跋                             

岩崎吉勝



 昭和五年二月十八日の午後であった。私は後藤先生に御相談申上げたい用事があって勤労女学校から本社に行き、二階の事務室を通って先生のお部屋に近づいた時、恰もよし先生はお部屋から一寸出ていらして、すぐまたお入りの処であった。所がふと振向かれた途端に関東地方のカード函を隔てた私を御覧になり、すぐうなずかれてのお呼びであった。

 早速はいって行くと、先生はお机の上の原稿をおとりになって円テーブルの方に来られた。テーブルを隔てゝ共に座に就く。丁度先生は私をお呼びにならうとして居られたところらしかった。その原稿が即ちこの「コタン」で違星北斗君の遺稿である。これに就いての編輯を仰付かったのである。四六版だの、クロースだの、宗近さんの名だの、更に目下「静香叢書」の印刷中だが、その合間々々に急いで刷って貰ふややうになどと、いろ/\御注意の点をお聴きした。

 それが済んでから或寮生の事に就いて御相談申し上げ、更に卒業式入学式の日取をとりきめていたゞいた。


 「疑ふベきフゴッペの遺跡」を除いた他のものは原稿用紙五十頁に纏めてあったが、「遺跡」の一篇は新聞に掲げたもので、切取った新聞紙綴りが封筒から出て来た その封筒の宛名はペンで「後藤静香様」と記し、おまけに「余市局不足6銭」とした黒判が押されて居る。6の字は赤インキで挿入。それから先生のお手で○の中に保、その下に必要、先生のお名の隣に岩崎様、それに並べて宗近様といづれも鉛筆で記入されてある。裏の差出人を見ると紫のタイプライターらしく北海道余市町字浜中町一〇古田謙二」としてある。六銭の不足税の発表は余計なことのやうだが、また捨てがたい一挿話の種にもならうかと。

 要するに違星北斗君の遺稿を先生にお願いしたのは宗近さんであり、古田氏と共にその遺稿のとりまとめに如何に尽力されたかは、次の如き幾多の遺稿から抜粋された書目を、見ただけでもうなずかれる。誠にその労を多としなければならぬ。

   抜萃の為め通読した遺稿

  

雑誌 新短歌時代 四冊
子供の道話 三冊
しづく 二冊
白楊樹 一冊
茶話誌 } 謄写版  二冊
コタン 同人雑誌 一冊
日記 心の日記  三冊(昭和二、三、四年)
(上欄には圏点傍線を附し時に感想を加ふ。絶筆四年一月六日)
日記及随筆 ノート 小形十二冊 大形四冊
歌集北斗帖(墨書) 一冊
未完成原稿其の他紙片等若干

 


 翻つて惟ふ、昨年いつの頃であったか宗近さんからイボシ君の遺稿編輯について「後藤先生に出版をお願ひしてあるからお許しが出た節にはその労をとって下さい」と頼まれ、その際一応この遺稿を卒読したのであった。

 その後何等音沙汰がないので私も忘れてしまって居たのであった。今一周忌を記念に上梓することの出来るのは何と云ふ嬉しい有りがたいことあらう。先生の大愛によみがへるものは豈啻に北斗君ばかりではあるまい。


 私は編輯にあたり更に一度読み返して見た。さうして北斗君のいかにも硬骨漢であり、史実家であり、同時に血と涙とを多分に持つなつかしい詩人であり歌人であることを感じた。

 わけてその歌たるやよくその全人格が発露されて居るのみならず、又粗いながら中々巧みであるのに敬服した。

 これを読んで居るうちに思はず吊込まれて一首又一首、終に左記十首を得た。

    アイヌてふ誇りに生きてウタリーを
    励ます愛のをたけび高き

    いかに君コタンを慕ふ熱情や
    湧きてあふれて涙の泉

    滅びゆくコタンなつかしみ空拳に
    さゝへんとする君しかなしも

    シヤモ達の米屋の符号それと同じ
    シロシより出でしイボシ家の君

    チガヒボシ氏をかたどるシロシより
    出でしといへる君が姓かな

    イボシてふ奇しきみ姓たづぬれば
    尊み秘むるシロシのなまり

    命こめて祈りに来にけるウタリーの
    目覚めはおろか卑下のシヤモ化さ

    強き祖先アイヌの名こそ誇らめと
    若き血燃ゆるイボシ家の北斗

    涙なしに聴くべき言かせめてもと
    不逞アイヌの出でぬをほこれる

    血を吐きてたふれし君がおくつきに
    装成りし遺稿手向けん


 後藤先生の「序」はその大愛の当然の発露によるもの、殊更らしく茲に贅せず。唯それ金田一博士の玉稿を得たことは故人にとって何といふ栄誉なことであらう。宗近兄の斡旋に依るもの。共に偕に感謝の極みである。


※84年版『コタン』「くさのかぜ」より