

島村抱月の弟子で、戯曲家・小説家・詩人。
社会主義者で、エスペランティスト。

北斗と出会った大正14年、43歳だった。

秋田雨雀は、その大正14年に雑誌「改造」に
「悲しみのオキクルミ」という戯曲を書いている。

北斗と出会ったその年に、「悲しみのオキクルミ」とは、
無関係とは思えない。

大正14年の「改造」を調査してみよう。

 
管理人  ++.. 2017/11/26(日) 00:44 [617]

 
この記述。
管理人  ++.. 2017/11/26(日) 00:54 [618]





 コタン吟 
 だいぶ前に、余市のK先生よりコピーを頂いた、北斗自筆の「コタン吟」。


 「コタン吟」というタイトルは、
同人誌「コタン」創刊号(S2/8月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/kotangin-dojin.html
「新短歌時代」創刊号(S2/12月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/shintankajidai.html
「志づく」(S3年2月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/shiduku.html

「ウタリの友」(昭和8年1月)
http://www.geocities.jp/bzy14554/utarinotomo.html

など、いろいろなところで使われているが、このラインナップは、そのどれとも違う。
 
 おそらく「コタン吟」というのは、北斗が好んで使っていたタイトルなのだろう。

 のちに、病床で「北斗帖」という自筆の歌集を編み、
 草風館版コタンでも「私の短歌」を編集者によって「北斗帖」と名づけられてしまった
(つまり、北斗による命名としては病床の「北斗帖」のみで、草風館版「北斗帖」は北斗自身の編集でも命名でもなく、中身も自薦歌集「北斗帖」とはイコールではないと思われる)が、

 元気な時は「コタン吟」を好んで使っている。

 「コタン吟」のタイトルにも、もっと注目すべきだろうと思う。

 
管理人  ++.. 2017/08/29(火) 22:00 [616]





 無題 
違星北斗を漫画化するなら「坊ちゃんの時代」で金田一と啄木を描いた谷口ジロー先生をおいて他にないと思っていましたが、お亡くなりになられましたね。ほら、下戸で甘党の北斗が師を訪ねて東京中を歩き、饅頭とか、汁粉とか、かき氷とか、あと支那蕎麦などを頬張る姿も見たいじゃあないですか。「北斗のグルメ」。ちなみにこれらは全て北斗が東京で食べたもの。もちろん阿佐ヶ谷編には中原、中也が酔客として暴れこんでくるし、鶯谷では賢治がなむなむ言ってるし、巣鴨では稲垣足穂にお星様と間違えられて殴られる。
 
管理人  ++.. 2017/08/28(月) 00:33 [614]

 
「北斗のグルメ」。ちなみにこれらは全て北斗が東京で食べたもの。もちろん阿佐ヶ谷編には中原、中也が酔客として暴れこんでくるし、鶯谷では賢治がなむなむ言ってるし、巣鴨では稲垣足穂にお星様と間違えられて殴られる。
管理人  ++.. 2017/08/28(月) 00:34 [615]





 伊勢丹 
ちなみに違星北斗が足繁く通っていた新宿の「希望社」の自社ビルは、昭和七年希望社解散後、「伊勢丹」が入ったのだそうです。なんだか急に身近に思えるじゃあありませんか。
 
管理人  ++.. 2017/08/28(月) 00:29 [611]

 
「違星北斗.com」の昔ながらのHTMLベースのサイト更新が煩わしくなってきたので、更新がし易いWordPress環境に全面移行しようかと準備をしていたのだが、ただ移行するだけじゃなくて、書き直したくなってしまう。ちょっと一朝一夕にというわけには行かないな。気長にやるしかないか。
管理人  ++.. 2017/08/28(月) 00:30 [612]

 
違星北斗の周りに時代の空気のようにあった希望社や修養団、国柱会などの団体の思想。その修養・向上の考えは確かに北斗を教導した。だが90年後のこの国を覆っている排外的な空気もまた、そういった戦前の教化団体の思想を受け継ぐ日本会議のような団体が、現代に蘇らせた空気なのは皮肉なことだな。



管理人  ++.. 2017/08/28(月) 00:31 [613]





 山中峯太郎 
戦争直前に書かれた違星北斗モデルの小説『民族』(山中峯太郎)の中で、主人公「ヰボシ」は、社会のアイヌに対する風当たりに絶望して命を断つ。
山中は戦後、ヰボシを殺したことを悔いて、『民族』を改作した『コタンの娘』を書いた。
作家が亡友を作中で絶望死させた時代は「今」とどう違うのだろう。
『コタンの娘』ではヰボシは希望を失わず、死ぬ事も無く、次世代のアイヌを若葉に例え、未来に希望を持って終わる。
今こそ、山中峯太郎の「失敗作」『民族』を読むことで、当時と今について、わかることもあるのではないか、とも思う。
問題は『民族』は発禁回収くらってるから、入手が困難な事だ。
でも、山中峯太郎の作品は2017年の1月1日に著作権が切れたので、そのうち青空文庫にアップされるかも。



 
管理人  ++.. 2017/08/28(月) 00:28 [610]





 増上寺の雪 
違星北斗が上京した大正14年の冬、東京を記録的な大雪が襲った。

その大雪を描いたのが、川瀬巴水の「芝 増上寺」だ。

芝増上寺といえば、北斗の祖父万次郎が、明治の初めに「留学」したところ。
北斗は、上京してすぐに祖父の思い出の地を訪ね、
雪の増上寺を描く画家に出会ったのかも。

 
管理人  ++.. 2017/08/27(日) 22:54 [607]

 
でも、この絵は、大雪というほどでもないか。
管理人  ++.. 2017/08/27(日) 22:54 [608]

 
大雪の記録は1月30日。
北斗が上京してたかは微妙だなあ。

でも、北斗が増上寺に行ったことは間違いない。
(雑記帳に増上寺関係者の名がある)。

川瀬巴水の描いた増上寺も大正十四年に描かれたものだから、北斗が見た増上寺はこの増上寺なのだろう。

雪があったかどうかは別として。

管理人  ++.. 2017/08/27(日) 22:56 [609]





 与謝野晶子と北斗 
違星北斗と与謝野鉄幹・晶子夫妻の間に関係があるという資料はみつかっていない。

でも、北斗と晶子は、あっていた確率は決して低くないと思う。

なぜか。

違星北斗は、西川光次郎と妻の西川文子と親しくしていたからだ。
北斗は西川光次郎の斡旋で上京した。
上京してすぐに、北斗は文子と会い、西川夫妻から可愛がられている。

この西川文子の兄の妻が、晶子の妹の「里子」。

つまり、西川文子にとっては、晶子も義姉ということになり、その夫の鉄幹は義兄である。

北斗は、与謝野鉄幹・晶子夫妻の義妹である西川文子と親しかったのだ。

------------------------------------
与謝野鉄幹
  |
 晶子 → (妹)里子
         | 
         ○(文子の兄) → 文子
                   |
                   西川光次郎
------------------------------------

これって、ちょっとすごくないですかね!?
もしかしたら、何か文書が残っていないかな。

http://office34.exblog.jp/11522848/

 
管理人  ++.. 2017/07/28(金) 01:04 [606]





 無題 
本日、浜益でカムイノミがあり、私も参加してきました。
先祖へのお祈りのところで、
私にもご指名があり、北斗に対して、伝えたいことがあれば、ということでした。

とっさのことで、
「ご迷惑をおかけしますが、今後共よろしくおねがいいたします。」
と紋切型の言葉しか伝えられませんでしたが、甘党の北斗に甘いものを捧げました。

後から考えると、いろいろ伝えたいことがあるのですが……。

このカムイノミで北斗に話しかけるという体験をして驚いたことがあります。

私は和人ですし、カムイノミもやり方がよくわからなかったですので、正直、北斗に言葉が伝わったかどうかは分かりません。

それに、なんていうかリアリストを気取っている皮肉屋の部分も私にはあるのですが…

ただ、「こうやって、北斗に思いを伝えることができるんだよ」という考え、概念を示された時に、

「ああ、そうか、北斗に言葉を伝えるという概念、できるという考え方があるんだ…
一方通行だけど、北斗とつながるという概念があるんだ…」

と、いったことが、スッと胸の中に入ってきたのでした。

とても…なんというか、
まったく自分の中にない考えだったので、
ハッとしたというか、
目から鱗が落ちたというか、
新しい概念を与えられたというか…
感動して、驚いたのです。

いや、僕の中では、違星北斗という人は、80年以上前に生きて死んだ人で、
遠くにあって永遠にたどり着けない、まさに星のような人だと思っていたのですが、

そういう《概念》を知ったことで、なんかちょっと楽になったなあ、とも思うのです。

そして、北斗が聞いていると思うと、とても緊張して、うまく言葉を伝えることができなかったのでした。

不思議な感覚でした。

 
管理人  ++.. 2017/07/17(月) 23:27 [605]





 違星北斗の悪用 
ツイッター上で、違星北斗の言葉が「悪用」し、アイヌへのヘイトに使われることがあります。

曰く「アイヌは存在しない」「アイヌは喜んで和人に同化した」「その証拠は違星北斗が書き残している」云々…。

あまりにひどいので、そのヘイターに「違星北斗の言葉」で反論するということがありました。

その「まとめ」です。
https://togetter.com/li/1105025

 
管理人  ++.. 2017/05/08(月) 09:15 [604]





 「現代短歌新聞」に紹介されました 
5月5日発売の「現代短歌新聞」5月号に違星北斗の紹介記事を書きました。

 
管理人  ++.. 2017/05/08(月) 09:06 [602]

 

https://twitter.com/kiyamashina/status/861008320462594049

管理人  ++.. 2017/05/08(月) 09:10 [603]





 違星北斗の本棚 
「シミルボン」というサイトに、違星北斗のことを書きました。(だいぶ前ですが…)。

【連載】違星北斗の本棚

第1回「『ズートピア』と違星北斗の思想〜ああ我らの理想はまだ遠きか」
https://shimirubon.jp/columns/1674973

第2回 「一命を賭して書かれ、一民族を救う力を持つ本たち」
https://shimirubon.jp/columns/3897

第3回「日本民俗学の黎明期を目撃したアイヌの一青年」
https://shimirubon.jp/columns/1675707

第4回「100万人のカリスマ、後藤静香の『権威』〜《修養》の時代〜」
https://shimirubon.jp/columns/1676484

第5回「二人の恩師のはざまで 〜ジョン・バチラーと後藤静香」
https://shimirubon.jp/columns/1677318

第6回「分断の世界に抗う言葉の力〜違星北斗の理想から遠く離れて」
https://shimirubon.jp/columns/1679105


 
管理人  ++.. 2017/04/02(日) 13:53 [601]





 こんなの見つけた 
違星 北斗 ( いぼし ほくと 1901- 1929 ) STV ラジオ ほっかいどう 百年物語 2016-101-6

http://www.dailymotion.com/video/x4xppla#user_search=1

まあ、まずまずですね。

 
管理人  ++.. 2016/12/10(土) 02:43 [599]

 
よく、このサイトを読み込んでくださっている感じで、このサイトをまとめてくださった感じです。放送に僕の言葉や見解もそのまま紛れ込んでいるし。
管理人  ++.. 2016/12/10(土) 02:49 [600]





 無題 
東京アイヌ学会について。

アイヌ民族文化研究センターだより NO.40
(2014年3月)に
 《「北方文化展」と「東京アイヌ学会」に関する資料》というものがあります。久保寺逸彦資料を紹介下記事です。

http://ainu-center.hm.pref.hokkaido.lg.jp/HacrcHpImage/05/pdf/05_003_no40.pdf

その中に、「東京アイヌ学会」設立の記事があるのですが、年代は昭和11年となっています。

北斗も「東京アイヌ学会」に参加しているのですが、その「第二回 東京アイヌ学会」は大正14年3月ですから、昭和11年に設立されたものは、その後身なのか、もしくは、一旦立ち消えになったものを復活させたものか。

北斗が参加したのは勉強会といった雰囲気だったのですが、昭和11年設立のものは、百貨店の白木屋でアイヌ文化の展示なども行ったそうです。

会長が金田一京助、役員に久保寺や知里真志保の名前があります。

 
管理人  ++.. 2016/11/19(土) 02:41 [598]





 「違星北斗のノートについて」 
「違星北斗のノートについて」寄稿しました「沙流川歴史館年報」第17号が届きました。
北海道立文学館の所蔵の北斗の現存する唯一の直筆ノート
「違星北斗大正14年ノート」のレポートです。
お許しをいただいたので、
こちらからもPDFで読めるようにしています。
http://www.geocities.jp/bzy14554/hokutonotenitsuite.pdf
※文章の間違いや言葉足らずなところがありますので、若干、修正しています。

 
管理人  ++.. 2016/05/07(土) 00:35 [597]





 ゴールデンカムイが描かない「アシリパの妹たち」の苦難と明日 
書評を「シミルボン」という書評サイトに寄稿しました。
「ゴールデンカムイが描かない「アシリパの妹たち」の苦難と明日」
https://shimirubon.jp/reviews/3873

ゴールデンカムイでアシリパさんを好きになった方、
アイヌ文化に興味を持った人、
そのあと
アシリパさんや、その弟や妹世代、
そしてアシリパさんの子ども世代のアイヌが、
どう生きたかを、
思いを馳せてみてください。
一応、
「ゴールデンカムイ」ではなく、
「アイヌ神謡集」の書評です。

 
管理人  ++.. 2016/05/02(月) 12:42 [596]





 没後87年 
今日(もう昨日か)1月26日は、違星北斗の命日でした。没後87年です。

この1月26日という日は、北斗にとっては命日であるのと同時に、もう一つの記念日でもあります。

違星北斗は、死の5年前の1924(大正13)年、22歳の時に余市アイヌの修養団体「茶話笑楽会」を結成しています。

1月26日は皇太子(後の昭和天皇)の成婚記念日で、笑楽会はこの日に合わせて結成された、といくつかの資料に書いてあります。

アイヌである北斗がなぜ?

と思う人もいるかもしれませんが、それは今日的な感覚なのだと思います。

当時としてはおめでたい日に合わせて結成しよう、というのは当たり前の感覚だったのかもしれません。

ちなみに北斗と昭和天皇はともに1901(明治34)年同年の生まれであります。北斗は戸籍上は翌年1月1日生まれになっていますが、前年の年末に生まれています。北斗が戸籍上の明治35年ではなく、34年生まれを自称していたのには、そのあたりのことも関係しているかもしれません。

いずれにしても、
亡くなった1月26日が、北斗の民族復興の運動の最初の第一歩の記念日であり、さらにそれが昭和天皇の成婚記念日からとられている、というのはいろんな意味で数奇な感じがしてなりません。

 
管理人  ++.. 2016/01/27(水) 01:00 [595]





 変節のケーススタディ 
昨日、東京外国語大学で開かれた「アイヌ民族とオーストラリア先住民――同化・差別と研究の現在」というワークショップに参加して考えたこと。

河野本道というアイヌ研究者は、昔は親アイヌ的な立場をとっていたけど、近年は小林よしのりや砂澤陣なんていうアイヌ民族否定論者のすがり立つ支柱のような存在になってしまった。

いろいろあって。

そう。その「いろいろあって」というのが、本当に厄介なのだと思う。個人的体験による変節。ルサンチマン。

河野本道が「いろいろあって」そうなった。
砂澤陣が(同上)。

その「いろいろあって」が、彼らを変節させ、
今や新たな差別と偏見の出どころになろうとしている。

一緒にしたらダメだけど、知里真志保の心にもいろいろがあった。
もしかしたら、病床でしたためられ、希望社によって取捨選択され、残らなかった違星北斗の日記にも、いろいろあった、その変化があったかもしれない。
(古田謙二の短歌に、病床の北斗の思想は歪んでいるという記述がある)

そういった、ルサンチマンや屈辱や絶望や挫折による変節や屈折が、それを利用したい者によって悪用され、ソーシャルメディアにより拡散されることで、今やその悪意は看過できないものになっている。

我々は、彼らの極めて個人的体験に根ざした、変節の記録を学ばなければならない。

明らかにしなければならない。
変節のケーススタディを整理しなければならない。

いろいろあって、こうなった。
だから、その人の言うことには気をつけろよ、フィルターがかかってるぞ、と。

これを読めという、決定版を作らなければいけない。
正解を示さなければいけない。常識にしなければならない。

僕たちは当たり前に思っていた、してはいけないことが、
いつからか、人を差別すること、虐げること、人を人とも思わないこと、人を苦しめることを、平気な顔、誇らしい顔で行うことがまかり通る世の中になってしまった以上は。




 
管理人  ++.. 2016/01/23(土) 02:24 [594]





 岩崎吉勝 
違星北斗の遺稿「コタン」を編集したのは
希望社の関係者、岩崎吉勝と宗近真澄。宗近真澄の方は、日本におけるエスペラント語普及に関して、名前を残しているけど、岩崎吉勝はよくわからなかった。

 あるレポートを書くために、しばらくぶりに検索してみたら、岩崎吉勝のプロフィールが見つかった。
 
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E+%E6%9C%89%E9%A6%99-1641673

コトバンク
20世紀日本人名事典の解説
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小野 有香
オノ ユウコウ


大正・昭和期の歌人,詩人,社会主義者

生年明治15(1882)年3月16日
没年昭和40(1965)年3月17日
出生地奈良県吉野郡
本名岩崎 吉勝
旧姓(旧名)小野
学歴〔年〕早稲田大学政経学部〔明治40年〕卒
経歴「週刊平民新聞」の後継紙である「直言」の編集をし、短歌「暗潮」、詩「労働に生きよ」などを発表した。また「新紀元」にも詩や短歌を発表した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平民新聞っていうと、北斗が世話になった「自働道話社」の西川光次郎が関わっていたんですよね。

後藤静香と西川光次郎をつなぐラインっていうのは見つかってなかったんですが、もしかしたら、この辺が関係しているのかもしれませんね。
偶然かもしれないですが。

 
管理人  ++.. 2015/11/09(月) 17:46 [592]

 
小野有香は若い時、「火鞭会」という社会主義的文学結社の同人で、後に「大菩薩峠」を書く中里介山と一緒だったみたいですね。

https://kotobank.jp/word/%E7%81%AB%E9%9E%AD-1155444


管理人  ++.. 2015/11/09(月) 18:12 [593]





 オマンルパロ 
知里真志保の「あの世の入り口いわゆる地獄穴について」の中の余市の伝承について、「余市町郷土史」を更科源三が「北海道の昔話アイヌ編」引用してて、話の運びが違星北斗のものとほとんど同じなんどよね。余市町郷土史は北斗のを参考にしたのかもしれない。
 
管理人  ++.. 2015/09/01(火) 02:10 [590]

 
あと、余市なのに、遠く離れた日高と同じ「オマンルパロ」なのかな、とも。

日高に縁深かった北斗が、日高の呼び方を持ってきたってことないよね?


管理人  ++.. 2015/09/01(火) 02:15 [591]





 北大講演資料ダウンロードページ 

去る6月12日の北大・アイヌ・先住民研究センターでの講演の資料PDFを下記のページにアップロードしました。

・小冊子「違星北斗遺稿集」(S29、違星北斗の会)

 →とてもコンパクトにまとまっています。最初に北斗を知る入門編として、「コタン」をドンと渡すより、こちらの方がよいかもしれません。


・「違星北斗昔話集」 北斗の別の文才が見えてきます。絵本にしたい。
・「違星北斗年譜」 最新版。随時更新しているので参考用に。
・「アイヌ神謡集序文」原文とコタンでの引用文の比較です。
・「レジュメ」 というよりメモです。お恥ずかしい。

「ダウンロード」をクリックして、PDFが開いたら、「別名で保存」で任意の場所に保存してください。

 ご興味のある方は、よろしくおねがいします。

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0f98.html

 
管理人  ++.. 2015/07/13(月) 17:34 [589]





 SF乱学講座・違星北斗 
8月2日(日)「SF乱学講座」で違星北斗の事をお話しさせていただきます。

ーーーーーーーーーー

「アイヌの歌人・違星北斗の言葉の「悪用」について」

講師:山科清春(違星北斗研究会代表)

内容紹介:

アイヌの歌人・違星北斗は、大正から昭和の初めに活動した、アイヌの歌人です。
彼はその27年の生涯をアイヌの民族復興と権利回復のために捧げ、当時「滅び行く民族」などと呼ばれていたアイヌの中にあって、「俺はアイヌだ」「俺はここにいる」と叫び、多くの同族に勇気を与え、自覚と団結を促しました。
ところが、このアイヌの誇りと魂の叫びを歌った違星北斗の言葉が、近年、全く正反対の「アイヌ民族は存在しない」といったヘイトスピーチの中で用いられるといった事態が起きています。
この講座では、違星北斗の波乱に満ちた生涯とその思想の変遷を紹介しながら、彼の言葉はなぜ悪用されたのか、その本当の意味とは?
といったことを中心にお話しさせていただきたいと思います。

開催日時:2015年8月2日 日曜日 午後6時15分〜8時15分
参加費 :千円
会場  :高井戸地域区民センター(地図) (京王井の頭線「高井戸」駅下車)

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/

 
管理人  ++.. 2015/07/13(月) 17:28 [588]





 違星北斗に関する講演について 
6月12日に北海道大学のアイヌ・先住民研究センターで違星北斗についてお話させていただくことになりました。
夜6時半ごろからになりそうです。

違星北斗の生涯とその思想の遍歴について、「アイヌ民族否定論に抗する」に書いたようなことをお話させていただこうかと思っています。

参加費は無料だと思いますので
興味のある方はぜひお越しください。

喋るのは苦手ですが、より多くの人に違星北斗の事を知ってもらえればと思い、お受けすることにしました。

詳細またお知らせします。

http://www.cais.hokudai.ac.jp

 
管理人  ++.. 2015/05/03(日) 09:31 [587]





 北斗の短冊 
 「アイヌ民族否定論に抗する」(河出書房新社)をお読みになった方がツイッターで興味深いつぶやきをされていました。
 その方のお祖父さまは、違星北斗のお知り合いだったとのこと。
 さっそく、ツイッターで連絡させていただきました。
 現在、札幌にお住まいのTさんとおっしゃられる方で、その方のお祖父さまは、小樽の景山病院で働いて短歌や俳句をされており、ご自宅に北斗が泊まられたられり、一緒に銭湯に行ったことがあるそうです。
 
 景山病院といえば、北斗が活躍していた「新短歌時代」に掲載された「さらば小樽よ小樽の人々よ」という福田義正の文章に登場します。

http://www.geocities.jp/bzy14554/sarabaotaruyo.htm

 
 また、今回ご連絡をいただいたTさんのお祖父様のお名前も、上の文章に出ているそうです。

 さらに!
 ご自宅に現在も「北斗の直筆の短冊」がある、とのことでした。

 それが、こちらです。

 

 

 
管理人  ++.. 2015/02/09(月) 12:58 [584]

 

 これは、間違いなく、北斗の筆によるものだと思います。

 特徴的なのが「4」に似た「斗」の形、斗の右下に点を打つこと(この点を打つのことっで「斗」を違星家の家紋「エカシシロシ」に似せているんですね。

管理人  ++.. 2015/02/09(月) 13:05 [585]

 

この北斗の短冊は、とても貴重なものです。

色紙は金田一家にある他、数点あるのですが、短冊は私は初めて見ました。

T様には、WEBへの掲載の許可とともに、
もし北斗の企画展などが開かれる時は、展示のお声掛けしてもよいかとお願いしましたところ、どちらも快諾いただきました。
T様、ありがとうございます。


管理人  ++.. 2015/02/09(月) 13:14 [586]





 無題 
寄稿させていただいた「アイヌ民族否定論に抗する」という本が、河出書房新社発売になりました。

「アイヌ民族はいない!」と発言して、民族を抹殺しようとする人たちに「NO!」を突き付ける本です。

私はとかくネトウヨたちに誤解•曲解されいいように利用されてしまっているアイヌの歌人違星北斗の言葉について書きました。
ご興味あるかたは是非。

http://www.amazon.co.jp/アイヌ民族否定論に抗する-岡和田-晃/dp/4309226205

 
管理人  ++.. 2015/01/27(火) 10:10 [583]





 「アイヌ民族否定論に抗する」に寄稿しました。 
寄稿させていただいた『アイヌ民族否定論に抗する』(河出書房新社、1月27日発行)の目次、公式サイトにはまだ出てないんですが、岡和田さんのサイトにありました。
全容ははじめて見ましたが、すごいメンバーですね。光栄です。

http://d.hatena.ne.jp/Thorn/touch/20150106/p2

 
管理人  ++.. 2015/01/07(水) 23:03 [581]

 
(ペンネームの山科清春で「違星北斗の言葉の『悪用』について」という文を書いています)。
管理人  ++.. 2015/01/07(水) 23:13 [582]





 又吉康和 

伊波普猷が「目覚めつつあるアイヌ種族」として掲載された手紙を送った相手が、沖縄教育の又吉康和(こうわ)。
のちに琉球新報社長、沖縄民政府副知事、那覇市長。

伊波普猷は彼に「茶話誌」「ウタリグス」を送っている。

もしかして、現存しない「茶話誌」、沖縄から見つかる可能性もあるかも……?

 
管理人  ++.. 2014/12/11(木) 22:00 [580]





 北斗の小ネタ 
「違星北斗ノート」でわかったどうでもいいことを怒られない範囲で大発表。
(1)違星北斗は床屋に頻繁に行く。
(2)北斗はかき氷を食べた次の日にアイスクリームを食べている。
(3)シューズや下駄の鼻緒や下駄歯、靴墨、靴修繕など、足元のおしゃれにお金を使っている。

 
管理人  ++.. 2014/11/16(日) 14:17 [579]





 無題 
今回の違星北斗ノートには「おおぐま座」「こぐま座」についての未発見の散文詩(歌詞?)が書かれている。
北斗の星座名に関する言及は初めて。

北斗は熊の話や句歌を多く残し、北斗の父は熊取の名人で、北斗の家の幣棚にはイナウ(北斗はイナホと表記)とともに熊の頭の骨が飾ってあり、ヨイチのコタンの広場には「熊の碑」なるものがあった。

「北斗」の号には「熊」→星座の「おおぐま座」=「北斗七星」という連想が働いている「熊由来」の筆名である可能性が高い。

 
管理人  ++.. 2014/09/28(日) 16:53 [578]





 「違星北斗・鳩沢佐美夫」展 
 今秋、アイヌの傑出した文学者である鳩沢佐美夫と違星北斗の特別展が、平取町の「沙流川歴史館」で開かれるそうです。

 今回の違星北斗直筆の備忘録ノートの情報も、この展示準備に際して知ったことです。

 小樽同様、我々違星北斗研究会(我々といっても、会員は私一人ですが)が、違星北斗の展示資料に協力することになりました。


 内容的には、紹介、年表、作品展示、例のノートのようなゆかりのアイテムといった、昨冬の小樽文学館の展示と同じような形になるのかと思います。
  
 小樽の時は、展示の現場が見れなかったのですが、今回は、ノートの発見もありましたので、ぜひ現場に行きたいと思っています。
 
 展示内容の詳細がわかりましたら、またお知らせいたします。

 興味のある方は、ぜひよろしくお願いいたします。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 平成26年度 沙流川歴史館特別展
「平取町ゆかりの歌人 違星北斗・作家 鳩沢佐美夫」
会期 平成26年9月30日〜11月30日まで。
※月曜日 休館、ただし月曜が祝祭日の場合はその翌日が休館。

http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/html/saru0N.htm
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 
管理人  ++.. 2014/08/17(日) 14:34 [577]





 違星北斗の備忘録ノート! 
違星北斗の研究が置いてけぼりになっていかんなーと思ってると、ホームページをご覧になった方がとても面白いお話を持って来てくれる。とてもありがたいことです。
どうやら違星北斗のノート(備忘録)が現存するようです‥‥俄然、震えてきました。

 
管理人  ++.. 2014/08/17(日) 12:54 [574]

 
現在わかってる北斗ノートは遺稿集「コタン」の編集の際に東京の希望社に送ったきり紛失しちゃっているんだけど‥‥一冊、北海道庁に送った短歌のノートがあって、それだったらすごいんだけどなあ。

管理人  ++.. 2014/08/17(日) 12:55 [575]

 
違星北斗の備忘録ノート、所蔵されている文学館の方からあらましをお教えいただいた。大正14年の上京時のものだそうで中々凄そう。今までわからなかったことが、いろいろ明らかになると思う。新たな関係者(それも近代史の超大物)との接点も。閲覧できるか未定だけど、とても興奮してきた。

管理人  ++.. 2014/08/17(日) 12:56 [576]





 小樽文学館館報 
先日、「違星北斗と口語短歌展」が開催された小樽文学館の館報に、「違星北斗研究の先駆者について」という文章を寄稿しました。木呂子敏彦、谷口正、阿部忍、早川勝美といった北斗研究の先駆者と、そのネットワークについて書きました。

 
管理人  ++.. 2013/04/17(水) 21:05 [571]

 
「違星北斗研究の先駆者について」をブログに、アップしました。

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-056d.html

管理人  ++.. 2013/09/12(木) 01:01 [573]





 『伊波普猷全集』 
『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。

『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が初めて出会ったアイヌ学会は3月19日、「一昨年の秋頃」というのは間違いではないかと思います。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまいます。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm

 
管理人  ++.. 2013/02/09(土) 20:11 [570]





 希望社の刊行物 
ヤフオクで入手した後藤静香の希望社の雑誌、「希望」。

これも含めて、希望社関係の雑誌がだいぶ揃ったのですが、残念ながら、北斗に関する記述はほとんどないんです。

備忘のために、所有メモ。

雑誌
【希望】 
 メイン雑誌。初期は「女子教育」を全面に出し、男子には「修養団」を進めているが、事業内容の拡大により、のちに代表雑誌に。
 
大正11年6〜7月 (10x18縦長、80P程度)
大正12年6〜11月 (同)
大正13年1〜5月 (同)
大正14年1〜4、8〜12 (B6サイズ、80P) 
大正15年なし
昭和2年2〜7、9〜11月
昭和3年4月〜10、12月
昭和4年1〜9月
昭和5年1〜4月

 北斗関係の記述なし。
 北斗が在京中の大正15年と、「コタン」発行直後の昭和5年後半がごっそり抜けていますので、
 もしかしたらそのあたりに何か記述があるのかも。

【のぞみ】 縦長リーフレットサイズの小冊子、後ににちにA5判ぐらいに。
 修養雑誌。ためになる話、ローマ字記事など。

大正12年8〜11月 (10x18縦長、80P程度)
大正13年1〜12月 (同)
大正14年3〜12月 (同)
大正15年2〜7、9、11月 (同)
昭和2年1、5〜8月(B6サイズ、80P)
昭和3年1〜7、9、11月
昭和4年1〜12月
昭和5年3月

 北斗関係の記述なし。

【泉の花】(B6サイズ) 希望を継承か?

昭和5年4〜5月

【大道】A5版。泉の花を継承か?

 昭和5年6〜12月

 ※8月号に後藤静香の「コタンに泣く」が掲載。

 希望社の雑誌は、どうも、ややこしいのですが、
 こういうことみたいです。

 まず、「希望」が女子教員雑誌としてスタート、また、おなじくらいの頃、「のぞみ」も修養雑誌としてスタート。
 で、「希望」が老若男女含めた雑誌となり、「誌友」もぐんぐん増える。

 ところが、いろいろ社会事業に手をだし、また「希望館」という本社の工事などもはじめ、金回りが悪くなる。

 そこで、迷走がはじまります。
 昭和4年3月には、いきなり、
  ・「のぞみ」の中に「泉の花」を含む。
  ・「希望」の中に「のぞみ」「泉の花」を含む。
 つまり、「希望」と別に「のぞみ」「泉の花」を定期購読している人間には、同じ内容を含む雑誌が別々で送られるという事態に。
 「人にオススメください」という前提なのかもしれませんが‥‥いかんでしょう。
 まあ、後藤さん、お困りだったのでしょう。

 さらに、昭和5年には6月に「泉の花」が「大道」に。
 もっというと、装丁デザインが同じなので、4月に「のぞみ」が「泉の花」に改名したばかりだったのかもしれません。
 その後はどうなったかよくわかりませんが、読者の混乱はすごいものだったでしょう。
 翌年6月には、希望社の後藤静香が新聞に告発されてしまいます。


 
管理人  ++.. 2013/02/09(土) 14:16 [569]





 北斗忌 
今年の1月26日は、ツイッターで北斗忌特集として、中断していた昭和2年夏から、昭和4年の正月までのヒストリーを一日かけてやりました。

あんまり突っ込めなかったですが、とりあえず、
時間ができたら、まとめてみたいと思います。

今後、北斗の生涯をまとめる際の、ひな形にはなるかな、と思いますので。

それから‥‥小樽文学館の「違星北斗と口語短歌」展が終わりましたね。
私は残念ながら、見に行けませんでしたが‥‥。

北斗の企画展が行われるということは、すごいことだと思います! 巡回とか常設化とかしていただけると、嬉しいですが‥‥。

小樽文学館様、お疲れ様でございました!

 
管理人  ++.. 2013/02/03(日) 02:36 [568]





 森本儀一郎氏 
1931年に放送された北斗のラジオドラマを書いた森本儀一郎さんについて。

ネット上で公開されている北海道文学大辞典(北海道文学館編)に記述がありました。

http://www.h-bungaku.or.jp/issue/pdf/jiten03.pdf
------------------------------
大14〜(1925〜)
[シナリオ]札幌市生まれ。日本大学芸術学部中退。宗谷関内枝幸町で教員生活のかたわらNHK(札幌)の「ラジオ文芸」常連投稿者として活躍し、昭和27年同局最初のの専属作家となった。数多いラジオドラマを執筆し、30年まで専属作家を続けたのちフリーとなり、北海道放送のテレビ「いろはに北海道」の構成にあたった。ラジオドラマの代表作に「ひぐらしの宿」「夢は枯野を」「深ァいきりの向うへ」などがある。
------------------------------
大正14年生まれでしたら、現在、88歳ですね‥‥。

情報が昭和60年のものなので、現在どうなさっているかはわかりません。

ちなみに、違星北斗の項目もありますが、特筆すべきところはない感じです。

 
管理人  ++.. 2013/02/03(日) 02:29 [567]





 注解アイヌ神謡集 
「注解アイヌ神謡集」(知里幸恵著訳、北道邦彦編注)の解説編に収録されている佐藤三次郎「北海道幌別漁村生活誌」に、北斗のことが書かれていました。

 幌別の海岸について。

「六月頃になると、椿に似た真紅な花が沢山咲いて、とてもきれいである。
 この頃は鱒が沢山獲れるし、鰮もぼつぼつみえる頃であるが、ガスがひどく、毎日眺めている恵山(エザン)や近くの鷲別の岬までが、すっかり包まれてしまう事が多い。こんな時、地球岬の灯台は、一日中ボーを鳴らしている。

   幌別の浜のはまなす咲き匂い
   恵山の崎は遠くかすめり

 という違星北斗さんの歌も、この頃詠んだのだろうと思う。


 北斗が幌別にいた頃は7月半ばですが、まだ咲き頃ですね。

 この佐藤三次郎は幌別のバチラー教会の裏に住んでいた人で、「ウタリの友」にもタンネ・ヘカチの名前で寄稿しており、そこにも北斗の名前が登場します。
 http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-3073.html
 

 
管理人  ++.. 2012/11/11(日) 17:10 [566]





 違星北斗、新情報 
現在、「違星北斗と口語短歌」という企画展が開催されている、小樽文学館の方から、何点か、北斗に関する情報をいただきました。

1 『新短歌時代』第3巻第3号(昭和4年3月1日発行)に、村上如月による「違星北斗君を悼む」という記事が掲載されているとのことで、コピー画像をいただきました。近々にブログにアップします。

2 違星北斗の描いた絵画

  北斗が描いたエカシのカラー絵画です。
  
 

 
管理人  ++.. 2012/11/11(日) 16:01 [562]

 
3 違星北斗の写真

  →新宿ステーション写真室とあります。
   東京で、新調した背広を着て撮った写真ですね。

   握った拳が力強いです。


管理人  ++.. 2012/11/11(日) 16:09 [563]

 
1のテキストには、興味深い記述があります。

 過日、違星北斗が(おそらくアイヌと侮蔑されて)徳冨蘆花を殺そうと思った、というんですが……。

 徳冨蘆花と会ったとすれば東京時代でしょう。
 あるいは、北斗が徳冨蘆花の作品を読んで、ということかもしれません。
 蘆花は北斗が長知内で会った奈良農夫也とも関係が深いので、そのつながりなのか。

管理人  ++.. 2012/11/11(日) 16:16 [564]

 
1の画像には、これは偶然なのでしょうが、背表紙に「月刊雑誌 北海道及樺太」の広告があり、この中に「北斗星」の名前で「鰊漁業合同論」という文章があるのですが、これはもしかしたら北斗の論文かもしれません。
 北大の図書館にありそうなので、さっそく調べてみたいと思います。

管理人  ++.. 2012/11/11(日) 16:22 [565]





 市立小樽文学館で、企画展「違星北斗と口語短歌」が開催 
本日より、市立小樽文学館で、企画展「違星北斗と口語短歌」が開催されています。

違星北斗についての、はじめての企画展示だと思います。

ぜひ! 

お近くの方も、お遠くの方も、

行ってみてください!


私も、違星北斗研究会として、展示協力・資料提供などをさせていただいております。
よろしくおねがいいたします。

http://www4.ocn.ne.jp/~otarubun/bungakukan/kikakuten/kikaku.html

http://230i.jugem.jp/?eid=1079

http://www.city.otaru.lg.jp/simin/sisetu/bungakukan/bungaku-event.html

http://blog.livedoor.jp/bluebook/archives/52287420.html

 
管理人  ++.. 2012/11/10(土) 15:20 [561]





 子供の道話の童話 
子供の道話を見なおしています。

北斗が書かせたという奈良農夫也の「玉藻物語」を打ち込むためですが、ついでにいろいろチェックをして気づいたことがあります。

 北斗の童話のほとんどはこの「子供の童話」に掲載されたものです。

1)大正15年10月号「半分白く半分黒いおばけ」
2)昭和2年1月号「世界の創造とねづみ」
3)昭和2年6月号「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」
4)昭和2年7月号「烏(パシクル)と翁(エカシ)」
5)昭和3年8月号「北海道の熊と熊取の話」

このうち、4)は昭和3年2月に小樽新聞に掲載され、5)は「子供の童話」より以前に昭和3年1月に「北海道人」に掲載されています。
 また、3)、4)、5)は、遺稿「コタン」に掲載されていて、現在、このサイトで見られるのは、そのバージョンなのですが、「子供の童話」掲載バージョンとはかなり細かい差異があります。
 この差異についても、いつか調べなければと思っています。

 
管理人  ++.. 2012/06/03(日) 20:14 [560]





 違星北斗botまとめ 
違星北斗botのまとめを作りました。
1 http://goo.gl/So6ok
2 http://goo.gl/Po5C1
3 http://goo.gl/wqEX7
4 http://goo.gl/olwq3
5 http://goo.gl/zS8vm
とりあえず、上京前まで。

けっこうつかれた。

 
管理人  ++.. 2012/05/05(土) 12:12 [559]





 無題 
具体的に名前が上がった曲名としては

「江差追分」 http://bit.ly/HkrOTM
「別れの曲」 http://bit.ly/HnTb34
「千鳥の曲」 http://bit.ly/I86SD9
「六段」http://bit.ly/HndFuT

「琴だか都山かしらないが」というのは、流派ですね。
「別れの曲」がショパンとは意外ですね。

 
管理人  ++.. 2012/04/07(土) 13:28 [558]





 北斗と音楽 
北斗は尺八をよくしました。

 尺八で追分節を吹き流し/平取橋の長きを渡る
 尺八を吹けばコタンの子供達/珍しさうに聞いて居るなり
 平取はアイヌの旧都懐しみ義経神社で尺八を吹く

などの短歌があります。
また、証言としては、

《違星君の尺八
彼は琴だか都山か知らないが、江差追分を得意としていた。六段、千鳥の曲なども吹奏したような記憶があるが余りそれは上手でなかった。
彼の吹奏の情景は江差追分が柄に合っている。
》(「違星君の平取入村当時の思い出」)

《ガツチヤキの薬を売りながら、コタン巡りをしていた頃の或る晩であつた。私の門に立つて暫くの別れにと「別れの曲」を吹奏され静かに立ち去られた。箕笠かぶりの清き尊きあの夜の姿こそは忘れようとして忘れることの出来ない思い出となつた。》
(「違星北斗を偲ぶ」鍛冶照三)

《ついには病身になり血を吐き、世を呪い人を呪い、手当たり次第に物を叩き割って暴れ死にたくなった。村の人の話では当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、真っ暗な嵐の晩に磯の岩の上にすわって一晩尺八を吹いていたこともあった。》(金田一京助「あいぬの話」)

などがあります。




 

 
管理人  ++.. 2012/04/07(土) 13:03 [557]





 北斗と映画 
北斗がいた大正14年から大正15年に、かかっていた映画。「20世紀へタイムスリップ 1925年(大正14年)」(http://nannohidonnahi.sakura.ne.jp/20seiki/1925/05.htm


 黄金狂時代(The Gold Rush) 6.26 アメリカ 1925/12/(日本公開)
  監督:チャールズ・チャップリン
  出演:チャールズ・チャップリン

 オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera) 9.6 アメリカ 1925/09/(日本公開)
  監督:ルパート・ジュリアン
  原作:ガストン・ルルー
  出演:ロン・チェイニー メアリー・フィルビン ノーマン・ケリー ギブソン・ゴーランド

 戦艦ポチョムキン ソ連 第1次ロシア革命20周年記念映画 1967/10/(日本公開)
  監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
  出演:アレクサンドル・アントノーフ グリゴリー・アレクサンドロフ ウラジミール・バルスキー

 キートンのセブン・チャンス(キートンの栃麺棒 Seven Chances) 3.11 アメリカ
  監督:バスター・キートン
  出演:バスター・キートン

 キートンの西部成金(キートンのゴー・ウェスト! Go West) 11.1 アメリカ
  監督:バスター・キートン
  出演:バスター・キートン

 ロイドの人気者(The Freshman) 9.20 アメリカ
  監督:フレッド・C・ニューメイヤー サム・テイラー
  出演:ハロルド・ロイド

邦画

 恩讐の彼方に 2.5
  監督:牧野省三
  製作:東亜キネマ(等持院撮影所)
  原作:菊池寛「恩讐の彼方に」
  脚本:直木三十三
  出演:市川花紅 常盤松代 沢田正二郎 久松喜代子
  上映:京都マキノキネマ

 街の手品師 2.13
  監督:村田実
  製作:日活(京都撮影所第二部)
  出演:岡田嘉子
  上映:浅草三友館

 月形半平太 5.15
  監督:衣笠貞之助
  製作:聯合映画芸術家協会(等持院撮影所)
  主演:沢田正二郎
  上映:浅草大東京

 ふるさとの歌 9.17
  監督:溝口健二
  製作:日活(関西撮影所教育部)
  出演:木藤茂 辻峰子 川又賢太郎 橘道子
  上映:大阪常盤座

 日輪 11.13
  監督:衣笠貞之助
  製作:マキノプロダクション(御室撮影所) 聯合映画芸術家協会
  原作:横光利一
  出演:沢村源十郎 市川猿之助 阪東和三郎 市川八百蔵 マキノ輝子 マキノ富栄
  上映:浅草大東京

 雄呂血 11.20
  監督:二川文太郎
  製作:阪東妻三郎プロダクション
  配給:マキノプロダクション
  出演:阪東妻三郎
  上映:浅草大東京


 
管理人  ++.. 2012/04/07(土) 12:32 [554]

 
「20世紀へタイムスリップ 1926年(大正15年)」(http://nannohidonnahi.sakura.ne.jp/20seiki/1926/05.htm

洋画

 肉体と悪魔(Flesh and the Devil) 12.25 アメリカ 1929/03/(日本公開)
  監督:クラレンス・ブラウン
  原作:ヘルマン・ズーデルマン「消えぬ過去」
  出演:グレタ・ガルボ ジョン・ギルバート

 拳闘屋キートン(キートンのラストラウンド Battling Butler) 9.19 アメリカ
  監督:バスター・キートン
  出演:バスター・キートン

 ロイドの福の神(For Heaven's Sake) 4.1 アメリカ
  監督:サム・テイラー
  出演:ハロルド・ロイド

邦画

 カラボタン 8.30
  監督:野村芳亭
  製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)
  出演:田中絹代
  上映:東京歌舞伎座

 陸の人魚 9.12
  監督:阿部ジャック
  製作:日活(大将軍撮影所)
  原作:菊池寛
  出演:梅村蓉子
  上映:神田日活館 葵館

 足にさはった女 10.29
  監督:阿部豊
  製作:日活(大将軍撮影所新劇部)
  出演:岡田時彦
  上映:神田日活館 三友館

 狂った一頁 9.24
  監督:衣笠貞之助
  製作:新感覚派映画連盟 ナショナルフィルムアート社
  原作:川端康成
  出演:井上正夫 中川芳江 飯島綾子
  上映:武蔵野館

第3回(1926年度)キネマ旬報ベストテン
 外国映画
 第01位 黄金狂時代 監督:チャールズ・チャップリン
 第02位 最後の人 監督:F・W・ムルナウ
 第03位 ステラ・ダラス 監督:ヘンリー・キング
 第04位 海の野獣 監督:ミラード・ウエッブ 出演:ジョン・バリモア
 第05位 鉄路の白薔薇 監督:アベル・ガンス
 第06位 ダーク・エンゼル 監督:ジョージ・フィツモーリス
 第07位 ダグラスの海賊 監督:アルバート・パーカー
 第08位 熱砂の舞 監督:ジョージ・フィツモーリス
 第09位 ロイドの人気者 監督:テイラー・ニューメイア
 第10位 滅びゆく民族 監督:ジョージ・B・サイツ
 日本映画
 第01位 足にさはった女 監督:阿部豊
 第02位 日輪 監督:村田実
 第03位 陸の人魚 監督:阿部豊
 第04位 狂った一頁 監督:衣笠貞之助
 第05位 カラボタン 監督:野村芳亭
 第06位 受難華 監督:牛原虚彦
 第07位 紙人形春の囁き 監督:溝口健二
 第08位 転落 監督:井上金太郎
 第09位 水戸黄門 監督:池田富保
 第10位 蜘蛛 監督:悪麗之助


管理人  ++.. 2012/04/07(土) 12:34 [555]

 
こうやって見ていくと、全然古そうな気もしませんね。
むしろ現代よりも名作が多いような……。

北斗が映画について書いたものはあまりないですが、

  貧乏を芝居の様に思ったり 病気を歌に詠んで忘れる

なんて歌を読んでいるので、芝居などは嫌いでははいような気がしますね。

北斗ではなく、中里篤治(凸天)に

 阪妻の型をまねする子供等の、元気は俺のどこにもないのだ

という短歌があります。

 丁度、北斗が上京した頃に阪妻の「遠呂智」が公開されて、目玉の松ちゃん(尾上松之助)がなくなっていますね。

管理人  ++.. 2012/04/07(土) 12:44 [556]





 無題 
Twitterで違星北斗botというのをやっているのだが、大正15年の夏で少し停滞している。

もっといえば、バチラーと後藤静香の資金トラブルが本当に大正15年であるのか。
裏付けがほしい。
決め手となる証拠がない。

 
管理人  ++.. 2012/04/03(火) 09:17 [553]





 アイヌ民族党 
「アイヌ民族党」のHPに違星北斗のことを「かつて、抑圧からの解放を叫んで闘ったアイヌの青年・違星北斗」と紹介してあるが、ちょっと違うんでないかな…北斗は「抑圧からの解放」みたいな中2的というかオザキ的な、「仮想敵」にルサンチマン、ではなくて…自己の向上、修養、改善、かと思ふ。
 
管理人  ++.. 2012/02/26(日) 00:03 [549]

 
北斗のことを抵抗歌人というのも、自分はあまりよくわからない。抑圧者への抵抗を表明した時期があったにせよ、そういうものを超越した頃の北斗の思想こそ北斗の到達点だから。
管理人  ++.. 2012/02/26(日) 00:07 [550]

 
なんか、上手く伝わる自信がないんですが、違星北斗の思想は抑圧への「抵抗」や「解放」といったところを超越したところにあると思う。「民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう。嗚呼我らの理想はまだ遠きか。」北斗は宇宙から地上を見ている。
管理人  ++.. 2012/02/26(日) 00:21 [551]

 
もちろん、この「宇宙」の語が、現代の宇宙という語感とは違って、「世界」というような意味でつかわれていたにせよ。それはかわらないだろう。
管理人  ++.. 2012/02/26(日) 00:21 [552]





 生誕110年 
違星北斗が生まれて、この1月1日で110年になりました。
とはいっても、本当の誕生日は前年末らしく、北斗も戸籍上の誕生日1902年1月1日ではなく、1901年生まれを称していました。

まあ、いずれにせよ、110年イヤーということで、何かやりたいと思っています。

 
管理人  ++.. 2012/01/07(土) 00:58 [548]





 「大空」 
今、Twitterのテキストを仕込んでいて、重大な間違いに気づいた。

永井叔の「緑光土」に載った北斗の「大空」、皇紀2585年を大正13年としていたのだけれど、正しくは大正14年ではないですか。

どうしてこうなったかわからないですが、年表が間違っていました。

年表を大正13年になっていたので、大空は東京で永井叔に会う前の余市時代に書いたとなって、ちょっとおかしいなとは思っていたのですが、もしかしたら、北斗が事前に書いていたのを、永井と出会ってから見せたということもないではない、と思っって居ました。

しかし、大正14年でしたら、東京で永井叔との交流があってから、書いたということになり、非常に自然になります。

しかし、なんでこんな単純なケアレスを長年見過ごしていたのだろうか……orz

 
管理人  ++.. 2011/12/04(日) 22:14 [547]





 このところ 
来年2012年を北斗生誕110年イヤーとして、何かできないか考え中。

適当に考えてみよう。

違星北斗展示会
違星北斗研究会
違星北斗音楽会

それを実現するにはどうしたらいいのか、よくわからないので、いろんな所に出かけて行っては、いろんな人に「何かやりたい、やりたい」という話だけはするようにしています。

 「その前に違星北斗の本を書いたらどうか」と言われるのですが、まあずるずるとまとめるのを躊躇しています。
 まだ、いろいろわからないことが多くて、年表の空白も埋まらない。
 せっかく東京にいるのに、東京時代のことも調べられていない。
 
 とりあえず、暇ができたら、群馬県の榛名町にある後藤静香記念館にも行きたいと思っています。もしかしたら、希望社で行方不明になった北斗の日記はないかな、と思っております。

 その他、まだ辿れるところはあるはずなのですが、それがどこなのかも思い出せない今日この頃です。

 
管理人  ++.. 2011/11/01(火) 01:19 [544]

 
そういえば、先日イオマンテのビデオを見てきました。

もちろん、北斗の余市コタンでも、イオマンテをしていて、北斗の家にも、朽ち果てた祭壇があり、そこに熊の頭骨が飾ってあったと。
 そんへんのことが、イオマンテのビデオを見ることで、いろいろ分かることがありました。
 下の記事にもありますが、北斗の家にも、花矢やら捧酒箸やらがいっぱいあった。
 余市コタンには、北斗の頃まで熊の檻があったともいう。
 北斗は余市はいち早く和人化したところで、アイヌ文化は廃れてしまったというが、それでもそういうものがいっぱい残っていて、実際、北斗の死後に兄の梅太郎が祭主、父甚作がアドバイザーで、余市でイオマンテをやっていたりする。
 また、北斗の親戚筋の方が、「つい最近」まで山中で神事をやっていたとも聞いた。
 余市で私にいろいろ教えてくださる郷土史家の方(80代)がいらっしゃって、その方がいろいろ教わったアイヌの方が、余市で「最後の」アイヌ文化伝承者だったという。
 そのアイヌの方は、大正十一年(1922)生まれだから、生きていたら90歳だが、14年前に亡くなられた。

 逆に言えば、つい14年前最近まで、余市でもアイヌ文化を守っている人がいらっしゃったのだともいえる。

管理人  ++.. 2011/11/01(火) 01:42 [545]

 

「北斗と熊」。

 熊取名人の父。
 違星家が仕切った余市でのイオマンテ。
 北斗の熊の歌、熊の短歌。

 もっと掘り下げて北斗と熊についても考えなきゃ。
 きっといろいろ見えてくると思う。

管理人  ++.. 2011/11/01(火) 01:59 [546]





 希望社界隈 
北斗が出入りしていた後藤静香の希望社は、
大久保町236、現在の新宿区歌舞伎町一丁目、大久保小学校の近く。

また、新社屋である希望館は歌舞伎町二丁目の鬼王神社の近くです。

また行ってみよう。

 
管理人  ++.. 2011/10/05(水) 14:30 [543]





 北大植物園博物館 
北大の植物園・博物館に収蔵されているアイヌ民具の中に、違星家提供のものが点ありますね。

ちょっとややこしいですが、引いてみます。


9537 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼 (パ 裏) 余市 違星家L28.9 W1.2 T0.6 H2.1 9537

9747 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 赤布付 削りかけ余市 違星鏃L3.0 φ0.3 鏑L(7.3) φ1.3 柄L35.7 φ0.8 ML47.1 9747

10187 ヌサNusa余市 違星梅太郎
@ML140.5 W64.5 T30.0
AL68.1 W18.0T8.5 捧酒箸L32.6 W2.0 T1.0
BML169.5M W12.0MT8.0 捧酒箸L26.0 W1.3 T0.5
CML168.5M W28.0MT8.0 捧酒箸L27.1 W1.4 T0.6
DML175.5M W26.0 MT13.0 捧酒箸L27.2 W1.6 T0.4
EL240.0 W30.0
GL146.0
HL169.0 φ1.5
IL172.5φ2.2
JL177.0 φ2.6
10187

11211 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.5 φ2.7 W10.0 11211

11212 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.5 φ3.0 11212

11213 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.0 φ2.8 W12.0 11213


17711 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市大川 違星L26.1 W1.2 T0.3 H3.7 17711

17712 捧酒箸libation stick 1935 余市大川 違星L33.9 W2.2 T0.6 17712

17717 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼1935余市大川 違星L28.2 W1.2 T0.6 H2.5 17717

17719 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935余市 違星家L25.2 W0.8 T0.5 H3.5 17719

17730 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼 余市 違星家L29.0 W1.2 T0.6 H2.2 17733

17741 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市 違星家L28.4 W1.3 T0.6 H1.5 17741

17742 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市 違星L26.2 W1.3 T0.6 H1.8 17742

17764 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼1935余市 違星家L29.5 W2.4 T0.5 H1.6 17764


17785 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935余市 違星家L28.8 W1.2 T0.6 H2.0 17785

23533 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.3 φ0.5 鏑L(7.7) φ1.7 柄L40.5 φ0.9 ML50.5 23533

23534 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.4 鏑L(8.3) φ1.7 柄L40.3 φ0.8 ML50.8 23534

23535 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.4 φ0.4 鏑L(7.6) φ1.5 柄L40.6 φ0.9 ML51.6 23535

23536 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.2 鏑L(8.3) φ1.3 柄L35.5 φ0.8 ML45.5 23536


23537 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.7 鏑L(8.0) φ1.6 柄L40.5 φ0.9 ML50.5 23537

23538 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L1.7 φ0.4 鏑L(7.2) φ1.7 柄L40.6 φ0.9 ML50.5 23538

23539 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.6 鏑L(8.
2) φ1.5 柄L40.5 φ0.8 ML50.9 23539

23540 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 削りかけ・赤布付 余市 違星家鏃L2.7 φ0.3 鏑L(7.4) φ1.5 柄L35.4 φ0.8 ML45.5 23540

23541 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 削りかけ・赤布付 余市 違星家鏃L2.0 φ0.3 鏑L(6.8) φ1.3 柄L35.8 φ0.8 ML44.6 23541

23542 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+羽 赤布付 羽欠 余市 違星家鏃L3.5 φ0.4 鏑L(8.9) φ2.0 柄L40.7 φ0.9 ML53.1 23542

32949 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 赤布付 余市 違星家鏃L4.2 φ0.5 鏑L(9.1) φ1.7 柄L40.8 φ0.8 ML54.1 32949


 
管理人  ++.. 2011/09/28(水) 02:31 [541]

 
捧酒箸と、花矢か。
捧酒箸は、カムイノミの時に使う、カムイにお酒を捧げるための棒ですね。
花矢は、熊送り(イオマンテ)の時に、熊に放つ装飾された矢です。

イナウは木を削って作った、カムイのシンボル。御幣のようなものですね。

ヌサは幣。

これは、北大植物園博物館に行けば見られるのかな?

http://bit.ly/nQ4sKe

管理人  ++.. 2011/10/01(土) 09:40 [542]





 朝日新聞「北の文人立ち話」 
朝日新聞北海道版 2011年8月26日

【北の文人 立ち話 高山美香】
心の叫びを歌に! 違星北斗

http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000961108260001

一部、強引なところもあるけど、わかりやすくライトな感じでいいのかも。
 「あいぬの話」のエピソードを描いた漫画もいいですね。ただ、違星北斗をある程度知っている人でないと、漫画の印象が勝ってしまうかも。あくまで、北斗の印象からすると「こういうところもあったんだ!」という意外性を感じるエピソードだと思うから。

>理不尽ないじめに、「手当たり次第、物をたたき割って暴れ死にたくなった」というつらい青年時代を送りました。

とあるけど、暴れた頃は「いじめ」というより、社会的待遇への怒りと、あと病気じゃないのかな。

>違星北斗(1902〜29)。余市町生まれ。小学校を出て地元で働くが、25年に上京後にアイヌ民族問題に目覚め帰郷。短歌作りを始め同人誌を創刊。薬の行商をしながら創作とアイヌ復興の活動を続けた。死後に遺稿集「コタン」が出された。

 文末の北斗の略歴、これは高山さんの手によるものではないかもしれないけど、北斗の生涯の中で、薬売行商の時期というのは、それほど長くないので、こういう書き方はどうかな。わかってない気がする。




 
管理人  ++.. 2011/08/27(土) 00:32 [540]





 年譜 
昭和5年版「コタン」の年譜は、北斗の手によるものであるといわれています。

しかし、草風館の「コタン」の年譜は、読者への親切のためだと思いますが、編者の筆が入っているため、意味合いが変わってしまっているところがあります。

たとえば、大正9年。
元は「畑を借り茄子作、中途病気」
これが草風館版(昭和59)だと「畑を借りて茄子等を作るが病気再発する」となります。

 微妙に、ニュアンスが違いますよね。

 昭和5年版は「茄子」と言い切っていますが、昭和59年版は「茄子等」。「等」ってどこから出てきたんですかね。

 あと、昭和5年の「中途病気」と昭和59年の「病気再発」では意味が違いますよね。

 昭和5年版の方が、資料としては精細です。
 なぜなら、「畑で茄子をつくったが、茄子を作っている中途に病気になった、と読める。茄子は夏の野菜ですから、発病時期が夏より前だということもわかる。

 でも、それが昭和59年版だと、編者のおせっかいでわからなくなってしまっている。

 ほかにも、同様のおせっかいによるニュアンスの変化がある。

 北斗が東京から北海道に帰ったのは2月ですが、それが11月になってたりして、けっこう適当な年譜なのですが、これがオフィシャルみたいになってしまっているんですよね。
 アイヌ一貫同志会なんて、本当に存在したのかどうかもわからないのですが、この草風館版の年譜に載っているから、あったこととして確定してしまっていますね。

 
管理人  ++.. 2011/04/10(日) 05:00 [538]

 
>北斗が東京から北海道に帰ったのは2月ですが、

すみません、2月じゃなくて7月です。

ちなみに、11月というのは、元々縦書きの北斗の原稿に「七」と書かれていたものを希望社版コタンの編者が「十」「―」と読み間違え、それが草風館版にも引き継がれてしまったからですね。

管理人  ++.. 2011/08/09(火) 01:30 [539]





 ウタリ之友 
ウタリ之友に、北斗に関する記述がありました。

-------------------
ウタリ之友 九月号 一九三三年九月一〇日

 幌別だより      タンネ・ヘカチ

 いつも「ウタリの友」をお送下さりまして有難う御座います。
 何か御礼にも と思ひましてもルンベンである僕は何も出来ませんので申訳なく思って居ります。毎月戴く「ウタリの友」を見ますとみんな知った人ばかりなので つひ懐かしさの余り筆を取らうと思ひますが、一日々々と延びて締切の日を越えたり、筆不精のため遅れたりで毎日過して来ました。今日は雨模様の静かな日です。久しぶりに落ちついた心で教会の辺りを歩いてみました。土手にはクローバーやチモシーなどの牧草が綺麗に生えてゐて 処々に月見草が優しくうなだれてゐます。土手の中には南瓜が一面に這ってゐます。あそこには苺が沢山つくられてあって八重先生がいつもレーキやホーをもって草を取ったり、藁を敷いたりしてゐたのでした。西側の一隅にはアスパラガスの一群に野菊が混って仲よく茂ってゐます。僕が小学校に通ってゐた頃は畑もよく耕されて雑草のない黒土に茎の太いアスパラガスが元気よく延びてゐたものでした。あれからもう六・七年の年月を過してゐます。主人無き古き教会の土手の片隅にアスパラガスは 冬に眠り春に目覚めては培ふ人の再び訪れる日を待ちわびてゐたのでせう。しかし教会の門柱が朽崩れても 裏のシグナルの上に北斗七星がいく夜かまたゝいても去った人々は再び訪れてくれませんでした。
 そのうちにアスパラガスの根もとには いつしか野菊やノコギリ草が混りました。今ではアスパラガスはそれらの雑草と仲よく暮す事が楽しみなのでせう。細くすらりとした姿で野菊の白い小花の中にふさ/\とした葉を垂れてゐます。
 僕は遠い少年の日を思ひ乍ら 赤や青のガラスを填めた小窓を見てゐました。いつか八重先生が札幌へお出でになった留守でした。学校から帰ってきた春野さんが二三人の子供を連れて来て 礼拝堂の高い屋根に梯子をかけて雀の仔を沢山とりました。軒からは藁や毛がバラ/\落ちました。春野さんはその雀の仔をみんな子供達に分けてやってから、僕の方を見て笑い乍ら内へ入りました。ある時はまた豊君が豚の餌を買ひに行っての帰り途で、石花菜(キラズ)を山盛りに入れた箱をひっくりかへした事もありました。井戸のつるべが落ちた時 死んだ違星さんが僕のうちへ釣[瓶]を借りに来た事もクリスマスの劇で僕が大工さんになって恥しかった事も みんな楽しい思ひ出です。あの頃の人々は皆何処かへ行って了ひました。僕だけが毎朝トマト畑から古い教会を眺めて暮してゐます。
(一九三三年九月四日)
------------
(出典は「アイヌ民族近代の記録」草風館より)

 作者のタンネ・ヘカチは佐藤三次郎。
 どこかで聞いた名前だと思ったら、知里真志保に「違星北斗のような短歌は作るな」と言われた人だった。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/fujimoto.html



 
管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:06 [536]

 
で、肝心の北斗ですが、最後の方に、佐藤三次郎の家に井戸の「釣瓶」を借りに来る人として登場。

 東京から北海道に戻ってすぐの頃の幌別教会時代のエピソードではないかと思います。
 この文章は在りし日の幌別教会を中心としたアイヌコミュニティを写したものですね。
 バチラー八重子、北斗、知里真志保ときたら、「豊さん」はもしかしたら、「豊年健治」ではないかと推測します。

 雀の子を取った春野さんも、どこかで聞いたことがある名前。
 どこだろう?

 
 

管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:10 [537]





 『アイヌの啄木』に反対します! 
違星北斗のことを「『アイヌの啄木』と言われている」と平気で書く人がいるが、どうなんですかね。

誰が言い始めたのかもわかりませんが、北斗のことを少しでも知っていて、啄木のことも少しでも知っていたら、とてもそんな呼び方はできないんじゃないかと。

そりゃ、キャッチーかもしれませんけど。




ここだけの話。
北斗は石川啄木のような人間ではありませんよ。
対極でしょう。

啄木のことも、北斗のこともよく知る金田一京助がそれを言ったんだったら、まあ、いいでしょうが、私が知る限り、金田一京助にそんな発言はない。

啄木ファンには悪いけど、金輪際、『アイヌの啄木』と呼ぶのはやめてほしいもんだな。

 
管理人  ++.. 2011/03/02(水) 02:37 [532]

 
呼吸をする度に細工物のように上手い素晴らしい短歌をこさえることのできる

石川啄木と、一人で民族の未来を背負って起った違星北斗とでは

あまりにも立ち位置が違いすぎるんじゃないのかなぁ。

別に、啄木をどうこういうつもりはないんですが。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:00 [533]

 
でも……やっぱり……悪く書いちゃうけど、啄木という名前は、どうも「ダメ人間」というイメージが強すぎるんだ。それは、北斗を通じて金田一京助の生涯を知っているから余計にそう思うのだろうけど。

「アイヌの啄木」なって書いてありがたがっちゃう人は、とてつもなくだらしない啄木の存在がいかに金田一の研究の障害になったかを知らないんだろうな。もちろん、金田一の研究にはいろいろな問題があったのだけれど、それはひとまず置くとして。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:16 [534]

 
ちなみに、金田一京助は違星北斗のことを

「知里幸恵を男にしたような」

と譬えています。

こっちのほうが痛快な譬えだと思うのは私だけでしょうか。

管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:19 [535]





 名前 
違星北斗には名前が3つある。

戸籍上は「瀧次郎」だが、本来は「竹次郎」で、代書屋が聞き間違えたまま、登録してしまったのだ。

(現代ではそうでもないかもしれないが、余市の方言は「イ」音と「エ」音の混同というのがあるようで、それは古老の方と話していても感じたし、北斗自身もよくイ音とエ音の書き違えている)。

で、彼は和人の前では「瀧次郎」、家族や、コタンの人々からは「竹次郎」、「タケ」と呼ばれていた。

彼の父や祖父の時代には、和人名とアイヌ名の両方を持っていたが、さすがに北斗の世代の余市ではそういうことも少なかったようだ。
ただ、図らずしも、北斗の中には和人社会での名前「瀧次郎」と、アイヌ社会での「タケ」が同居することになった。
 
 一つの体に二つの名前。
 一つの言葉に多くの意味。

 多くのアイヌと同様、彼は和人社会とアイヌ社会という二つの社会で、多面性を持たざるをえなかったし、彼の場合はそれを名前によって使い分けざるを得なかった。

 後年、彼は北斗と号することになる。
 その引き裂かれた二つの名前を統合したのだ。

 彼はまた、当時蔑称的に用いられていたアイヌという言葉に、新しく良い概念を込めようとした。我アイヌ、何を恥じることがあろうかと。

 言葉の意味は、時代によって変わっていく。
 また、人為的に変えられる。
 のちに言葉を武器に戦っていくのには、この三つの名前を持つことと無関係ではないと思う。

 
管理人  ++.. 2011/02/08(火) 11:11 [531]





 とりあえず 
違星北斗botを作ってみた。(@kotan_bot)

http://twitter.com/kotan_bot

彼の生涯をツイートで追っかけてみよう。
自分のための復習でもある。

 
管理人  ++.. 2011/02/07(月) 01:31 [530]





 バランス 
twitterで「違星 北斗」と検索しても、何も出ないことが多い。違星北斗について「なう」(笑)な人がそれだけいないといことだろう。
でもって、「アイヌ」と検索すると、アイヌの現在がわかる。

 そのスタンスも理解度もバラバラ。

 ・イベント告知
 ・地名、言葉などのへえ、これアイヌ語なんだっていうつぶやき
 ・北海道県(アイヌ犬)カイくんのこと
 ・サブカル(ゲーム、アニメ、漫画)で触れている系。

 無条件賛美系。
 ・先住民文化、ネイティブバンザイ系
 ・スピリチュアル系。
 
 それから、右寄りアンチ系。
 ・アイヌ協会糾弾系
 ・アイヌはいない、存在しない系

 あとは、北海道の人のつぶやき、アイヌの人自身のつぶやきもある。

 etc、etc。

 今は、アンチ系の「アイヌはいない系」「アイヌ協会糾弾系」がくっついちゃって、小林よしのり氏が砂澤氏を擁して、他のよく知らない若いネット右翼たちを巻き込んでいっている感じだろうか。沖縄問題、尖閣問題、中国パワー。そういったもろもろの問題、危機感がおおいに関係しているのだと思う。
 もちろん、そして北方領土問題。「アイヌはもういない」ということにしておかないとというのがあるから、このところのキャンペーンなんだろうけど。

 僕はまあ、いつも決めつけること、自分の立場を表明することからは逃げている。
 いくら考えても、わからないから。
 その時々で、揺れ動くから。

 ただ、そのバランスを取るときに、僕の場合はそこに違星北斗がいて、その生涯、思想を参考にさせてもらっている。
 時に、「〇〇め、さすがにそれはアカンやろ」と思うこともあるけど。

 いやいや、僕には違星北斗がいるじゃないかと。 
 こんな時、北斗はどう考える? あの時の北斗は?

 だから、違星北斗の「振れ幅」「ゆらぎ」こそが僕に取っては大きいし、大切なんだと思う。

 
管理人  ++.. 2011/02/06(日) 10:42 [528]

 
もうひとつ、北斗以外でいえば、僕には恩師といえる人が何人かいるけど、いま、ふとした瞬間に思い出されたりするのが、大学で教わった作家の小川国夫先生の言葉だ。

お酒が好きで、冗談が好きで、よく笑った。
聖俗清濁を併せ呑み、時折出る言葉はユーモアがあり、かつ深く重かった。

決して、激したり、誰かを糾弾したりすることはなかった。ただ、悠然と山のようにそこにおられた。

先生はクリスチャンだったが、最後の授業はある禅僧の言葉で締めくくられた。
大学での先生は聖書だけがテキストでそれをうだうだ講釈するようなことはなく、聖書はすでに先生の中に血肉としてあって、それで僕達の生きる現代の日本と、そこにいたる古今東西のテキストを論じた。
最後の授業で先生が挙げられたのは道元の「愛語よく回天の力あり」という言葉だった。
言葉の、文学の力を信じなさい、それは世界をも動かすのだ、と。

言葉によって世界を変えた人。それは、キリストのことでもあったが、僕には違星北斗のことだとも思えた。

当時、小川先生はキリストのような人だと思った。たぶん、聖書に描かれていない、本当のキリストは、清濁をのみこんだ、よく笑い、人を愛する、時には反省もする、容赦のある人だったのだと思ったのだ。容赦無く完璧な神の子ではなくて。

違星北斗が生きていたなら、そんな人になって欲しかったとも思った。

時によって流され、右に行ったり、左に行ったり、真ん中を進んだりしながら、ブレながら、バランスをとりながら、人に傷つき、また人を傷つけ、時に反省し、時に舞い上がり。それでもアイヌのために一生を捧げる。

惜しむらくは、彼にその迷走する時間「しか」与えられなかったことだ。

違星北斗は体当たりの人だった。後先考えず、突っ走る人だった。無茶をする人で、そのあと猛烈に反省して落ち込む人だった。

あと10年、いやあと5年、迷い、右往左往して、答えを探して欲しかった。そして、彼にとっての真実を見付け出してほしかった。
その言葉で世界をもっと変えて欲しかった。

今となっては、彼の先にどんな未来があったのかもわからないが、もし、彼が生きたなら、すくなくとも、今残っているテキストは、「修行時代」の「習作」になっていただろう。彼は執拗に、何度も何度も、それこそ病床ででも自分の作品に手直しをする人だったから。

どなたかが言った、北斗の「限界」があるとすれば、ある意味で「死」に勝てなかったことだと思う。その先を生きられなかったことだ。巨大な未来の可能性を、失ってしまったことだ。
おそらく、彼の言葉は世界を変えただろう。未完成な、生きている時でさえ、少しは世界を変えた。どういう形であれ、「その先」も彼は世界を変える言葉を放ち続けただろう。

埋れている彼の思想の断片を掘り起こし、当時の思想の揺れ動きを調べて、補完し、彼が辿りつけなかった「その先」を想像するのが我々の役目なんだと思う。

だが、これは小川先生が言っていたことだが、事件や人物の真実を相対化し、明らかにするには、50年、100年の時間がかかる。今わかることはわかるし、わからないことはわからない。

それが、調べていくうちに、あと数十年後にはわかるようになってくることもある。事件から時が流れることによって、ぽんと、ものすごい事実が出てきたり、証言が出てきたりする。見えてくることもある。

だが、そのためには、違星北斗という人の存在を埋もれさせてはならない。誰も知らなくなれば、誰もしらないのだから、資料も出てこない。多くの人に知られれば、それだけ調べる人も多くなるし、隠された事実が明らかになってもくる。

だからこそ、北斗のことは多くの人に知られなければならないと思う。

名前ばかりの研究会ではなく、北斗を研究する人、もっと出てきてほしいと思います。
喜んで、資料も提供しますので。

本当に研究会(オフ会)ができればいいと思います。
やり方がよくわからないですが。

管理人  ++.. 2011/02/06(日) 11:16 [529]





 北斗の限界? 

「habrodiatus」より引用
********
朴烈や難波大助アイヌから
出なかった事せめて誇ろう

この歌に、時代の制約を受けた彼の限界を知る。
********
http://silverfax.blog10.fc2.com/blog-entry-159.html

 彼の限界?

 うーん。そうかな。
 何が限界?

 民族を誇りに立ち上がろうとしている青年が、
自分たちの民族の中から、(当時の社会的には)重大犯罪者を出していないことを誇りたいと言う。

 限界があったとて、それは
 彼をとりまく時代の限界であって、北斗の限界ではないだろうに。

 現代のぬくぬくしたところからだったら、好きなようにこねくり回して言えるもんだな、と思う。
 北斗の時代の彼の置かれている立場や環境を想像してから言ってほしい。
  
 と、コメントしたかったが、コメント欄がないのでここに書きます。 



 
コタンBBS  ++.. 2011/02/02(水) 14:28 [525]

 
 リンク先、書き込みを削除されておられました。

 北斗は、23歳で東京に行き、25歳で北海道にかえって、27歳で死ぬ間際まで、急激に、加速度的に成長し続けていた人だから、その過渡期にはいろいろとツッコミどころがある発言をしているし、当時の社会に照らして優等生的な発言をしていても、今日の我々には違和感がある場合もある。だが、それは北斗の歪みではなく、社会がそれを正義としたからで、まわりの和人、それも名だたる名士や博士たち、「偉い大人」たちもそれを是としていた。北斗は、「正しく生きる」の目標のもとに、その時代の正義を生きようとしたにすぎない。

 それを、今日の教育で植えつけられた価値観で測って、「限界」とかいうのは、やっぱり違うだろう。「限界」と決めつけた方にこそ、限界があるんじゃないか。調べて、考えて、想像する努力が足りないんじゃないか。

 死の床では、不安や動揺で、発言は縷縷揺らぎ、絶望して弱音を吐き、世を恨んだりもしている。当然、思想の進歩は停滞となり、時に逆行もしたかもしれない。
発言のブレもある。

だが、それに惑わされるんじゃなく、さまざまな北斗の発言言動の中から、彼の真意を読み取り、そして、北斗が死ななかったら、彼が達しようとたであろう地平を、その先を想像しなければならない。

それが、僕たちの使命なんだと思ったりもする。



 こんな時「北斗」が生きて 居たならと
 沁々思ふ―― 一人夜更けに    (森竹竹市)

管理人  ++.. 2011/02/05(土) 01:40 [527]





 管理人 
http://favotter.net/status.php?id=17226068246

こちらのつぶやきに同意見。

 
コタンBBS  ++.. 2011/02/02(水) 14:55 [526]





 なんだこれ? 
なんだこれ?
http://literaturematters.blog111.fc2.com/blog-entry-10.html

----------------------
違星北斗(いぼしほくと)
歌人。実名滝次郎。北海道後希望(しりべし)総合振興局管内の余市(よいち)町の天性。祖父万次郎は、1872年(明治5)、東京に開かれた開拓使仮学校に選露見して生徒として派遣されたアイヌの一人。北斗は小学校卒業後、造材人連れ合いをしながら歌を詠み、さらに自らもアイヌ探求を希望し、上京して金田一(きんだいち)京助に会ったこともある。1927年(昭和2)には、昼間の時間高支庁(現昼間の時間高振興局)管内の平取(びらとり)町の聖公会の幼稚園でバチェラー?八重坊主の仕事に手を結ぶ一方、売薬行商をしながらアイヌに対する差別を告発する歌をつくる。遺稿集『コタン』(1930)には、北斗のアイヌとしての怨念(おんねん)がにじんでいる。

アイヌとして生きて死にたい願もてアイヌ絵を描く淋(さび)しい心
-------------------------


日本語勉強中の外国の人が翻訳エンジンを頼りに書いたのかな?
バチェラー八重坊主って。

 
コタンBBS  ++.. 2011/01/28(金) 01:27 [524]





 希望園  
投稿日: 9月24日(土)04時24分57秒

三、二風谷に希望園を作る 林檎三百本


 北斗は二風谷にリンゴを植えようとしたのです。
 平取(いわゆる平取本町)ではなく。
 自働道話10月号の

来年から平取村にリンゴの苗木を少し植附けます

 の「平取村」は「村」とついていることから、役場のある「平取」ではなく、「平取村」全体を指した言葉であり、より厳密に言えば「平取村二風谷」であると思います。

 あらやさんが言われるように、バチラー八重子や吉田ハナがリンゴ園を手伝ったとかいう話はありません。なぜなら、平取教会を守らねばならない八重子やハナは、平取から動けないからです。
 もちろん、北斗が二風谷でリンゴ園をやろうというのも頓挫するのですけれど。
 『希望園』というネーミングから、北斗はバチラー幼稚園と同様に希望社のバックアップを期待していたのかもしれません。ですが、後藤静香はこの後、バチラーへの資金援助を打ち切ります。
 バチラーと後藤静香の間に立つ北斗には、立つ瀬ないことだったでしょう。
 微妙な関係。バチラー幼稚園にいられなくなった理由はそういうところにもあるかもしれません。

 
管理人 [URL]  ++.. 2005/10/01(土) 02:28 [8]

 
>  北斗は二風谷にリンゴを植えようとしたのです。
>  平取(いわゆる平取本町)ではなく。
>  自働道話10月号の
>
> 来年から平取村にリンゴの苗木を少し植附けます
>
>  の「平取村」は「村」とついていることから、役場のある「平取」ではなく、「平取村」全体を指した言葉であり、より厳密に言えば「平取村二風谷」であると思います。
>
>  あらやさんが言われるように、バチラー八重子や吉田ハナがリンゴ園を手伝ったとかいう話はありません。なぜなら、平取教会を守らねばならない八重子やハナは、平取から動けないからです。
>  もちろん、北斗が二風谷でリンゴ園をやろうというのも頓挫するのですけれど。

 このリンゴ園のことについては、「平取入村時代の違星君の思い出」に記述がありましたね。八重子が土地を買い、実現しそうだったのだけど、買った機械が使い物にならなかった、ということでした。
またフォローしときます。

管理人  ++.. 2006/08/22(火) 00:55 [261]





 昭和萬葉集 
北斗とバチラー八重子の短歌が講談社「昭和萬葉集」(S55)という本に掲載されているらしい。

http://blogs.yahoo.co.jp/jintoku510/44191999.html

 
管理人  ++.. 2010/11/15(月) 23:44 [522]





 にしんそば 
仕事で大阪へ。

関西では「にしんそば」というのがメジャーで、立ち食いそばの店には必ずあります。

忙しい中ですが、関西で立ち食いそば屋に行く時は、必ずといっていいほど、にしんそばを頼みます。

なぜなら、にしんも立ち食いそばも、北斗を思い起こさせるキーワードですので。


 支那蕎麦の立食をした東京の去年の今頃楽しかったね


 暦無くとも鰊来るのを春としたコタンの昔慕わしきかな


 仕事に追われて北斗のことを忘れていても、にしんそばを食べている時だけは、北斗のことを考えています。
 

 
管理人  ++.. 2010/10/22(金) 00:59 [517]

 
それとは関係ないけれども。

最近、漫画家小林某やその周辺で、有名なアイヌの息子さんのお名前やお姿をお見かけするようになりました。

これは、すごく個人的な感覚なんですが、
ひょっとしたら、

その方の立ち位置というのが、どうも私には、東京時代の違星北斗の立ち位置に、どこか微妙に似ているような気もします。もちろん、違うところは全然違うのですが。

これから、その方の考え方が、どうなっていかれるのか、どうされるのかわかりませんし、その方が北斗のことをどうお考えなのかも知りません。
 
ですが、ひとつだけ言えるのは、

小林某にシンパシーを感じ(?)て行動を共にするのはご自由かと思うのですが、

・・・
あなたと小林某は、同じ方向を見てはいない。目的や目標を同じうしていないように見える。

・・・
あなたが大きなリスクをかけて訴えておられることには、実際彼らは、たいして興味がない。
彼らは自分たちの主張したい(と本当に思っているのかは知らないが)考えの傍証として、あなたの存在や言説を利用しているにすぎない。

・・・
あなたは、自分でも気づかないうちに彼らに都合のいい、生きた「標本」にされてやいないか?

     ・・・
やっぱり、あなたはどこか、北斗に似ている。

管理人  ++.. 2010/10/22(金) 01:22 [518]

 
立場の弱いものを己の正義や正当性担保のために利用するというのは日本の思想界隈の伝統的な所作なので、利用されていることを承知の上で逆に利用して使い捨てられればいいんでしょうけどね。えてしてミイラ取りはミイラになるものですが…。

アイヌ民族という概念が生じた時点で線引き発生することは避けられませんので、越えられぬ壁を受容できるかどうか。いや、いまはアイヌであるということが自己肯定して生きてゆくネタになり得るので北斗の生きた時代とは比べられないような気もします。アイヌであることを強く意識するのは我々シャモとの関係性に起因するものなので他人事ではないのでしょうが、踏み付けて歩くしかないような気がしています。失礼。

tkht  ++.. 2010/10/22(金) 05:50 [519]

 
確かに比較するのは難しいと思うんですが、なんだか、直感的にピンときて書いてしまいました。

「同族」への失望を表明して、
北斗はアイヌをアイヌの名のもとに再起しようとし、
その方はアイヌ系日本人はいても、アイヌなどはすでにないという。

そこは大いに違うんですが、中央のシャモがおのれの思想の根拠として利用する、本人も本意か不本意か、あるいは自覚的であるのかないのかわからないけど、それに同調してシャモに都合のいいことを発言し、彼らの都合よく「編集」されて流布されてしまう。
 本人の本当に言いたいことはカットされ、聞き手の誘導的で恣意的な質問には都合よく答えてしまい、相手の文脈でセンセーショナルに利用される。
 根本で向いている方向は違うのに、見るものにはそれが伝わらず、偏見の助長にさえつながってしまう。
その構図がちょっと似てるのかなと。

 NHKのアイヌ関係の番組なんかでも、そういう恣意的な情報操作が気になってしまうことがありますが、今回流れているチャンネル桜かなんかのビデオはそんなもんじゃない。
 聞き手が酷い。こすい。卑劣で、あざとい。

管理人  ++.. 2010/10/23(土) 12:10 [520]

 
右や左のヘゲモニーの取り合いに巻き込まれているとしても、そしてそれが結果的に誤解や偏見を助長することになったとしても、それもまた生き様だと思いますし、その方が思うところがあって覚悟して選択した道なら、たとえこすっからさや卑劣さに歪められた姿が映し出されることになったとしても、それはもうご自身で引き受けるしかないのではないかと思うのですが、すこし冷酷なものの見方かもしれません。すみません。

偶然余市という街に住んでいるのですが、尊厳供給し合うような関係を築くことをしてこなかったという前提があって、道産子と言われる人々はある種の後ろめたさみたいなものを持っていたりなんかりするかもしれません。たとえば、補助金流用したという報道があっても重箱の角をつつくような気にはならないというのもそういう背景があるからなんじゃないかと、個人的にはそういう感覚を持っています。

tkht  ++.. 2010/10/24(日) 06:33 [521]





 時田則夫 
「違星北斗」定例検索より。

2004年 6月発行「辛夷」59号に
時田則雄による「違星北斗の歌」という論文があるようです。

ウィキペディアによると

時田 則雄(ときた のりお、1946年9月24日 - )は、歌人。北海道帯広市生まれ。北海道帯広農業高等学校、帯広畜産大学別科草地畜産専攻修了。歌誌『辛夷』主宰。野原水嶺に師事。 十勝にて農業を経営しながら文芸活動を行っている農民歌人。

ということです。

さがしてみよう。

 
管理人  ++.. 2010/10/12(火) 01:13 [516]





 ウタリ・クスの先覚者 中里徳太郎氏を偲びて 
おひさしぶりです。

ブログの方に沖縄教育(大正14年6月)に掲載された北斗の「ウタリ・クスの先覚者 中里徳太郎氏を偲びて」をUPしました。

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-baf5.html

詳しい考察は後日。

本当はテキストをHTML化したいのだけれども……。
これまでの発見を反映して、HPの全面改修もしたいんだけど……。

それに、しばらく放置している間にドメイン「iboshihokuto.com」の有効期限も切れてしまった!

すみません。近いうちにいろいろやりたいと思います。

 
管理人  ++.. 2010/08/15(日) 04:02 [504]

 
このテキストを掲載するのを躊躇していたもう一つの理由が、その内容。漫画家の某氏とその取り巻き右翼たちが喜びそうな北斗の発言がある。彼らが静かになるまで、掲載をするべきではないとかんがえたのだ。
北斗の発言の背後を読む事こそが今我々に求められている。
小林某のように、同化政策を正当化したいがために、同化政策下での、改まった席での北斗の発言を文字通り読んで「うわーい、ポックンの考えにピッタリ合うアイヌの発言の記録をみつけたでシュー。」 と、大喜びしているのでは本当におめでたい。
そうでなくて、彼がどうしてそのような発言をした
のか、その時代の空気や風潮、北斗のそれまでの発言とその後の発言をよく知った上でしか、その発言の真意は理解出来ないのだと思う。

管理人  ++.. 2010/08/29(日) 17:56 [508]

 
慣れないiPhoneで投稿すると、文章がうまく書けない。参ったな。
管理人  ++.. 2010/09/14(火) 23:27 [512]

 
よく発見されましたね。さすが。
違星ドメイン、なくなってしまったのは残念ですね。復活を希望します。

それから確かに北斗の言動を都合よく利用しようとする人々については私も憂慮しています。
今こそ北斗のコトバをしっかり噛み締めて読むべきだと思います。

poronup  ++.. 2010/09/15(水) 21:57 [513]

 
poronupさん

ごぶさたしています。

ドメインは単に不注意で失効してしまったので、今度また手続きしておきます。

結局、彼らのアイヌへの興味は一時的なものだったんでしょうか。そうであってくれればありがたいんですが。




管理人  ++.. 2010/09/16(木) 01:12 [515]





 聖公会と後藤静香 
現在、後藤静香記念館は榛名高原にあります。ここは、希望社解体後、後藤静香が晩年を過ごしたところのようです。
詳しくはこちらを。

http://www.vesta.dti.ne.jp/~m-forest/kinenkan.html

で、このサイトをいろいろ見ていると、この榛名高原には、「聖公教会」もある。聖公会の教会です。

 はて。
 後藤静香ゆかりの地に聖公会。
 「聖公会」といえばジョン・バチラー。

 バチラーと後藤静香の微妙な協力関係。

 そのただ中に放り込まれたのが違星北斗。

 そういえば後藤静香は「もとクリスチャン」。

 後藤静香(せいこう)と聖公(せいこう)会。
 これはやり過ぎか。

 なんか、引っかかるぞ。
 引っかかるなあ。

 行ってくるかなあ。
 榛名高原の後藤静香記念館。

 でも、長野新幹線だよなあ。

 上野から安中榛名まで1時間。
 そこからたぶん車でだいぶある。

 要予約だしなあ。

 でも、後藤静香の著作がいっぱいあるらしいしなあ。

 行こうかな。
 行けるかな。

 
管理人  ++.. 2010/09/16(木) 01:07 [514]





 北斗の号 
「北斗」の号の初出はいつだったっけかな。
以前調べたような気がするが、忘れているので、もう一度調べてみよう。

 
管理人  ++.. 2010/09/09(木) 01:30 [510]

 
最初に掲載された大正13年の句誌「にひはり」2月号だと思うんだけど、実物がいますぐに確認できないけどたぶん「北斗」名義だったと思う。

この頃、余市の俳句会に入って、俳句を読み始めたと思われるので、まあ、大正12年から13年の頭ぐらいまでのことでしょうね。

管理人  ++.. 2010/09/09(木) 01:45 [511]





 ちょっこし更新 
 本当に久しぶりに、ブログやBBSでなく、ホームページを更新。

 更新したのはトップページ、年表、コタン文庫等。

 これまで更新が捗らなかったのは、じつはPCの調子がよくなく、立ち上がらない、うごかない、すぐ固まるという状況だったというのあるのですが(言い訳でもありますが)、いよいよ夏になって、PCが最大級にダメになったので、PCを新調することになり、ついでにHPの更新の環境も整いました。
 よーし。これからはガンガンやるぞ。

 まあ、肝心の管理人自身が、いろんなことを忘れちゃっていますが。

 ◎ツイッターを始めました(@kiyamashina)。本職のことなど、違星北斗に関係ないことばかりつぶやいています。

 
管理人  ++.. 2010/09/08(水) 02:47 [509]





 ハルの没年 
北斗の母ハルの没年ですが、これまでの資料では北斗が小学校の5年の時と推測していたのですが、「ウタリクスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」によると2年の時になっている。
あれれ?

 
管理人  ++.. 2010/08/29(日) 17:17 [507]





 生誕110年 
なんだかぼやぼやしてる間に違星北斗生誕110年が迫っています。2011年の年末から2012年の正月あたりに生誕祭でもしますかね。

 
管理人  ++.. 2010/08/27(金) 20:21 [505]





 「値段史年表」より 
 北斗が東京にいた頃の物の値段を調べてみました。
 (北斗がいたのは大正14〜15年)。

 北斗が務めていた東京府市場協会の月給が40余円。
 これがどれくらいなのか。

 ・銀行員初任給 50〜70円(大正15)
 ・巡査初任給 45円(大正9/昭和10)
 ・小学校教員初任給 40〜50円(大正9)、45〜55(昭和6)
 ・公務員初任給(高等官)75円(大正15)

 ……ということで、北斗の貰っていた40円は、確かに悪くない金額ですね。

 では、衣食住の「住」はどれくらいかかったのでしょうか。

 ・下宿 文京区本郷、3食付1室 20〜25円(大正15)
 ・家賃 板橋区仲宿(一戸建) 10円(大正13)
 
 北斗が、家賃や下宿代を払っていたかどうかは不明ですが、勤務地である新宿は当時は郊外だったので、これより安いでしょうね。

  

 

 
管理人  ++.. 2010/07/03(土) 02:06 [500]

 
「食」にいきましょう。

 支那蕎麦の立食をした東京の 去年の今頃楽しかったね


 ・北斗が食べた「支那そば」は10銭(昭和5年)。

砂糖湯を呑んで不図思ふ東京の 美好野のあの汁粉と栗餅
甘党の私は今はたまに食ふ お菓子につけて思ふ東京


 ・しるこは 12銭(大正10)〜15銭(昭和5)
 栗餅はないので、その他のお菓子を。
 ・まんじゅう 2銭(大正12)
 ・大福1個 2銭(大正11/昭和9)
 ・たいやき 1銭5厘(大正14)
 ・もなか 1銭(大正8/昭和5)
 ・キャラメル 20粒 10銭(大正9-昭和14)
 
  北斗が食べたかも知れないもの。

 ・そば(もり・かけ) 8〜10銭(大正9)〜10銭(昭和9)
 ・とんかつ 20銭(大正14/昭和4)
 ・カレーライス 10-12銭(昭和2)
 ・コロッケ 2銭(昭和5)
 ・あんぱん 2銭5厘(大正12)

 北海道に戻ってからは、よく自炊をしていた北斗ですが、東京ではどうだったでしょうか。

 ・白米10キロ 3円20銭(大正15)
 ・味噌1キロ 24銭(大正13)
 ・豆腐 5銭(大正11年/昭和5年)
 ・食パン 16銭(大正13)〜17銭(昭和2)

 飲み物。

 ・カルピス1瓶 1円80銭(大正13)
 ・ラムネ 8銭(大正13) 
 ・サイダー 23銭(大正13)
 ・コーヒー 10銭(大正10-12/昭和1-5)

 北斗は飲まなかったアルコール。
 ・ビールジョッキ一杯 23銭(T15)


 




管理人  ++.. 2010/07/03(土) 02:37 [501]

 
北斗の上京に関連する値段。

 ・上野・青森間 7円23銭(大正9)、7円26銭(昭和5)

 北斗は北海道から阿佐ヶ谷までお弁当も買わずに、牛乳1杯飲んだきりでやってきました。(約2日間)

 ・牛乳180cc 8銭(昭和1)

 北斗が買えなかった駅弁。

 ・幕の内弁当 20銭(大正8)、30銭(昭和5)
 ・駅売りのお茶 7銭(大正9)、5銭(昭和5)

管理人  ++.. 2010/07/03(土) 02:47 [502]

 

 東京では映画も見たでしょう。

 ・映画入場料 30銭(大正10)、40銭(昭和5)
 
 文具
 ・鉛筆 1本 5厘(大正10)、1銭(昭和5)
 ・万年筆 3円50銭〜5円(大正15)
 ・インキ 30銭(大正15)

 郵便
 ・手紙 3銭
 ・はがき 1銭5厘

 本 
 ・岩波文庫 20銭(昭和2)
 ・広辞林 4円80銭(大正14)
 ・英和辞典 2円50銭(大正15)
 ・雑誌 週刊朝日 12銭(大正13)
 

管理人  ++.. 2010/07/03(土) 02:59 [503]





 スタンプ! 
違星北斗のスタンプ!

欲しい!

http://blogs.yahoo.co.jp/bojan_international/43435027.html

 
管理人  ++.. 2010/06/12(土) 01:05 [499]





 考現学入門 

 古書店で今和次郎の「考現学入門」を買って読んでいたら、「郊外風俗雑景」という記事があり、大正14年11月の阿佐ヶ谷駅周辺の調査結果がありました。
 ちょうど、北斗がこのあたりをうろうろしていた頃の調査ですね。

 その中に、阿佐ヶ谷駅前の商店街の地図があります。
 
 以前、西川光次郎の「自働道話社」の場所について、
 
 「自働道話」に乗っていた自働道話社(西川光次郎宅)へのアクセス方法には「阿佐ヶ谷の駅を出て、右へ3町、湯屋の前を右に曲がり、二町ばかりいきし所」とあるのですが、そうなると、駅から人は東向きに出て、南に約300m、西に約200m行くことになりますね。
 むしろ、成宗に近い。


 と書きましたが、やはり思った通りでした。
 東向きに出て、右(南)に歩き、湯屋の前を右(西)へ。

 この商店街は、北斗が西川のところに向かう時、何度も通り、時には買い物や食事もしたであろう商店街なんでしょう。

 偶然というか、なんというか。
 今和次郎という人が北斗と同じ時代に東京にいて、たまたま北斗がうろうろしていた時代の東京の郊外の「現代」を克明に遺してくれていることに、本当に、感謝します。

 和次郎が考現学を始めた頃と、北斗が東京に来たのが同じ頃で、調べているのも北斗のいたあたりだということに、運命的なものを感じます。

 もっといえば、日本民俗学の揺籃期に北斗は立ち会っているわけですね。柳田国男の元に、金田一やら今和次郎やら中山太郎やらがいて、そのほとんどは、やがて自分の考えを持って袂を分かってしまうわけですが、北斗はその分かれる前の学者たちの会合にひょっこり顔を出しているわけです。たった1年半しか東京にいなかった北斗だのに。

 北斗は、日本民俗学の黎明期を見た証人でもあったわけです。

 
管理人  ++.. 2010/05/07(金) 01:32 [496]

 
これは昭和6年の阿佐ヶ谷駅。

(すぎなみ学倶楽部 http://www.suginamigaku.org

管理人  ++.. 2010/05/07(金) 01:42 [497]

 
ついでに、北斗のいた頃の新宿。
管理人  ++.. 2010/05/07(金) 01:53 [498]





 ごぶさたです 
転勤、お引越しとのこと、お疲れ様でございました。
わたしは病状も安定しつつあり、やっとまた北斗に向かう意欲が出てきました。
さて、今月の講談社文芸文庫で川村湊先生編で「現代アイヌ文学作品選」が刊行されました。知里幸恵、真志保はもちろん、バチェラー八重子、森竹竹市、もちろん北斗、そして萱野先生まで、かなり網羅した書籍になっています。
まだわたしは入手していませんが絶対買います!!

ちなみに高円寺ですと駅にある都丸書房がなかなかお気に入りでした。人文社会系が強いです。

 
しおどあやこ(ヴァンペルト)  ++.. 2010/03/13(土) 20:04 [489]

 
補足です。
mixiコミュにも同じ情報を流してますので、そちらもあわせてごらんいただければ幸いです。

しおど  ++.. 2010/03/13(土) 20:07 [490]

 
しおど様

 お久しぶりです。
 早速購入いたしました。

 北斗は「私の短歌」「俳句」のみの収録でした。
 解説も、あまり北斗のことには踏み込んでいませんが、このような形で大正以降のアイヌの文学の流れが、一冊でわかる本が、手に入りやすい形で出版されるのはありがたいですね。

 ここから、北斗や他の方に興味を持ってくれる人が出てくれると嬉しいです。

 残念なのは、文中にあるアイヌ語への解説があまり充実していないことでしょうか。
 
 あと、北斗の生誕地「余市市」って書いてあるんですが、「余市」って市になったのでしょうか……?
 

管理人  ++.. 2010/03/15(月) 13:11 [491]

 
>  北斗は「私の短歌」「俳句」のみの収録でした。

購入しましたがまだちゃんと読んでいません。短歌がないのはチョット残念かな…。

>  解説も、あまり北斗のことには踏み込んでいませんが、このような形で大正以降のアイヌの文学の流れが、一冊でわかる本が、手に入りやすい形で出版されるのはありがたいですね。

ありそうでなかった一冊ですからね。>アイヌ文学アンソロ

>  残念なのは、文中にあるアイヌ語への解説があまり充実していないことでしょうか。

そこに関しては、一般のちょいマニアック読書好きを想定して文芸文庫は作られていると思うので、岩波とかで補足してほしいってことじゃないかと思います。

>  あと、北斗の生誕地「余市市」って書いてあるんですが、「余市」って市になったのでしょうか……?

なってないです!なってないですよ!!
誤植です!余市は「町」です。http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/


しおど  ++.. 2010/03/21(日) 15:41 [492]

 
明治33年/1900年
7月1日、郡内11町村を合併して余市町となる。戸数125戸、人口7,482人。

沿革でもこうなってますよ。ずっと町です。
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/anoutline/history/yoichinoayumi/nenpyou.htm

しおど  ++.. 2010/03/21(日) 15:44 [493]

 

あ、「短歌」は入っています。

草風館版でいうところの「北斗帖」が「私の短歌」ということで、北斗の文章とともに入っています。

余市市については、ケアレスミスですね。

「アイヌの姿」が入っていないのはどうなんでしょうかね。
 やはり、小林よしのりとその取り巻きみたいな人たちが恣意的にミスリーディングし易いから省いたのかもしれません。


管理人  ++.. 2010/03/22(月) 14:23 [494]

 
> 「アイヌの姿」が入っていないのはどうなんでしょうかね。
>  やはり、小林よしのりとその取り巻きみたいな人たちが恣意的にミスリーディングし易いから省いたのかもしれません。

それもあるかもしれませんね。
あとは川村先生は文学畑なので、純粋に文学作品の質という面を重視で作品を選ばれているのかもしれません。
民俗学者や歴史家が編纂したら、また変わっていたかもしれませんけれど。


しおど  ++.. 2010/03/22(月) 19:33 [495]





 要整理案件 
 秋から転勤、会社のトラブルと、ドタバタしっぱなしでしたが、ようやく一息ついて、北斗の方に戻ってきました。
 
 自宅の机や本棚も、引越の時にとりあえずのかたちでやったまま、とても研究ができる状況ではなかったのですが、ようやくやりやすいように整理しました。


1 沖縄教育の「ウタリクスの先覚者・中里徳太郎氏を偲びて」 入力

2 早川勝美 「違星北斗の歌と生涯」再読

3 年表の見直し

4 その他、「コタン文庫」の整理など。

 徐々にやっていきます。

 今年こそは何らかの形でまとまった形にしたいものです。



 
管理人  ++.. 2010/02/07(日) 16:32 [488]





 北斗の人形が! 
これ、見に行きたかったです。

北斗の人形が展示されていたんですね。
ポスターでもど真ん中にいますし。
察するに、北斗上京時の姿ですかね。

けっこう、WEB上にこの展覧会の記事があって、
写真もたくさんあるんですが、
北斗のものは一枚もない。残念です。


この方の作品集があるみたいなんですが、
北斗は載っているのかなあ。



http://www4.ocn.ne.jp/%7eotarubun/bungakukan/kikakuten/kikaku.html

 
管理人  ++.. 2010/01/27(水) 18:44 [485]

 
高円寺のブックカフェ高円寺書房で
「一葉のめがね」という高山美香さんの作品集を購入。

残念ながら北斗は載っていなかったけど、面白い本でした。

気になるのは、北斗の人形と、その展示された文章が知りたい。

 この展示会のネット上の感想には北斗と中原中也について「東京時代に二人は親交があったとかなかったとか」「北斗と中也の接点が阿佐ヶ谷とは」といったような書き込みがあったのですが……マテヨ。


 夢は夢としておいといて……
 ちょっと、可能性としては薄いんじゃないかなあ。

 どういう書かれ方をしていたのか、気になりますね。

管理人  ++.. 2010/02/04(木) 01:28 [487]





 東京に転居 
 仕事の都合で、東京に越してきました。

 それほど意識はしていなかったのですが、いくつかの偶然が重なって、たまたま新居に選んだのは中央線沿線、杉並区高円寺。

 そう。北斗が東京に着いて最初にたずねた西川光次郎のいた「阿佐ヶ谷」や、金田一京助を訪ねた「成宗」(現・成田)の近く。
 そして、北斗が働いていた新宿にも中央線で一本。

 北斗が高尾山に遠足に行ったときに使ったのも、中央線。

 なんだか、感動ですね。
 ほんとに。

 あんまり、時間がないのですが、ぼちぼち、北斗の東京を調べていきたいとおもっています。

 
 
 ちなみに。
 ここに住むことになったのは、家人の希望と、あとは猫が飼える部屋がなかなかなくて、たまたまあったのが高円寺だったということです。
 

 80年前に北斗がうろうろしていたあたりなんですね。

 これからは、東京での北斗の足跡を暇を見つけて調査していきたいと思います。

 

 

 
管理人  ++.. 2009/09/22(火) 13:01 [480]

 
で、日曜日に自転車に乗って阿佐ヶ谷を探検してきました。

まず、北斗が北海道からの二日間の道中、牛乳一杯のんだだけで、上京後最初に訪れたという、西川光次郎の自働道話社の住所。

 東京府杉並町阿佐ヶ谷678ですが、古地図と現代の住宅地図を照らし合わせてみましたところ、これは現在の住所でいうと、おそらく、ここではないかと推測します。

 http://maps.google.co.jp/maps?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4ADRA_jaJP346JP346&q=%E9%98%BF%E4%BD%90%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%8D%97%E3%80%803%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%94%EF%BC%8D%EF%BC%93&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

 杉並消防署の、それも訓練場のあたりか。

 けっこう、中央線の阿佐ヶ谷駅からは遠いんですね。

 「自働道話」に乗っていた自働道話社(西川光次郎宅)へのアクセス方法には「阿佐ヶ谷の駅を出て、右へ3町、湯屋の前を右に曲がり、二町ばかりいきし所」とあるのですが、そうなると、駅から人は東向きに出て、南に約300m、西に約200m行くことになりますね。
 むしろ、成宗に近い。

 その成宗といえば、金田一京助が住んでいたところ。
 金田一を訪ねて農村地帯だった成宗を訪ねて行った北斗は途中で田んぼに落ちて泥だらけになったりしながらも、夜の8時にようやく金田一宅をさがしあて、その夜に運命的な会談をするわけです。
 その会談の行われた金田一京助自宅は「杉並町成宗332」。
 これは現在の成田東四丁目。

 自転車で「たぶんこのあたりかな」と思いながら走っていると、突然見覚えのあるお名前の表札(「国語の神様」としてテレビでおなじみの)があり、やはり、このあたりかと思いました。
 
 北斗のころとは違って、田んぼなどまったくない、閑静な住宅地ですね。
 
 

管理人  ++.. 2009/10/06(火) 01:48 [482]

 
 あと、成人の日あたりの休日に、散歩がてら徒歩で新宿へ。北斗が上京後住んだと思しき、東京府市場協会の高見沢邸のあった場所にも行ってきました。、

 大正末の「淀橋町角筈316」は、現在の新宿区西新宿。

 新宿中央公園の西の十二社通り、十二社池の上のバス停の近くの路地を西に少し入ったところ。

 東には東京都庁のビルが聳える、東京副都心のど真ん中です。
 でも、このあたり、北斗がいた大正14年には、広大な浄水場がひろがっていたんですね。今の中央公園、東京都庁とその周辺のビルはぜんぶ、浄水池だったんですね。玉川上水から引き入れた水を浄化して上水道にしていたようです。

 近くにお店があったので、買い物ついでに聞いてみましたが、80年前のことはわからない、とのこと。

 あきらめて帰ろうとしたら、「角筈コミュニティセンター」に図書館が。いろいろと郷土資料を探してみました。

 行きは歩いて来ましたが、帰りはさすがにつかれたので電車で帰りました。

管理人  ++.. 2010/02/04(木) 00:46 [486]





 81年前 
 昨日、1月26日は、北斗の81回目の命日でした。

 81年前の昭和4年1月26日の朝、北斗は帰らぬ人となったのでした。

 北斗の親戚のトキさんという女性によると、

 (前略)雪の降る寒い日だった。わしが炉に火を入れようとした時だった。タケが死んだといって梅(北斗の兄梅太郎のこと)がいってきた。わしは夢中で冷たいのも知らないで、ハダシのままタケの家に行った。一つも口を聞かなかった。

 小樽新聞によると、亡くなったのは朝の9時でした。


 ああ。
 情けないことに、昨日が命日だということを、すっかり忘れていました。
 
 気づいたのが日付が変わってからだ。
 いかに北斗から心が離れているかということだろうな。
 なんとも、情けない。 
 

 
管理人  ++.. 2010/01/27(水) 01:15 [484]





 コタン 
希望社版コタン(昭和5年)はたまにヤフオクに出るのですが、いつも結構高い。

私が持っているのは古書店で2万円でした。最近は一万円前後でしょうか。

私の持っているコタンは、傷みが激しく、今にも崩れそうなので、
新しいのを(というか、80年前の本なので、古いんですが)探していました。

ところが、こないだヤフオクで出品されていたのを見て驚きました。

500円から!

なんとも、もったいないというか、ありがたいというわけで、入札。

結局、2000円で落札できました。


それにしても開始価格500円とは……。

 
管理人  ++.. 2009/12/27(日) 02:58 [483]





 無題 
江口カナメの「アウタリ」をぱらぱらめくっていたら、こんな短歌を発見。

  金なくて
  こどくをだきて一人して
  北斗に佐美雄コタンに死せり


江口カナメが北斗について言及している短歌あるとは。
見落としていました。

 
管理人  ++.. 2009/10/06(火) 01:16 [481]





 日本巫女史 
北斗が東京時代に親交のあった民俗学者・中山太郎の著書『日本巫女史』に北斗についての記載があります。

第一篇 第七章 第二節
(略)
アイヌ民族の間に行われている神標(カムイシルシ)の信仰は、極めて神聖なるものであって、家長以外には絶対に知らせぬ事として、今に厳重に秘密を守り、家長が死ぬときに始めて相続人に告げ知らせるほどの大切なものであるが、然もその神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其の家の合標(アイジルシ)であって、アイヌは死人が出来ると、急いで家々に伝わる神標(カムイシルシ)を木の板に彫り付けて死者の肌に付ける。これさえ持って往けば、霊界において祖先が己れの子孫であることを知って保護してくれると信じているのである〔二一〕。
(略)
〔註二一〕
アイヌに生れて和歌をよくした故違星北斗氏から承った。猶お此の機会に言うが、アイヌ民族は立派にトーテムを有していて、今にその信仰を貽している。而して違星氏の談によれば、そのカムイシルシを見ると、本家、分家、新宅などの関係がよく判然し、更に溯ればその家々のトーテムまで判明するとのことであった。故違星氏は、手宮駅頭の古代文字と称せらるるものは、アイヌのカムイシルシであるとて、此の研究にも手を着けられていたのであるが、完成せぬうち宿痾のために不帰の客となられたのは遺憾のことであった。

 
管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:36 [471]

 
(引用元HP)巫研 Docs Wiki
 http://docs.miko.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 このHPはすごい。「日本巫女史」が全文掲載されていて、検索したら引っかかりました。

 中山太郎は、北斗と親しかったようで、よく手紙のやりとりもしていました。
 北斗から「承った」ということですが、在京中に中山にカムイシロシの話をしたのか、手紙で伝えたのかはわかりませんね。
 でも、フゴッペの話が出ていないところを見ると、もしかしたら東京時代に語った話かもしれませんね。
 だとしたら、北斗のアイヌの遺跡への興味は、上京前からすでにあったということになります。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:51 [472]

 
ご引用有難う御座います。
電子テキスト化については自分が発案したのですが、いつのまにテキスト化分が追い越されまして、たちゃな氏の精力ぶりには脱帽せざるを得ませんです。逆に此方は校正に回ってます。

もし、ご覧に頂く頃、何か誤植を発見しましたら、是非ご一報お願い致します。では。

浦木裕 [URL]  ++.. 2009/08/15(土) 13:08 [479]





 山上草人とは 

北斗の闘病中の姿を描いた短歌を書き、小樽新聞に投稿した山上草人ですが、おそらく古田謙二でまちがいないようです。

 ある方から、古田冬草遺稿集がご遺族の方の手によって発行されたこと、その中に北斗の記事があるということを教えて頂きました。結局新しい情報はありませんでした。

 が……。
 その遺稿集に、古田謙二の雅号についての記述があり、余市時代には「冬草」ではなく、「草人」と名乗っていたと書いてありました。

 雅号のこと

 たしか大正の末か昭和の初め頃だったかと思う。余市町で教員をしていた時のことである。ある夏のこと、消防番屋の二階で俳句会があり、兄の裸人と連れだって出席した。
 その時、主催者から「あなたの雅号は……」と聞かれた。ところが、私はその時まで雅号というものを持っていなかったのである。突然の質問だったので一寸困ったが、少し考えて「草人」としておいて下さい、と答えてしまったのである。……私の兄は「裸人」であり私は裸人の弟だから人の一字を貰って「○人」としよう。それい私は礼儀作法もわきまえぬ野人だから「野人」位が適当だ。しかし、野人はあまりムキ出しだから野人と同じ意味で少し雅味のある「草人」でよろしかろう……


 と付けたそうです。
 
 ならば、状況的にも、やはり山上草人は古田謙二で間違いないでしょう。


 ところが、

 
管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:45 [476]

 

 数年間は草人を使っていたようですが、青木郭公の句誌「暁雲」に参加する時、他に草人という人がいたので、後から入会した古田が改号し、冬草という号にしたということです。何事にも熱中してしまうので、少し頭を冷やすように、冬という字を使ったとのことです。


管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:48 [477]

 
古田謙二(冬草)=草人は1983(昭和58)年9月30日に84歳で亡くなられています。

84年版コタンに「落葉」が掲載される直前です。あの文章は亡くなられる直前のものなのかもしれません。

遺稿集は、ネット上でpdfでも公開されています。

管理人  ++.. 2009/08/02(日) 01:05 [478]





 NHK「いちょう団地」 

 今日、NHKで放送していた

 「ヒューマン ドキュメンタリー 大きな いちょうの 木の下で〜いちょう団地に生きる子どもたち」

 という番組を見ました。

 神奈川県の「いちょう団地」にはベトナムやラオス、カンボジア出身で、難民として日本にやってきた親たちと、彼らの日本生まれの子供たちが多く暮らしている。また、帰国した中国残留孤児の孫たちもいる。

 その子供たちは、日本で生まれ、ずっと自分が「日本人」だと思って育ってきた。
 しかし、ある時に、自分はそうではないのか?と思い始める。
 彼らの親たちはうまく日本語が喋れず、子供たちは母国語を話せない(あるいは話したがらない)。
 一番コミュニケーションが必要であるはずの親と子の間に、「だんだんと言葉が通じなくなってくる」という巨大な壁が立ちはだかってくる。

 そんな中、教師は教室に子供たちの親と同じ難民の女性を呼び、彼女がどのようにして故郷を後にしたのかということを語らせる。子供たちに自分のルーツに目を向けさせるために。

 ・・・とても興味深い番組でした。
 
 
 カメラが映し出す子供たちのアイデンテイティのありようが、北斗が語る彼の「子供時代」を思い起こさせました。
 
 ただ、知里幸恵の「その時歴史は動いた」の時にも感じたような、製作者の影がちらつくような構成への違和感はありましたが、まあ、そういうことはおいといても、非常に考えさせられる番組でした。 

 
管理人  ++.. 2009/07/16(木) 02:22 [475]





 歴史地理教育 
O先生から教えて頂きました。

歴史地理教育2009年3月号(増刊号)
「まるごと学ぶ北海道 ――アイヌ・歴史・暮らし――」に、「沖縄教育」誌に掲載された違星北斗の未発見文書に関連する記事があるとのことで、取り寄せて読んでみました。

 掲載されている「違星北斗に出会った伊波普猷」(近藤健一郎、全2ページ)によると、

 沖縄県教育会機関誌『沖縄教育』第一四六号(一九二五年六月)にアイヌ青年違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という論考が掲載されている(沖縄県立博物館・美術館所蔵)。この論考は『沖縄教育目次集』(那覇市企画部市史編集室、一九七七年)に掲載されていたものの、雑誌の所蔵が不明であったため原文は知られずにいた。

 なるほど。この「沖縄教育」に関しては、沖縄の図書館の蔵書検索をしてみたりしてたんですが、見つかっていませんでした。あるところには、やっぱりあったんですね。

 北斗の言葉も引用されています。

「アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますが、それがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである」

 
管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:14 [462]

 
さてさて。

「歴史地理教育」のこの記事には、一枚の写真が掲載されています。
 キャプションは

 違星と伊波が出会ったアイヌ学会(1925年)において、違星による墨絵に出席者が寄せ書きしたもの。
「伊波普猷」の名も見える(『沖縄教育』)
 
 
 とあり、細長い紙の下の方に囲炉裏端に座っているアイヌ男性の絵があり、上の方に小さくて判読できないですが、寄せ書きがしてあります。

 これは、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」にも書かれている寄せ書きでしょう。
「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集』より)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。(中略)先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここに出てくるものでしょうね。
 
 

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:26 [463]

 
 掲載されている写真は小さいくてわかりにくいのですが、描かれている絵は、かつて余市の水産博物館でいただいたこの写真の絵とほぼ同じ図案です。(寄せ書きのほうは墨絵なので、すこし感じがちがいますが)。
 こちらの絵には「カムイコニモック(神占)」と書かれていますので、占いの儀式の絵でしょう。北斗がサインをするときの絵のレパートリーの一つなのかもしれません。

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:33 [464]

 
さてさて。

北斗の未確認文書がある場所がわかりました。
見てみたいものですね。

しかし、沖縄は遠い……。

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:47 [465]

 

 いろいろとありまして、ご報告が遅れました。

 沖縄県立美術館博物館の方から、閲覧させていただきました。
 
 「沖縄教育」第146号(大正14年6月1日発行)
です。

 伊波普猷の「目覚めつゝあるアイヌ種族」が掲載されている同じ号に、

 ・違星北斗の「アイヌの墨絵とアイヌ学会のよせ書き」(口絵)

 ・巻末の「雑纂」という扱いで、違星北斗の

  「ウタリ、クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」
  (アイヌ 違星北斗)
 
 ・同じく「雑纂」に

  「『アイヌ神謡集』の序」(アイヌ 知里幸恵女)

 があります。

 また、「編輯後記」にも北斗の文に関する文章があります。

  

管理人  ++.. 2009/06/04(木) 21:50 [473]

 
まず、寄せ書きですが、

一番上に
「大正十四年三月十九日
 第二回東京アイヌ学会
 ヲ開催シ違星氏ノ講話
 ヲ聴キ遙ニ在道一万
 五千ノアイヌ同胞ニ敬意
 ヲ表ス
    東京アイヌ学会

    金田一京助」

 とあり、

 その下に中山太郎の漢詩、
 「君与相対芸窓下 
  半宵清談恙古
   あづま人 中山太郎」
(下線部、達筆すぎてよくわかりませんので自信なし)

 「蘆田伊人」
 「柳田国男」
 「松宮春一郎」
 「宮本勢助」
 「早川孝太郎」
 「坪***」?
 「松本芳生」
 「丸山二郎」
 「杉**人」?
 「灰野庄平」
 「内藤吉之助」
 「濱田三*」
 「*川*三を」?
 「岡村千秋」
 「宮**義」?
 「三上*人」?

 そして、はしっこの方に

 「所見異所聞異
  此心同此理同
    *人 伊波普猷」
 
 とあります。

 北斗のサインは「※北斗生」
(正確には「※」の左右の点はありません。違星家のエカシシロシ、家紋です)。

 
 読めない字だらけでもうしわけありません。
 今後、気合いを入れて解読していきます。
 
 

管理人  ++.. 2009/06/04(木) 23:38 [474]





 北斗の墓について 
北斗の墓について、Tさんからメールをいただき、ご教示いただきました。
以下、その概要です。

 ・清文堂発行の『北海道の研究7』という本に、
  北斗の墓標を見たという人の話がある。

 ・見事な彫刻が施された股木の墓標とあるので、
  北斗はアイヌプリで土葬されたのではなないか。

 ・土葬されたのであれば、現在もそのままである
  可能性は低いので、改葬時に無縁仏になったのかも
  しれない。

ということでした。
Tさん、ありがとうございます。

なるほど、「アイヌプリ」で土葬されたということは、これまで考えたことがなかったのですが、
あれだけ民族の文化に誇りを持っていた北斗ですから、
彼自身、そういう希望を持っていたかもしれないですね。

それに、北斗の父の甚作や、兄梅太郎はアイヌの文化や
儀式によく通じていたようで、北斗の死後にも彼らが行った儀式の記録が残っています。
ですから、実際アイヌプリで北斗を送ることは可能だったのではないかと推測します。

十分ありえますね。

 
管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:46 [467]

 
「北海道の研究7」を確認したところ、「アイヌの送葬習俗」(原田喜世子)という論文の中に、各地のアイヌの墓標に関する記述があり、「樺太西海岸地域」の墓標の特徴について述べたところに、次のような記述がありました。

 加えて、その他道内では、余市の違星北斗氏の墓標に×印がつけられているが、股木に見事な彫刻が施されていることから、これもこの系統に属してよいと考える。
 


 文脈をだいたい説明しますと、樺太西海岸地域の真岡・多蘭泊・大泊のアイヌの墓標は、北海道では余市町や紋別市渚滑に類似の墓標の分布が認められ、道内の他の地域には見られないといったことが書いてあります。
 
 なるほど、この文面通り、北斗の墓がこのようなものであったとすると、北斗が余市の違星家の墓に葬られていなかった理由もわかる気がします。
 余市の墓は1943年に亡くなった甚作から入っています。おそらく甚作の死後に梅太郎が「本家」の墓として建てられたものでしょう。墓碑銘にアイヌプリで葬られた北斗が入っていなくてもおかしくはないと思います。

 ただ、その墓が本当に違星北斗の墓なのか、それとも違星家の墓なのか。別ルートでの確認が必要だとも思います。 

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:51 [468]

 
 奥付によれば、原田氏は1958年生まれ。
「北海道の研究7」は昭和60(1985)年の発行。

 原田氏は「北斗の墓」を自分の目で見たのか、それとも史料で見ただけなのかはわかりませんが、もし実物を見たのであれば、すくなくとも1980年代ぐらいまで、北斗の墓標は存在していたということになります。
 

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:17 [469]

 
 Tさんからのメールにあったのですが、墓地の下の石材屋さんが、何か知っていたかもしれないですね。

 あるいは、地元の郷土史家の方に聞いてみたら何か知っているかもしれない。
 それから……もしかしたら、違星北斗のものかどうかは別として、単なる「余市アイヌの墓標」として、資料が残っている可能性もなきにしもあらずですね。
 こんど行った時に聞いてみよう。

 あと……原田氏ご本人に伺うのが一番早いかもしれませんね。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:23 [470]





 北斗帖 

 メルマガの最終原稿を書いていて気づいたのですが、最初の希望社版「コタン」には「私の短歌」とだけあり、「北斗帖」のタイトルは84年版でつけられたものです。

 もちろん、「北斗帖」とは北斗の死後の遺稿の中にあった墨書自選歌集の名前ですが、これは未発見なので、「コタン」の「私の短歌」=墨書自選歌集「北斗帖」というのは、じつは北斗の意図ではなく、84年版編集者による編集なのだということに気づきました。

 つまり、現在青空文庫などで流布している「北斗帖」の他に、墨書自選歌集としての「北斗帖」があり、それはかならずしもコタン版とは一致しないということ。

 もう一つ、「私の短歌」というタイトルは、歌集にではなく、「私の歌はいつも論説の……」という、北斗による自作解題の文章につけられたものである可能性がある(高い?)ということ。

 と、こんなこと書いてる間に、メルマガの原稿をなんとかしなくっちゃ。

 
管理人  ++.. 2009/02/23(月) 03:36 [461]

 
↑の件、わかりにくいので整理すると。

つまり順番として

(1)墨書の「北斗帖」があり(詳細不明)、

(2)希望社版(1930年)コタンに「私の短歌」「俳句」があり、

(3)84年版コタンにおいて、「私の短歌」「俳句」を一つの章とし、その冒頭にはじめて「北斗帖」のタイトルが付される。(ただし、その内容が(1)の墨書版北斗帖と同一である保証はない)。

(4)青空文庫等で公開され、「北斗帖」=『コタン』掲載の歌句集「私の短歌」「短歌」ということになった。

 つまり、現在の「北斗帖」は北斗が「北斗帖」と呼んでいたものと同一ではない可能性が高い。
 現在のものは、84年版の編集者によって便宜上つけられた「北斗帖」(=「私の短歌」「俳句」)が青空文庫で切り分けられ、一人歩きしたものであるといえます。

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 18:47 [466]





 年譜にミス 
年譜を時期ごとに分割したときに、間違いをしていて、それを残したままでした。すみません。

内容的なことではなく、昭和2年の10月〜12月の掲載情報などが「余市時代」と「行商時代」の両方に重複していたというケアレスミスです。

直しましたので、プリントされている方がいらっしゃれば、差し替えいただければ幸いです。

 
管理人  ++.. 2009/02/15(日) 00:30 [460]





 朝日新聞 「北のことば抄」 
平成20年7月19日 朝日新聞北海道総合面

「北のことば抄」

 平取に浴場一つ欲しいもの
 金があったら建てたいものを
 滅亡に瀕するアイヌ民族に
 せめては生きよ俺の此の歌
(違星北斗 「コタン」=『北海道文学全集 第十一巻』=立風書房)
 金田一京助は随筆「違星青年」に「彗星の如く現れて、彗星の如く永久に消えて行った違星生」と追悼しているが、1901(明治34)年に余市で生まれ、29(昭和4)年に28歳の若さで没した。アイヌ民族三大歌人の一人といわれる。社会主義思想を持ち、民族の解放と自覚を訴えつづけて倒れたが、短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響によるところが大きい。故郷の余市に句碑、二風谷には歌碑が建っている。

 
管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:07 [457]

 

 極めて短い文ですが、正しくないところが2点。
(3点かな)。

(1)違星北斗は社会主義思想を持っていた。

 ……そんなバカな。
 こんなことが書いてあるのは湯本喜作の「アイヌの歌人」ぐらいですが……あの本はちょっと……。
 そもそも「コタン」を読んだ人であれば、北斗の思想に社会主義思想がこれっぽっちもない(むしろ好きではなかった)ことがわかるはずです。
 そもそも、民族解放と社会主義って、あんまり合わない気がしますが。

(2)28歳で没→27歳で没。

(3)短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響→短歌は八重子に会う前から詠んでおり、あまり影響を受けていないようです。


管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:16 [458]

 
 これ、記名記事だったんで、どうせ、若い新聞記者が適当に調べて書いたんだろうと思って、あえて名前を書かなかったんですが……。 
 これ書いた人、ものすごい偉い先生じゃないですか。
 
 K原N彦センセッ、いろいろ間違ってますよッ!
 
 
 

管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:25 [459]





 北斗死後80年 
 本日、1月26日は、北斗の命日です。
 今年は没後80年でした。

 参加者がゼロでしたので、お墓参りは私だけで行いました。

 25日、午後2時。
 
 だんだんと雪がつよくなってくる中、余市の違星家のお墓へ。
 
 私の考えが甘かった。北海道をなめていました。

 ……この時期にお墓参り、無理でした。

 お墓は観音像の、ちょうどまっすぐ後ろあたりですが、山の斜面のお墓には、「雪原」を超えていかねばならないのでした。

 とても、そこまではいけないので、観音様にお花を捧げ、はるか彼方のお墓を拝んできました。
 

 墓に来て 友になにをか 語りなむ. 言の葉もなき 秋の夕暮れ

            ――バチラー八重子が北斗の墓で詠んだ歌

 
管理人  ++.. 2009/01/26(月) 23:54 [455]

 
 その後、余市の図書館で調べもの。
 病床の北斗の姿を歌に詠んだ山上草人の正体を突き止めようとしましたが、結局わかりませんでした。
 
 写真は夕闇の余市川。
 対岸の奥のあたりが、北斗の生まれ育ったコタンのあったあたりです。

 
 余市川その源は清いものをこゝろにもなく濁る川下        
                              北斗

管理人  ++.. 2009/01/27(火) 00:04 [456]





 というわけで 
冬の北海道に行ってきます。

1/24〜27の3泊4日です。

お墓参りのは1/25、26とも参加者が「ゼロ」ということで、自分一人で行ってきます。

まあ、マイペースな「調査」がメインになり、ちょっと気は楽です。

また報告します。
 


 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 22:16 [450]

 
道立図書館にて、資料調べ。

(1)「汎北海道」創刊号(昭和29年12月1日発行、汎北海道社、東京)に北斗の記事あり

「アイヌ民族の二つの星 文博知里氏と歌人北斗」

 無記名記事。

(2)「山音」48号(昭和44年10月10日発行、山音文学会、虻田郡豊浦町)

 「違星北斗の歌と生涯」 早川勝美。

 北斗の評伝です。
 さすが早川勝美さんです。
 この方は余市でご遺族に詳細に調査していますので、何点か未見の情報がありました。 

・ガッチャキ行商の時、
《箕笠をかぶり、大きな行李を背負い、秋の雷電峠を歩いていた北斗の姿は、忘れようとしても忘れる事の出来ない思い出となった」と語るのは北斗を知る一老人の述懐であり彼の記憶の中にいまなお生きている北斗の姿である。》
 という証言。

・《酒のめばアイヌもシャモも同じだテ
    愛奴のメノコ嗤っています
 この短歌一首は、昭和三十九年八月二十六日、北斗の最後まで良く面倒をみた彼の遠縁にあたる海津トキ氏(余市町大川町番外地在住、八十七歳)所蔵のもので、ワラ半紙に、毛筆で書いたものであった。作歌月日は、昭和三年七月とあるだけで、日時は明瞭ではない。》

 海津氏は「梅津」氏の間違いです。
 この歌自体はコタンに収録されていますが、こういう
半紙が現存していた、ということですね。

・北斗をモデルにした創作として、
《「墓穴」大沼貞雄(昭27・7「瓶風」10号)》
 というのがあるらしい。

・北斗の生年月日について

《「コタン「違星北斗遺稿集」所載の年譜をみると「明治三十四年生れ」とあるだけで月日は明らかにされていない。「コタン」の年譜は北斗自ら記してあったものであるが、遠縁に当る毎津トキ氏は記憶によると「十二月の暮れも明けた頃」であったとしている。現在余市町役場に保存の「除籍原簿」によると「出生、明治三十五年一月一日」とある》

 とあります。
 トキさんの「十二月の暮れも明けた頃」というのはよくわかりませんが、まあ暮れは暮れということなんでしょうね。あと、「「コタン」の年譜が北斗自ら記してあったものである」というのは、なかなか魅力的な記述です。本当なら、昭和5年版のコタンの「年譜」もまた、北斗の「遺稿」であるということです。そういうことなら、もっと尊重する必要ありますね。

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 22:46 [451]

 
(4)小樽新聞

・大正13年9月27日

 勝峰晋風の「余市より」という記事。
 「にひはり」の勝峰晋風が余市の句会に参加し、北斗に出会ったことが書いてあります。

《(前略)出席者に北斗子を見たのはうれしかった、北斗子は旧土人であるが、アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやうという気概家で、「にひはり」愛好者として如翁子から詳しく人物性格を紹介されて異常な感慨にうたれたのである、この句会にも
  落林檎 石の音して転けり   
                 北斗
の如き、既に月並みを脱した句を出して人々を驚かせたが、時間がなくてしたしく談話し得なかったのを遺憾とする(後略)》

 つまりは、上京前の大正13年の8月の時点で、すでに「アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやう」という思想を持っていたということですね。
 文中の如翁は奈良直弥先生の俳号。

・昭和4年3月2日

 山上草人の短歌が載った同じ回に、次のような短歌がありました。

《幌武意 加藤未涯

 眼をとぢてコタンの歌を口にせば
 命ほろびたひとの尊とさ     》

 これも北斗のことでしょうね。

・昭和4年3月4日

《文芸消息

 ▲違星北斗遺稿集 本道が生んだ唯一のアイヌ歌人違星北斗は既報の如く病死したので友人余市小学校古田謙一君は近くその遺稿集を出すべく準備中  》

 なるほど、死の1ヶ月後の時点で、遺稿集の発行は紙面でアナウンスされていたんですね。
 古田謙一は謙二の間違い。


管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:15 [452]

 
・昭和5年9月27日

「違星北斗遺稿『コタン』を読む」稲畑笑治

 『新短歌時代』では、北斗を高く評価していた(というより、北斗に心酔していたという感じさえする)稲畑笑治の、「コタン」の紹介ですね。
 後日、詳しく紹介しますが、新発見としては、以下のような記述があります。

《仆るゝまで彼の胸中は亡びゆく民族解放運動の熟火に燃えていた。同族と共に広くギリヤーク、オロッチョン族の解放運動へ奮起すべき念願を蔵して焦燥と悲憤の瞳を閉ぢたのである。》

 これは、ビックリですね。北斗は、アイヌ以外の北方少数民族とも連携を考えていたのです。
 北斗が生れた余市コタンは、樺太アイヌとの交流が深いコタンでしたし、樺太に出稼ぎにも行っていたので、自然に視野が広くなったのかもしれませんね。

《又、手宮洞窟の「古代文字」に就いても世評の妄夢を一掃すべくアイヌとしての土俗学的見地よりうん蓄を公開すべく研鑽を重ねて居た》

 これも……フゴッペだけでなく、手宮洞窟の古代文字についても書く気があったということですね。
  

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:36 [453]

 
・北斗ではない「北斗」さんの作品

 昭和4年1月17日 

「北海俳壇」に「札幌」の「北斗」さんより

《枯れ木の葉ポプラの枝の残りをり》の俳句。

 違星北斗ではないでしょう。おそらく……。当時、北斗は寝たきりでしたから、札幌に行けるわけはありません。
 しかし……妙にしっくりくる感じもありますね。シチュエーションとしては、O・ヘンリの「最後の一葉」みたいですが。古田謙二が北斗について書いた文章に「落葉」というのもありますし。
 
 もう一人。

 昭和4年1月1日

「新川柳」

 「帯広」の「北斗星」さんから。

 《寂しさの心にひとり火をいぢり》

 違星北斗っぽい気もしますので、もしかしたら……と思いましたが、これも違うでしょう。帯広ですし、北斗ならサビシイは「淋しい」と書くでしょうし。

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:49 [454]





 間違い発見 

旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る


この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
 これは石狩の齋藤輝子の作品でした。

 この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
 修正しておきます。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 02:03 [449]





 平取での在所 
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬〜10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 八重子や吉田ハナらと教会でいっしょだったとすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ているのではないか。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 01:58 [448]





 無題 
「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。

《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》

 これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。

八月十一日 水曜日


有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事


 これでしょうね。

 


 

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 00:07 [447]





 北斗の姿 
 「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」という本を入手。
 これは、國學院短期大学コミュニティカレッジセンターが刊行しているもので、明治時代からの小樽新聞の中で、アイヌに関する記述を集めた目録の3冊目にあたる本です。
「大正期II・昭和期I編」は、大正11年から昭和5年を収録しています。
 ちょうど、北斗が活躍した頃のものになるので、北斗に関する記載はないかと探してみたら、大変な発見がありました。

1929年(昭和4)年1月30日に、余市の歌人・山上草人の短歌が掲載されています。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
 

 北斗の闘病末期の姿を映した短歌です。
 
 また、北斗の死後の2月17日には、札幌の上元芳男による短歌が掲載されています。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 3月2日にも、山上草人の北斗に関する短歌が掲載されています。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ


 さらに、3月8日にも余市の山上草人による短歌があります。

  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう


 さらに、幾春別の木芽伸一による「違星北斗君の死をいたむ」と題された短歌

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

 
管理人  ++.. 2008/11/28(金) 16:44 [431]

 
 それぞれの人の短歌について、いろいろ思うところを書きたいと思います。まず、山上草人の短歌です。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる

 夕日の中で真っ赤に染まった北斗のやつれた姿や表情が絵が浮かんでくるようです。
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

 北斗にはひげの濃さを気にする短歌もあり、元気な頃の北斗は、毎日ひげをあたっていたのだと思います。しかし、闘病生活の中で、ひげも伸び放題になっていたのでしょう。「アイヌになって」というのは、もちろん、アイヌである北斗に向って「アイヌになつて」という意味は、複雑なものがあります。読み手である山上草人がどういう意味を込めたのかは不明です。

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

 これは、そのまま、北斗の言葉でしょう。胸の苦しさを、コロポックルに肺を蹴られていると譬え、最後に「畜生!」とは、なんとも北斗らしいと思います。

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ 

 これも、北斗らしい。かつての心の輝きを失って、欲望に突き動かされる同族たちへの怒り。もちろん、滅びてしまへとは反語です。
 読み手の余市の山上草人とは誰なんでしょうか。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

 北斗の死の直後から、遺稿集を編んでやりたいという人がいたのということですね。旧かな遣いで「染むだ」は一瞬読み方に迷いますが、現代表記では「染んだ」ということですね。

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

 クレグールは消毒液のクレゾールのことでしょう。古田謙二の証言にも、北斗の死後、消毒液の匂いのプンプンする部屋に入り、枕もとのボストンバッグから日記を取り出した、というようなものがあり、この短歌とも一致します。
 現在読むことのできる北斗の日記には、「歪んでいる」というようなところはあるとは思わないのですが、確かに闘病中に北斗が金田一に送った手紙は、あるいは歪んでいるといわれても仕方ないようなところも見られました。
 こういう「歪んでいる」という部分は、編集した古田謙二や希望社の編集者にカットされてしまったのかもしれません。
 
  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

 この内容の日記も、現在の遺稿集には見つからないですね。同じような内容の短歌はあります。

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ

 これは日記にありますね。
 
  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

 これは、北斗の日記の絶筆の短歌の一つ「いかにして「我世に勝てり」と叫びたるキリストの如安きに居らむ」のことですが……。
 北斗は「神なんかいないいない」と言ってたんですね。 バチラー八重子たちにも同じようなことを言っていたのでしょうね。「キリスト教ではアイヌは救えない」というのが北斗の持論でした。
 一方で、北斗は国柱会の信者になったりもしていましたが、仏教徒だからという意味で神を否定している感じでもないですよね。国柱会については、それに関する北斗自身の記述がありませんので、信仰が一過性のものだった可能性もあります。
 北斗の辞世の短歌に関しては、私は「どうやったら、キリストみたいに、自分の死ぬ前に、『私は世界に勝った』と言えるんだよ、そんなことあるかよ、畜生!」っていう意味だと思っています。
 この山上草人は、そういう取り方じゃなく、「ほら、やっぱり神様キリスト様のことを書いているじゃないか」っていう意味にとっているんじゃないでしょうか。山上さんはクリスチャンなのかもしれない。
 もしかして、「古田謙二」? 違うか。

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

 これは北斗が並木凡平の歌を愛唱していたということでしょうか。では言い寄ったとはどういうことだろう?
 察するに、山上草人は『新短歌時代』の同人なのかもしれませんね。余市で行われた歌会での出来事かもしれません。 

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

 この日記はいつの日記だろうか。日記には淋しいという言葉はけっこうあるし、失われてしまっている日記かもしれない。

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

 北斗の死の直後から、歌碑を造りたいという人はいたんですね。結局は死後40年近くたった昭和43年、それも余市ではなく平取に建ちます。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 17:58 [432]

 

 札幌の上元芳男による短歌。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 この上元芳男氏は、作曲家・指揮者、音楽教育に活躍された方のようですね。北海道内の学校の校歌を多数作曲しています。
 

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 18:39 [433]

 
 幾春別の木芽伸一の短歌。

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

 当時、アイヌは新聞上でも公然と「滅びゆく民族」として語られていました。それは金田一京助のように、アイヌに対して理解や同情がある(と自分では思っている)和人であっても、アイヌは滅びゆくものだ、という認識が前提としてありました。それに反抗したのが北斗であったわけです。

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

 さて、これはどう読むべきか。
 北斗に妻子があったことはすでに明らかにはなっていますが、この読み手がそれを知っていてそう書いたのか。
 「おもはれて」は「思はれて」なのか、泣きくれて「面腫れて」なのか。
 やっぱり、素直に読めば、北斗の妻子のことが「思われて」ということなんだろうな。

 読み手の木芽さんは歌人で、1930年、「秋風の道」という歌集をだしているようです。幾春別は現空知支庁三笠市。当時は炭鉱で栄えていたようです。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 19:05 [434]

 
その他、北斗関連の記事。

1924年9月27日 

<余市より/晋風」<余市の句会で、晋風が違星北斗と出会ったこと、同句会で違星北斗が「落林檎石の音して転けり」と詠んだ句を出したことなどが、『小樽新聞』で紹介された>

 これは「にひはり」大正13年11月号に掲載されている余市にひはり句会のことですね。小樽新聞にも掲載されていたんですね。晋風は勝峰晋風です。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 19:24 [435]

 
山上草人のことを調べようと、「余市文教発達史」を入手。

しかしながら、ヒントはつかめず。「後志歌人伝」にも載っていない。無名の人だったんだろうか……。

ただ、全く関係ないことで、この本は役に立ちそう。北斗の友人だった鍛冶照三が先生だったとか、北斗に影響を与えた島田先生の人となりとか、いろいろと役にたつことが書いてあります。

管理人  ++.. 2008/12/05(金) 13:22 [436]

 
>  察するに、山上草人は『新短歌時代』の同人なのかもしれませんね。余市で行われた歌会での出来事かもしれません。 

 これは違うようです。
 また、「余市文教発達史」にも名前は見あたりません。
(ここには関係ないけど、北斗と親があったという鍛冶照三は余市の先生でした)。

管理人  ++.. 2008/12/25(木) 23:09 [444]

 
山上草人と古田謙二は同一人物なのかどうか。

古田謙二の号は冬草。山上草人も「草」がついているけど……どうなんだろう。

ちなみに、「上山」草人は日本初のハリウッドスター。この山上草人とは関係ないか。もしくはそれももじった名前なのかもしれないが……あと、山上宗二(やまのうえ・そうじ)という茶人(千利休の弟子)がいるけど……わかりませんね。

北海道に行ったら、地元の資料を探してみよう。


管理人  ++.. 2009/01/09(金) 12:05 [445]

 
読み直していたら、もう一編あった。

小樽新聞1929年3月21日の短歌欄に

「何気なく古新聞を手に取れば死んだアイヌの歌が眼をひく」

という、江部乙の本吉心星による短歌が載ったようです。

北斗の名前は出ていないですが、これもまた北斗でしょう。

管理人  ++.. 2009/01/12(月) 19:58 [446]





 メルマガに原稿 
「[本]のメルマガ」というメールマガジンに違星北斗の短文を書きました。出版・書店関係のメールマガジンです。

毎月5日,15日、25日発行のうち、25日版に3回連載されます。

通しのタイトルは「アイヌの歌人・違星北斗の青春と死を巡って」(だったかな?)です。

12/25 第1回「成宗の一夜」
1/25 第2回「コタン巡歴」(仮)
2/25 第3回「違星北斗の死と青春をめぐって」(仮)

なんだか青くて恥ずかしいタイトルですが、私の中では「青春」「死」がそれぞれ北斗を読み説く重要なキーワードかと思いますので。

下手な文章で恐縮なのですが……。

興味がある方は、下のアドレスをご参照ください。登録すればメールで送られてきます。(ホームページにも最新号が掲載されています)。

[本]のメルマガ
http://back.honmaga.net/

 
管理人  ++.. 2008/12/21(日) 00:49 [443]





 北斗80年忌 
北斗の80年忌についての詳細。25日(命日前日)と26日(80年忌当日)の両日に行いますので、都合のよい方にご参加ください。

(1)25日(日曜)コース

日時 2009年1月25日(日)
   午後1時 
場所 JR余市駅集合

※当日参加可能。
※雨天決行。荒天の場合は中止の可能性あり。
※基本的には徒歩、路線バスを使用。
※最低決行人数1名。
 
 コース 

 余市駅

 ↓ 徒歩

 美園墓地

 ↓ 徒歩

 北斗句碑(余市水産博物館)

 ↓ 徒歩

 北斗生家跡(旧コタン)

 以下、希望者あれば

 ↓ 路線バス
   (北斗の卒業した大川小学校を通過)

 フゴッペ洞窟(休館中で入れません)。
 ただ、北斗が論文に書いたのはこの「洞窟」ではなく、その脇の崖壁にあった古代文字で、現在は磨滅して見ええません。
 
 こんな感じでしょうか。
 フゴッペや水産博物館などが軒並み冬期休館なのはつらいですね。

 他にも余市にはニッカの工場とか宇宙記念館とか、いろいろ面白いところはあります。

 
管理人  ++.. 2008/12/18(木) 10:03 [440]

 
(2)26日(月曜)コース

日時 2009年1月26日(月)
   午前8時 
場所 JR余市駅集合

※当日参加可能。
※雨天決行。荒天の場合は中止の可能性あり。
※基本的には徒歩。
 
 コース 

 8:00 余市駅

 ↓ 徒歩

 9:00 美園墓地
  (北斗の死亡時刻は朝9:00とされています)

  ↓ 徒歩

 北斗句碑(余市水産博物館前)

 ↓ 徒歩

 北斗生家跡(旧コタン)
 
※水産博物館・フゴッペ洞窟は冬期休館中。
 句碑は屋外にあるので見られるそうです。

管理人  ++.. 2008/12/18(木) 10:18 [441]

 
 両日とも、事情により予定コース変更はあると思っていただければ幸いです。
 
 メインの墓参は無宗教での献花、もしくは各自任意の形式で行うのがよいかと思います。
 特にセレモニー的なことは考えておりません。各自手を合せるぐらいでよいかと思います。

 北斗自身はアイヌ文化との接点がほとんど失われた世代でした。違星家は曹洞宗の檀家で、北斗自身は日蓮系の国柱会に出入りしていましたが、これについては一時的なものであった可能性もあります。
 また、北斗は「神を頼まない」「自分の信念を本尊にして突き進む」てなことを言っていました。

 そういう意味でも、各自がそれぞれの信念信条で、北斗を思う時間になればよいかと思います。

 

管理人  ++.. 2008/12/18(木) 10:48 [442]





 ヤフー百科事典 
Yahooが百科事典サービスを開始。
違星北斗の項目もあり。
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違星北斗(いぼしほくと) (1902―29)

歌人。本名滝次郎。北海道後志(しりべし)支庁余市(よいち)町の生まれ。祖父万次郎は、1872年(明治5)、東京に開かれた開拓使仮学校に選ばれて生徒として派遣されたアイヌの一人。北斗は小学校卒業後、造材人夫をしながら歌を詠み、さらに自らもアイヌ研究を志し、上京して金田一(きんだいち)京助に会ったこともある。1927年(昭和2)には、日高支庁平取(びらとり)町の聖公会の幼稚園でバチェラー・八重子の仕事に協力する一方、売薬行商をしながらアイヌに対する差別を告発する歌をつくる。遺稿集『コタン』(1930)には、北斗のアイヌとしての怨念(おんねん)がにじんでいる。

アイヌとして生きて死にたい願もてアイヌ絵を描く淋(さび)しい心

[執筆者:藤本英夫]

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http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%81%95%E6%98%9F%E5%8C%97%E6%96%97/

日本大百科全書(小学館)を底本としており、執筆者は故・藤本英夫先生。

情報としては、目新しいところはありません。


 
管理人  ++.. 2008/12/14(日) 22:39 [437]

 
「怨念」か。

 北斗は怨念とかルサンチマンとかからは遠い気がするけれども、北斗の病中書簡を持っておられた藤本先生が書かれているので、一回りしてやはり「怨念」なのかもしれない。



管理人  ++.. 2008/12/14(日) 22:42 [438]

 
 逆に言うと、私は活字になっている北斗の遺稿集のテキストの中には「怨念」は感じられない。上山草人の読んだ日記原本にあった「歪んだ」考えは、遺稿集の編者によってカットされている。

 藤本先生は、病中書簡にある北斗の「怨み節」をご存じなので、こういう読み方をし、こういう書き方になったのではないでしょうか。推測ですが。

管理人  ++.. 2008/12/16(火) 18:40 [439]





 覚え書き 
朝日新聞CD-ROMより

・松宮春一郎、1933(昭和8)6月18年没。59歳。
 肩書きは中央大学事務部長となっている。

逆算すれば明治7年ぐらいの生まれか。
北斗より27歳ぐらい年上。
北斗が出会った松宮は、出版人だったけど、ここでは大学の役員のようになっている。本当に北斗の出会った松宮と同一人物だろうか。

・高見沢清、1932(昭和7)年3月9日没。56歳。

東京府市場協会の役員で、北斗の上京を世話し、公私ともに面倒を見た人も、意外と早く亡くなっている。

『北海道文学散歩II』によれば、

「山音」48号に早川勝美の「違星北斗の歌」という文章があるらしい。読みたい。

 
管理人  ++.. 2008/11/23(日) 00:54 [429]

 
「山音」は道立図書館にあり。

管理人  ++.. 2008/11/23(日) 01:01 [430]





 地元の人はまだまだ北斗を知らないけれど・・・ 
先日実家の余市町で余市町主催の読書体験コンクール一般の部で地元の男性が違星北斗「悲痛な叫び」という作品で最優秀だったということで、両親に頼んで授賞式に行ってもらいました。(何か北斗の話が聞けるかな?と思い)ついでに私は千葉在住なもので父が役場関係者に聞いて、資料を探してもらい、三冊送ってもらいました。その中にアイヌの歌人、コタン(84年遺稿)北方文芸があったのです。余市図書館(私は千葉在住なもので)の蔵書です。2年前にも帰省した際に北斗の墓参りにいったのですが、郷土史家の方に案内されたがわからず、とても残念でした。また来年帰省したとき、フゴッペ洞窟の資料も合わせて調べたいとおもいます。
 
chopper  ++.. 2008/11/18(火) 16:19 [427]

 
 chopperさん、こんばんわ。
 コンクールでについては、全然知りませんでした。
 読んでみたいですね。
 北方文芸に関しては、1月に余市図書館に行って確認してみたいと思います。

 郷土史家の方、Aさんですね。
 私もAさんに聞いたら「わからなかった」と言われて、レンタルサイクルに乗って一人で探しに行ったんですよ。
 それで、墓地(小さな山が墓地になっています)があったんで「ここかな?」って思って10分ぐらいうろうろしていたら、違星家のお墓を偶然みつけてしまったんです。

 ただ、なぜか北斗の「滝次郎」という名前が墓石には刻まれていなかったんで、もしかしたら他に北斗の入った墓があるのかもしれませんが……。
 
 1月にはこのお墓に参りたいと思います。

 関西人なので、北海道の雪を未体験なので、とても心配ですが。

 北斗が論文を書いたフゴッペの古代文字は、今は消えてしまっていますが、洞窟の裏の線路際の壁がそうだと思います。 

管理人  ++.. 2008/11/20(木) 18:29 [428]





 はじめまして 
北方文芸10月号(昭和45年9に近代アイヌ文学三人集で北斗を知りました。最近ではhttp://www.yukai.jp/~eddy/homepage/haiku/index.html にも北斗を見つけ感激しています。いつも拝見させていただいてます。
 
chopper  ++.. 2008/11/17(月) 18:32 [425]

 
chopper様

 いつもご覧頂いてありがとうございます。

 北方文芸10月号にも北斗のことが掲載されているのですね。図書館で探してみたいと思います。
 リンク先の方は、北斗の短歌を英訳されておられますね。とても興味深いです。
 今後ともよろしくおねがいいたします。

管理  ++.. 2008/11/18(火) 09:05 [426]





 ある疑念 
今、年譜をバージョンアップしているところなのですが、その作業中に、ある疑念が。

年譜に「曜日」の記載をしていて思い出したというか、気づいた点があるのですが……。

北斗の日記の「昭和3年4月25日」を引いてみます。

--------------------------------------
 四月廿五日 月曜日

 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。

----------------------------------------
 この、昭和3年4月25日は、昭和3年の日記の中で、唯一、実際の曜日が一致しません。実際は月曜ではなく、水曜日なんです。
 これは前から気づいていたのですが、そのままにしていました。

 で、4月25日が月曜なのは、昭和2年なんです。
 じゃあ、これももしかして、と思ったんですね。
 前に、昭和2年の日記がほとんど大正15年の曜日と一致していて、昭和2年として書かれているのが、実は大正15年だったということがありましたので。

 北斗は昭和2年の4月にもニシン漁のために、余市におり、そして昭和三年と同様、昭和二年も4月下旬に倒れています。(昭和二年は夏までに回復する)。

 では……昭和3年4月25日の日記も、じつは昭和2年の4月25日なのではないか、と思ったんです。

 まあ、証拠が揃っていないので、なんともいえませんが。

 この謎を解くキーワードは、やはり「大暴風雨」でしょうね。
 昭和2年と3年の4月25日の後志地方の天気を調べれば、どちらが正しいかがわかるはずです。

 ネット上では、ちょっと難しいので、これも現地でしらべなければなりませんね。
 

 
コタン管理人  ++.. 2008/09/08(月) 01:56 [369]

 

 
 昭和2年の4月25日と、昭和3年の4月25日。
 どちらが暴風雨だったのか。

 北海道立図書館のリファレンス係の方に聞いてみました。
 
 数日後、お返事がありました。

 北海道気象月報によると、
 昭和2年4月25日は雨はなかったそうです。
 その前の数日も雨ではなかったとのこと。

 昭和3年4月25日も雨ではなかった。
 しかし、その前の数日間は大荒れの天気だったと。

 ……ということは。

 昭和3年なのでしょうね、日記の通りで。
 
 吐血したのが、暴風雨の日で、日記に書いたのがその数日後の4月25日だったのかもしれませんね。
 

管理人  ++.. 2008/11/07(金) 21:53 [422]

 
 道立図書館のリファレンス係の方、こんな面倒なことを調べていただいてありがとうございました。
管理人  ++.. 2008/11/07(金) 22:05 [423]

 

 だったら、曜日が違っているのはどうしてなんだろう?

 あるいは曜日だけ見れば、吐血したのが25日ではなく23日というのも考えられるけど。三と五を書き写し間違えた? 3と5?

 いずれにせよ、日記の現物がないと、わかりませんね。
 
 

管理人  ++.. 2008/11/08(土) 02:01 [424]





 朝日新聞戦前紙面検索 

 図書館で、戦前の朝日新聞のCDROMを見てきました。

1 希望社について、こんな記事がありました。
 

 教化団「希望社」に皮肉にも争議 全社員結集して立つ」

「希望」の巧な言葉と、パンフレットとで、全国の地方男女に呼びかけ、向上欲に燃える二十萬の社友を擁し一大王国を形造つてゐる市外西大久保の希望社理事長後藤静香氏に対し、社友結束して後藤氏の不徳行為と、その待遇改善その他を掲げて今ストライキに移らんとの、穏やかならぬ形勢を示してゐる

 社主を非難する三つの理由
 古傷洗ひ立てらる


 
管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:14 [412]

 

 この3つの理由とは、

1、希望社の小間使いである17歳の少女と関係を持ち、少女が嫁いだあとも関係を続けていたという不倫行為があり、その行為を恐喝していた暴力団が検挙されたために発覚した。

2 棒給の減額したにもかかわらず、本人は豪奢な生活を送っているとして、会計の公開を迫られた

3 上記2点に対しての謝罪と引退、待遇改善をもとめたが、後藤は「この種の罪は誰人にもあることで……」云々と言い訳し、今まで偶像崇拝をしていた社員の激怒を買ったということです。

 この記事の後半には「人間味があつていゝ」の標題とともに、後藤静香の談話があります。曰く、人間にありがちな過ちであり、辞職しようとも思ったが、翻って考えると、過ちを反省して向上してゆくことに人間味もあるものだ、社員たちが自分を偶像視したのは間違いで、このような人間味があるところがわかれば一層尊敬する気にもなるだろう、
 などと空気の読めない発言をしてしまいます。

 こういうわけで、神のごとく若者たちに慕われた後藤静香の没落のカウントダウンがはじまったわけですね。


管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:35 [413]

 
先の記事が朝日新聞東京版、昭和6年9月19日夕刊

時間が前後しますが同9月19日朝刊には

「後藤氏を詰り/希望者社員の飛檄」

昭和8年4月11日夕刊2面

「希望社々長の後藤氏召喚/使途不明の金数萬円」

昭和8年4月23日夕刊2面

「後藤希望社々長/つひに収容/詐欺横領の嫌疑濃厚」

 ……という残念なことになってしまい、ついには解散します。
 
 北斗が死んでからの希望社には、ろくなことがありません。北斗が尊敬してやまなかった後藤静香です。北斗が生きていたら、どう思ったでしょうか。
 
 私は、後藤静香の書くものは非常によいと思います。 人格も憎めません。いわゆる「いい人」すぎるんですよ。そしてとても「KY」で、こういうダメな自分がもう一度立ち直るところを見てくれ、なんて言っちゃう。人を信じすぎてしまっている。不倫が見つかって、「人間味があっていい」なんて言っちゃう。
 後藤本人は、あくまでそれも含めて自分なんだ、なんて言ってるけど、彼をカリスマだ、神様だと見ていた人々は、一気にマインドコントロールが解けてしまう。

 勝手に崇拝して幻想を抱き、盛り上がったのだけれど、ある時嫌な部分を見てしまい、急に冷めて、100年の恋からさめて、逆に大嫌いになってっていう。なんだか、若い恋のようでもあるし、旬な時にはもてはやし、飽きられるとポイ捨てする現代のマスコミのようでもあるかな。

 もちろん、不倫をした後藤静香が悪いのですが。

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 19:01 [414]

 
 不倫は後藤本人も認めていますが、金銭については、どうなんだろう。

 あんまり後藤が豪奢な生活をしていたというのは本当かどうかわかりません。
 確かに、急激に発展し続けた組織ですから、イケイケドンドンでやってきて、ある時を境に社友が増えなくなり、その経営が息詰まってくるというのはわかる気がする。
 希望社の雑誌を見ていると、たしかに資金繰りがまずくなって、けっこういいのか?っていうことがある。定期購読している雑誌が、いきなり予告なしに雑誌名が変わったり、取っていた雑誌が他の雑誌に変えられてたりもする。そういうところを見ると、やはり資金繰りが悪くなっていったんだろうと思う。
 
 ただ、穿った見方をすると、時代的に、こういう大きな思想団体を潰しておきたいという当局、たとえば特高なんかの思惑があったとかいうことはないだろうか? もちろん、希望社は思想的にはアカではないけれども、一人の人間を頂点にして何十万人もの人間が団結しているような組織があるのは、やっぱり当局としては看過できないのではないのか、などと考えてもしまう。
 

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 20:46 [415]

 
 ま、でもやはり、資金繰りに困ってと言うことなのかもしれないですね。 

 この後藤静香の事件、なんか最近の小室哲哉事件とかぶるんですよね。

 作るものは良い。人の心を打つ。
 でもって、一世を風靡する。
 いろいろと事業に手を出す。
 人気が落ちる。資金繰りに困る。
 やってはいけないことをする。
 で、こうなる、ということですね。

 なるほど。

管理人  ++.. 2008/11/07(金) 15:17 [421]





 北斗はいつ短歌をはじめたか 
 北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。

 ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」という本も多いですが、それは間違いです。

 現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。
 
  外つ国の花に酔ふ人多きこそ
  菊や桜に申しわけなき


 現在確認できる、上京前の短歌としてはこの一首のみです。
 では、本格的に短歌を作り始めたのは、やはりバチラー八重子の影響なのかというと、そうでもないようです。

 大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。

 違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。
 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。

 では、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思うようです。

 大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。
 昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。
 この記事の中に、次のような記述があります。

 是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ

 つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。
 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。

 もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。
 
 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。
 実はまだ道庁のどこかにあったりして。

 
コタン管理人  ++.. 2008/11/04(火) 00:55 [418]

 
道庁云々で思い出したのですが、「目覚めつつあるアイヌ種族」の中に、次のような所があります。

あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。

 この岡村千秋の知り合いの内務長官に送った「署名」と関係あるんでしょうか?
 この寄せ書きされた画は、写真に撮ってあったようで、伊波は「沖縄教育」の又吉康和にも焼き増しして送っているようですので、道庁にも写真を送ったのかもしれません。
 この署名が後日、ひはり句会に持って行った「『東京アイヌ学会』で知名の士から『よき書』をしてもらった記念のまくり」だと思いますので、オリジナルは北斗が持っていたということでしょうね。

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 01:14 [419]

 
大正15年の北海道庁の内務部長は百済文輔。
直前に東京府の内務部長をしていたので、岡村千秋とも知り合いだったのかもしれません。

その後も奈良県、群馬県の知事、台湾総督府殖産局長、小倉市長などを歴任したようです。

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 01:45 [420]





 グーグル書籍検索で「違星北斗」を検索してみた 

 グーグルに「書籍検索」というものがあり、アメリカの図書館の蔵書の「中身」が検索できるようになっています。
 アメリカの図書館といっても、英語だけじゃなく、アメリカの図書館の中に所蔵されている日本語の本の中身も日本語で検索できるようになっており、結構すごいことになっております。

 私としては当然のことながら、「違星北斗」で検索してみました。
 いろいろと出てきました。

 ただ、たとえば「違星」と検索しても、その名前の前後の20文字程度しか出てこない、あるいはその本の中に「違星」という言葉が含まれているということしかわからない、といったものですので、結局はその本をどこかで探して読まなければならないのですが。

 また、スキャナで取り込んで、OCR(文字認識ソフト)文字化しているのですが、文字認識の精度が低く、正しく「違星」と認識されている場合もあれば、「連星」「迫星」など、違った文字として読まれてしまっているのもあり、似た文字をいろいろ試しながら、現在、そのリストを作っているところです。

 その作業の中で、ちょっとした発見がありました。

1 河野広道の年譜の中に北斗の名前が。 

 http://books.google.co.jp/books?id=1xAEAAAAMAAJ&q=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&dq=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&lr=&num=100&as_brr=0&pgis=1

「1928年(昭和3年24歳)1月 違星北斗氏と対談する」

 これは、父親の河野常吉に、余市の違星氏より聞き取りがあり、このときの対談の内容が「アイヌの秘密数件」という記事なのですが、息子の河野広道も一緒にいたのでしょうか。もしくは、広道が取材し、常吉の名前で発表されたのかもしれません。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/kounotsunekiki.htm
 

 
管理人  ++.. 2008/10/25(土) 21:01 [402]

 
で、この検索によって見つかった文書を図書館で見てきました。

上の1に続き、新発見をいくつか。

2 『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。


『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)



管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:28 [405]

 

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が出会ったアイヌ学会は3月19日なので、「一昨年の秋頃」というのは間違いでしょうね。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日
)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまうのです。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm

 
 

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:39 [406]

 
3 『大正期人物年表 大正13〜大正15・昭和1年』日外アソシエーツ

 これはいい本だ。文学者やら軍人やら、いろんな人が、何年何月ごろ何をしていたかが書いてある。
 欲しい。
 北斗に関係した金田一京助や伊波普猷も載っている。

 たとえば、伊波普猷の大正14年3月19日はこう書いてある。

伊波普猷(50歳)
 3月19、東京アイヌ学会(第2回)高橋富士見軒永楽クラブにて開催され、招待通知を受けて出席。金田一京助の「アイヌの現状」と題する講演、アイヌ青年違星滝次郎の講話を聞き感銘する。以後、数度にわたり違星、伊波を訪問し交流する。
 また、この講演座談会の模様を又吉康和あての書信の形をとり、「目覚めつつあるアイヌ種族」と題して『沖縄教育』(14年6月、146号)に発表、これまでの自己のアイヌ観を是正、アイヌ人の正しい認識を呼びかける。
 

 まあ、目新しいところはとくにないのですが、永楽クラブの場所とか、招待通知なんていうことまで書いてあってちょっと嬉しいです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:07 [407]

 
4 早川勝美に「違星北斗の歌」という文章があり、「山音」48号に掲載されているらしい。

5 『北海道文学散歩 道央編』(木原直彦)によると、向井豊明に「うた詠み」という違星北斗を取り扱った短編小説があるらしい。

 →探したら「うた読み」収録されている本がありました。
  野火書房『新文学の探究』に収録。

 さっそく読んでみました。
 おおざっぱに言いますと、主人公は北海道で教師をしているのですが、アイヌ、それも違星北斗を主題とする文学をやりたいと考えていて、そのためにも仲間を集めて文学会をつりたいと願っているところ、K党の活動家に、党に入れば仲間がたくさんできて文学会を作れるといわれて、党員になってしまう、だけれども、けっきょくそれは幻想であったと気づき、党を離れるというような筋書きです。
 北斗のことも、よく調査されて、書かれていると思いながら読んでいたのですが、それもそのはず、北斗の研究をされていた谷口正氏が協力しているようです。
 
 作者の向井豊昭氏は、昭和8年生まれですが、25年間北海道で教師をされていたそうで、この作品はその時期に書かれたもの。70年代初頭ごろかと思います。
あと、96年に四谷ラウンド文学賞を獲られて、60代で中央の文壇に登場されたという遅咲きの方です。
 残念ながら今年6月にお亡くなりになったそうです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:31 [408]

 
6 『柳田國男研究集成』に北斗の足跡が。
 
 けっこう、びっくりです。

 「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 (前略)
 この年の五月二十七日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等、樋畑雪湖、松本信広、今和次郎、三淵忠彦、有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。この人は間もなく二十七才の若さで亡くなったが、この青年について、金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。
(後略)


 しまった。
 図書館の閉館時間が迫っていたので、急いでコピーしてもらったら、このページしかコピーされてなくて、これが大正14年なのか、15年なのかがわからない。

 もう一度、確かめに行かなくては。

 この沢田四郎作という人は、医学博士で、民俗学者、柳田國男の教えを受けた方ですね。

 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%df%b7%c5%c4%bb%cd%cf%ba%ba%ee

 あれ、おかしいな。昭和2年に柳田に出会ったのであれば、その前年に北海道に帰った北斗とは会っていないはず。
 もしかして、ここに出てきたのは、北斗じゃない「違星」さんなのか? 

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:11 [409]

 
あとは、メモ

7 『新宿・大久保文士村界隈』という本に、希望社のことが詳しく書いてあった。

8 近代アイヌ教育制度史資料(小川正人)によると、山田伸一氏に「違星北斗伝への試み」という論文があるらしい。


それにしても……、グーグルの「ブック検索」は非常に使える。

アメリカの大学が日本語の書籍を日本語で電子化して検索可能にしてくれたおかげなのだけれど、もしこれが日本でも本格稼働したら、もう、いろいろ大変なことになるかもしれない。

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:20 [410]

 
>  「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 図書館に行って、もう一度全文を読んできました。

 結論からいうと、これは大正15年の5月27日です。

 先の引用の前に、次のような文章があります。

 十五年四月十日消印の柳田先生のおハガキを頂戴した。

 これは、結構、重要な記述です。
 ある意味大発見です。私的には。

 なぜなら、これまで北斗の東京時代のうち、大正14年の秋から大正15年の春にかけての北斗の行動の記録はみつかっていなかったのです。

 ですので、私は北斗は生活に埋没していたのか、恋愛でもして研究や勉強から離れていたのか、あるいは「国柱会」の宗教活動にハマってしまっていたのか、等々と勝手な想像をしていました。

 でも、この記述が正しいなら、金田一京助の招きでいろいろな学会に行き、勉強を続けていた
 
 北斗は大正15年も「北斗」だった。そういうことになります。
 
 それからもうひとつ。
 北斗が日本民俗学の泰斗である柳田國男とも面識があった、ということがわかります。それに「考現学」の今和次郎とも。
 
 

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:00 [411]

 

 沢田四郎作は、大正15年に初めて柳田國男に手紙を書き、いろいろな会に誘われるようになったそうで、その中の一つが、北斗と出会った北方文明研究会だったようです。
 昭和2年というのは、初めて一人で柳田邸を訪ねた日だということのようです。

 この沢田四郎作などは、関西の人ですが、私の好きな民俗学者・宮本常一とも親しかったようで、こういうふうに別々の興味が、ある時ひとつにつながっていくといのが、こういった研究をすることの醍醐味のようなきがします。

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 21:02 [416]

 
うん。大正15年5月27日で間違いないですね。

 柳田國男の年表でもそうなっておりますので。

 ちなみに、会に来ていて、北斗が会ったフィンランド大使ラムステッド氏は、学者としても有名な人で、宮沢賢治とも会って話をしています。フィンランドの彼の蔵書の中に宮沢賢治の本が2冊あったそうです。北斗の痕跡もないのかな。
 

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 00:29 [417]





 ゴーマニズム宣言 

 現在発売中の小学館のSAPIO 11/12号に掲載されている小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」において、アイヌ問題が取り上げられ、その中で違星北斗が登場しています。
 その内容について、気になる点や違和感がないわけではないですが、まだ1回目ですので、しばらく読んでから書いてみようと思っています。
 

 
管理人  ++.. 2008/10/26(日) 21:19 [404]





 永劫の象とは 

 昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。

 二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 この「永劫の象」とは何か。
 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。
 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?

 長らく考えてきました。
 永劫とは?

 キリスト教だろうか、それとも、北斗が東京時代に帰依した国柱会。その経典である法華経だろうか。
 それとも……

 哲学か。

 かもしれない。
 北斗は西田幾太郎の『善の研究』を読み込んでいました。
 哲学で「永劫」……「永劫回帰」。

 ニーチェか。
 そうかもしれない。
 というか、よくわからない。

 永劫。永劫の象。

 本当に「象」でいいのだろうか。
 北斗にはよく誤字、同音異字の間違いがある。

 永劫の「ぞう」か?
 
 永劫の「像」? そういう像があったのか?
 「蔵」? 
 もっと、哲学的な概念的な言葉。
 「相」か?

 「永劫の相」……なんかありそう。
 検索してみると、あった。

「永劫の相」スピノザ。

 スピノザか。スピノザなのか?
 北斗はスピノザを読んでいたのか?

 本当かどうかはわからないけれども、本当だったら、これはちょっと驚き。
 スピノザ、読んでみるか。

 
管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:21 [392]

 
ウィキペディアを流し読みしただけだけど、スピノザの「神」の考え方は、北斗に近いようだ。

《スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因であるものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。》ウィキペディア

 次に、北斗と親交が深かった古田謙二の言葉。

 北斗が東京から帰って来た頃のことである。
 道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
 と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
(中略) 
 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
 即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです
 そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したいといい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
 ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。(古田謙二「『アイヌの歌人』について」)


 やっぱり似てる。
 北斗=西田幾太郎≒スピノザ?

 勉強勉強。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:32 [393]

 
 やっぱりそうだ。
 西田幾太郎の『善の研究』の中では、「スピノーザ」が多く言及されている。
 『善の研究』を読んだ北斗であれば、「スピノーザ」に手を伸ばしたというのは想像に難くない。
 「永劫の象」は「永劫の相」の書き間違いなのか、あるいは、北斗の手にした古い訳では「永劫の象」となっていたのかもしれない。
 北斗が入手したであろう「スピノーザ」の本を調べてみよう。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:51 [394]

 
これかな。

岩波文庫 スピノーザ 『哲学体系』

昭和2年12月15日初版発行

http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w24448735

昭和2年末の発行だと、ちょっと時期的に微妙かもしれないけど、とりあえず入札してみた。
 

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:54 [395]

 
×西田幾太郎
○西田幾多郎

 勉強。勉強。

管理人  ++.. 2008/10/22(水) 00:06 [396]

 

「永劫の相」よりも「永遠の相」の方が、よく使われているみたいだ。
 永遠の相で検索するとめちゃくちゃ引っ掛かります。

「永遠の相のもとに」というような使われ方をしていることが多く、そういう題名の本もあるようだ。

 「時と永遠の相における生」
 http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/mhayashi/Psalm90.htm

 この使われ方は、件の豊年健治君の短歌

「永劫の象に於ける生命の
 迸り出る時の嬉しさ」

 での使われ方に似ている。

 ウィキペディアにも、

 「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub aeternitatis specie)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」

 手元に届いたスピノーザ(小尾範治訳)の「哲学体系」(エチカ)では、「理性の性質には、物を永遠の形式の下で知覚することが有る」となっている。永遠の形式。永遠のかたち。永劫の象。

 なんとなくわかるけど、まだうまく説明はできない。 

管理人  ++.. 2008/10/26(日) 00:43 [403]





 北斗からの手紙3 
さて、新発見の手紙、3通目です。
週末しか更新の時間がとれないので、なかなか先にすすめませんが、ご勘弁ください。

昭和3年6月20日の消印。
余市大川町違星北斗から杉並町成宗の金田一京助への手紙です。
この手紙は、ちょっと、扱いに困ります。内容がプライベートすぎるといいますか、梅子さんという女性についての記述や、余市コタン内での人間関係に関する記述が多いので、それらについてはおおまかな概略だけのべて、引用はしないことにします。

東京の思出が それから それへと なつかしい日です。
静かな雨が降ってゐます。北海道はお節句 と云ふので となり近所はドッシンドッシンと米を ついてゐる きねの音が平和に ひゞいてゐます。子供らのとって来た熊笹の若葉は ベコ餅 をのせたり 三角に包むにちょうどよい程 のびてゐます。雪のあるうちから 寝てゐた私は もうこんなに伸びた のに 一寸と 光陰あまりに早いのを 一寸と 妬みもしましたが すぐまた、青々生々してる熊笹を愛します。


 「お節句」というのは、五月五日の端午の節句ですね。それを昭和三年当時の余市では、旧暦の五月五日で祝っているようです。この手紙が出された六月二十日は旧暦では五月三日、旧暦五月五日は六月二十二日になります。ちょうど、節句の前の準備をしているところなんですね。
 「ベコ餅」というのは、私は近畿の人間なので知らないのですが、調べると北海道や東北地方の一部において、端午の節句で食べられる菓子で、黒白二色なのでベコ(牛)だからベコというそうです。(鼈甲がルーツという説もあるということです)。
 北斗は4月の末に喀血して病床に伏し、手紙を書いた時点で、約二か月、病床にあるという状況です。

 
管理人  ++.. 2008/10/18(土) 23:57 [385]

 
大正十四年二月末頃か三月上旬だったと思ます。私には東京と云ふ 馬の目も抜くとか云ふところへ誰一人として知ってゐる人はありませんでした。(上京したのは二月十五日 でしたが)たったひとり金田一先生とおっしゃる方が居られますと云ふことだけが かすかな よろこび でした 。それで未だお見にかゝつた事のなかった先生を尋ねたものでした。一日一っぱい同じところから そうです成宗村は殆ど戸別毎と云ひたい程さがしたが遂い夜までかゝった事と今思出しました。

 金田一の「違星青年」に描かれていたことが、北斗側の視点から語られています。「大正十四年二月末頃か三月上旬」というのは、金田一宅を訪ねたタイミングでしょう。3月12日に金田一を初めて訪問したことに対して、北斗はハガキを出していますから、3月初めなのかもしれません。
 北斗にとって、金田一を訪ねるということが、上京に際しての一つの目的であったように読めます。
 上京前に金田一のことを誰かから聞いていた、あるいはその著書に触れていたという可能性は高いと思います。
 さて、新事実としては、「上京したのは二月の十五日でしたが」という記述。これは今まで知られていなかったことです。『自働道話』の西川文子の記事で、2月18日よい以前に上京していることはわかっていたのですが、はっきりとした日付はわかりませんでした。
 しかし、この書き方では、2月15日余市発なのか、東京着なのかというのがどちらともとれる気がします。ただし、15日余市発だと、17日東京着、18日に校正終えた西川文子を手伝ったとするには、あまりに時間に余裕がない気がします。やはり素直に東京に着いたのが2月15日と考えるべきでしょうね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 00:31 [386]

 
 それから ずいぶん 根気よく あちらこちらを歩き回ったこと も忘れられません。本当に自分が感心する程 根気よかったものでした。手紙狂とそれがら名志狂と云ふ あだ名さへ所有したものでした。御勉強中を幾度かお邪ましたこともありました。私は これでは先生方に ご迷惑かけるからいけない と 気がつきながらも、私は まるで 不思儀な物のけに つかれたやうに訪門したことを忘れられません。
私はアイヌの為に少しでも良い宣伝したい願もあったし アイヌの在りのまゝで 悪い事は無かった事に消してしまほうと企てゝゐましたこと 等もありました。私を一度毎に大きなものを みせて下したのは、あなた様でした。私を外形的思想から求って くれたのも 先生でした。私は先生を思出度 、先生の思を感謝してゐます。


 北斗は「手紙狂」とか「名志狂」というあだ名を所有していたとあります。手紙狂はよくわかります。北斗は本当に筆まめです。
 では「名志狂」は?
 これは「名刺」かもしれないと思いましたが、やはり「名士」でしょうね。確かに名士たちと進んで交わっていました。金田一京助、伊波普猷、中山太郎、松宮春一郎、山中峯太郎、後藤静香等々。
 北斗は仕事の合間をぬって、あるいは休みのたびに、本当に東京じゅうのあちこちを歩き回ったのでしょう。
 北斗は本当に、金田一京助のことを敬愛し、感謝していたことがうかがえる文面です。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 00:50 [387]

 
 ここからしばらく、梅子という女性の話になります。かいつまんで話すと、梅子と波子というウタリの女性の上京を北斗が世話し、金田一や松宮や、バチラー八重子に協力してもらい、上京が叶った。
 北斗は彼女らに期待し、東京で、ともにアイヌの未来のために働いてくれるものと思っていたのですが、結局東京で和人と結婚してしまい、北斗は失望した、というような事件があったようです。
 それは、北斗にとっては許せないことだったんですね。この女性は、北斗の恩師たちの力をわずらわせて上京を世話されたのにもかかわらず、よりによって、北斗が一番嫌いな、アイヌであることから逃げ、和人に化けるということをやってしまったわけですから。
 しかし、金田一も八重子も、逆に祝福したようです。それは大人だからなのかもしれませんし、あるいは北斗のようなこだわりがないからかもしれませんが。
  
 「違星君の平取入村当時の思い出」という著者不明の文章に、北斗がアイヌの「純血」にこだわった、という記述がありましたが、案外、この事件なんかが影をおとしているのかもしれませんね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:18 [388]

 
なんとさびしい事ではありまあせんか。淋しさを知らない人がシャモになるのでせう 。そしてそれが、そを云ふ人の幸福でせう。
学問のある人、金のある人、秀でたる人から先をあらそふてシャモになるし優生学 的にとり残された劣等アイヌだけ票(ママ)本となるかと思ふと残念です。然しシャモになるの急なる理由もあるが、どうでもよい。正しい者がやっぱり正しい。アイヌは亡びてしまってもあったまゝの事跡はやがて残されることでせう。


 このあたりの北斗の思想は、「アイヌの姿」に通じるものありますね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:30 [389]

 
 さて、今度は各地のコタンをめぐったことに関しての記述です。

先般、ムカワのチン部落に立よった事もありました 。(中略)只一つ私の嬉しかったことは ムカワ村の或る氏族は昔々余市コタンから来たものである 、と云ふ色々私の興味ある研究材料を話してくれました。大そうやさしい方でした。

 鵡川のチンといえば、辺泥和郎のコタンです。この時、辺泥和郎と会った可能性はあるかもしれませんね。

 北海道へ来て(本当にあこがれの地で)私を受け入れてくれるアイヌはなかった ことを淋しがったものでした。然るに今、三年の後になって やっと私を信じてくれる人と会ました。浦川方面のアイヌは心から私を信てくれます。四五日中わざ/\私に会に来る青年も出来ました。なんと云ふ有がたい事でせう。

 本当のあこがれの地とは、平取でしょう。日記など他の文献にもありますが、平取では冷遇されたようです。
 浦河から訪ねてきてくれた青年とは、浦川太郎吉かもしれません。また、北斗は浦河にはよく行っていたようです。(これは浦川太郎吉のお孫さんからお聞きした話です)。
 

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:39 [390]

 
 病気についても語っています。

只残念なことには、私の病気してゐることです。去年の腐敗性キカン が たゞって今年は右の肺炎で寝てしまふ。なんだか死につゝあるやうに心ろさびしくて、そして今のうちに知ってゐる人に御礼の手紙でも出して置きたい様な気がします。思い残すことは何もありませんが。もう一度健康になって今までの目的を少しでも達したいことです。そしてまた永い間の仮面を叩きこわして正味の違星を諸先生の前に晒して虚栄の罪 を詫びたいと思います。イゝ決して死にはしません。が この頃 そんな事ばかり頭の中を支配してゐるのです。

 「去年」(昭和2年)の病気は「腐敗性キカン」、腐敗性気管支炎でしょうか。「今年」(昭和3年)の病気は「右の肺炎」となっています。いずれも4月の発病です。両年とも、鰊漁をした後に発病しています。
 北斗は再起を夢見、「決して死にはしません」と言っていますが、このまま悪くなって亡くなってしまいます。

 

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:42 [391]

 
 二三日前に松宮先生からお手紙来て嬉しかった。岡村千秋先生 が、金田一先生を訪問した時、私の「はがき」が来てあったなどゝ書いてゐました。私の病気してゐるのを岡村先生からお聞きしたのかも知れません。すぐに返事を差上げましたが やっぱり 淋しい心持が はなれません為め ろくなことを書かなかっ(ママ)と思ってゐます。
 (中略)病気ばかりしてえゐて あまり見込もない私はこれ以上名志も学者も知らなくてもよいと思います。又た失礼だとは知り乍ら誰にも手紙を出した事ありません。悪るいんだとは思ますが (且つては手紙狂であったのですけど)幾分か虚栄から遠ざかり得るやうにも存ます。これからも手紙は出す元気は予定されてゐません。


 北斗は、病気になり、かなりネガティブになっています。かつての社交的で意欲的であった自分、貪欲にいろいろな人と交わり、手紙をやりとりした自分のことを「虚栄」と呼びます。
 松宮春一郎への手紙にも、同様の淋しい心持ちが記されていたのかもしれません。今、この手紙で金田一に弱音を吐いたように。
 松宮春一郎は北斗に山中峯太郎や永尾折三を紹介した人物。世界聖典全集などを出版したらしい。北斗とは金田一京助を介して出会ったのだとおもわれます。柳田国夫や折口信夫、中山太郎などの民俗学者にも顔がきいたようですが、どうやら西川文子(光次郎とも?)とも知り合いであったようです。
 http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20081019/p1
 このサイトを読むと、松宮春一郎の広すぎる人脈に驚かされます。

 岡村千秋は郷土出版社「爐端叢書」の編者。爐端叢書は「アイヌ神謡集」を出した叢書です。

 この金田一、岡村、松宮あたりは、「東京アイヌ学会」のつながりでしょう。
 



 

管理人  ++.. 2008/10/23(木) 23:38 [397]

 
 さて、ここからも概略にします。

 北斗は、余市コタンの実力者で、金田一もよく知る人物について書きます。
 北斗はこの人物から、ずいぶんときつくあたられたといい、それが自分を伸ばしてもくれたが、心から尊敬することはできなかった、と言います。
 また、その人物の息子のことを、北斗は親友として見ていましたが、その息子もまた、北斗の陰口をたたいているということを知ってしまいます。
 その実力者があまりに北斗を面罵するため、北斗はその人物を避けていましたが、そのうちに彼は死んでしまいます。
 北斗は彼のことを同族のために働いた違人だと思っていましたが、彼が同族の互助組織のお金を食いつぶし、そのために同族の生活が困窮してしまったといいます。
  
 さて、ここに書いてあることがどこまで本当なのかはわかりません。北斗は病床にあり、とても不安定です。
、疑心暗鬼にもなっているでしょう。

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:27 [398]

 
 そして、その時立ち上がったのが、北斗の兄・梅太郎でした。
 最初、兄梅太郎は、北斗が金を稼がず、アイヌ復権の活動ばかりしているので、北斗に対して冷たい態度をとっていました。ところが、組織のお金の整理のために走り回り、各地で自分の弟が有名になっていることを知り、それからは北斗のことを見直したといいます。
 北斗は、兄について
 
 此の頃は本当によい兄となりました 。二十八年、私は本当に兄弟の様な気を初めて致しました。然し遅かった。三年前 だったら本当に……

 といっています。
 「三年前」とは、この手紙が書かれたのが昭和三年」ですから、三年前だと大正14年。上京前のことでしょうか。なにか含みがありそうな気がします。
 

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:31 [399]

 
なんぼ書いても足りません。三銭でいけなくなりますからこれで失礼いたします。
六月二十日
                    違星北斗  
金田一京助先生

東京へ十日ばかりの旅したいと考いてゐました。十月頃一度上京しやうと予定しましたが 病気してから しっかり 心ろ 小さくなりました。
私はきっと達者になります!! 此の上は静かに時の来るのを待ってゐます。


 これで、この手紙は終りです。
 現在見つかっている北斗の手紙としては、最後のものになります。
 
 結局、北斗はこの手紙を出してから8か月後にこの世を去ります。再び上京したいという夢も叶いませんでした。

 北斗は憧れの地、平取コタンでも受け入れられず、本当かどうかわかりませんが、よりによって父祖伝来の家紋をルーツに持つ違星姓を、「イポカシ」(「醜い」の意)と心ない同族から馬鹿にされた、という話も聞きます。
 どれほど失望したことかわかりませんが、それでも同族のために戦い続けます。

 失意とともに平取を辞して、舞い戻った故郷・余市コタンもまた、この手紙に書かれているように、決して住みよい場所ではありませんでした。
 それでも、北斗は兄・梅太郎という心強い味方を得たことは、大きな救いであったと思います。
 当初、そりの合わない兄であった梅太郎は、病に倒れた北斗を最後まで面倒を見させ、死後も北斗の活動を継承してリンゴ農園をつくり、これに「北斗農園」と名付けています。

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:59 [400]

 
 「力ある兄の言葉に励まされ 涙に脆い父と別るる」

 この短歌も、そういう経緯を考えて読めば、違った意味が見えてきます。


管理人  ++.. 2008/10/24(金) 08:41 [401]





 その時歴史が動いた「知里幸恵」 

 10月15日、NHK総合の「その時、歴史が動いた」で、「知里幸恵」が取り上げられ、その中で、少しだけだと思いますが、違星北斗が紹介されます。
 (たぶん)
 だいぶ前に、NHKの方から問い合わせがあり、すこし
協力しました。
 北斗が、どういう紹介のされ方をするのかはわかりませんが、NHKのこういう番組で、全国に違星北斗のことが知られることになるのはうれしいことです。

 みなさんも、ぜひご覧ください。

 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html
第340回
神々のうた 大地にふたたび
〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜
平成20年10月15日 (水) 22:00〜22:43 総合

<再放送>
本放送の翌週(月) 午後5:15〜 BS-2 全国
本放送の翌週(火) 午前3:30〜 総合 全国 (近畿のぞく)
本放送の翌週(火) 午後4:05〜 総合 全国
本放送の翌週(土) 午前10:05〜 総合(近畿ブロック)

 
 


 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html

 
管理人  ++.. 2008/09/13(土) 11:18 [370]

 
 見ました。
 北斗の名前と写真が、一瞬だけ出ましたね。

 あれだけの露出でも、このサイトのカウンターがウソみたいにハネ上がっていました。これが、TVの力なんですね。

 この番組のリサーチの段階では、スタッフは昭和2年のガリ版同人誌の「コタン」(北斗が中里凸天と二人で作った小冊子)の実物を探していたのですが、結局みつかりませんでした。古書店に売りに出ていたので、実在していることは確かなのですが。
 もしそれが見つかっていたら、もう少し北斗の扱いが大きくなっていたのかもしれません。

 内容的には、まあいろいろとご意見も出てくるとは思いますし、個人的にもいろいろ突っ込みどころはありましたが、多くの人に興味をもってもらえたという意味では、非常によかったのではないかと思います。

管理人  ++.. 2008/10/16(木) 00:41 [384]





 北斗からの手紙2 
 さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

 
管理人  ++.. 2008/09/27(土) 17:15 [374]

 
ちょっと本文を引用してみます。

 拝啓 東京に居りました一年と六ヶ月 その間先生におそはることの多かったことを忘れがたい事と感謝してゐます。自分は何かなにやら もう 煩から悶への苦しみでしたが 先生にこの自分を さらけだして 自分の求めるものを得やうとしたのでした。今考いてみても 本当に先生の御勉強をどんなにか さまだけた事か 又は おいそがしい所を、自分勝手からどんなにか先生のご迷惑をおかけしたことでせう。 私しは 又とない機会なのでしたからどんなにか 愉快に どんなにか おたよりしたことでありました。
 

 北斗は金田一京助のもとに足しげくかよい、また頻繁に手紙を出していたことがわかります。

 さて あの日はもう五分で、あの汽車に遅る所でありました程、時間も かっきり 上野に参りました。  額田君と二人で飛ぶ様に三等に飛び込みました。

 北斗が、上野からの汽車に乗り遅れそうになったというのは、「自動道話」に掲載された北斗の手紙にもありますね。
 額田君と二人で客車に飛び込んだというのは、どういうことかわかりませんが、額田が北斗と一緒に来たということかもしれませんね。「自動道話」には額田は見送りとして名前が出ているので、北斗の荷物を持って入り、そのままホームで見送ったのでしょうか。

 (略)高見沢様の奥様と、奥様をみつけたら高見沢様もそこに居られました。うれしくて/\涙が、ヲヤヲヤ僕の道楽なんでしから 手紙にまで泣いたことを報告します。

 高見沢夫妻が見送りに来てくれたことに感動して、泣きます。
 北斗は本当に感動屋で、小さな出来事にも感動して涙を流します。北斗自身は、その性分を「道楽」と呼んでいるんですね。
 感動屋で、涙を流すことが「道楽」という横顔が見えてきました。なかなか、興味深いというか……親しみ深く、愛おしく感じます。

管理人  ++.. 2008/09/27(土) 18:08 [375]

 
 青森もぶらついたり 室蘭も初めてみたり、また幌別にも寄った事は、嬉しいことです。ここは三百戸ばかり そしてウタリは三十戸ばかりあります。

 北斗が青森をぶらついたというのは、初見ですね。
 まあ、そうでしょうね。津軽海峡は青函連絡船に乗ることになるので、それを待つ時間が何時間かできるわけです。
 室蘭は「見た」といっているので、通っただけかもしれません。北斗は胆振方面に来たのは初めてだと思いますので、室蘭の工業地帯を車窓から見て驚いたのかもしれません。
 幌別の戸数やウタリの戸数については、自動道話にも同様の記述があります。

 (略)知里幸枝さんの弟さんの直志保さんにも会ました 。豊年君もよい青年でした。 

 この知里幸枝さんはもちろん「知里幸恵」のこと。直志保は真志保のことです。
 北斗は、幌別に着いた次の日には、知里家を訪ねているんですね。
 興味深いのは「豊年君」です。日記に出てくる「豊年健治」のことで間違いないでしょう。
 北斗は昭和3年2月末に幌別を訪れますが、「親しい友」が死んでいることにショックを受けます。彼は豊年健治の墓に参り、2年前の夏のことを偲んで短歌を詠みます。
 この豊年君とは、どういう人物でいつごろで会ったのかが、はっきりとはわかっていませんでしたが、幌別に着いた直後に会ったのだということが判明しました。

管理人  ++.. 2008/09/27(土) 18:40 [376]

 
八重様は どう思ってゐるかは不明です。けれどもあの手紙 の心もちと ちっとも変わってゐない様です。とにかく 私しを アイヌの信仰の 持ってゐる家に お世話して下さる との事です


 「あの手紙」とあるように、東京時代に北斗はバチラー八重子とは、何度かの文通をしていました。
 北斗は、実際に八重子に会ってみて、また話してみて、意見があわなかったのかもしれません。
 北斗は、八重子にアイヌの信仰を持っている家庭を紹介してくれるよう(これは「平取で」ということでしょう)に頼みます。

 八重様は まだ僕の心根は わかって下さらない様です。けれども僕を愛して下さることは まるでお母様の様です 。私しはこのお母様の様な八重様を どうかして 嬉しがらせたいと 存ます。あまり 失望も さしたくないと思ってゐます。それはあんまり罪深いと思ひますから。

 まず、ちょっと驚きました。北斗が「僕」という一人称を使っていること。まあ、当たり前ですが、これまでのものが「私」と「俺」しかなかったので。

 もうひとつ、そして八重子のことを「お母様」に譬えていうことです。北斗は早くに母を亡くしていますので、18歳年上の八重子の中に母を見てしまうのはいかにもありそうなことだと思います。日記の中では「ヤエ姉様」となっていましたが、北斗の中ではお母様のように思い、思慕しているということだと思います。

管理人  ++.. 2008/09/28(日) 00:11 [377]

 
 北斗が漠然と感じている八重子との微妙な距離感。
 八重子から慈愛を感じ、北斗も八重子を母のように敬愛していますが、その二人の間には、思想上の大きな隔たりがあります。
 その信条の違いは、二人のこれまでの生い立ちからくるものだと思います。二人ともアイヌの将来を憂い、なんとかしなければならない考えていますが、そn二人の間にも見えない溝があります。
 それは世代や性別、性格、生い立ち、受けた教育など、大小さまざまな違いからくる考え方の違いがあり、それが彼らの間にあるのだと思います。それが北斗の八重子に対する不安の原因なのでしょう。
 お互いに慈しみあい、尊敬しあう二人ではあるけれども、その溝は、その後の平取での活動を通じて、より大きなものとなり、決して越えることのできない決定的なものとなってゆきます。

 その思想、信条の違いについて、北斗は次のように語ります。

 (略)神は私しを救ほふが殺そうが、私しは神なんか(助けるタノマレル神)は問題でない、との信仰は、只、私の良心を本尊として進みます。 私しの信仰は やがて ヤエ様にも 放される信仰であるかもしれない 若しやそんなことがあったって 神をもタノマナイ私しは人間を どの程度までタノンでよいでせう。若し私しは孤立することがあったって、私しは、驚くまい、と思ってゐます (略)私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。 

 クリスチャンである八重子と、神をも頼まないと宣言する北斗。
 北斗は決して無神論者というわけではないし、宗教も否定しません。東京では日蓮系の新宗教である国柱会に通ったりしていたのですが、それと影響しているのかしていないのかわかりませんが、北斗のクリスチャンに対する視線は冷徹なところがあります。

 北斗は神の存在は否定はしないけれども、ただ羊のように神に頼り、すがりつくのを良しとせず、自らの信念を「本尊」にして進まなければならないと考えています。
 のちに北斗は吉田はな子に「キリスト教では同族は救えない」と言い放ちますが、すでにこのころから、そういう考えを抱いていることがわかります。
 
 

管理人  ++.. 2008/09/28(日) 00:22 [378]

 
僕のぢ病 も どうも 都合の悪るいものだ これでは 家に立ち寄って そして適当な療治するのが本当だと思ったが、なあーに まかりまちがったて、死程のこともあるまい(中略)然し、大事にはするよ、私しの理想は遠いのですもの
 
 ここでいう「ぢ病」は「持病」ですね。ガッチャキ(痔)ではありません。東京の生活は経済的に安定していたため、活力に満ちているような気もしますが、かといって、完治したわけではないようです。東京時代も北斗は「持病」の発病に悩まされていたのかもしれません。山中峯太郎に会った時、顔が黒いと表現されていますが、もしかしたら、それも病気のせいなのかもしれませんね。

 北斗が、なぜ郷里に余市に帰らず、「いの一番」に幌別に向かったのか不思議に思いましたが、明確な意図があったことが、これでわかります。

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 00:50 [379]

 
また 父も兄も ゐるのだし 私しは父よりも兄よりも 亡き母や それから 私しを愛して下した、石亀石五郎爺や の霊をなぐさめ、姉 の霊をなぐさめるうへに於ても 私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。

 この石亀さんについては誰かわかりません。
 姉については、北斗の八つ年上の長姉と、北斗の生まれる六年前に生まれ、三歳で死んだ次姉がいますが、ここでいう姉は長姉のことだと思います。この姉は、十五歳の時にはまだ生きているので、亡くなったのはそれ以降でしょう。

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 23:44 [380]

 
 あんまり引用ばかりすると、よくないとは思いますが……この手紙自体が、北斗の思想の塊だと思うので、引用をせざるを得ないですね。
 次はこの当時の北斗の思想そのもの、ともいうべき文です。ちょっと長いですが引用します。(適宜改行を入れています)。


波の音が、のんきそうに また痛快に ひゞいて来ます。
 裏の鉄道の信号が ガチャンと ひゞくと程なくして汽車がドヾ……とやって来ます。浜には浜なしの花が香よく咲いてゐます  
 この家にゐても 波の音が涼そうに 聞いて来ます。この波の音だって太平洋のかなたより送られて来るんだと思と音の一つ一つが 自然の造り出だされた約束なんでせう。
 この浪の音で思ひ出しました 私し共は常にこの浪の音だけ聞いてゐます (略)けれども音は結果であって初めではない。結果だけで まんぞくして来て なれてゐます。この結果になれてゐることが どうも わからないことです。
 私しはアイヌに生れました。これは どこからか約束されて来た結果です。この結果が運命と云ふもだらうと今思ってゐます。結果は私しのあずかり知ることのない勝手な運命であって 生れ乍らにして、約束の責任のない責任を負ふてゐます。
 それは幸不幸の問題ではなく「動いて行く」と云ふ運命を負されてゐます。罪なくして罪を負されてゐる人間が世の中に沢山あることです。と 又、同時に誉なくして誉を負はされてゐる人間もありますと思ます。
 その人の努力なくして負ふてゐる結果だけ、見つめてみると問題はないんです。然し運命を(私しは運命は凡て私し共の感すてゐるのは結果だけのことを名さしてゐるのではないかと思ます)少し深く考いてみて初めて人間とつかんだやうな気がいたします。
 こんな考はこの文だけでは不完全でせう どうせ私しの考は正しくないのかも 知れません。けれども 私しは この考は 自分を卑下するところから思索をめぐらしたに外なりません。私のすべての出発は自己差別なんです。私しはアイヌをより克く見やうと負け惜みから進めて行くことが自分乍ら哀れです。
 小さな者相手の小さな仕事です。と気が附いてゐながら骨のずいまで浸み込んでゐる私しのうらみは これだけの理性をも きくことが出来ないでゐるらしいと 自分を解ボーしてみます
 そこでアイヌを礼賛も正しくないであらう。よしんば礼賛するべきなにものがあったって 負け惜しみて 云ふ感情を入れては正しいものが見えないであらう。卑下もやめました 礼讃もやめました。やっぱり私しは先生達のお小使いが一番私としての尊いことであることを思ます


 さて。これをどう読むべきなのか。まだ読み足りません。しばらく時間をください。
 
 

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 23:58 [381]

 
とりあえず、先に進みます。

今日も昨夜も八重様と色々な思想的な問題を語り 私しはとても愉快でした。この二三日中に平取りに参ることになることでせう。 どんな家に入られるかヾ今からそこの家を想象してゐます 何せよ第一番にアイヌ語を習らふことが先ですからこゝ二年くらいは何んにも出来ないのではないかしら。

 北斗は数日中に平取入りし、バチラー八重子が紹介してくれたアイヌ文化を保持している家庭に入るということでしょう。これが、「違星君の平取入村時代の思い出」(筆者不明)に出てくる、「忠郎」氏の家なのかもしれません。(忠郎氏の自宅は茅葺の大きな家だったとあります)。
 北斗はこの家でアイヌ語を習うつもりだったようですが、はたしてどの程度腰をおちつけて習うことができたのかわかりません。
 後述の北斗の昭和3年の手紙や、日記などの記述では、平取は北斗にとっては居心地のいい場所ではなかったようです。

 

管理人  ++.. 2008/10/11(土) 13:00 [382]

 
今この聖公会(バチラー宅)に***の娘と(十六七才)その父母(五十前後の人が)居ります 気の毒な人をお世話するのが この八重様の持ってゐる性分なんでせう。その外 茶畑さんと云ふ青年(二十五六)が居ります これは 少し替りやの様で 元 ウシ の土人学校の先生をしたとか て 八重様が申してゐました。なか/\面白い青年で話せます その青年とまるで議論の様に話してゐるので この教会にゐるのも 愉快です。八重様はこの青年客人と僕と外に気の毒な人々のお世話で多忙をきはめてゐます。何か ひま/\に書いてゐる様子です
 金田一先生にお会したら さぞお話が 面白いことだらうと口くせに話してゐます。梅子さん のことも大そうよろこんでゐます。先生からのお手紙を何べんも何べんも読んではくり返してニコ/\してゐます。
デハ これで失礼いたします


 ということで、この手紙は終りです。
 ***と伏字にしたのは病名です。
 茶畑さんの部分は、当時の幌別聖公会の現状、雰囲気がよく出ていると思います。
 梅子さんとは、北斗が東京時代に上京の世話をしたウタリの女性だということです。(次の手紙で明らかになります)。

管理人  ++.. 2008/10/11(土) 13:25 [383]





 北斗からの手紙1 
 北斗の手紙について、分析してみたいと思います。

 
 まず、最初は大正14年3月12日の日付がある、金田一京助宛のハガキです。北斗が上京したのが2月中頃と思われますから、東京に来て一月経たない頃のハガキです。

 宛先は「杉並町大字成宗332金田一京助」。当時の杉並は、東京市の「市外」でした。大正12年の震災で東京市内が壊滅的な被害を受けたため、人々は郊外へと流出し、東京が拡大しはじめた頃です。
 成宗は現在の杉並区の成田あたりで、成田の地名は1963年につけられたもので、成田と田端の合成地名だということです。
 金田一がこの当時、成宗に住んでいたというのは、「違星青年」にも出てきますね。

 一方、発信者である北斗の住所は「淀橋町角筈316高見沢清」とあります。
 その当時、すくなくともハガキを出した時点では、北斗は雇用者である、東京府市場協会の高見沢清のもとに寄宿していたということがわかりました。
 淀橋町角筈は、現在の新宿区西新宿の一帯。
 北斗が寄宿していたあたりは、当時の地図と現在の地図を比較して推測するに、このあたりだと思います。

 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.68378575&lon=139.69149754&sc=2&mode=map&pointer=on

 現在の新宿公園や都庁のあたりは当時は淀橋浄水所でした。その浄水所の西に熊野神社があります。これは現在もあります。また当時の淀橋第六小学校がありましたが、それが現在の西新宿小学校ですから、それをもとに考えると、だいたい、このあたりになります。
 
 まあ、一時的かもしれませんが、北斗が東京で住んだ場所がわかったのは嬉しいです。新発見です。
 ここから北斗は、花園神社のそばの東京府市場協会に通い、大久保の希望社に顔を出し、成宗の金田一宅や、阿佐ヶ谷の西川光次郎のところに通ったのかもしれないと思うと、なんともいえない感慨があります。

 いい地図がありました。
 http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_shinjuku/shinjuku_3.htm

 この地図の左下「玉川上水」と書いてある、その「玉」の字の上に小さく316と書いてあります。
 そこが北斗が寄宿した高見沢邸があった場所であります。


 ちなみに新宿も、この当時は東京市外、豊多摩郡淀橋町でした。こういった淀橋や角筈、あるいは成宗といった、伝統ある地名が行政の勝手で味気ない○○何丁目といった地名に変えられてしまったのは、本当に残念なことだと思います。

 次は内容に入っていきます。

 
コタン管理人  ++.. 2008/09/20(土) 01:31 [371]

 
 西川光次郎の手紙でもそうですが、北斗はまだ親しくなっていない頃には非常に慇懃で角張った候文を書くようです。

 拝啓 先日は突前参上致し種々御厚情接し殊に有難く厚く御礼申し上げ候
戴きました「アイヌ研究」 は除に拝読致し居り候


 といったぐあいです。
 金田一の「違星青年」に描かれているように、北斗は、金田一の元に、本当に突然参上しました。
 それも夜です。一日中、成宗の家を一軒一軒まわって、田んぼにはまって、泥だらけになって。北斗のいきあたりばったりの、愛すべき無鉄砲さがよく出ていると思います。
 北斗は、最初の訪問の際、金田一の「アイヌ研究」という本を金田一から受け取ったようです。(このハガキの時点では、まだ北斗は知里幸恵の「アイヌ神謡集」を手に入れていないようです)。
 そして、「アイヌ研究」を読み、感動します。

我等民族の為めに熱誠な同情なして下した先生を私しは 神様として感謝いたさねばなりません 私しはアイヌを斯くまで深遠な研究は誰れも為して ゐないものとのみ思い居り候

 これはまた、「神様」とはオーバーなように見えますが、それほど感動したということなのでしょうか。
 
 


 

管理人  ++.. 2008/09/20(土) 02:08 [372]

 
(中略)
 来る十五日は(日曜日)また御伺い申したくと存じ居候*前以って御通知申し上げ候(午后からになるやも知れませんが)


 今度は15日の日曜日に行きます、と言う予告ですね。この調子で金田一の元にまめに通い詰めたのでしょう。
 堅苦しい挨拶で、このハガキは終わりです。

 餘は御拝顔の上万々申し上げたく候 草々 不乙 

管理人  ++.. 2008/09/20(土) 02:20 [373]





 北斗の手紙 
 T様より、北斗が書いた手紙の写しを頂きました。

 以下の4通です。
 (新発見が多数あります。詳細はのちほど)。

 (1)ハガキ 大正14年3月12日付 金田一京助宛
    発信:淀橋町角筈 高見沢清様方 違星北斗生

  北斗が上京して1ヶ月ほどの頃。
  はじめて金田一宅を訪ねたことに対するお礼と、
  次に3月15日に再び訪ねたいとのお願い。

 (2)手紙 大正15年7月8日 金田一京助宛
    発信:北海道室蘭線ホロベツ バチラー方
       違星滝次郎 

  北斗が東京を後にして、北海道に着いた翌日に出した手紙。
  金田一をはじめ、東京で出会った人々への感謝と、
  ホロベツの印象、バチラー八重子の印象など。
  知里真志保や豊年健治に会ったこと、
  八重子に、平取での寄宿先として、
  アイヌの信仰を持った家をたのんであること。
  北斗自身の信仰「自分の良心を本尊として進」むことについて。
  自分がアイヌに生まれてきた運命と、
  自分の出発点である「自己差別」について。
  聖公会の教会について、等。

 (3)ハガキ 昭和3年2月29日 吉田はな子宛
    発信:ホロベツ町ホロベツ 違星北斗

  これはすでに存在を知っていたもの。
  藤本英夫先生の「知里真志保の生涯」でも紹介されているものですね。
  昨日ホロベツに来て、知里真志保といっしょに泊まっている、
 と言う内容です。


 (4)手紙 昭和3年6月20日付 金田一京助宛(親展)
    発信:北海道余市町大川町 違星北斗
   
  北斗闘病中の手紙。
  東京での思い出、金田一への感謝、
  北斗自身が上京を世話したウタリの女性について
  病気について、
  余市の指導者中里徳太郎の死について、
  兄との関係について、等。

 新発見については、追って書いていきます。

 それにしても、北斗直筆の手紙を読むというのは、なんというエキサイティングな体験なんだろう。
 人間北斗が、そこに息づいている、息吹を感じるとでもいうのでしょうか。なんとも、いえない感動があります。特に病床にある時期の北斗の手紙には、人間らしいところがにじみ出ています。

 
  
  
  

 
コタン管理人  ++.. 2008/09/06(土) 01:06 [368]





 北斗と平取 
 北斗が平取に居たのは、大正14年の7月14日ごろから。
 平取教会の近くのバチラー八重子が管理する家に寄宿。(某忠郎氏のところに寄宿という記述もあり)。二風谷、長知内、荷負、上貫別などにかよっている。
 8月末には札幌バチラー宅へ、その足で余市に帰郷し、9月中頃までに再び平取に戻っている。その後、日高のコタンを旅している。
 
 翌昭和2年の2月に、兄の子が死んだため、余市へ戻っている。
 この後、2月に余市に戻り、鰊漁を終えて、5月中頃に戻る予定が、病気になり、余市に留まります。
 病気は7月には完治したようですが、この期間、北斗は余市の遺跡を巡って郷土研究を行い、また中里篤治と同人誌「コタン」をつくります。 
 この後、記録がないので、北斗は二風谷に戻っていないのではないかと思っていました。

 しかし、このコタンが出た8月から、9月10月にかけて、すっぽりと空白の期間があります。
 
 この間に、平取に戻っている可能性はないとは言えません。(すぐ戻るつもりで、着の身着のまま出てきたのですから、すくなくとも挨拶なり、後片づけは必要でしょう)。

 また、バチラー八重子と吉田ハナとともに平取教会にあったことは確かなようですが、「バチラー八重子抄」では、その期間が2ヶ月程度だったとしています。(大正15年のことであれば、二ヶ月ではすみませんから、これは昭和2年のことかもしれません)。
 大正15年に、北斗が平取に来たとき、平取には八重子は幌別にいて、平取には岡村神父がいました。八重子が平取に移るのは昭和2年です。
 となると、やはり、昭和2年にも平取に北斗は来ていると思います。平取で八重子とともに林檎を育てようとして失敗したり、蚕を育てたりしています。
 だとしたら、やはり北斗は昭和2年に平取に来て、八重子や吉田ハナとともにあったのかもしれません。

 年表の空白ということでいえば、昭和3年にも空白があります。売薬行商で2月末に白老、幌別などを訪れるのですが、そのあとの足跡はとぎれています。その後は余市に戻って鰊漁をしているのですが、幌別までくれば、日高、平取に行ったということは考えられないだろうか、とも思います。

 いずれにしても、北斗が平取の義経神社の下の、ミスブライアンとから八重子に譲られ、吉田ハナが管理する家に寄宿していたという記述と、忠郎氏なる人物の、茅葺き屋根の家に寄宿していたというのは、違う時期の話なのではないか、と思います。 

 
管理人  ++.. 2008/09/01(月) 17:59 [367]





 一言集 

 北斗が、病床で最後まで読んでいたという「一言集」という小冊子を入手。

 後藤静香が格言や警句のような、短い言葉を描いたもので、昭和3年10月発行。非売品で、昭和4年版「心の日記」の付録のようです。

 この昭和3年10月といえば、もう、かなり弱っている頃です。

 
コタン管理人  ++.. 2008/08/30(土) 00:33 [364]

 
いくつか書き出してみます。

-----------------------------------------



誰でも、自分の親から某年某月某日某所で生れた。之は訂正されぬ絶対の運命である。人間には盲従せねばならぬ事がある。此の真理を解せず、凡てに我が儘が通ると思つたら、悲観し又煩悶する。



偉大なものを持たない人間は、すぐに自分を大きく思う。
絶えず伸びて居る人間は、いつも自分を小さく感ずる。
小さくは感じながらも大きくなり得る望みをもつ。



やれるだけやる。結果は成行にまかせる。
結果がよければ尚やる。
悪ければ、考え直して尚々やる。



善い事だと思ながら尚 行い得ないのには二つの原因がある。
一つは、本当に知らないから
他の一つは、愛が足りないからである。



私は急ぐ。人を愛するから急ぐ。溺れかゝって居る子を、来年まで見過ごしにする親はない。徐々に進むとゆうのは、徐々に進めてもよい事か、それほどになまぬるい人間のする事である。



大自然の中にころげこむと、自然が自分の家になる。
人間の中にころげこむと、人間が自分の家族になる。

一五

自分の仕事に命を投げこむと、自分の天職がわかる。
そうして自分の力量がわかる。

二四

不滅の霊は、自身と同じ様な不滅な仕事を要求する。正しく仕事が霊に託されて居る。それは自己と全世界との完成である。
不滅な仕事に没頭して居るとき、最高の悦びを感ずる。

二五

本当に愛するとは、他の中にある自己と、自己の中にある自己とが、一つになることである。愛はどんな民族をも相抱かしめる。
愛は愛を呼び起す。

三五

天下を動かさんとする者は、先ず自ら動くべし。
眠れる獅子は走る犬に如かず。

------------------------------------------------

といったぐあいの文章が、59編載っています。
古田謙二によると、北斗は病床で、この本を繰り返し読んでいたそうです。


管理人  ++.. 2008/08/30(土) 00:54 [365]

 
なかなか興味深いので、もう少し引いてみます。
-----------------------------------------------

三四

病を癒し得るものが医師だけではない。
生きる力は誰の中にも宿って居る。
病を癒す最上の方法は、其の生きる力に活気を添える事である。

三七

よその家に行って、便所や流しもとばかり嗅ぎ廻るのは犬である。
人間ならば玄関から堂々と座敷へ通る。此の人生にも汚い所はあるが、強いてそこだけ嗅ぎまわるには及ぶまい。

四一

昔の志士英傑にも何等かの影はあつたろう。併し余りに強い光のために凡てが明るく見える。吾等がもつ過去の影、それに対する吾等の義務は、その影をも照す輝く前途をつくる事である。

四六

いつも肌身をはなさぬ書物があるか。又何か研究して居るか。
何の研究もせず、又研究しようとする意志さえない人間は、退歩するより外に仕方がない。進歩のとまつた人間は早く老衰する。

五七

伝統は貴い。伝統には、幾代の間に洗練せられたものが宿って居るから貴い。併し伝統が生命を失うならば、それはもぬけの殻である。
愛は殻を破つて新しい生命を送り出す。

五八

国民の一人一人が、国家を我物とし、国家と自分との合体を悟ればよい。之が分れば、利己心が愛国心に変る。此の事は自己を没却する事でもなく犠牲にする事でもなく、最もよく生かす事である。

五九

孤独から自然へ走り、自然とぴつたり触れあつたとき、それは人間をも抱き得たときである。地より天へ、そうして再び天より地に下る。もう孤独ではない。

-----------------------------------------------

これらの言葉を、病床の北斗はどのような気持ちで読んだのでしょうか。

後藤静香の言葉には、私も引き込まれそうになります。
国家主義的な部分は、時代的にしょうがないと思います。その部分も含めた上で、もうそろそろ、多くの人に読まれてるようになってもよい頃かもしれません。

管理人  ++.. 2008/08/30(土) 01:11 [366]





 違星北斗コミュ 

 mixiに、違星北斗のコミュが出来ていました。
 mixiをやっている人は、参加してみてはいかがでしょうか。
 私は見つけて、すぐに入りました。

 (コミュニティ検索「違星北斗」でみつかります)。

 
管理人  ++.. 2008/08/29(金) 15:17 [363]





 ありえたかもしれない人生 
北斗が東京で出会った「大人」たち。

あのまま東京に留まっていたら、ありえたかもしれない、北斗のもうひとつの人生。

東京での安定した生活を続けていれば、若くして病気で死ぬこともなかっただろう。

金田一京助や伊波普猷のような、学者としての人生。
若くして中国革命運動に身を投じ、人気作家になった山中峯太郎のような生き方。
軍隊で上官を殴り、マンドリンをもって放浪した大正のヒッピー・永井叔。
後藤静香の元で希望社で社会運動を続けていたら、どうなっただろうか。
国柱会の活動に熱中していたら坊さんになっただろうか。

北斗はなぜ、この奇人たちに惹かれながらも、彼らのようになろうとしなかったのか。

 
管理人  ++.. 2008/08/26(火) 10:27 [362]





 生活 
もう、何年もいじっていない「キーワード別歌集」。

「生活」っていうキーワードがなかったことに気付きました。

生活
【衣】
『北斗帖』
背広服生れて始めて着て見たり/カラーとやらは窮屈に覚ゆ
ネクタイを結ぶと覗くその顔を/鏡はやはりアイヌと云へり
洋服の姿になるも悲しけれ/あの世の母に見せられもせで
めっきりと寒くなってもシャツはない/薄着の俺は又も風邪ひく
【食】
「北斗帖」
握り飯腰にぶらさげ出る朝の/コタンの空に鳴く鳶の声
久々で熊がとれたが其の肉を/何年ぶりで食うたうまさよ
砂糖湯を呑んで不図思ふ東京の/美好野のあの汁粉と栗餅
甘党の私は今はたまに食ふ/お菓子につけて思ふ東京
支那蕎麦の立食をした東京の/去年の今頃楽しかったね

カムチャツカの話しながら林檎一つを/二つに割りて仲よく食うた
働いて空腹に食ふ飯の味/ほんとにうまい三平汁吸ふ

骨折れる仕事も慣れて一升飯/けろりと食べる俺にたまげた
一升飯食へる男になったよと/漁場の便り友に知らせる

「日記」
キトビロを食へば肺病直ると云う/アイヌの薬草 今試食する   
見舞客来れば気になるキトビロの/此の悪臭よ消えて無くなれ   
これだけの米ある内に此の病気/癒さなければ食ふに困るが
熊の肉俺の血となれ肉になれ/赤いフイベに塩つけて食ふ   
熊の肉は本当にうまいよ内地人/土産話に食はせたいなあ   
「小樽新聞 昭和三年六月五日」
熊とった痛快談に夜はふける熊の肉食って昔をしのぶ
「医文学」大正十五年九月一日
今朝などは涼しどころか寒いなり自炊の味噌汁あつくして吸ふ






【住】
「北斗帖」
楽んで家に帰れば淋しさが/漲って居る貧乏な為だ
秋の夜の雨もる音に目をさまし/寝床片寄せ樽を置きけり

「日記」
あばら家に風吹き入りてごみほこり/立つ其の中に病みて寝るなり   

【寝】
「はまなすの花」
土方した肩のいたみをさすりつゝまた寝なほした今朝の雨ふり


 
管理人  ++.. 2008/08/22(金) 07:46 [360]

 
まだ、全然網羅していないですけど、こういう感じかな。
時間があるときまたページを作ろう。

【寝】ってしましたけど、けっこう寝ることに関する歌が多い。
あと、「雨」に関する歌も。

管理人  ++.. 2008/08/22(金) 07:48 [361]





 軍隊生活 
違星北斗の軍隊生活は、大正12年7月から8月の1ヶ月しかありません。

通常は、当時の兵役は2年間だったようで、それが1ヶ月やそこらで除隊になるというのは、病気や怪我のほかは、まずあり得ないと思います。

コタンの年譜にも大正十二年に「病気」とあるので、病気で除隊というのがもっとも考えられるものかと思います。

 
管理人  ++.. 2007/06/03(日) 00:20 [324]

 

 鍜治照三の「あけゆく後方羊蹄」の年譜では「病気除隊」となってますね。
 鍜治氏は余市の郷土史家で、北斗と7カ年に渡って親交を温めたという人ですから、もしかしたらそうなのかもしれないですね。

管理人  ++.. 2008/08/21(木) 00:17 [359]





 「新日本紀行・サラブレッド高原」 

NHKの「新日本紀行・サラブレッド高原」のビデオを入手。昭和44年9月の放送。

以前、この番組を書籍化した本に北斗の記述を見つけたので、テレビ番組の中でも放送されたのではないかと期待していたのですが……。

 http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_7204.html

 残念。
 ありませんでした。

 年表の方にも「紹介されたか?」と書いているので、消さなければなりませんね。

 北斗の事は、書籍化に際して追加されたものかもしれません。
 残念。

 
管理人  ++.. 2008/08/20(水) 11:11 [358]





 春の若草 
O先生より、教えて頂きました。

草風館版コタン(95年版)に掲載されている「春の若草」について。

 95年版コタンにおいては、「春の若草」は「ウタリ之友」(バチラー伝道団の機関誌)の創刊号(昭和8年1月20日)に「違星北斗氏遺稿」として掲載されていたものから採られていましたが、初出は「ウタリグス」(同じくバチラー伝道団の機関誌で、「ウタリ之友」前身にあたるもの)の1926(大正15)年8月号に掲載されていたものだそうです。

 なるほど、そう思って読んで見ると、非常に初々しく、力強く、情熱にあふれています。
 7月7日に北海道に戻ってきた北斗は、まず幌別のバチラー八重子の教会へと身を寄せ、7月半ばには平取の教会へと向かいます。
(バチラー八重子はこの時点では平取にはおらず、平取に移るのは翌昭和2年です。岡村国夫神父が教会を、岡村神父の妻で八重子の妹の千代子が幼稚園を取り仕切っていました)。
 まだ、東京から使命感に燃えて戻ってきたばかりの、多感で期待に満ちあふれていた時代の北斗です。自信と情熱に満ちた美しい言葉です。
 この後、現実的な問題にぶちあたることになります。幼稚園の金銭問題や、苛酷な労働から来る疲労、行く先々の同胞の無関心や無理解などに苦しめられるようになります。
 この「春の若草」は、東京を立つ前に書かれた「アイヌの一青年から」の直後のものであり、その一年後に書かれる「アイヌの姿」と3編続けて読むと、その思想の移り変わりがよく見えてくると思います。



 
管理人  ++.. 2008/08/18(月) 11:51 [357]





 資料再読 
北斗の全資料を再読しています。
その中で、いくつか発見がありましたので、書き込んでおきます。

(1)「子供の道話」昭和2年1月号に掲載された北斗の手になる童話「世界の創造とねづみ」について。

このお噺は、「清川猪七翁」からの聞き取ったものですが、この清川猪七翁という名前、どこかで見たことがあると思っていたのですが、この方はジョン・バチラーの助手であった「清川戌七」ではないかと思います。

 清川戌七といえば、「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」の中で、ジョン・バチラーや八重子、吉田花子のことを語っている方です。
http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_ab90.html

この方は、1874(明治7)年生まれですから、この童話が書かれた大正15年には52歳、北斗から見れば「翁」といっても差し支えない年齢だと思います。

 「文献上のエカシとフチ」(札幌テレビ放送)によると、この方は新冠出身、明治22年新冠でジョン・バチラーと出会い、以後その布教を助けたそうです。
 生活地は平取町荷菜ということなので、北斗が平取教会にいたときに出会ったのでしょう。

 
管理人  ++.. 2008/08/12(火) 13:48 [352]

 
『子供の道話』掲載の北斗から西川光次郎への手紙3通について。

 http://www.geocities.jp/bzy14554/kodomonodouwa.html

「第一信」に「昨日バチラー八重子様の家に着きました」とあることから、北斗が大正15年7月5日に東京を出て、北海道の幌別(現在の登別)に着いたのが7月7日ですから、「第一信」が書かれたのはその翌日である7月8日でしょう。

「第二信」が書かれたのは、文中に

「本日日曜でしたので子供が少数参りました、何より驚いたのは婦人の数多が来たことです、不完全な日本語を使つてゐるメノコ(女)達が神の愛に救はれてゐるのです、文字もよめない人々はいつの間にかアイヌ語ヤクの讃美歌を覚えてそして今日お祈はアイヌ語でやるのです、シヤモ(和人)もまじつてゐますけれどもアイヌのメノコのこの健気な祈をきゝまた見て只私しは驚きの外ありませんでした」

とあり、これが「日記」の7/11の記述と一致しますので、この「第二信」は同じ7/11に書かれたものでしょう。

 


管理人  ++.. 2008/08/12(火) 13:56 [353]

 
「第二信」が7/11のことだとすると、文中に「昨日白老に参りました」とありますから、北斗が白老入りしたのは、7/10のことになります。

 整理してみると、

 7/7(水) 幌別入り。
    バチラー八重子の聖公会教会に身を寄せる。 
 7/8(木) 幌別で西川光次郎へ手紙「第一信」を書く。
 7/9(金)記述なし。
 7/10(土) 白老入り。白老土人学校の山本儀三郎先生と会う。
 7/11(日) バチラー八重子の礼拝に出て感動し、
    日記と「第二信」を書く。
 7/12(月) 記述なし
 7/13(火) 記述なし
 7/14(水) (日記)平取教会の壁の塗り替え
           岡村神父と話す。
 7/15(木) (日記)平取に向井山雄来る
 
 という動きになります。

管理人  ++.. 2008/08/12(火) 14:10 [354]

 
「第三信」については、書かれた日を特定できませんが、時期的には7月下旬から8月上旬ぐらいだと思います。(

 西川光次郎から「子供の道話」を20冊送ってもらい、そのうち15冊を白老土人学校の山本儀三郎に送り(礼状が届いたとのことですから、北斗自身白老に行き、山本先生に手渡ししたわけではないと思います)、あとの5冊を長知内学校に三冊、荷負小学校に一冊、当地(平取)の平村秀雄氏、同キノ子に一冊渡しています。

 この頃の北斗は多忙を極めたようです。昔話の原稿が書けない理由として、

「小生は最初の予定の如く参らず、目下生活の為労働して」「朝早くより夜遅くまで働きその余暇は雨の日と雖(いえど)も部落訪問をいたし、多忙はとても東京に居たる時より以上」「あまり多忙でとても原稿のまに合ない」

 と書いています。
 この頃の北斗がやった仕事としては、教会の補修、岡村神父の家の補修、土方の出面などが確認できます。




 

管理人  ++.. 2008/08/12(火) 15:25 [355]

 
『医文学』に掲載された「アイヌの一青年より」について。
 これは北斗が東京を去る直前のT15/6/30に書かれたもので、医文学編集部への手紙でした。
 
http://www.geocities.jp/bzy14554/ainunoichiseinen.html

 草風館版コタンでは削除されているのですが、『医文学』掲載時には、冒頭に編者の長尾折三による文章がありました。

《アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝなつた。この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくもあるが、亦た悲しくもある。アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。その心事一斑を知ることが出来るであらう。》

 医文学では、この文章のあとに、北斗の文章が小さな字で(!)続くのですが、通して読むと、この「アイヌの一青年」という言葉が、長尾の文の中にしか登場しないということに気づきました。
 つまり、この「アイヌの一青年から」というタイトルは長尾が自分の文章(大文字)+北斗の文章(小文字)という記事全体に対して付けたものだとわかります。

 草風館版では、その一方の長尾の文章が削除されているので、あたかも北斗が自分の文章に「アイヌの一青年から」と自分でつけたようにも思えるようなことになってしまっています。 

 

管理人  ++.. 2008/08/12(火) 23:07 [356]





 朝日新聞 
 一週間ぐらい前の朝日新聞(北海道版)の「北のことば」に北斗の言葉が紹介されたらしいのですが、どなたかご存じないでしょうか。
 
 大阪在住なので、チェックできていません。
 WEB上にもアップされていないようです。

 
コタン管理人  ++.. 2008/07/25(金) 23:46 [351]





 新短歌時代より(2) 
第2巻2号(昭和3年2月)

五十人集

(前略)

○              高根一路
遠いのに薬売りながら尋ねきたけなげなアイヌにまた逢へなんだ

薬売るけなげなアイヌのその歌をこゝろしみ/゛\口にしてみる

(後略)

--------------------------------------------------

昭和三年口語歌壇予想暦

(前略)

十月三十日

 違星北斗、「正義の前に立った確信」といふ気持で、フゴツペの鉄道沿線を掘ると、中から「誇大坊主」(古代文字)のミイラ現れ「淋しい気持」に変る。

(後略)

※これは、まあ各同人の「未来予想」で、冗談記事のようなものですね。

 
管理人  ++.. 2005/10/30(日) 00:30 [61]

 
「歌の作り方に就て(二)」 福田義正

(前略)一体に燕麦とか憂鬱とかのやうな音読の文字は強く響くから、次のやうに前後に強い言葉を据えて均衡を保つことが大切であると思ふ。
(中略)
 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今何處にゐる
(中略)
 これらの歌はよくリズムが整調されてゐて一読ピンとくるではないか。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 19:07 [63]

 
第2巻6号(昭和3年6月)

さらば小樽よ小樽の人々よ    福田義正
(前略)
 思へば―。百余日にわたる小樽の冬ごもりは私にも楽しかつた。景山医学士夫妻の厚意をうけて望月病院内に起居したことは幸であつた。昼は毎日大きな風呂敷包みを背負つて雑誌を売りに歩いた。私の売る雑誌は至る所で歓迎せられた。並木凡平さんをはじめ、勝見茂、後藤勇、石田さだを、渡部剛、村木雄一、園田朱一、岡野陽子、種田嘉代子等の諸君は私の商売のためにも一方ならず力を尽くしてくれた。然るに私は何等報ることなく立去らうとしてゐる。また裏切り者の名を負うのか。苦しい。諸君よ、許してくれ。
 夕方になると病院に帰つて、景山先生の乗る橇の後押しをして走つた。大男の橇を押す姿は可笑しかつたか、通りすがりの女学生などよくゲラゲラ笑つたりした。それでも患者の家に行けば労を犒つてくれるのでうれしかつた。汗を拭きながら肩で息をしてゐる者にとつて、一杯の渋茶も涙がこぼれるほどうれしかつた。往診から帰つて火の気のない冷たい食堂で飯を食ふとあとは自由に遊ぶ時間であつた。ある晩は景山夫妻の部屋に行つて、ある晩は薬剤師青木朗々の部屋に行つて、たいていは短歌の研究をしあつた。愉快な談笑の声が更けてゆく夜の空気をゆすつた。
 一月十七日の晩だつたと思ふ。小樽に於ける最初の口語歌雑誌「橄攬樹」の編輯者渡邊要君の来訪を幸に、その歓迎会をかねて病院内で短歌会を開いた。凡平さんがヤケドのため出席されなかつたのは残念だつたが、会する者十七八名なかなかの盛会でうれしかつた。その前後であつたか、治療助手の原草之介も歌を作る。川村看護婦も作る。入院患者にまで共鳴者があつた。違星北斗君が来て寝食を共にしたのもその頃であつた。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:24 [65]

 
※上の文章が書かれたのは五月四日。
 ここにも、新発見の北斗の足取りがありますね。

 昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:32 [66]

 
第2号7号(昭和3年7月)

漫歌十人一首 明圓政二
――怒りつぽい人読むべからず――

(前略)
   違星北斗さんへ
おゝアイヌ強いアイヌよどこにゐる出てこい出てこいもう一度たて
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:19 [67]

 
第六回 新短歌座談会 
 
 大友秋牧 稲畑笑治 後藤勇 石田さだを 近藤輝越 美津井勇 野村保幸 並木凡平

(前略)

(凡)どうです彗星的に現れた彼の違星北斗君に就いてなにか。
(輝)違星さんの作品に就いて近ごろ非常に幻滅を感じてきました。
(笑)同感々々。
(美)未見ですが歌を通して見た違星君は大変に大和民族的なねつ情のある歌人だと思つてゐます、だが最近の作品のどれもが極端に誇張し過ぎてゐてさつぱり駄目ですね一時は中村孝助氏とともに注目された人ですのに。
(さだ)そう、僕なんかも一時作品には感心させられましたが此の頃の作品はどうも好きになれません。
(保)なぜ違星さんがはじめて歌壇に現出したころのような自然らしい歌が近ごろ生れないのかと不思議に思つております。
(凡)彼の処女作「握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声」当時の詩的情感が今日枯死した感のあるのは甚だ物足りない。民族的偏見と、議論の一説に近い叫びを余りに強く悪どく出しすぎてるの感がある然し理論のしっかりした点は将来期待していゝと思ふ。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:55 [68]

 
>昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

 景山病院じゃなくて、望月病院ですね。

管理人  ++.. 2005/10/31(月) 23:52 [70]





 年譜の誤り 
1930年の北海道アイヌ協会設立(戦後設立された「財団法人北海道アイヌ協会」とは別組織)と中の「財団法人北海道アイヌ協会」は「社団法人北海道アイヌ協会」と、財団ではなく、社団です。細かいことで恐縮ですが。
 
takekune  ++.. 2008/06/26(木) 17:26 [349]

 
takekune様

 教えていただいてありがとうございます。
 直したいと思います。

 今後ともよろしくお願いします。

管理人  ++.. 2008/06/29(日) 20:55 [350]





 お知らせ 
コタンBBSは、今後も継続することにしました。

違星北斗研究の情報のセンターとして、今後も活用できればとおもっておりますので、みなさんお書き込みください。

今後ともよろしくおねがいいたします。

 
コタン管理人  ++.. 2008/06/15(日) 13:26 [348]





 ainu 
Irankarapte !
Eiwanke ya?

{tuyma-Magyar moshir

http://csikcsongor.extra.hu

 
csikcsongor [URL]  ++.. 2007/01/12(金) 22:04 [291]

 
イヤイライケレ。

リンク先は、真面目なアイヌ研究サイトですね。
ただしハンガリー語らしいですが。

荒らしだと思って削除しないでよかった。

管理人  ++.. 2007/01/18(木) 18:52 [292]

 
Irankarapte ! Eiwanke ya?

tuyma-Magyar moshir

New website:
http://2244.web.fc2.com/ainu/utari.HTM


csikcsongor [URL]  ++.. 2008/03/24(月) 03:46 [347]





 遅ればせながら 
BBSをやめて、ブログに移行しようと思います。
 
管理人  ++.. 2008/03/07(金) 14:32 [345]

 
ブログ:
「違星北斗研究会」

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/

管理人  ++.. 2008/03/13(木) 20:28 [346]





 金田一春彦と北斗 
金田一春彦「日本語の生理と心理」より


私がまだ子供のころ、父のところへ出入りしていたアイヌ人にイボシという姓のものがあって、これが風体が薄ぎたない上に金を借りていっては酒を飲み、しかたがない。私の母などは大嫌いで、イボシという名を聞くたびに毛虫にさわるように眉をひそめていたが、いつかの父不在の時に二三回来て、そのたびに玄関払いを食ったあと、姿を見せなくなった。と思っていたら、北海道のどこかで窮死したそうで、その時
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
という和歌がノートに書いてあったというのには、さすがに心を動かされた。思うに彼は、異民族出身の人間としてたえず世間から冷く扱われ爪はじきされ、自暴自棄の中に死ぬ、その心境を右の三十一文字の中にうったえたものであろう。
この歌は「念仏草子」に出ているものをもじったのにすぎないが、これが実感であったろうと思うと、やはり痛ましい。

 
管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:55 [298]

 
谷口正氏から、上の文章について問い合わせられた京助が、谷口氏に送った電報

 ゴアンジンアレイサイフミキンダイチ

 (ご安心あれ、委細文(ふみ) 金田一)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:58 [299]

 
 京助から谷口氏への手紙


 春彦に善処をせまって居りますからまず/\御安堵下さい。あれは辞世の歌の一例をあげるのに、つまらない愚言を前書き致したもので全然、春彦の想像で、ウソです。
 私は責めて叱って居ります。
 違星君は私へ金貸してくれなど一度も申したこともなく、酒もタバコも用いない純情そのものの模範青年でした。春彦へ直談判下さってあやまらせて下さってけっこうです。住所は
東京都西高井戸×−×−×
 金田一春彦
    電話(×××)の××××

同居していましたら、あんな文は書く前にさしとめ得た

(以下なし)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:00 [300]

 
 これは昭和37年ごろだと思います。

 同じ一人の人間の印象が、こうも違うのかと思います。
 春彦先生の方の印象は、我々の抱く北斗のイメージとは違いますが、しかし子供の頃の印象としては、やはりそういうものがあったのかもしれませんね。
 誰かと間違えているのかもしれませんが、京助の奥さんの反応などは、そういうところがあったのかもしれません。
 春彦さんは知里真志保などと同じ世代で、いろいろと比較されたりしたところもあったでしょう。この文章でも、アイヌに関して、いい印象を持っていないような感じがします。

 今売っている版ではどうなっているんだろう?

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:07 [301]

 
 たしか、真志保が一高を受けるからといって、春彦にはその年には受けさせなかった、というような記述がどこかにあったと思います。探しておきます。

 しかし、実の息子より、知里幸恵の弟である真志保を優先するというのは、子供からすると嫌なものかもしれません。
 後年、真志保と春彦は二人とも高名な学者になるわけですが、二人の間には接点があったのでしょうか。

管理人  ++.. 2007/03/02(金) 18:15 [316]

 
金田一春彦氏の「父京助を語る」に、知里真志保についての思い出が書かれていました。
 それも、幼い頃の話。

 幼いころ、春彦は金田一家に寄宿していた知里幸恵に可愛がられていて、あるとき、いつも幸恵に読んでもらっていたお気に入りの本が、いつのまにか無くなっていた。それを幸恵に聞くと、北海道の弟に送ったという。それを聞いた春彦は大いにショックを受け、泣いた。後日、真志保から本を送ってくれてありがとうというハガキが届いたが、どうも心がこもってないようで、宛名に「春彦君」と書いてあったのも気に入らなかった。
 実はそれは春彦の本ではなく、幸恵が買った本だったのだが、春彦はそれを知らずに幸恵にあたった。幸恵は困惑して、真志保にお礼のハガキを書くように伝え、真志保は不本意ながらそのハガキをよこしたのではないか。

 と、後の春彦は述懐しています。大人になってからも、親しくしたことはないようです。
 こういった幼年期のいきさつもあって、春彦は、真志保のことを書くときは、非常に他人行儀です。 

管理人  ++.. 2007/11/24(土) 12:38 [344]





 いろいろ調べたい 
 貝澤正「アイヌ わが人生」を読み、いろいろと思うところがあり、しばらく向き合っていなかった北斗の方に引き戻されたような感じがします。

 猛烈に、いま色々と調べたくなりました。

 貝澤正氏は1912(大正元)年生まれ。
 明治34年生まれの北斗とは10歳ぐらい違います。

 北斗が二風谷を訪れた大正15年には15歳。
 そのころ貝澤氏は小学校の高等科で、二風谷から4キロ離れた平取まで歩いて通っていたようですから、平取に寄宿していたという北斗と、もしかしたら出会っているのかもしれません。

 平取時代、バチラー幼稚園を手伝っていた北斗が寄宿していたのは、義経神社下のブライアント女史がもと住んでいた建物である、という話と、もう一つ「忠郎」氏宅に寄宿していたという話があり、どちらかよくわかりません。
 この「忠郎」氏というのは、著者不明の「違星君の平取入村当時の思い出」という文書に書かれているのですが、この忠郎氏のこと、それにこの文書を書いた人が誰なのかが知りたい。
 おそらく平取の図書館に行けばわかるのだと思います。
 いろいろと、ほったらかしにしていたことを、もう一度ちゃんとやらねばならないと思っています。
 
 
 
 

 
管理人  ++.. 2007/11/21(水) 00:11 [343]





 いろいろ情報 

オークションで取引された本

 新短歌 『太陽と雪』 アイヌ人違星北斗の歌 一條 正著(終了日時 : 2005年 9月 7日 7時 54分)
http://rating4.auctions.yahoo.co.jp/jp/show/rating?userID=aak88650&author=mimizou58&bfilter=&bextra=&brole=buyer&bpn=1&bsf=

国会図書館にもなし。一條正という人は昭和初期の詩人のようです。

・「路上」108号に北斗の研究記事あり。107号にもありました。

http://www.h4.dion.ne.jp/~rojyo/

・松木淳という人の詩に北斗を歌ったものがあるようです。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki/2007/08/post_f93b.html
 



 
管理人  ++.. 2007/11/03(土) 16:17 [340]

 
松木淳(まつき・あつし、1904〜1984)


 「荊の座 松木淳詩歌集」


  屑っ切れのうた 1931


 読み終りわれ眼を閉じて思うこと
 違星北斗の遺稿コタンを

 彼が持ちしアイヌの悩みと
 わがもてる
 悩みと深く通うものあり

 悩みつゝ北斗は逝けり
 いたましや
 彼をうばひし病に吾も病む

 去り行ける違星を惜しむ
 生けるうち
 知りなばわれもたよりせんものを

 去り逝ける
 違星北斗よ君が胸の
 深き悩みの われにはわかる

 去り行ける違星北斗よ
 君が霊に
 われも心を捧げて誓う

 短かゝりし二十九年のいのちなれど
 違星北斗は
 コタンに 光る

 同族を想ひて夜を泣き明せし
 違星よ
 われも泣き明すもの

 

 

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:28 [341]

 
 松木は山口県出身の詩人・歌人・運動家で、若い頃は水平社員であり、差別と結核に苦しんだようで、コタンを読み、北斗へのシンパシーを感じて歌を詠んだようです。
 北斗に関する歌は「コタン」出版の翌年、1931年に詠んでいます。

 生前の北斗もまた、水平社運動に尊敬を払っていました。
 もし、二人が出会っていたら……どうなっていたでしょうか。

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:39 [342]





 無題 
なかなか、北斗のところに戻って来れません。

今年は夏の調査にも行けませんでした。

まあ、気長にやります。

 
管理人  ++.. 2007/09/27(木) 13:06 [338]

 
検索に引っかかった本

「愛国心を考える」 (岩波ブックレット NO. 708)

 なぜ,いま愛国心か
  愛国心と九・一一/日の丸・君が代と愛国心教育

II 愛国心の起源
  愛情とイデオロギー/宗教,国家,愛国心/革命を起源とする愛国心/下からの愛国心が上からの愛国心に変わるとき

III 愛国心と近代国家
  愛情と忠誠心/愛国心,ナショナリズム,ジンゴイズム

IV 近代日本の愛国心
  上からの愛国心/国民精神総動員運動/愛国心と帝国/戦後の愛国心論争

V 行動で示される愛国心
  愛国心という化け物/田中正造/違星北斗/小林トミ/ヴァレリー・カウア/国境を超える愛国心

VI グローバリゼーションの時代の愛国心
  愛国心と安全/愛国心と恥の感覚/愛国心,ネーション,個人/愛国心と教育/愛国心と平和

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/booklet/

早速注文。
テッサ・モーリス・鈴木さんは「辺境から眺める」で違星北斗について軽くふれられています。
今回は、北斗について、もう少しつっこんでいただけるとよいなあ思います。



管理人  ++.. 2007/09/28(金) 00:22 [339]





 あなたはアイヌですか。 
始めましてよろしく。

アイヌは文字あるの民族。
http://csikcsongor.extra.hu/a/w.HTM

 
csikcsongor [URL]  ++.. 2007/08/24(金) 16:25 [336]

 
ハンガリーからようこそ。

管理人  ++.. 2007/09/08(土) 00:24 [337]





 記事集成 
国会図書館の新聞から、特定の人の記事を集めた資料集として、

「ドキュメント 人と業績大辞典」

というものが発行され、その第3巻に「違星北斗」の項目があるようです。

 かなり高いので買えそうにありませんが、どこかの図書館にあれば、見てみたいと思います。

http://homepage3.nifty.com/nada/page004.html

 
管理人  ++.. 2007/08/05(日) 23:40 [331]

 
北斗の記事は一件だけでした。

毎日新聞 1954年9月10日


”悲劇の民”の歌を絶唱
  縁りの地に近く「北斗」の碑

【その二】違星北斗(本名滝次郎)は明治三十四年北海道後志国余市町に生れた。小学校時代、皆からアイヌ、アイヌとはずかしめられるのを怒り日本人に強い反抗心を抱いていた。
 大正十四年知人を頼って上京、ここで金田一博士らの知遇を受けて感激、滅びゆくアイヌ民族の生活を世に紹介し、その生活の向上をはかることが使命だと考えるようになった。大正十五年、北海道に帰った北斗は道路工夫や売薬行商をしながらアイヌ青年の集りである「茶話笑楽会」を作り、ガリ版刷りの機関誌を発行して教化に努めたが、昭和四年一月、結核のため二十九才で死んだ。翌昭和五年担任教師だった余市小学校訓導古田謙二氏が集めた遺稿集”コタン(村)”が出版された。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 13:24 [332]

 

  アイヌ相手に酒売りている店だけが大きくなってコタンさびゆく
  不義の子でもシャモでありたい○○子の心のそこに泣かされるなり
  (シャモとは日本人の意)
  平取に浴場一つ欲しいもの金があったらたてたいものを
 などのようにアイヌ民族の悲惨な生活と、しいたげられる悲しみとが歌われている。金田一博士はこれらの歌を現代のアイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌った唯一のものであり、啄木の影響が強いが歌としてもすぐれたものだと評している。こんど立てられる歌碑は古田氏らが作った「違星北斗の会」(札幌市北一条西十丁目門間清四郎氏方)が中心となって計画したもので、場所はアイヌ民族の故知である日高国沙流郡平取村二風谷が選ばれた。碑は歌を刻んだ石碑を土マンジュウで覆ったもので、秋は落葉に覆われ、冬は雪に埋もれ、春から夏にかけてだけ姿を現すように設計されている。碑面の文字は金田一博士が筆をとるが、遺作中から二種を選び、その一つは場所にちなんで
「沙流川(サルガワ)は昨日の雨で水濁りコタンの昔ささやきつゆく」と決まっている。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:22 [333]

 


金田一京助博士談
 (略)
 また北斗は大正十四年、五時間もかかって私の家を探し、途中田の中に落ちたとみえてどろだらけになって訪ねてきたのがはじめだった。よく家に出入りしたが感激性が強くまれにみる純真な男でした。


管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:25 [334]

 

 それにしても、変な写真です。

 北斗じゃないのような気もしてくる。

 まあ、でも顔の造作は同じですが、目と鼻、頬にかけての印象がかなり違う。まるで「らくがお」です。

 うーん。これはどうなんだろう。
 

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:35 [335]








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